エドワード・サイデンステッカーさんが、今現在も日本に在住していることを、今日発売の【週刊文春 2007年2月22日号】で初めて知った。「(新)家の履歴書」というページで、日本や川端康成との出会いなどから現在のことまで語っているのだ。(記者が取材して構成)
太平洋戦争が激化したころ、サイデンステッカーさんが通っていたコロラド大学の目の前に、海軍日本語学校が移転してきた。徴兵から逃れるためにそこへ入学したのが日本語との出会いだった。45年、長崎の佐世保基地に駐留。そこは焼け野原だった。
でも、私はこの時代の佐世保が好きでした。戦争に負けても、瓦礫を片付け家を建て直して、働いて。日本人のその精神は、本当に立派だと心を打たれたのです。佐世保の人々のそんな姿を見て、日本――日本人に興味を持ったのですね。
ちゃんと日本語を勉強しよう、これは一生涯を懸けて勉強するに値する国だな、と思ったそうだ。戦後3年目には外交官として来日したが性に合わず、学生として日本に在住したいと東京大学大学院で平安朝文学を学ぶ。ただし、高橋治(作家)以外の東大生は、威張っているので好きではなかったとか。
その頃、「源氏物語」の原文を読んで衝撃を受け、いつか訳してみたいと思った。大学院卒業後、小石川に一軒家を購入。大学の講師や翻訳の仕事をする。ただ、日本のインテリたちがソ連贔屓ばかりなのに嫌気がさしてしまい、62年にアメリカに帰り、約20年アメリカの幾つかの大学で教鞭をとった。それでも夏には日本の家に戻って来ていた。その頃約10年かかって「源氏物語」を翻訳した。それが菊地寛賞受賞作品となる。
川端康成から頼まれてノーベル賞受賞の場にも同席した。受賞スピーチも英訳した。「受賞はサイデンステッカー君のお蔭だ」と、賞金を分けるとまで言ってもらえて、(断ったけれど)泣きそうになるくらい嬉しかったそうだ。
三島由紀夫のことも書いてある。三島の文学はあまり好きではなかったという。文学よりも評論が一流だったと思っている。
クセのある人でしたが、人間として好きでしたよ。三島さんの自殺の報を聞いて、「やっぱりな」と思いました。「自殺すべき人間」、三島文学は「自殺で帰結すべき文学」だったんです。でなければ、自分の一生が嘘になってしまう。自殺そのものには驚かずとも、その方法には、やはり驚きましたけれど。
現在サイデンステッカーさんは、40年ほど前に購入した湯島のマンションで一人暮らしをしている。湯島天神も近く、旧岩崎邸庭園も隣接している緑豊かで閑静な場所だという。残念なのは、サイデンステッカーさんが、川端が亡くなって以来日本文学には興味を持たなくなってしまったことだ。
私にとっての日本ですか。一言で言うのは難しいですね。最初に目にした、あの佐世保の印象が一番強いです。日本人は勤勉で正直、あの頃と今も変わらないと思います。日本を離れていた時期でも、永遠にアメリカにいるつもりはまったくなかったですし、アメリカにいて日本が非常に懐かしく思えても、その反対の、アメリカを懐かしく思うことはないんです。アメリカには、もうおそらく戻らないでしょう。
この4ページに渡る「家の履歴書」は、今週だけは捨てないで、ドナルド・キーンさんの「私と20世紀のクロニクル」の連載新聞と一緒に保管しておこうと思っている。