風知草

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風知草:総辞職の「常道」に返れ=専門編集委員・山田孝男

 伊東正義という政治家がいた。絶体絶命の自民党の総裁に推され、「本の表紙だけ替えて中身は変わっていないということではダメだ」とはねつけた。リクルート事件で竹下登内閣が倒れた直後、1989年5月9日の記者会見でそう言った。伊東は総務会長だった。

 当時75歳。外相、官房長官を歴任した清廉、重厚、練達の伊東は後継総裁の本命だった。主流派は伊東を弾よけにして急場をしのぎ、実権を握り続けようとした。それと見抜いた伊東は会津(福島県)人らしくガンとして拒み通し、世間はその意地と無欲に感嘆した。

 伊東の固辞でおはちが回ってきた宇野宗佑はスキャンダルとともに滅んだ。推されるままに引き受けて不名誉な退陣を強いられ、忘れ去られた首相は多い。ただ一人、伊東だけが「やらんと言ったらやらん」と突っ張り抜き、忘れがたい政治家として人々の心に残った。

 自民党が性懲りもなく表紙の描き替えを探る今、伊東の遺徳をかみしめる意義はある。ポスト麻生10候補とやらの品定めにふける自民党議員は猛省が必要だ。楽屋事情による通算4度目の首相の首のすげ替えなど許されるはずがない。

 なるほど、麻生太郎総裁では選挙になるまい。麻生自身の失策が多いうえ、盟友にして柱石である財務・金融担当相の行状がひどすぎた。ここまで落ちれば総辞職しかない。

 男子の普通選挙法が施行され、政党政治が確立した昭和の初め以来、政権党は、行き詰まれば野党第1党にバトンタッチすることを慣例とした。これを「憲政の常道」という。

 1927(昭和2)年、台湾銀行救済に失敗した若槻礼次郎内閣(憲政会)から田中義一内閣(政友会)への交代がそうだった。29(昭和4)年、関東軍が仕掛けた張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件の処理で天皇の信任を失った田中から浜口雄幸内閣(民政党)へのリレーもそうだ。

 テロの凶弾に倒れた浜口のリリーフ・若槻が、世界恐慌の深化と満州事変をめぐる閣内不統一で犬養毅内閣(政友会)に代わった31(昭和6)年政変も同じ。5・15事件で倒れた犬養の後継・斎藤実(まこと)内閣の基盤は政友会だ。34(昭和9)年、帝人事件で斎藤内閣が退陣した後は民政党を中心とする岡田啓介内閣が誕生した。

 2・26事件から戦中・戦後の混乱を経て47(昭和22)年には社会、民主、国民協同の3党連立内閣ができた。首相は社会党の片山哲だが、内紛で行き詰まり、民主党の芦田均に代わった。ここは連立政権内部の持ち回りだが、48(昭和23)年、芦田は昭電疑獄で総辞職し、野党第1党・民主自由党の吉田茂が組閣している。

 行き詰まれば野党にバトンタッチ--。これが日本の議会政治の伝統だった。バトンを受け取る野党は衆院の過半数を持たないから新内閣は不安定になる。だから新首相は政策と布陣を示して速やかに解散し、国民の信を問う。たいていは過半数を得て信任され、安定飛行へ入っていくのである。

 現代人がこういう感覚を持てないのは、55(昭和30)年にできた自民党が成功し過ぎて万年与党化し、派閥トップによる首相の持ち回りが常態になったからだ。が、いまの自民党は人材雲のごとき往年の自民党ではない。表紙の描き替えを拒む侍がいたフトコロ深き大政党ではない。結党以前の原則に返り、鍛え直すしかない。(敬称略)(毎週月曜日掲載)

毎日新聞 2009年2月23日 東京朝刊

 

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