2009-02-25 恥ずかしい話 
前に予備校時代のことを書いたが、これはそれ以上に恥ずかしい話である。だから書いたことがない。
ある女子に執着していた。しかしある時、その女には決まった男がいると聞いた。私は、それを認めたくなかった。だから、それは何かの間違いに違いないと、脳内で合理化した。それはたとえばかくかくの話が間違って伝わったに違いないとか、見ていて絶対そんな風に見えないとか、である。
ほどなく私は、精神を病み始めた。恒常的な吐き気に悩まされるようになった。そんな状態で半年ほどが過ぎ、私は別の女性を好きになった。そして病気は次第に治っていった。最初の女に男がいたというのは、事実だった。
それだけが原因ではない、とも言えるが、こんな風に脳内で事実をひん曲げれば、精神を病むのは当然だ、とその時思った。
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『一冊の本』では四方田犬彦の連載が最終回を迎えている。フランク・ザッパとかいう音楽家に関するものだが、もちろん私は知らない。冒頭から、大学院の一年上で、ケージと能楽を比較している典型的な東大生、というのが出てきて、「日本人にはブーレーズは理解できない」というのが口癖で、四方田は密かに「ブーレーズのスネオ」と呼んでいたとある。
一年上というのは二年上の間違いか、単に変えただけか知らないが、これは岩佐鉄男・東大教授である。未だ一冊の単著もない…(駒場学派の歴史・補遺)
田中貴子さんの方は、「秀雄と秀雄」と題されて、源実朝を論じた小林秀雄に、それを批判した小田切秀雄を対置させて「若き日の小田切は元気よすぎる」と書いているが、違う。小田切は最後まで元気だった。
ところでどうでもいいことだが、小田切の『現代的状況に抗する文学』のあとがきの最後に、鴎外の「ル・パルナス・アンビュラン」に引いてある「私は私の杯で呑みます」という言葉を示す、と言っているが、それは「パルナス」ではなくて「杯」であろう。