列王記上19:1-18
 
 

『わたし独りだけが』
 
 





この18, 19章は、1人の働き人の栄光と挫折を、そして挫折からの回復を物語ります。預言者エリヤは、他に並ぶ者がないほどの飛びぬけて偉大な働き人でした。あの彼こそ、ピカイチのナンバーワンでした。18章の彼は断固として立ち、自信にあふれ、得意の絶頂にありました。彼の国の王も王妃も、神ではないものを神として崇め、主の預言者たちを次々と殺しました。多くの人々もまた心をさまよわせました。山の上でエリヤはバアルに仕える450人の預言者たちにたった一人で立ち向かい、彼らを打ち破りました。さすがはエリヤです。「私こそは」と彼自身も思い、鼻高々でした。
 19:1-3。その偉大で立派で揺るぎないはずのあの彼が、どうして性悪の王妃イザベルが一言脅かしただけで、ブルブル恐れ、あわてて逃げ出したのでしょうか。18章の偉大で勇敢な彼とはまったく別人のようですね。でも僕は別に、不思議とも何とも思いません。僕自身のいつもの醜態も含めて、そんなことは日常茶飯事だったじゃないですか。これが普通です。得意満面で鼻高々だった者が、次の日には卑屈にいじけている。「大丈夫。何の心配もない」と自信たっぷりに太鼓判を押した者が、ほんの数時間後には「もうダメだ」と頭を抱えて絶望している。「大好きよ。死んでも離れないわ」と熱烈に愛しあった者たちが数日後には「もう顔も見たくない」とそっぽを向いている。エリヤは絶望し、なにもかも嫌になって死を願います。「主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」(4節)。先祖に勝る者ではない? 彼は何を寝ぼけているのでしょう。まるで信仰のない人のような眼差しではありませんか。彼の得意と絶望の中身が、ここにあります。今あの彼は、先祖に勝る者ではないと絶望しているのですし、ほんの少し前には、「同僚たちや先輩や先祖たちよりも自分の方が多少は勝っている」と得意になっていたのです。やっぱりなあ。なるほど。そうであれば、鼻高々になることも、かと思うとてのひらを返したようにすぐに絶望してしまうことも、あまりに簡単。上がったり下がったり右に転がったり左に転がったり、吹く風のようにコロコロコロコロ移り変わってゆくのも、それは当然です。「救われたのは、ただ恵みによった」(エフェソ2:4)と聖書に書いてあります。ノア、アブラハム、モーセ、ダビデもそうだったし、エリヤもそうだったし、私たち全員がそうでした。「正しい者も悟る者も1人もいない」とパウロは自分自身のことも含めて深く了解したのです(ローマ3:9-)。例外は、ただの1人もいませんでした。それなのに、先祖に勝る者ではない? どんな立派な大きくて偉大な信仰者がいたというのでしょう。そうではありません。ただ、大きな神さまがいてくださったのです。
 そう言えば、主の弟子ペトロもまた、「私こそは」という人でした。十字架につけられる前夜、主イエスは弟子たち皆がつまずくと予告していました。するとペトロは断固として言い張りました、「いいえ。たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。彼の自負と決心は、しかし、ほんの数時間で砕け散りました(ルカ22:33,54-)。これらの痛ましい報告は、もちろん、ここにいるこの私たちのためにあります。そう、あの彼らも私たちも、ごく普通のどこにでもいるような生身の人間に過ぎないのですから。こう質問したいのです。あなたは、どこにどうやって立っているのか。何を拠り所とし、何を頼みの綱として生きるあなたであるのかと。
 5-8節は、神の山ホレブへの旅路です。別名シナイ山とも呼ばれたこの山は、かつてモーセが神と出会った場所でした。よかった。彼は、ただ闇雲に逃げ出したのではなかったのです。すっかり絶望し、支えと拠り所を見失った彼は、改めて神と出会いたいと切望しました。神の語りかけを今こそぜひとも聞きたい、聞き届けたいと。失意の只中で、彼は神へと向かいます。ふたたび立ち上がるために、ふたたび揺るぎなく確固として立って歩き出すために。私たちもそうです。ガッカリして失望するとき、弱り果てるとき、心を惑わせ希望も支えも見出せない日々に、けれどもそこで、帰ってゆける場所を私たちは持っています。そこで神に向かい、その悩みの只中で祈り求め、目を凝らし、神の語りかけを聞き届けたいと切望する――そこで神へと向かう。だから、私たちはキリスト者なのです。キリスト者であることの中身は、〈そこで、なにしろ神へと向かう〉ことの中にあり、キリスト者であることの慰めも希望も確かさも、〈そこで神へと向かう〉中でこそ差し出され、受け取られます。7節。その旅路の長さや困難さを、私たちの弱さを、ちゃんとよくよく分かってくださる主です。神の山ホレブへ向かう旅はとても長く、困難をきわめます。私たちには耐え難いと、あわれみの主は知っていてくださいます。だからこそ、「起きて食べなさい。私の与える糧によって立ち上がりなさい。私の与える糧によって力を得、それによってこそ歩みなさい。歩み通しなさい」と主は備えていてくださいます。神の民イスラエルに対しても、エリヤやペトロに対しても、また私たち1人1人に対しても。
  9-10, 13-14節です。神と出会い、神さまの語りかけを聴きます。不思議なことに、神とエリヤは同じ問答を2度繰り返しています。「ここで何をしているのか」と問う神。「わたしは情熱を傾けて主に仕えてきました。人々はあなたとの契約を捨てました。わたし独りだけが残り、しかし、わたしの命も狙われています」と答える彼。(1)すべてを知っておられる神がわざわざ問うとき、それは神ご自身のための質問ではなく、その人のための質問です。ぜひとも気づくべき根本の事柄が問われています。「ここで何をしているのか。何のつもりでここにいるのか」。どこにどう立っているのかを、あなたは気づいているのか。あなたが踏みしめているその足もとをよく見てみなさいと。(2)「わたし独りだけが」;これが彼の責任感であり、自負であり誇りでした。これまで彼を支えていたものが、けれど今、逆に彼を苦しめています。独りだけであることが今では彼の重荷となり、絶望の原因ともなっています。だって、<独りで背負っている。わたし独りで担っている>と勘違いしています。あなたの神はどこで何をしているのか。神こそが第一に先頭を切って働き、神こそが担い、背負ってくださっているのではなかったのか。
 主の語りかけを、彼は聞きます。山を裂くほどの激しい風。しかし、この中には神はおられない。次に地震。炎。けれど、その中にも神はおられない。静かにささやく声によってこそ、神さまは語りかけます。何でしょう。私たちはもしかしたら、驚くような強烈で劇的な語りかけや、目の覚めるような感動的で鮮やかな語りかけを望んでいたのかも知れません。激しい風や地震や炎によって語りかけてもらいたい。けれども神を知る者は、日常的なごく普通の事柄の中に神の歩む足音を聞き届けます。いつもの普通の生活の只中で、そこでこそ神さまと出会い、神さまご自身の働きを知ります。讃美歌497番は「騒がしき世の巷(ちまた)に我を忘れていそしむ間も、細き御声を聞き分けうる静けき心、与えたまえ」と歌います。我を忘れて夢中になって「私があれをして、これもして」と必死に働くときに、私の耳には誰の声も届きません。神さまからの語りかけさえ、まったく耳に入りません。
 何が語られていたでしょうか。例えばあのペトロは、自負心も使命感もこなごなに砕かれ、涙を流して逃げ去り、やがて復活の主によって再び抱きかかえられました。自分自身の弱さと破れをつくづくと痛感させられ、誰のどんな強さや揺るぎなさにも頼ることなどできないとよくよく思い知らされた者たちは、そこで初めて、そこでようやく、主の強さと主ご自身の揺るぎなさに頼る者とされました。主なる神の恵みとゆるしのもとに立つことは、かなり難しいことです。弱く小さな者だけが、自分自身の弱さも破れもゆるしていただいた者こそが、そこに立ちます。ゆるされた罪人こそが、その喜びと感謝によって、そこに立ちます。
 
 15-18節には、思ってもみなかった驚くべき結末が用意されていました。神さまからの答えです、「あなたに代えて、ハザエルとイエフとエリシャを、私自身が立てる」。エリヤに対しても他のどの働き人に対しても、私たちの神はこうおっしゃるのです、『自分がいなければ成り立たない、とでも思っていたのか。この自分次第であり、自分の肩にすべてがかかっている、とでも思っていたのか。あなたは神ではなく、人間にすぎない。神である私こそが担う。神こそが、最初から最後までを、全責任を負って働く。だから、あなたは退いて休みなさい』。
あなたは退いて休め。なんと厳しい答えでしょう。また同時に、なんと恵み深い、嬉しい答えでしょうか。私たちは高ぶりと独りよがりを木っ端微塵に打ち砕かれ、そこでようやく〈主の恵みのもとに仕える働き人〉としてスタート・ラインに立ちます。ハザエルの剣を逃れた者をイエフが、イエフの剣を逃れた者をエリシャが。エリシャの剣を逃れる者が何百人、何千人いても、ちっとも困らない。もちろん彼らもまた生身の人間にすぎず、ハザエルの働きもイエフとエリシャの働きも決して十分なものではないでしょう。私たちそれぞれもまったくそうであるように。それでいいのです。それぞれに部分的な、一時的な働きをゆだねられ、ゆだねられた分を果たしてゆくのです。しかも、主の恵みとゆるしのもとに立つ7000人で。神の業、神の教会の働きは、リレー競争のようなものです。全部を私独りだけで走りきるのではありません。独りきりで担うのではありません。この私も、この喜ばしい光栄な務めのバトンを兄弟から手渡されました。私も一途に精一杯に走り、喜ばしくひとときを担い、やがて定められた時に次の兄弟へとバトンを手渡します。その兄弟もまた一途に精一杯に走り、喜ばしくひとときを担い、やがて定められた時に次の兄弟へとバトンを手渡すでしょう。リレーは、主ご自身のものであるこの事業は決して途切れません。ほんの一瞬たりとも滞りません。それを、私たちは信じます。私たちはキリスト者です。
 「務めを解く。退いて休め」と命じられたエリヤは、なおしばらく務めに留まり、エリシャという人を自分の弟子として育てはじめます。つまり、退いて休むための彼の新しい働きがここから始まってゆくのです(列王記上19:19-下2:18)。今までの彼とは違うまったく新しい働き人がここに誕生しています。やがて時が来て、私たちもそれぞれに自分の務めを次の者に手渡して退いてゆきます。ご覧なさい。目の前に、あなたのためのエリシャがおり、私のためのハザエルとイエフがいます。どんなふうに仕事の引継ぎをしましょう。腹に据えておくべき心得と重要事項を次の者たちにどんなふうに伝えてあげましょうか。「・・・・・・いいかい、エリシャ。よくお聞き。お前はもしかしたら私を尊敬し、信頼を寄せてくれているかも知れない。『ご立派な偉い方で、私なんかはとてもとても恐れ多くて』などと間違って思い込まされているかも知れない。騙されちゃいけない。尊敬も信頼もほどほどにしておいたほうがいい。だって私もお前も神ではなく、神の代理人でもなく、生身の人間にすぎないのだから。人間への尊敬や信頼や讃美が神ご自身に寄せるべき尊敬や信頼や讃美を曇らせてしまうようでは困る。とてもとても困る。人間を思い煩うあまりに神を思う暇が少しもなくなってしまってはならない。それが、サタンのいつもの策略なのだから(マタイ16:23)。分かるかな。かつて私がカルメル山のてっぺんで輝かしい大勝利を収めたように、やがてお前も立派な仕事を成し遂げ、得意になって鼻高々になるかも知れない。かつて私が悪い王妃イザベルに脅かされて怯えてすくみあがったように、やがてお前も、中くらいのイザベルや小さなイザベルに脅かされて、ガタガタ震え夜も眠れなくなるかも知れない。それは有りうる。鼻高々の日々にも、『私こそが』とうぬぼれてはいけない。恐れてガッカリする日々にも『私独りだけが』などと心を曇らせてはいけない。だってエリシャよ、私たちはごく普通の生身の無力で愚かな人間たちなのだ。ほんのちょっとずつ務めを担って働くのだ。神ご自身の働きのごく一部分を、ほんのひとときずつ、担わせていただいている。しかも、私やお前の肩にすべてがかかっているわけではない。バアルに膝を屈めない7000人の仲間たちと共に、いやいや、それよりも神ご自身こそが第一に、先頭を切って、全面的に生きて働いてくださっている。私のエリシャよ。よく覚え、よくよく弁えておきなさい。それさえ分かれば、お前は安心して晴れ晴れして働くことができ、休むことができ、進むことも退くこともできるだろう。悪い王妃イザベルが100人来ようが1000人で脅かしても、私たちはもうビクともしないだろう」。


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