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地球温暖化について、懐疑派の説が七つあるという。
( → 読売新聞・夕刊 2009-02-23 。ネットにはない。)
記事から引用すると、次の七つだ。
- 温暖化はない
- モデルの信頼性がない
- すべて陰謀だ
- 原因は、水蒸気や太陽活動だ
- 二酸化炭素の原因は人間でなく海面だ
- 温暖化はかえって有益だ
- もっと大事なことは他にある
(1) 懐疑派の主張はとっくに考慮済みだ。その上で懐疑論を否定している。
(2) 懐疑派の主張は論理に無理がある。二酸化炭素を原因とするのが最も妥当だ。
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記事は、以上の通り。
このあと、私の立場から、記事の (1)(2) についてコメントしておこう。
この (1)(2) は、論理になっていない。正しいかどうかではなくて、論理的におかしい。つまり、(1)(2) の主張が正しいとしても、主流派の説が正しいことを意味しない。理由は、下記。
(1)
「懐疑派の主張はとっくに考慮済みだ。その上で懐疑論を否定している。」
それがどうした? 懐疑派だって、同じことを主張している。次のように。
「主流派の主張はとっくに考慮済みだ。その上で主流派の説を否定している。」
つまり、どっちもどっちだ。したがって、(1) をもって「主流派の説が正しい」ということにはならない。
(2)
「懐疑派の主張は論理に無理がある。二酸化炭素を原因とするのが最も妥当。」
それがどうした? ここから得られる結論は、次のことでしかない。
「懐疑派も主流派も、すべて間違っている。間違っているなかで、主流派が最も間違いの度合いが低い。だとしても、しょせんは間違いにすぎない」
つまり、「間違いのなかで一番正しい」ということは、「その説が正しい」ということを意味しない。全員が馬鹿であるなかで、馬鹿の度合いが最も少ないということは、利口であるということを意味しない。……そこのところがわかっていないようだ。
要するに、(1)も(2) も、主流派が正しいことの論拠になっていない。そんなことを論拠とするのはデタラメ論理にすぎない。
つまり、科学的な妥当性以前に、論理がデタラメだ。そんなデタラメ論理を駆使することからして、主流派の見解そのものがいかにデタラメであるかがわかる。
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より本質的に言おう。主流派は、自分が何を批判されているか、全然わかっていない。他人の難点には気づくが、自分の難点には気づいていない。
特に、最大の難点は、次のことだ。
「将来の温暖化をものすごく過剰に予測している」
主流派の予測があまりにも過剰である(温暖化を過大に予測している)という点は、はっきりとしている。
→ 地球温暖化の有無 2
要するに、主流派の「オオカミが来るぞ!」という過大な警告は、嘘であることがすでに(ほぼ)判明しているのだ。
なるほど、温暖化の傾向は、たしかにある。しかし、それが主流派の言うような巨大なものであるかどうかという点では、はっきりと否定的な傾向が出ている。その難点を無視して、「でも長期的には温暖化があるよ」などと述べても、ただの言い訳にすぎない。はっきりと誤りを認めるべきだ。次の台詞で。
「大山鳴動して ネズミ一匹でした。ごめんなさい」
と。
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さらに本質的に言おう。問題は、上の七つの説も、主流派の説も、すべて間違っている、という点だ。なぜなら、正しいのは、そのいずれでもなく、次の説であるはずだからだ。(私の見解。)
「地球の温暖化傾向は、たしかにある。しかしその原因は、炭酸ガスの増加ではなくて、緑地の減少である」
→ 陸地温暖化説
さまざまなデータを勘案すれば、この説(陸地温暖化説)が最も妥当であるとわかるはずだ。
緑地の減少。地球の砂漠化。そこから、水分蒸発量の減少や、雲の減少や、二酸化炭素吸収量の減少や、地面の高熱化など、さまざまな出来事が起こる。その結果が気温の上昇だ。
つまり、人類の活動が地球温暖化をもたらしたというのは事実なのだが、その原因は、炭酸ガスの増加ではなくて、人類による環境破壊なのだ。
したがって、人類がなすべきことは、炭酸ガスの増加を抑制すること(牛のゲップを止めることなど)ではなくて、環境破壊を止めることなのだ。
なのに、そのことから目を逸らさせて、地球環境の破壊を放置するという点では、主流派も、七つの懐疑派も、同じ穴のムジナなのである。真犯人から目を逸らさせることで、犯罪を放置することになるからだ。
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具体的な例で言えば、次の質問への違いがある。
Q 白山ブナ林やアマゾン熱帯雨林をどうするべきか?
これに対して、主流派は、「伐採せよ」と主張するはずだ。「古臭い森林は炭酸ガス吸収量が少ない。それよりは新しい森林や草などに植え替えればいい。新しい森林や草ならば、生長量が大きいので、炭酸ガスの吸収量が増えるから」と。
しかし、陸地温暖化説ならば、「伐採するな」と主張する。「炭酸ガスの吸収量なんかどうでもいい。水分の蒸発量の維持が大切だ。白山ブナ林やアマゾン熱帯雨林は、豊かな水分を維持して、水分蒸発量が大きい。そのことで雲や雨をもたらして、地球の温暖化を防ぐのだ」と。
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炭酸ガスという概念にとらわれた人類は、間違った方向に進みつつある。「温暖化阻止」という名目で、地球環境を次々と破壊しつつある。それでいて、「太陽光発電」などを唱えて、「石油消費を防ぐから温暖化を阻止する」などとうそぶく。
しかし、そんなことでは駄目なのだ。温暖化阻止のために大切なのは、太陽電池を敷設することではなくて、緑の植物を増やすことなのだ。200万円をかけて太陽電池を屋根に備えることではなくて、ずっとわずかな金をかけて庭や通路に植樹することなのだ。また、砂漠に太陽電池パネルを敷設することが大切なのではなく、砂漠を緑化することが大切なのだ。
現状のように「太陽電池派」ばかりがのさばると、最終的には、地球の緑地はすべて砂漠化することが理想となるだろう。「砂漠に太陽電池を敷設するのが最もエコなんだ。毎日、雨が降らずに、太陽がさんさんと照るのが、もっとも発電量が増すからだ。だから地球のすべてを砂漠にしよう」と。狂気の沙汰。
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結局、主流派は、あさっての方向を向いている。彼らは、何か正しいことをしようとしながら、地球環境を破壊することに熱中している。あるいは、地球環境を破壊していることに気づかないまま、どうでもいいことに熱中している。
ホモ・サピエンスという名の猿は、どのくらい馬鹿な生物なのか? 彼らは自分が自殺しつつあることに気づくだろうか?
[ 補説 ]
読売の記事では、この百年間を振り返って、
「1900年ごろからずっと温暖化の傾向が続いている」
ということをグラフで示している。そのことはいい。そのあと、
「だから温暖化の事実は正しい」
という主流派の説を紹介している。
しかし、語るに落ちた、とはこのことだ。なぜか?
「1900年ごろからずっと温暖化の傾向が続いている」
ということはあっても、
「1900年ごろからずっと炭酸ガスの増加が続いている」
ということはないからだ。
世界が工業化して、石油や石炭の使用量が急増したのは、第二次大戦以降だ。それ以前の 20世紀前半は、炭酸ガスの排出量は多くなかった。にもかかわらず、一貫して温暖化の傾向は続いた。
だから、温暖化の傾向を説明するには、炭酸ガスは明らかに不当だ。その一方で、人類の文明化と、緑地の減少は、かなり長い歴史において一貫した傾向だ。
また、地域レベルでも、砂漠化が進んだ領域の東側(偏西風の影響を受ける領域)では、温暖化が進む。たとえば、日本および周辺海域の温暖化は、日本自身が炭酸ガスを排出しているからではなく、中国で砂漠化が進んだからだ。……そういう傾向が一貫してみられる。
結局、科学的に見る限り、
炭酸ガス増加 → 温暖化
は明らかに否定され、
緑地の減少 → 温暖化
が肯定される。それが科学的な認識というものだ。
[ 参考 ]
緑地の減少というのは、わかりにくいかもしれないので、例を示す。
東京というのは、今ではどこもかも建物だらけだが、百年前はそうではなかった。漱石の小説などを読むとわかるが、渋谷から駒場までは、森だらけだった。その他、大きな町(渋谷など)を除いて、たいていのところは森だらけだった。簡単に言えば、「どこもかも明治神宮みたいだった」と思えばいい。道以外はすべて樹木だらけ。ところどころに人家があって、しばらくすると町にたどり着く、というわけ。人口からして、現在よりもはるかに少なかった。
要するに、当時の東京は森だらけだった。それが百年もたたずして、建物だらけになってしまって、さらには高層ビルが林立するようになったわけだ。
同様のことは、関東一円に成立する。丹沢の山に登るとわかるが、山のふもとまで人家が迫ってきている。「平地はすべて建物だらけ」という感じだ。
とにかく、日本ではこの百年に、急激に緑地が減少してきた。そして、それと同じことは、数十年遅れで、アジア各地で起こってきた。人口は信じられないほど急増し、緑地は大幅に減少していった。……にもかかわらず、そういうことをほとんど無視して、「炭酸ガス」だけに注目するのが、主流派だ。
彼らは環境というものをまったく理解していない。そういう連中が「エコ」を口にするのだから、ちゃんちゃらおかしくて、ヘソで茶を沸かす。(これならエコかも。 (^^); )