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【スポーツ】

センバツ出場 慶応高校 事故からの逆転元主将コーチに

2009年2月24日 夕刊

慶応高校野球部時代の写真を見る吉田翼さん=神奈川県鎌倉市で

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 3月に開かれる第81回選抜高校野球大会に出場する慶応高校(横浜市)に力強い助っ人が現れた。元主将のOB吉田翼さん(30)=神奈川県鎌倉市。4年前の事故で負った大けがから復活を遂げ、「臨時打撃コーチ」として甲子園の土を踏む。後輩たちに「思いっきり楽しんで」と思いを託す。 (横浜支局・細見春萌)

 吉田さんは十四年前、同校二年生の時、四番打者で県大会に臨み、決勝で涙をのんだ。翌年は主将を務めたが、甲子園出場はならなかった。卒業後、慶応大学、明治安田生命で野球を続けた。

 人生の暗転は突然訪れた。二〇〇五年五月。都内で通勤のためミニバイクを運転中、道路をはみ出した対向の乗用車に正面衝突され、二十メートル以上はねとばされ、頭を打って意識不明の重体に。相手は飲酒運転だった。

 血腫となった脳の一部を取り除くなど、八回の手術が行われた。三週間、生死をさまよい、何とか一命は取り留めたが、左半身にまひが残った。骨折した顔面全体には、数十個の金属パーツが埋め込まれた。

 「何で自分が。こんなことなら死んだ方がよかった」。そんな思いが頭をよぎることもあった。仕事を辞めた父親の信行さん(58)とリハビリに励んだ。「もう一度、野球がしたい」との思いからだった。

 右半身しか動かせない状態から約三年半。つえをつき一人で歩けるほどまで回復した。半年前からは、細かい動きの訓練を始めた。だが、同じ訓練を繰り返す毎日。マンネリ化を感じていた昨年末、ある会合で、同校野球部の上田誠監督(51)と再会した。「おまえ、一緒に甲子園行くか」。十四年前にあと一歩届かなかった舞台。そこに行けば、回復の手助けになるかもしれないという恩師の思いやりだった。

 それから、吉田さんの日々は変わった。甲子園のグラウンドに上がるイメージで歩行訓練を繰り返し、後輩が紹介された雑誌や新聞を読みあさった。夢の舞台へ上がるために。

 今月上旬、コーチとして同行が正式に認められた。初戦の二日前に行われる甲子園の公式練習で、ユニホームを着て参加する。

 事故の後遺症で、技術指導は難しいけれど、心構えを後輩に伝えたいと思っている。

 「甲子園で野球ができる今この時を、悔いがないように、思いっきり楽しんできてほしい」と。

 

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