妊娠したという喜びの絶頂から、一転して奈落の底―。その悲しみは想像を絶するものがある。
香川県立中央病院(高松市)で昨年九月、不妊治療を受けた二十代女性が、誤って別の受精卵を移植された疑いがあり、妊娠九週目に人工中絶という苦渋の決断をした。男性医師の初歩的なミスが深刻な事故を招いてしまった。
体外受精児は年間二万人近くが生まれ、新生児の六十人に一人以上を占めるまでになっている。それだけに、この事故を医師個人や一施設の問題としてはならない。取り違えを防ぐための指針づくりを急ぎ、不妊治療の施設全体で共有する必要がある。
卵子と精子を受精させて子宮に戻す体外受精は、受精卵の培養が必要だ。医師は受精卵が入った複数の容器(シャーレ)を作業台に並べ発育状況を確認した際、台の上にあった別の患者の容器を誤って取り違えたとされる。
医師は二組の受精卵を同じ作業台で取り扱っていた。しかも一人で作業し、ほかの医療スタッフによるチェックの態勢もなかった。約千例の体外受精を実施してきたベテラン医師で、安全意識のゆるみが事故を招いたといえよう。
同病院は不妊治療マニュアルは以前からあったが、ミスを防ぐための仕組みは含まれていなかった。今回のケースを受けて、複数のスタッフによる相互チェック態勢の構築や、培養容器の識別方法の改善などを盛り込んだ。
受精卵の取り違えはほかにも二〇〇〇年、石川県内の医院で発覚。〇二年には愛知県の病院で人工授精時に夫以外の精液を女性に誤って注入する事故があった。いずれも妊娠はしなかった。
だが、不妊治療の現場では事故寸前のミスも少なくないようだ。蔵本ウイメンズクリニック(福岡市)が昨年、全国の不妊治療施設を対象に調査し、その実態が明らかになった。回答のあった百十四施設のうち、受精卵の取り違えや複数の精子混合などの事故を「身近に感じたことがある」とした施設は49%を占めた。ところが、防止マニュアルを整備していない施設は76%にも上った。
女性の社会進出に伴う晩婚化などもあって、不妊に悩むカップルは増えている。それに対応して、不妊治療に熱心なのは、大病院でなく小規模なクリニックである。多くの公立、大学病院は人手不足の上、受精や培養の専門技術を持った培養士が少ないことから必要な態勢が組めないのが実情だ。
国内の体外受精の実施施設は五百を超える。安全向上の取り組みは遅れ、個々の施設の努力に委ねられている。厚生労働省や学会も定期的な調査で実情を把握し、事故情報や安全対策を共有できるようにすべきである。
不妊治療は、高額な医療費だけでなく女性の心身に大きな負担がかかる。少子化対策が国の重要な施策であるならば、不妊治療に対する十分な助成や、安全マニュアルづくりに積極的にかかわっていく必要があろう。
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