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2008年 6月分 放送リスト
6月4日 (水) 放送 第327回
人を衛(まも)る都市をめざして ~後藤新平・帝都復興の時~

6月11日 (水) 放送 第328回
北方探検 異境の大地を踏破せよ 〜間宮林蔵 執念の旅路〜

6月18日 (水) 放送 第329回
移民は共存共栄の事業なり 〜ブラジル移民100年〜

6月25日 (水) 放送 第330回
戦国の「ゲルニカ」 〜大坂夏の陣、惨劇はなぜ起きたのか〜


第327回
人を衛(まも)る都市をめざして
~後藤新平・帝都復興の時~

放送日
本放送 平成20年6月4日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年6月9日(月)
17:15~17:58  BS2
平成20年6月10日(火)(月曜深夜)
3:30~4:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年6月10日(火)
16:05~16:48  総合・全国
平成20年6月14日(土)
10:05~10:48  総合(近畿のみ)
平成20年8月19日(火)(月曜深夜)
3:30〜4:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年8月23日(土)
10:05〜10:48 総合(近畿のみ)
平成21年2月23日(月)
16:00~16:43 BS2
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 西尾 勝(にしお・まさる)さん(東京市政調査会理事長)
VTRインタビュー   越澤 明(こしざわ・あきら)さん(北海道大学教授)
キャスター松平定知
番組概要
その時:昭和5(1930)年3月26日
出来事:関東大震災後の復興作業が完了する
関東大震災後の復興プランを手がけ、現在の東京の原形をデザインした政治家・後藤新平。もともと医者だった後藤は、社会を生物の体にみたて、「人と人とのつながりがうまく機能することで世の中が発展する」という独特の思想を抱いていた。後藤のこの考えは、関東大震災後、帝都復興院総裁として東京の復興を任された際、「区画整理」という新たな都市計画プランの実現につながっていく。“社会の医者”とよばれた後藤新平の情熱と信念を描く。
番組の内容について
番組タイトル「人を衛(まも)る都市をめざして」
医者だった後藤新平は「衛生」すなわち、人の「生を衛(まも)る」ことを重視し、そこから発展した独特の理論がその後の施策に反映されています。そうした後藤新平の発想から、タイトルの「まもる」という文字に「衛」の文字を使用しています。

その時「昭和5年3月26日」
6年半をかけた復興事業の完了を記念する帝都復興祭が開かれた日。復興を記念する多数のイベントがこの日の前後1週間にわたって行われました。

松平キャスターが冒頭に紹介した後藤新平の業績について
「今の新幹線の原案を作った」
鉄道の軌条幅を世界各国の標準幅まで広げ、東京・下関間の幹線から始めようと計画しました。結局このレールの広軌化計画は、後の新幹線まで採用されませんでした。
「郵便ポストは赤いということを正式に決定した」
以前から赤い郵便ポストは使用されていましたが、従来の木製黒塗りのものも併用されており、「郵便ポストは赤色」ということを正式に決定したのが、逓信大臣時代の後藤新平でした。

後藤新平の生家
参観可能です。
〒023-0054 岩手県奥州市水沢区吉小路8-1
開館時間 9:00~16:30
休館日 月曜日、年末年始
連絡先 武家住宅資料館(0197-22-5642)

帝都復興計画の政府原案について
紹介したのは「甲案」と言われる原案で、予算13億円規模の復興計画案。ほかに、「乙案」「基礎案」など計画の変遷を記す4点の図面が20年ほど前に発見されました。都市計画協会所蔵。

帝都復興計画の原案から製作した幹線道路CGおよび公園CGについて
幹線道路は現在の昭和通りに相当します。復興事業によって実際に建設された道路幅は44メートルですが、復興案の「甲案」図面では72メートル幅の幹線道路が計画されました。
CGの車両や歩道幅、街路樹の設定については、越澤明教授所蔵の「東京の復興計画街路の断面図」資料を参考に製作しました。
公園CGについては、実際に復興事業で建設された「隅田公園」部分を、平面図や写真をもとに製作しました。

復興事業で建設された小学校
紹介したのは、東京・千代田区にある九段小学校。復興事業によって、関東大震災で焼失した東京の市立小学校117校が鉄筋コンクリートで再建されました。

番組のエンディングで紹介した後藤新平の銅像
奥州市の水沢公園内にあります。

VTRで引用したことば・資料の出典や所蔵先について
後藤新平の写真について
後藤新平記念館および東京市政調査会専門図書館所蔵。両機関とも一般の参観・利用が可能です。
「後藤新平記念館」
〒023-0053 岩手県奥州市水沢区大手町4-1
開館時間 9:00~16:30
休館日 月曜日・年末年始
ホームページ http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/
「東京市政調査会専門図書館」
東京市政調査会は後藤新平が設立した日本で初めての都市問題に対するシンクタンク・総合研究所です。市政専門図書館は都市問題・地方自治に関する私立の専門図書館です。
開館時間 9:30~16:30
休館日 土・日・祝日、年末年始、2月24日(創立記念日)
ホームページ http://www.timr.or.jp/

後藤新平の著作「国家衛生原理」
明治22(1889)年に出版。ドイツの公衆衛生思想の影響を受けながら、国家の編成原理を生物学の原則から解き明かそうとしている。後藤新平記念館所蔵。
「史料集 公と私の構造/第4巻 後藤新平と帝国と自治」(ゆまに書房)など活字本もあります。

「後藤語録その1」として紹介したことば
「ヒラメの目をタイの目にするようなことはできない」
「正伝 後藤新平/鶴見祐輔・著」より引用。

「後藤語録その2」として紹介したことば
「午後3時ごろの人間は使わない 満州は午前8時の人間でやる」
「正伝 後藤新平/鶴見祐輔・著」より引用。

後藤が都市研究会の活動で、各地で市民に訴えたことば
「道幅が広くなり、生活がよくなったらそれでよろしいかといえば決してそうではない。
市民の諒解、市民の協力がなくてはなりません。個人の自治的精神が、国家や法律が及ばないところを助けるのです」

後藤新平の講演『都市計画と自治の精神』(都市計画講習録全集 第1巻/都市研究会)より引用要約。

区画整理について市民たちに呼びかけたことば
「我々子孫の幸福を考えるならば 再びこの災いを受けない工夫をしなければなりません。
これは、実に我々市民自身がなさなければならぬ事業です。
決して他人や政府に任せて知らぬふりをしているべきではありません」

当時、東京市長だった永田秀次郎が復興事業に区画整理が必要であることを市民に向けて説いた『区画整理に就て市民諸君に告ぐ』より引用、要約。

エピローグに紹介した後藤の肉声(録音盤)のことば
「まず我が身を修めるというほかはない。我が身を修める自治の力が治国平天下の基礎である。
かねて私のいう自治の三訣(さんけつ)『人のお世話にならぬよう。人のお世話をするように。そして報いを求めぬよう』と少年時代から心がけてこれを実行するのであります」

録音盤『政治の倫理化』『少年団について』より引用。『自治三訣』は後藤がよく用いたモットー。

後藤が死の直前に残したことば
「金を残して死ぬものは下だ 仕事を残して死ぬものは中だ 人を残して死ぬものは上だ」
少年団の副理事長を務めた三島通陽に告げたことば。

参考文献
後藤の生涯、業績、エピソードなどについて
「正伝 後藤新平」(全8巻)鶴見祐輔/藤原書店
「後藤新平大全」(正伝 後藤新平 別巻)/藤原書店
「日本の近代をデザインした先駆者」
 生誕150周年記念後藤新平展図録/東京市政調査会編
「東京人」2007年10月号 特集・後藤新平/都市出版
「後藤新平『大風呂敷』の実相」/東京市政調査会

後藤新平の都市計画および東京の都市計画について
越澤明氏の著書・論文を参考にしました。
「幻の後藤新平の帝都復興プラン」/『東京人』1989年9月号付録
「東京の都市計画」/岩波新書
「東京都市計画物語」/ちくま学芸文庫
「満州国の首都計画」/ちくま学芸文庫
「台北の都市計画、1895~1945年 日本統治期台湾の都市計画」
 第7回日本土木史研究会発表論文集

南満州鉄道・帝都復興について
「図説 大連都市物語」西澤泰彦/河出書房新書
「図説 満鉄」西澤泰彦/河出書房新書
「帝都復興史」復興調査会編
「帝都復興事業誌」復興事務局編
「帝都復興事業概観」復興局編
ほか
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。



第328回
北方探検 異境の大地を踏破せよ
〜間宮林蔵 執念の旅路〜

放送日
本放送 平成20年6月11日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年6月17日(火)(月曜深夜)
3:30〜4:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年6月17日(火)
16:05~16:48  総合 全国
平成20年6月21日(土)
10:05~10:48  総合(近畿のみ)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 佐々木利和《ささき・としかず》さん(国立民族学博物館教授)
著書『アイヌ絵誌の研究』『アイヌ文化史ノート』など
キャスター松平定知
番組概要
その時:文化8年(1811)3月
出来事:間宮林蔵 幕府に北方探検の報告書を提出する
江戸時代後期、日本人未踏の樺太(現在のサハリン)を調査し「間宮海峡」の存在を確認した探検家・間宮林蔵。しかし実はこの探検には幕府の重大な任務が隠されていた。
当時蝦夷地がロシアから攻撃されるという事件が発生、これに備えるため幕府が未知の地域だった樺太の調査を計画し、蝦夷地の測量で業績を上げていた間宮を抜擢したのである。間宮はこの命令に勇躍樺太へと旅立ち、南北950キロメートルに及ぶ極寒の地を踏破、一旦は調査を終える。しかし土地の住民より「ロシアの国境はここから近い」という情報を得た間宮は、それを確かめるべく幕府から命じられていないアジア大陸にまで足を伸ばすことを決意、日本人としてはただ1人、未知の人々が行き交う大陸内部にまで足を踏みいれ、ついに大陸でのロシア進出の状況まで明らかにする。
間宮の探検行の足取りを追い、使命を全うするために続けられた執念の旅路を描く。
番組の内容について
「サハリン」・「樺太」の呼称について
間宮が探検した島は、日本では以前は「樺太」と呼ばれておりましたが、現在は「サハリン」の名称が一般的となっています。
番組では江戸時代の日本の話であることを鑑み、現在の島を紹介する時は「サハリン」の名称を用い、間宮の探検時の島に関しましては「樺太」の名称を用いることといたしました。

間宮の生年について
以前、間宮の生年については「安永4年(1775年)説」と「安永9年(1780年)説」の2つの説がありましたが、近年はさまざまな研究の結果、安永9年(1780年)説が一般的となっております。
今回の番組でもこれに従いまして安永9年説をとっています。

間宮海峡を「間宮の瀬戸」として紹介したヨーロッパの地図について
これは江戸時代後期に日本を訪れたドイツ人医師シーボルトが、間宮が測量した地図をもとに作成したもので、間宮海峡は「MAMIA NO SETO」として記載されています。
原史料は東京千代田区の国立国会図書館で閲覧することができます。
国立国会図書館
〒100-8924 千代田区永田町1-10-1
電話 03-3581-2331(代表)
(日曜・祝日 年末年始 毎月第3水曜日は閉館)

いつも竹竿を持ち歩き木の高さや川の深さを測った、という間宮の少年時代のエピソードについて
明治時代に刊行された旧常陸国の地誌『新編常陸国誌』の中で紹介された間宮の伝記によりました。

間宮の蝦夷地での働きぶりを記す幕府の記録について
これは間宮の没後、上司が老中へ提出した跡目相続についての伺い書『仰普請役間宮林蔵ニ付仰御内意奉伺候書付』の中にある記述です。
原史料は失われておりますが、活字版が明治時代の雑誌『地學雑誌』 第16年 第189号(東京 : 東京地学協会, 1904.9)に掲載されています。

ロシアに攻撃された時、撤退を拒絶する間宮の言葉について
「一度(ひとたび)預かった役どころから引き下がることなどできようか」
これは間宮と同様ロシアのエトロフ攻撃の際、同地に滞在していた幕府の医師・久保田見達が後に記した記録をまとめた『丁卯筆記』の記述によりました。原史料は失われておりますが、洞富雄・著『人物叢書 間宮林蔵』(吉川弘文館)でその活字版の抜粋を読むことができます。

エトロフの事件のことで幕府の取り調べを受けた間宮が、知人に語った言葉について
「エトロフにて死ななかったことでみずから心に心を恨み、いかにせんと悶え日が過ぎるほどにほぞをかむ思いがつのる」
間宮と交流のあった津軽藩士・山崎半蔵の日記に記された間宮の言葉によりました。
『山崎半蔵日記』の原史料は函館市の中央図書館で閲覧することができます。
函館市中央図書館
〒040-0001 北海道函館市五稜郭町26番1号
電話 0138-35-6800
(毎週水曜休館)

番組で紹介した当時の蝦夷地周辺の地図について
これは江戸時代後期の政治学者、林子平が作成した『蝦夷国全図』という地図です。
北海道は縦長に描かれ、樺太は大陸につながって描かれています。
原史料は札幌市の北海道大学附属図書館北方資料室で閲覧することができます。
〒060-0808  札幌市北区北8条西5丁目
電話 011-706-2994
(年末年始休み)

幕府の樺太調査命令について
「樺太の全海岸線および異国との境について調査せよ」
これは当時、松前奉行を勤めていた羽太正養(はぶと・まさやす)が記した幕府の蝦夷地支配をめぐる記録『休明光記附録』の中に記された幕府の箱館奉行への命令書によりました。
『休明光記附録』の原史料は東京千代田区の国立公文書館で閲覧することができます。
国立公文書館
〒102-0091 千代田区北の丸公園3番2号
電話 03-3214-0621(代表)
(開館時間 9:15〜17:00 土日祝日は休館)

間宮林蔵が生前に建てた墓について
茨城県つくばみらい市の間宮家の菩提寺・専稱寺(せんしょうじ)にあります。
専稱寺
〒300-2335  つくばみらい市上平柳5
JR 常磐線 取手駅より車で30分

樺太探検へ向かう前の間宮の決意の言葉
「成功の形たたぬうちは死を誓って帰るまじ。もし難行の節はわれ一人(いちにん)たりとも蝦夷地(えぞち)に残り、蝦夷の土となるであろう」
『山崎半蔵日記』の間宮の言葉によりました。『山崎半蔵日記』については
こちらの項目をご参照下さい。

間宮が記録した樺太の岩山の紹介文とその画について
「東海岸にトッショカウッシリと称する山あり。ふもとより山頂に至るまで岩石累々として登るべからず。名山奇峰と称すべし」
これは間宮が幕府に提出した樺太についての報告書『北夷分界余話』によりました。
『北夷分界余話』の原史料は東京千代田区の国立公文書館で閲覧することができます。
国立公文書館については
こちらの項目をご参照下さい。

間宮が記録したトナカイの紹介文とその画について
「獣は蝦夷島にもなき種あり。一つをトナカイと称し、全体は鹿に、顔は馬に似て角は枝多し」
間宮の樺太報告『北夷分界余話』によりました。『北夷分界余話』については
こちらの項目をご参照下さい。

間宮が記録したヲロッコと称する人々の風俗とその画について
「東海岸中部にヲロッコと称する人々あり。アイヌとは言語も等しからず。衣服大抵あざらしの皮、魚の皮にてこれを作る」
『北夷分界余話』によりました。『北夷分界余話』については
こちらの項目をご参照下さい。
なお「ヲロッコ」はサハリン在住のツングース系一民族の、アイヌの人々による呼称です。
自らはウィルタと称しており、現在一般的にはこの名称を用いていますが、今回は原史料に準じ「ヲロッコ」の名で紹介いたしました。

間宮が記録したスメレンクルと称する人々の風俗とその画について
「スメレンクルの人々、子を育てるにいたって子にかせをし、板を屋根よりかける。
 しかれども飄々(ひょうひょう)として快いのか、泣くことなし。
 乳を含ませる時はこれを抱きて含ましむ」

『北夷分界余話』によりました。『北夷分界余話』については
こちらの項目をご参照下さい。
なお「スメレンクル」はサハリン在住のロシア系一民族の、アイヌの人々による呼称です。
自らはニブフと称しており、現在一般的にはこの名称を用いていますが、今回は原史料に準じ「スメレンクル」の名で紹介いたしました。

樺太の再探検を願い出た間宮の言葉について
「樺太と大陸の境をしかと見きわめずに帰りしは心残り多く、これよりすぐさま引き戻り見きわめ申したし」
これは江戸時代末期の旗本で日露和親条約に日本側全権として参加した川路聖謨(かわじ・としあきら)の著書『敬斎叢書』の中で紹介されている間宮の言葉によりました。
『敬斎叢書』の原史料は東京千代田区の国立国会図書館で閲覧できます。
国立国会図書館に関しましては
こちらの項目をご参照下さい。

探検の続行を決意する間宮の言葉について
「志をむなしくしていたずらに帰り去ることの口惜しければ、いかにもして奥地に至るべし」
これは間宮の樺太および大陸に関する幕府への報告書『東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)』の記述によりました。
原史料は国立公文書館で閲覧することができます。国立公文書館につきましては
こちらの項目をご参照下さい。

間宮海峡を確認した時の間宮の言葉について
「この所、極北の地にして、家わずかに五つ六つ。北は海がゆるやかに開けり」
これは間宮の幕府への報告書『東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)』の記述によりました。
『東韃地方紀行』につきましては
こちらの項目をご参照下さい。

樺太北部の土地で間宮にもたらされたロシアの情報について
「ロシアの国境(くにざかい)はこの島から遠からず。ロシア領の民ら時々船に乗じ、鉄砲を持ちて近くの海に猟をすること少なからず」
『東韃地方紀行』の記述によりました。『東韃地方紀行』につきましては
こちらの項目をご参照下さい。

番組で紹介される「徳楞(デレン)」の文字について
『東韃地方紀行』の記述によりました。『東韃地方紀行』につきましては
こちらの項目をご参照下さい。

間宮の大陸行きを諫める樺太の住民の言葉について
「林蔵が容貌の異なるをもって人々それを怪しみて必ず林蔵をなぶり、その苦しみに堪えずして死に至るべし」
『東韃地方紀行』の記述によりました。『東韃地方紀行』につきましては
こちらの項目をご参照下さい。

どうしても大陸へ渡りたいと考えた間宮の言葉について
「幕府の命なくして異境の地に入るは禁令に触れる恐れありといえども、ロシアの様子を奥深く探り尽くさずして帰るも、調査を命じられし甲斐(かい)もあるまじ」
『東韃地方紀行』の記述によりました。『東韃地方紀行』につきましては
こちらの項目をご参照下さい。

大陸へ渡る直前、死を覚悟した間宮がそれまで書きためた樺太の記録を住民に渡した時の言葉
「我万一彼(か)の地にて死亡のこともはかり難し。その時はこれを持ち帰りて幕府の役所に捧(ささ)ぐへし」
『東韃地方紀行』の記述によりました。『東韃地方紀行』につきましては
こちらの項目をご参照下さい。

デレンを訪ねた間宮とそこを治める清の役人のやりとりについて
間宮「我この地に来たりしはロシアがわが地に来たりて仇をなすため このあたりの土地もすでにロシアに奪い取られしにやと気遣い来たりし」
役人「ロシア、日本にも仇をいたしに参るや。わが国ロシアの少々の侵掠(しんりゃく)はそのままにして取り合わず。侵掠やまざるにおよびて厳しく懲らしめける」

これは間宮の樺太・大陸調査に関する談話を友人が記述した『窮髪紀譚』という書物の文章によりました。『窮髪紀譚』の原史料は東京・千代田区の宮内庁書陵部で閲覧できます。
宮内庁書陵部
〒100-8111 東京都千代田区千代田1−1
電話 03-3213-1111
開館時間 9:30~12:00 13:00~16:00
(土・日・祝日および毎月第2第4金曜日休館)


ロシアとの境がまだ遠いことを確信した間宮の言葉
「案堵(あんど)いたし候」
これも『窮髪紀譚』の記述によりました。
なお「あんど」の漢字は本来であれば「安堵」ですが、原史料に「案堵」とあるため、テロップでもその通り表示しております。

間宮が幕府に提出した樺太とアムール川周辺の詳細な地図について
これは間宮が作製した地図で『黒龍江中之洲並天度(こくりゅうこうなかのすならびにてんど)』の名で知られています。
原史料は国立公文書館または北海道大学附属図書館で閲覧することができます。国立公文書館につきましては
こちらの項目を、北海道大学付属図書館につきましてはこちらの項目をご参照下さい。

間宮が幕府に提出した、各地の人々の様子をわかりやすくかいた絵について
間宮は『北夷分界余話』『東韃地方紀行』の中で自然や人々の暮らしをさまざまな画で紹介しています。
ここでは『北夷分界余話』の中の人々の暮らしに関する画を紹介させて頂きました。

間宮の報告したロシアの情報について
間宮は幕府に、清国とロシアの間ではさまざまな人々が暮らし、互いに争っているためロシアが優勢な訳ではないことをも報告しました。画面に出てくる史料は『窮髪紀譚』の文面です。
『窮髪紀譚』に関しましては
こちらの項目をご覧下さい。

間宮家に伝わるすずりについて
これは茨城県つくばみらい市にお住まいの間宮の子孫・間宮正孝さんがご所蔵のすずりで、通常はつくばみらい市の間宮林蔵記念館に寄託され、展示されています。
間宮林蔵記念館
茨城県つくばみらい市上平柳64(JR 常磐線 取手駅より車で30分)
電話 0297-58-7701
営業時間 9:00〜16:30
休館日 月曜(祝日の場合は営業)  料金無料
※間宮正孝さんのご自宅に関しましては、個人情報のためお教えすることはできません。

間宮林蔵の立像について
これは北海道稚内市の宗谷岬にある間宮林蔵の像です。昭和55年、間宮林蔵の事績を記念して建てられました。稚内空港から車で20分ほどのところにあります。

間宮林蔵を評した友人の言葉について
「その孤立して一意(いちい)を行うや 絶えて官長に媚(こ)びずと またおのずから一奇士なり」
これは間宮の友人だった幕府の儒官・古賀侗庵(こが・とうあん)が『書満俗図略後』という文章の中で記したものです。 原史料は国立国会図書館で閲覧することができます。国立国会図書館に関しましては
こちらの項目をご参照下さい。

番組内で用いた主な肖像・画
間宮林蔵 肖像画(松岡映丘・画) 茨城県つくばみらい市 間宮林蔵記念館
デレンの画(東韃地方紀行) 国立公文書館
樺太の岩山の画(北夷分界余話) 国立公文書館
トナカイの画(北夷分界余話) 国立公文書館
猟をするアイヌの人々の画(北夷分界余話) 国立公文書館
ヲロッコ(現在のウィルタ)の人々の画(北夷分界余話) 国立公文書館
スメレンクル(現在のニブフ)の人々の画(北夷分界余話) 国立公文書館
樺太北端の土地の画 (北夷分界余話)  国立公文書館
舟を漕ぐ人々の画(北夷分界余話)  国立公文書館
主な参考文献
『間宮林蔵 北方地理学の建設者』 (赤羽榮一・著 清水書院)
『人物叢書 間宮林蔵』 (洞富雄・著 吉川弘文館)
『間宮林蔵大陸紀行』 (本山桂川・著 八弘書店)

『東韃地方紀行・他』
 (間宮林蔵・述 村上貞助・編 洞富雄・谷澤尚一・編注 平凡社東洋文庫)
『東韃紀行』 (間宮林蔵・原著 大谷恒彦・訳 教育者新書)
『北蝦談・北蝦夷図説・東蝦夷夜話』 (大友喜作・編 北光書房)
『北方史史料集成 第5巻』  (秋月俊幸・翻刻解説 北海道出版企画センター)

『アイヌ絵誌の研究』  (佐々木利和・著 草風館)
『日本北辺の探検と地図の歴史』 (秋月俊幸・著 北海道大学図書刊行会)
『日露関係とサハリン島』 (秋月俊幸・著 筑摩書房)
『近世後期政治史と対外関係』 (藤田覚・著 東京大学出版会)
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。


第329回
移民は共存共栄の事業なり
〜ブラジル移民100年〜

放送日
本放送 平成20年6月18日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年6月24日(火)
16:05〜16:48 総合 全国
平成20年6月28日(土)
10:05〜10:48 総合 近畿のみ
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 内橋克人(うちはし・かつと)さん
VTR
 インタビュー
リュウザブロウ・ミズノさん(在ブラジルの水野龍の息子)
カミーラ・マユミ・ヨシダさん(竹内喜左エ門さんのひ孫)
堀籠通信(ほりごめ・みちのぶ)さん
 (日系人が学ぶ学校のマネージャー)
キャスター松平定知
番組概要
その時:明治41(1908)年6月18日
出来事:日本人移民が初めてブラジルに到着
今年6月に100周年を迎える日本人のブラジル移民。現在、ブラジルにはおよそ150万人の日系人が暮らし国の発展を支える。このきっかけを作ったのが「ブラジル移民の父」といわれる水野龍。
富国強兵の時代、水野は生活に苦しむ人々を救おうと、移民も移住先の国も豊かになる共存共栄の移民事業を志す。そして移住先に選んだのが移民を歓迎するブラジルだった。
初めてブラジルへの移民事業を手がけた水野の理想の行方を追う。
国際放送について
今回の番組はNHKワールドプレミアムというNHKの国際放送でブラジルをはじめ海外でも放送されます。ただし視聴するには現地の衛星放送局やケーブルテレビ局などとの契約等が別途必要です。
詳しくはhttp://www.nhk-jn.co.jp/wp/apply/をご参照下さい。
本放送日時 6月19日(木)22時45分〜23時28分 (日本時間)
再放送日時 6月25日(水) 3時15分〜 3時58分 (日本時間)

番組の内容について
「移民」という言葉づかいについて
番組では今回、海外へ移住すること、もしくは移住した人を「移民」という言葉で表現しています。
一方、現在、NHKの他の番組や外務省などの公の機関では同義の言葉として「移住」「移住者」という言葉が主に用いられています。今回の番組では、主に取り上げている明治時代から大正時代に一般的に使われていた同義の言葉が「移民」であるため、歴史番組としてあえて「移民」という言葉を用いています。

「その時」について
ブラジルへのはじめての日本人移民を乗せた移民船笠戸丸がサントス港に入港した明治41(1908)年6月18日を「日本人移民がはじめてブラジルに到着した日」として「その時」と表現しました。移民が実際に笠戸丸を下船したのは翌日6月19日ですが、一般的に6月18日が到着した日として認識され、ブラジルでもその日を記念日として定めているため、今回もそれにならいました。

「ブラジル」のアルファベット表記について
番組が始まって間もない時間にブラジルというカタカナ表記とあわせ アルファベットで「BRASIL」と表記しています。 これはブラジルの言語・ポルトガル語のつづりで、 あえて現地の言語で表記しました。 英語表記ではSがZにかわり「BRAZIL」となります。

はじめてのブラジルへの日本人移民の数を「781人」としていることについて
笠戸丸には農業契約移民781人の他に自由渡航者が10人乗船していたとわれています。しかし番組では、主人公の水野龍がサンパウロ州政府との間で結んだ移民契約に基づき初めてブラジルに送り出した移民が「農業契約移民」であるため、その数をブラジルへのはじめての日本人移民の数として紹介しました。

ブラジルで日系人を評する言葉として紹介した言葉
ブラジルの言葉・ポルトガル語で「ジャポネース・ガランチード」です。直訳すると「保証つき日本人」というような意味ですが、現地では「日系人なら信用出来る」という意味で使われています。

水野龍の名前の表記と読みについて
一部の資料では「竜・りゅう」と表現されていますが、ご遺族や研究者に確認したところ「龍・りょう」と本人も記していたということで、番組では上記のように表現しました。

年齢について
登場人物の年齢は満年齢で表記しています。

水野がブラジルで開いた移住地の名前について
ポルトガル語で「コロニア・アルボラーダ」と名づけられました。直訳すると「曙移住地」となりますが、日本語では当時、「希望の曙」などと呼ばれていたことが資料や証言などで確認されています。そのため今回は水野の思いも表現するため、直訳ではなく日本語の呼び名も共に紹介しました。

番組で使用している映像や写真資料について
明治時代のブラジル移民を記録した映像や写真はほとんど残存していないため、大正時代や昭和時代の写真資料やドラマ映像などを一部イメージ映像として使用しています。
また番組で使用した写真の他に、ブラジル移民関する写真資料は、移民百周年にあわせ収集・編纂された写真集が最近出版され、詳しく見ることができます。
『目で見るブラジル移民の百年』
(ブラジル日本移民史料館・ブラジル日本移民百周年記念協会百年史編纂委員会 編  風響社)

登場人物の主な言葉
※一部要約、現代語訳にして引用しています

移民達が置かれた厳しい状況を表現した水野の言葉
「移民地獄」
水野龍著『海外移民事業ト私』より

当時の移民会社を批判した水野の言葉
「移民会社が国民のことを忘れ、移民の幸福をないがしろにするような行為を、絶対許すことはできない」
水野龍著『海外移民事業ト私』より

海外移民事業の重要性を語った水野の言葉
「戦後は凱旋軍人が町にあふれ失業問題はむしろ深刻化する。失業者を出さないためには移民事業を 一層推し進めるべきだ」
水野龍著『南米渡航案内』より

アンデス山脈を越えるときの水野の言葉
「凍るような寒さと共に、自然の恐怖で、恐れおののくのみであった。」
水野龍著『海外移民事業ト私』より

コーヒー農場で働くことになった鈴木貞治郎の言葉
「移民契約の成否は私の肩にかかっていた。私の進むべき道はただ正直に陰ひなたなく働くことである」
鈴木貞次郎著『伯国日本移民の草分』より

ブラジル移民の有望性について語った水野の言葉
「ブラジルは天然資源が豊富で、国土も広く移民を歓迎している。一方、満州や韓国はブラジルに比べて天然資源に乏しく移民を入れる余裕はない。」
水野龍著『南米渡航案内』より

第1回移民が失敗に終わった時の水野の言葉
「実に断腸の思いあり」
『水野龍航海日記』より

昭和になって日本の歩みに異議を唱えた水野の言葉
「日本の満州に対する行動を生きるためと唱えるなら、他国もみな生きるためという。
理由にならない。すべて共存共栄とし、日本人だけでなく、世界中の共存共栄でなければならない。」

牛窪襄著『祖人水野龍』より

番組で紹介した資料について
<映像資料>
「真珠湾攻撃映像」「レイテ海戦映像」  アメリカ国立公文書館
<写真・文書・出版物資料>
「笠戸丸移民写真」「皇国殖民合資会社移民募集記事」「海外移民事業ト私」 国立国会図書館
「移民契約書(写し)」「旅順丸写真」「コーヒー農場収穫写真」 外務省外交史料館
「南山社社則草稿」「旅順丸移民写真」  高知県立歴史民俗資料館
「南米渡航案内」大阪府立中央図書館
「笠戸丸移民集合写真」「笠戸丸写真」「コーヒー農場写真」「鈴木貞次郎写真」「上塚周平写真」「移民の鉄道労働現場写真」 ブラジル日本移民史料館
「竹内喜左エ門写真」個人蔵
「水野龍青年時代写真」「水野龍ブラジル移民時代写真」「水野龍農作業写真」「コロニア・アルボ  ラーダ農地写真」「水野龍日本帰国時写真」 個人蔵
「水野龍サンパウロ到着時写真」個人蔵
「水野龍航海日記」 山中三郎記念バストス地域史料館
「ハワイ移民写真」、「北米移民写真」 日本図書センター 
「水野龍壮年期写真」「コーヒー農場の移民写真」 須崎市竹下写真館
主な参考文献
『海外移民事業ト私』(水野龍)
『南米渡航案内』(水野龍 京華堂書店)
『ブラジル植民意見』(水野龍)
『水野龍略伝』(龍翁会)
『祖人水野龍』(牛窪襄 パラナ新聞社)
『伯国日本移民の草分』(鈴木貞次郎 日伯協会)
『邦人海外発展史』(入江寅次 原書房)
『横山源之助全集第8巻 殖民』(横山源之助 法政大学出版局)
『香山六郎回想録』(香山六郎 サンパウロ人文科学研究所)
『移民四十年史』(香山六郎)
『日本移民五十周年記念 かさと丸』(移民五十年祭委員会)
『ブラジル日本移民80年史』(ブラジル日本移民80年史編纂委員会)
『移民の生活と歴史』(半田知雄 サンパウロ人文科学研究所)
『日本ブラジル交流史』(日本ブラジル交流史編集委員会 社団法人 日本ブラジル中央協会)
『日本外交文書 第38巻〜43巻』(外務省 厳南堂書店)
『サントス第十四埠頭』(藤崎康夫 中央公論社)
『ブラジルへ 日本人移民物語』(藤崎康夫 草の根出版会)
『写真・絵画集成 日本人移民 1巻2巻3巻』(藤崎康夫 山本耕二 日本図書センター)
『日系ブラジル移民史』(高橋幸春 三一書房)
『日米移民史学』(アラン・T・モリヤマ 金子幸子 PMC出版)
『水野龍と皇国殖民会社についての覚書』(間宮國夫 早稲田大学アジア太平洋研究センター)
『消えた移住地を求めて』(小笠原公衛 サンパウロ人文科学研究所)
『新しいブラジル』(斉藤広志 サイマル出版会)
『ブラジルを知るための55章』(アンジェロ・イシ 明石書店)
『ブラジル日系社会 百年の水流』(外山脩 トッパン・プレス印刷出版)
ほか
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。


第330回
戦国の「ゲルニカ」
〜大坂夏の陣、惨劇はなぜ起きたのか〜

放送日
本放送 平成20年6月25日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年6月30日(月)
17:15〜17:58 BS−2
平成20年7月1日(火)
16:05〜16:48 総合 全国
平成20年7月8日(火)※月曜深夜
3:30〜4:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年7月12日(土)
10:05〜10:48 総合 全国(近畿のみ)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 渡辺 武(たける)さん
(大阪城天守閣元館長 大阪城について長年研究)
主要著書 「豊臣秀吉を再発掘する」(新人物往来社)、「大阪城話」(東方出版) 、
「大阪城とまち物語」(フォーラム・A)
VTR
 インタビュー
宮本裕次(ゆうじ)さん(大阪城天守閣主任学芸員)
相良 泉(さがら・いずみ)さん
(番組中で「お菊の手毬唄(てまりうた)」を歌った女性)
再現ドラマ出演惣右衛門(そうえもん)役・土方錦ノ助(グレース)
太郎左衛門役・川西聡雄(関西芸術社)
お菊役・三好由以(オフィスDPT)
手毬唄の少女役・田中千遙(日芸プロ)
キャスター松平定知
番組概要
その時:慶長20(1615)年5月7日午後4時ごろ 大坂城落城の時
出来事:徳川家康が天下統一を完成させた
同時に、戦国最大の市街戦により大坂の民衆が甚大な被害を受けた
大坂の陣。徳川家康が豊臣家を滅ぼし、天下統一を完成させた戦いとして知られている。その合戦の様子が、戦いの直後に作られた「大坂夏の陣図屏風」に克明に描かれている。屏風の右側には徳川家康や真田幸村など武将たちによる戦闘の様子、そして左側には、戦火を避けて逃げまどう民衆の姿が生々しく描写されている。
屏風に描かれた通り、大坂の陣は、戦乱の世においても非常に珍しい“市街戦”であり、多くの非戦闘員が巻き込まれた戦いであった。雑兵に襲われる女性、首を斬られる農民、奴隷狩りに遭う人々—— これら非戦闘員への被害が拡大した背景には、徳川・豊臣両家の思惑や、政治的、軍事的要因が大きな影響を及ぼしていたことが近年の研究によって明らかになった。さらに最近発見された史料から、この戦いは大坂の民衆を分裂させ、一族同士でさえも殺し合うという最悪の事態を引き起こしていたことが分かってきた。
番組では、戦国史上最大の市街戦・大坂の陣を、民衆の視点から捉えるとともに、なぜ被害は拡大したのか、屏風や新たな研究成果を元に合戦の内実を読み解き、その真相に迫る。
番組の内容について
番組のサブタイトル「戦国のゲルニカ」について
今回の番組は、大坂の陣(夏の陣および冬の陣)を、被害者となった民衆の視点で捉えたものです。番組の中で、合戦の様子を克明に描いた「大坂夏の陣図屏風」を重要な史料として紹介していますが、民衆の悲劇を記録したこの屏風が、同じく民衆の戦争被害をテーマにしたパブロ・ピカソの絵画「ゲルニカ」を連想させるため、今回の番組ではサブタイトルを「戦国のゲルニカ」としました。「戦国のゲルニカ」とも呼べる「大坂夏の陣図屏風」を検証しながら、大坂夏の陣で民衆の惨劇がなぜ起きたのかを解き明かしていく番組だという意図を、このサブタイトルで表現しました。

「おおさかじょう」の漢字表記について 「大阪城」or「大坂城」
現在の「おおさかじょう」は「こざとへん」の「阪」を使った「大阪城」と表記されていますが、明治維新までは「つちへん」の「坂」を使った「大阪城」と表記されていました。番組ではこうした事実にのっとり、現在の「おおさかじょう」を指す場合は「大阪城」と表記し、明治維新以前の「おおさかじょう」を指す場合は「大坂城」と表記しました。

「おおさかのじん」の漢字表記について 「大坂の陣」or「大阪の陣」
「おおさかじょう」の表記の原則にのっとり、慶長19年〜20年の出来事ですので「大坂の陣」と「つちへん」の大坂を用いました。また、教科書などで「大坂の役」という呼称を使用する場合もありますが、今回は「国史大辞典」(吉川弘文館)の記述に基づき、「大坂の陣」で統一しました。

「大坂夏の陣図屏風」について
「大坂夏の陣図屏風」には、番組中に紹介した重要文化財のもの(大阪城天守閣蔵・通称「黒田屏風」)以外にも数種類が存在しますが、今回は民衆の悲劇に着目した番組の性質上、重要文化財のもののみを取り上げて紹介しました。
また、番組中で紹介した「大坂夏の陣図屏風」の映像で、アップのカットは実物を撮影したもので、屏風の全体を映したルーズのカットは、複製(レプリカ)を撮影したものです。これは、「重要文化財」である屏風の撮影に際して制約があったためです。
なお、実物は大阪城天守閣に所蔵されており、年間、数週間は展示されています。それ以外の期間は、複製が展示されています。
実物の展示期間など屏風の展示に関する詳細は、大阪城天守閣に直接お問い合わせください。

方広寺の鐘「国家安康」について
大坂冬の陣開戦のきっかけとなった鐘の文字「国家安康」。同じ鐘に刻まれた「君臣豊楽」の文字も、豊臣家が栄えることを望んだものだと家康が指摘し、結果的に開戦のきっかけとなるのですが、今回の番組では、家康を呪ったものだという指摘がより明確に現れている「国家安康」のみを紹介しました。
この鐘がある「方広寺」(京都市東山区)へは、市バス「博物館・三十三間堂前」下車北に徒歩5分。
または京阪電鉄「七条駅」下車、北東に徒歩10分。
通常9:00〜16:00まで拝観可能(季節によって変更の可能性がありますので、詳細は観光情報などで確認してください。)

大坂城の広さ、地下鉄の駅が、たてよこに3つ入るという表現について
大坂の陣開戦直前の大坂城は、本丸や二の丸、三の丸といった従来の城郭本体に加え、城下町も含んだ領域を堀や土塀で囲み、城の一部としていました。その広さを表現するため、現在の地下鉄の路線図を簡略化して大坂城のCG上に表示しました。南北の路線は地下鉄・谷町線。駅は北から天満橋、谷町四丁目、谷町六丁目の3駅。また、東西の路線は地下鉄・長堀鶴見緑地線。駅は西から松屋町、谷町六丁目、玉造の3駅を表示しました。なお、長堀鶴見緑地線は玉造から先が北へ曲がり、森ノ宮駅へとつながっていますが、番組では、大坂城の広さを分かりやすく表すために、玉造から先の路線は省略しました。

竹流金(たけながしきん)について
大坂の陣に際して豊臣方は、浪人や農民を雇い入れ、戦力の増強を行いました。その時に用いたと考えられるのが、「竹流金(たけながしきん)」と呼ばれる臨時の貨幣です。溶かした金を鋳型に流し込み、刻印するだけという簡単な工程で造ることができました。
竹流金の実物は、造幣局の中にある「造幣博物館」(大阪市北区)で一般公開されています。
入館は無料ですが、団体での見学には予約が必要です。
 
「造幣博物館」の見学時間:午前9時から午後4時45分(入館は午後4時まで)
月曜日〜金曜日(祝日及び年末年始は除きます。このほか、都合により臨時休館する場合があります。)
○JR環状線「桜の宮」駅(西口改札)又は「京橋」駅(北口改札)下車徒歩15分
○JR東西線「大阪天満宮」駅(2番出口)下車徒歩10分
○地下鉄谷町・京阪本線「天満橋」駅(北出口)下車徒歩15分
○地下鉄谷町・堺筋線「南森町」駅(東改札を出て3番または4番出口)下車徒歩15分
○市バス「桜の宮橋」停留所下車すぐ
※地図など詳細は、造幣局のホームページをご参照ください。 http://www.mint.go.jp/plant/visit_museum_h.html

大坂冬の陣の講和成立について
講和成立に関して、豊臣・徳川両家の会談が合意に至り、誓書が交換されるまでという各段階の、どの時点で大坂冬の陣が終結したとするかについては様々な解釈があります。今回は番組のゲストである渡辺武さん(大阪城天守閣元館長)の指導により、家康が攻撃停止命令を出した、慶長19(1614)年12月20日を大坂冬の陣が終結した日としました。  

大坂の陣に巻き込まれた女性「お菊」について
大坂の陣に巻き込まれた「お菊」のエピソードは、お菊が生まれ育ったとされる大阪府阪南市の周辺で語り継がれています。
またお菊の物語は、「お菊の手鞠唄(てまりうた)」としてこの地方に伝わっていますが、その歌詞やメロディーは数種類あり、それぞれ少しずつ異なっています。「お菊は豊臣秀次の娘である」とする説や、「お菊は密書を運んだが、それを川で落とした」など、様々な伝承がありますが、今回はそれらの一部を取り上げ、簡略化して紹介することとしました。

  ○お菊の手毬唄「波有手(ぼうで)で一番 六兵衛の子 六兵衛の娘は お菊とて 山口喜内(きない)に嫁に行て 行てから七日も経たぬ間に」
番組中で紹介したこの歌詞は、「お菊の手毬唄」のごく一部です。歌詞はこの後、お菊が密書を川で落としたエピソードや、お菊が徳川方に捕らえられる様子などと、続いていきます。
昭和5年に発行された「西鳥取村誌」には、全ての歌詞および楽譜が掲載されています。

  ○お菊の像 大阪府阪南市にある「法福寺」にお菊の像が祀られています。像は江戸時代中期に一度消失し、その後、江戸時代後期に新たに造られました。
法福寺へは、南海本線「鳥取ノ荘駅」下車、徒歩2分。

番組中で紹介した文書
「男、女のへだてなく、老いたるも みどりごも 目の当たりにて刺し殺し」
末吉増重(町人)の記録「見しかよの物かたり」(個人蔵)より。
同じ文書からの引用が、番組後半のVTRにも出てきます。一部、ひらがなを漢字に変更して紹介しました。

「中島地域大坂の陣関連文書」
「中島中起請文写」、「太郎左衛門・卯右衛門起請文写」、「大道村惣右衛門等中島中連署訴状写」など、大坂の陣に際して、中島地域の農民たちが記した文書を総称して「中島地域大坂の陣関連文書」と表現しました。「中島地域大坂の陣関連文書」という表記は、この文書の研究者である宮本裕次さん(大阪城天守閣主任学芸員)の指導によりました。
「秀頼様のために手柄を立て、仮に討ち死にしても 末代まで名を上げることをありがたく思う。」
「中島中起請文写」より引用(一部意訳)
「不及是非」=やむを得ず  「加判」=従った
「太郎左衛門・卯右衛門起請文写」より引用(「=やむを得ず」、「=従った」は、意訳)
「中島の絵図」、「河の瀬を教え」
「大道村惣右衛門等中島中連署訴状写」より引用

「紀州一揆」について
豊臣方が紀伊の人々に呼びかけて反徳川の一揆を起こさせ、大坂からも攻め寄せてはさみ撃ちにしようと計画。
「紀州一揆」
「ひそかに紀州に差し向けて」
「一揆を起こし」
「合戦に打ち負け」

以上、「浅野御家之記」より引用(一部意訳)

「大坂濫(らん)妨人落人改之帳」について
徳川方の大名がまとめた奴隷の帳簿で、奴隷狩りの実態を明らかにする史料。
「大坂谷町にて 餅(もち)売りの五郎左衛門の下女」
「大坂にて  上本町二丁目 桶(おけ)屋 宗右衛門と申す者の女房」

以上、「大坂濫妨人落人改之帳」 より引用(一部、ひらがなを漢字に変更)

「男、女のへだてなく 老いたるも、みどりごも 目の当たりにて刺し殺し
あるいは親を失い子を捕られ 夫婦(めおと)の中も離ればなれになりゆくことの哀れさ その数を知らず」

末吉増重(町人)の記録「見しかよの物かたり」(個人蔵)より引用。一部、意訳して紹介しました。

大阪城天守閣主任(当時)岡本良一さんの言葉
「この絵を見ていると 当時の市民の怒りや悲しみの声が 聞こえてくるような気がする
 この絵はまさに わが国の元和版『ゲルニカ』と言ってよいかもしれない」

岡本さんの著書「図説大坂の陣」(創元社)より引用。

番組内で登場した史料の所蔵先について
「大坂夏の陣図屏風」(黒田屏風) 大阪城天守閣
徳川家康肖像  大阪城天守閣蔵
豊臣秀吉肖像  逸翁美術館蔵
伝・淀殿肖像  奈良県立美術館蔵
豊臣秀頼肖像  養源院蔵
黒田長政肖像   福岡市博物館蔵
「ゲルニカ」(図録より転載)  有限責任中間法人 美術著作権協会
岡本良一氏写真(大阪城バック) よみうり写真館
岡本良一氏写真(発掘中の様子) 個人蔵
大阪城天守閣再建工事の写真  大阪城天守閣蔵(2枚とも)
中島地域大坂の陣関連文書  個人蔵
末吉増重(町人)の記録「見しかよの物かたり」  個人蔵
「大坂濫(らん)妨人落人改之帳」  徳島県立文書館蔵 (※版権先は、国文学研究資料館)
「浅野御家之記」(紀州一揆の史料)  金沢大学附属図書館蔵
大阪城再建式典の映像  大阪市情報公開室市民情報部蔵
主な参考文献
「大坂の陣」(中央公論社)
「大坂冬の陣夏の陣」(筑摩書房)
「大坂城」(岩波新書)
「大阪城400年」(大阪書籍)
「日本戦史 大阪の役」(徳間書店)
「図説 大坂の陣」(創元社)
「大阪府史」(大阪府)
「新修 大阪市史」(大阪市)
「図説 大阪府の歴史」(河出書房新社)
「戦国合戦絵屏風集成 第四巻  大坂冬の陣図 大坂夏の陣図」(中央公論社)
「特別展 大坂図屏風 —景観と風俗をさぐる」(大阪城天守閣特別事業委員会)
「豊臣秀吉を再発掘する」(新人物往来社)
「大阪城話」(東方出版)
「大阪城とまち物語」(フォーラム・A)
「雑兵たちの戦場」(朝日新聞社)
「西鳥取村誌」(西鳥取村役場)
「伝承の姫君お菊」(新家歴史研究会)

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