発声練習

2009-02-22

[][] 価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない

卒業していく君へ。

卒業おめでとう。本当は面と向かって言ったほうが良いのだけど先生という立場だと私の発言が思った以上に重くなってしまうので直接君にはいえない。でも、君への言葉を一度形にしておかないと私の頭に一生こびりつきそうなのでここに書かせてもらうよ。

今年、君は卒論に苦しんだね。君が卒論に苦しんだ理由は自分でも分かっていると思うけど、常に外部に正解を求めたことにあるんだ。私が「どうして、それが正しいと思うの?その理由を教えて。」と聞くと、いつも君は表情を凍らせて黙ってしまったね。何度も何度も「研究には正解とか不正解とかない。誰も答えを知らないから研究になっているんだ。だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ。」と伝えたのだけど、最期まで君は自分の主張の正しさを自分の言葉で言えず、常に私の保証を求めたね。はっきり言ってそれが私にとっては本当につらかった。

君が雑談ならば私とも明るくおしゃべりできるのに、研究の話となった瞬間に凍り付いてしまうのは、雑談は自分の感情をベースに話せるので自信を持てる(自分の感情だもの、正しいも正しくないもない)のに対して、研究の話は自信がないからだよ。

どうして、自信がなかったのかといえば、たぶん、間違うことに対して恐怖をいだいているからだと思うよ。何で間違うことに対して恐怖を抱いているのかというと、まだ君には精神的な背骨が育っていないからだと思う。君は、自分の価値判断の基準を外部に委ねており、自分の内部にそれがない。君が自分の価値判断の基準だと思っているのは、外部に依存した「優等生な自分」「良くできる自分」という役に立たない基準なんだ。

もちろん、「良く出来る自分」というものをきっちりと咀嚼し、自分の精神的な背骨にしている人は大勢いる。でも、君のは、「他人が君をどう思うか」という基準なんだ。精神的な背骨として使えるのは「自分が自分をどう思うか」というものなんだ。ざっくり言えば、他人が君のことをかっこ悪いと思っていても自分が自分のことをかっこよいと思っていれば動じないというもの。何をもってかっこよいとするかは、親の見方、彼女の見方、友達の見方、小説内の見方、アニメの中での見方など何に由来していてもかまわないのだけど、自分が咀嚼しているのが重要。自分が咀嚼しているならば、周りの環境が急に変わっても、自分の背骨は急には不安定にならない。

私の判断基準の基礎は両親が作った。その基準をベースに、読んだ本、小学校・中学校・高校の素敵なあるいは面白い、個性的な先生達、見たテレビ番組、体験したいろいろなことをミックスして私の背骨はできている。大学での私の指導教員の発言や考え、教えも今や立派なに私の背骨の一部だ。いまでは、自分が研究を進めるとき指導教員の声が聞こえてくるくらいだ。「それは何の意味があるの?」「それの定義は何?」とか。私の美醜の基準は、明らかにいままで読んだ小説や漫画に由来しているよ。

精神的な背骨がある人は、自分が間違えることをだいたい許容できる。自分の判断基準からしてどうでも良いことならば、間違えたって直してより良いものにしていけば良いだけだから。自分の判断基準からして重要な間違いならば凹むかもしれないけどね。でも、一度背骨を作り上げている人ならば、背骨自体を強化したり、変更したりできるので案外タフだ。

一方、精神的な背骨が無い人は、いかなる間違いも許容できない。なぜならば、判断基準は外にあるためどの間違いが自分に致命的でどの間違いが自分に致命的でないかが判断できないから。だって、判断するのは他人。完璧に振舞いたいのだけど、どう振舞えば完璧かわからなくなり、自信が無くなり、自分が嫌いになる。まるで、プライドを殻にした甲殻類みたいになるんだ。判断基準は外にあるので、自分が取れる選択肢は「他人に嫌われないようにする」「他人にかっこ悪いと思われないようにする」「他人にできない奴とみられないようにする」というものしかない。強化も変更もできないんだ。

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。その表現の仕方が研究だろうと、スピーチだろうと、絵画だろうと、価値の判断基準は常に自分の内部にあり、その基準に基づいて自分の考えや思いを外に問うのが表現だ。価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない。外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。

表現者は、外の世界に自分の考えや思いを問うのがその存在意義だ。外に問うということは反論を食らうということなので、皮膚は破れ、肉は断たれる。でも、骨は守る。傷を癒し、身のこなしを鍛え、骨を強化し、場合によっては骨を入れ替え、再び世の中に自分の考えや思いを問う。考えや思いを外に問わなければ何も始まらないから、ただ、そうする。

だから、君がもし表現者になりたいのだとしたら、精神的な背骨を手に入れる必要がある。それはどんなものでも良い。私が君をどう思うかではなく、君が君をどう思うかそれが重要だ。君は私じゃないし、私は君じゃない。究極的には、私が君をどう思おうが君はそれに左右される筋合いはない。

君が背骨を手に入れる手助けをしきれなかったことに悔いが残るが、この研究室卒論をやった経験が数年後に役にたつことを祈っている。君が新たな場所で新たな師匠に立派に鍛えてもらえますように。さようなら、お元気で。

追記

このエントリーに対する問いかけ。

Hry00x451-0a_a1Hry00x451-0a_a1 2009/02/23 17:50 何か間違いを恐れずに語ってみてよ.

next49next49 2009/02/23 19:12 >Hry00x451-0a_a1 さん

間違いを恐れずに語った結果の置き場所がこのブログです。
反論を読んで、納得して私の行動を変えたことは何度もあります。

180180 2009/02/23 20:38 興味深く読ませていただきました。
一つお聞きしたいのですが、価値の判断基準が自分の外にある人間の「利点」は何だと思われますか?
長所と短所は背中合わせと言うくらいですから、逆に精神的な背骨のある人には出来ない事があるのではと感じたのです。

こへこへ 2009/02/23 20:58 おっしゃる通りだお思いました。
自分の省みるとまだまだだなと思います。
大学行ってサラリーマンになって。
この道を歩んだのも、自分で考えてではなく、世間一般にそうだからです。

ほとんどの人が、いい大学目指す。
大学行くことが目的。
なぜなら、みんなそうしてるし、親からも先生からもそうすることが良いことだとされて。
その先の話はあまりしない。
大学入って、まぁ、大学性だし研究でもしてみようかな。
おそらく、そういう人が多いんでしょうね。僕らの世代は。
語りかけてる相手が、そういう方では無かったら申し訳ないですが。

next49next49 2009/02/23 21:14 >180さん

価値判断の基準が自分の外にある人の利点ってなんでしょうね?
他人の望むことが分かっており、かつ、自分がその望まれていること
ができるときに、双方ともに幸せになれることでしょうか。

next49next49 2009/02/23 21:32 >こへさん

> ほとんどの人が、いい大学目指す。
> 大学行くことが目的。
> なぜなら、みんなそうしてるし、親からも先生からもそうすることが
> 良いことだとされて。
> その先の話はあまりしない。

私も基本的にそうですよ。大学に進んだのは大学卒業しないと
給料が安いと親に何度も言われたからです。大学院修士課程に
進んだのも同じ理由です。もう、理工系の学生の半分は大学院に
進むのが当たり前と思っていましたので。

卒業研究をしたのも、それが必修単位だったからです。

なので、別に大学に目的無く入ることは悪いとは思いませんし、
研究に熱意が無くても別に悪いとは思いません(残念とは
思いますが)。

ただ、間違えても良い環境なのに、間違えるのが怖くて
発言できないのは残念だったなぁと思っただけなんです。

akihitoakihito 2009/02/23 23:36 大変興味深く読ませていただきました。

著書の中で自己主張を明確には打ち出さず、インタビューや複数の文献をパッチワークのようにつなげてストーリーを作っていく方たちがいますが、そういったタイプの表現者(?)についてnext49さまはどのようなお考えをお持ちですか?例えば立花隆さんがこういったタイプだと思っています。

next49next49 2009/02/23 23:58 >akihitoさん

私はそういう本や論文を読みたくありませんが、いろいろな
表現があって良いのではないかと思います。私が気にしているのは
自分の考えを表に出すか出さないかという点だけですので。

外に出した表現が良いか悪いか好きか嫌いかはまた別の話だと思います。

価値の判断基準が自分の外にある人価値の判断基準が自分の外にある人 2009/02/24 00:39 はじめまして
耳に痛いお話でしたが、興味深かったです。

思いつく利点は
・価値基準構築の手間を省ける
・失敗に感じる責任は軽く感じる
・価値基準の衝突が無いため、外部との摩擦は少ない
・明らかに相手が間違っていても、葛藤に悩まされる事は少ない

文字にして気が付きましたが
自己防衛的ですね

外部が求める答えを提供する事が成功への道
と言う環境に適応させすぎ
他の環境への柔軟性を失った結果かもしれません


間違える事への恐怖を取り除くために
正解は求めていないと明言するか
間違えや失敗を求めている事を明確にする
と言うのはどうでしょう?

next49next49 2009/02/24 01:02 自分の中の価値判断の基準を誰か特定の人を
想定して作るというのは、案外、基本なのかもしれません。
「これをやったらお母さんやお父さんは怒るかな?」
というのは子どものころの私の重要な価値判断の基準でした。

> 間違える事への恐怖を取り除くために
> 正解は求めていないと明言するか
> 間違えや失敗を求めている事を明確にする
> と言うのはどうでしょう?

これを試みてはいるのですが、どうも信用してもらえないのです。
難しいですよね。

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