昔々のことである。わが母は夕食の支度どきになると近くの市場にでかけ、八百屋、魚屋とめぐっては夕食の材料を集めた。八百屋の野菜たちは今時の野菜たちとは異なり、それぞれ個性豊かな表情をもっていたのだが、あろうことか、母は彼らの個別 的な欠陥を探し出すことに夢中になっていた。欠点をあげつらい何とかまけてもらおうという算段である。「正価」「正札」ということばがまだ生きていた時代であった。
そんな母が私を連れて、「お出かけ」することがあった。行くのは日曜日だったと思う。あるいは土曜日だったかもしれない。ややおめかしした母とバスに乗って市(旭川)の中心部に出かける。駅前通 りにあった「丸井」か「丸勝」のどちらか、あるいは両方のデパートに行くのである。商品のアラを探して値引きをはかることのできないのがデパートである。正価が覆されることのないこの非日常(ハレ)の世界で、母はいっとき上昇(高級)感覚を味わうことができたのだろうか。デパートに置かれた商品がすべてブランド品のアウラを漂わせていた。母が洋服のコーナーに赴き、それから衣類を選ぶまでの時間は私には果 てしなく思えたものだが、昼にはデパートの最上階にあるレストランのお子さまランチが待っている。それだけを一縷の望みにじっと堪え忍んでいたのだ、と思う。
時代は変わる。地方都市に住む私は車が主な移動手段であるから、畢竟買い物は駐車場のあるところ、つまりスーパー、コンビニ、デパートに行くことになる。夕食の買い物にでかける場合、何を買うかを予め決めておくことはあまりない。通 常は、まずスーパーに行って、そこでの食材たちとの出会いにより夕食内容が決まってゆく。野菜畑での収穫時期を一切知らない私には「旬」という感覚がない。生鮮食料品と缶 詰との差異は保存できる期間の違いにすぎない。もちろん、欠陥商品をこちらから探すことはしないし、その必要もない。日数がたった商品は、生鮮食料品は言うに及ばず保存食品までがすでにディスカウント・コーナーに並んでいるからだ。何が足りないかを知らずに、ただ何かが足りないはずだという焦燥感で私はスーパー中を歩き回る。二つのかごをいっぱいにした後で、やっと幾分かの満足感を覚え、レジに並ぶ。
娘たちはといえば、次女は「なっちゃん」ばかりを飲んでいた一時期をすぎ、今では「フキゲン」に傾倒中である。一方、中学2年になった長女の方は健康言説に影響されてか、もっぱら水を飲んでいる。今日では「水」もまた、健康ブランドなのだ。
母の時代は、いまだ経済が希少性に支配されていた時代だった。冷蔵庫がなかったせいもあるが、食料に関しては必要なものだけを値切りながら買うというのが通 常の購買行為であった。モノがモノとして必要とされていた。今日の経済社会は希少性ではなく、過剰性に支配されると言われる。モノは必要以上にふんだんにあり、しかも、それら本来不必要なモノであっても買われないことには経済が成り立たない。必要とはしないモノであっても、人々はそれを欲望はする。イラナイモノでもホシイと思う心理、これが今日の過剰性に支配される経済を支える心理である。そして、その経済心理的な仕組みを支える重要な媒介がCMである。
CMが生む欲望とは、モノそのものではなく、モノの記号への欲望、記号としてのモノへの欲望だと言われる。それでは、CMが喚起する記号とは何だろうか?
物語は一般に平衡→非平衡→平衡、そしてその変化形としての充足→欠乏→再充足というプロセスを経る。CMの原型もこれと同じである。ビールのCMを考えてみよう。
今日のビールのCMは
という二つのシークエンスからなる。下に載せたビールのポスターはまさにこの二つのシークエンスを併存させている。左半分(ビールを運ぶボーイ)と右半分(汗を拭く男)の間にタイムラグを想定するならば、今日のCMと同じ構造をもっていることになる。
Eugène Oge, 1910 |
ポスターを見る者は理想的には(つまり広告する側の意図としては)右の汗をかく男に同一化し、彼の喉の渇きを共有することが期待される。ただし、ポスターの男は真の欠乏状態にあるのだが、ポスターをみる潜在的消費者の方も同じように欠乏しているとは限らない。通常は、渇きを擬似的に味わっているにすぎない。そして、この擬似的な渇きが購買欲を生むには十分な反応なのである。 喉の渇きに目覚めるのに必ずしも真の渇きは必要ないばかりでなく、擬似的な渇きこそ、それを特定の商品への渇きとして条件付けるのに適しているとさえいえる。ポスターをみる者が理想的な広告読解者=消費者であるとしたならば、単に喉の渇きを覚えるのではなく、マルツブラウ・ビールへと特殊化された、条件付けられた渇きを覚えるはずなのである。
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ここでの飲み物の宣伝は擬似的とはいえ喉の渇きに直接訴えるという点では無媒介的なCMということができる。
CMが差し出すのは林檎(モノ)ではなく、リンゴ(記号)である。
- イミに涎を出すことはできても、食べることはできない
- CMの機能は、
- [1次的には]林檎を食べさせることではなく、涎を出させて、林檎を買いたい気にさせることである。
- [2次的には]リンゴを食べて「幸福」になれるという幻想を抱かせることにある。
- したがって、すでに満腹の人にもリンゴ(記号)を買わせることはできる。
飽食の時代でも食品産業が成長するには、林檎(モノ)ではなく、差異化されたリンゴ(記号)を次々と買わせる必要がある。
CMは[潜在的内容相の拡張により]リンゴ(記号)を再構築(捏造)する
- 拡張された潜在的内容相は現実の指示対象(referent)を持たない空虚な記号(フィクション)である。ところが、中空を指示しているうちに新たな内容相が幻想的に浮かび上がる。この誰もが見ながら、誰にも見えない空虚な共同幻想(王様の衣)こそ、高度資本主義社会を導く悪魔の紙幣、つまりヒッチコックのいうマクガフィンなのだ。それを手に取ってみると、実は枯れ葉にすぎない。
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女性(バストショット):元気がない、不幸、
リンゴの意味が不明リンゴ=本質的内容相+潜在的内容相[謎=意味の欠如]
女性(クローズアップ):口唇的欲望
→クローズアップは内面性[感情・欲望]を表現する技法リンゴ=本質的内容相+潜在的内容相[口唇的欲望の対象、意味の充足]
リンゴ(クローズアップ)、女性(ロングショット)
リンゴ=本質的内容相+潜在的内容相[活力の源、健康=幸福という意味素]
言語情報(文字)によるリンゴの限定:cf.「アーモンドチョコは明治」
欠乏:ちから、生きるエネルギー、健康、幸福 |
媒介的モノ・行為: |
充足:ちから、生きるエネルギー、健康、幸福 |
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ポン酢醤油のCM
- しあわせって なんだっけ なんだっけ
- ポン酢しょうゆ の ある家さ
- ポン酢しょうゆ は キッコーマン
- ポン酢しょうゆ は キッコーマン
- キッコーマン
- レトリック
- なんだっけ(疑問)→修辞疑問(答えはわかっている)
- 答え:ポン酢醤油のある家
- 商品名・商標の強調→伝統的手法
- 欠如→充足:媒介的プロセス
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ポン酢醤油の潜在的内容相:幸福(=家庭的団欒)をもたらす
[ホーム=幸せ]という伝統的(反動的?)価値観を前提とする(強要する?)
cf.ヤマサ「昆布ポン酢」のCM:どんな料理(各国料理)にかけても良くあう
CM:コンテキストの捏造(強いられたシンタグム)
参考:パラダイムとシンタグム
S(主体)→O(客体)
S(主体)→[O=hero]→O(客体)
したがって、タバコCMが想定する消費者とは次のようになるだろう。彼(女)は英雄志願者(S→hero)であり、単にタバコを吸うことではなく、CMの主人公のようにタバコを吸うことを願う存在だと。
[S→hero]→[O=hero]→O(客体)
記号の意味(価値)は、位置するコンテキストにより決まる→シンタグム
[幸福] [幸福]→リンゴを食べる その結果、不安(不幸)になる 白雪姫とりんご
ミニ・シークエンス1 (おいしそう)
ミニ・シークエンス2(のどがかわいた)
ミニ・シークエンス3(楽しい人だわ)
欠乏:ちから、生きるエネルギー、健康、幸福
充足:ちから、生きるエネルギー、健康、幸福
Before Macdo
After Macdo