1ドル70円台の日本経済:三橋貴明(作家)(1)
超円高で経済破綻?
「79円50銭です! 79円50銭を付けました。史上最高値が、ついに更新されました!……繰り返します。ロンドン市場で、円が1ドル79円50銭まで買い進められ、1995年に付けた円の最高値79円75銭を上回りました。95年以来、じつに14年ぶりに円相場が最高値を更新したのです! 昨年から予想されていたように、超円高時代の到来です!」
雨はいまも降りつづいている。
7月に入ったにもかかわらず、長梅雨は一向に終わる気配を見せない。
最近の新聞やテレビでは、契約を打ち切られた派遣社員の話題で持ち切りである。明日はわが身だ。中堅クラスの商社に勤めて、はや30年になろうとする自分だ。この年で解雇などされると、さすがに再就職もままならないだろう。
梅雨が重い。湿気を帯びた空気が全身に纏わり付いてくる感触に、山本は2度、3度、何かを振り払う動作を見せた。
「ただいま……」
口元から漏れ出た声があまりにもうつろに響き、山本はわが事ながら思わず皮肉な笑みを浮かべたものである。それほどの疲労は感じないのだが、声色はごまかせない。
玄関脇の傘立てに重さを増した傘を突っ込み、顔を上げると、リビングの扉から薄明かりが漏れ出ているのが見えた。
(……帰っていたのか)
山本は口元に歪んだ笑みを張り付かせたまま、リビングルームへと足を向けた。
「あ、父さん。お帰り!」
50インチを優に超える大画面液晶テレビから目を離さずに、息子の和仁が声だけで出迎えてくれた。その口調は若者特有の快活さに満ちていて、山本の眉間に微妙に皺が寄った。
大学に入学したばかりの息子は、いつも陽気な態度を崩さない。むろん陰鬱な顔ばかり見せられるよりはマシだが、日々の仕事で気が休まる暇がない身としては、いささか忌々しく感じるのも確かだ。
5年ほど前に妻に先立たれ、いまは息子と2人暮らしの父子家庭だ。山本はソファに乱暴にビジネスバッグを放り出すと、何げなくテレビに目を向けた。
瞬間、山本は背筋が凍りつく思いを味わったのである。画面の上部に「79円50銭!」と極太のテロップが浮かび上がり、中年の脂顔の男がヒステリックな口調で繰り返している。
「79円50銭です! 史上最高値が更新されました!」
この脂顔のアナウンサーの名前は、たしか古林といったか。悲観的なニュースを嬉しそうに語るそのスタイルが、山本は個人的に大嫌いだった。
「超円高時代到来か……」
山本は搾り出すように呟き、続けようとした。これで日本経済はおしまいだ、と。
ところが山本の台詞は、妙に明るい口調の息子に遮られてしまったのである。
「良かったね、父さん」
「な……」
唖然とする父親に向き直り、和仁は目を輝かせながら続ける。心の底から嬉しがっている表情である。
「通学にバイクを使っていると、やっぱりガソリン代がきついんだよねぇ。これだけ円高になれば、ガソリンの値段もそうとう下がるはずだよね」
「あのな、和仁……」
山本は声音が荒々しさを帯びないように、注意深く語り掛けた。未成年とはいえ、自分の息子がここまで世間知らずだと、さすがに腹立たしい。
「79円50銭です! 79円50銭を付けました。史上最高値が、ついに更新されました!……繰り返します。ロンドン市場で、円が1ドル79円50銭まで買い進められ、1995年に付けた円の最高値79円75銭を上回りました。95年以来、じつに14年ぶりに円相場が最高値を更新したのです! 昨年から予想されていたように、超円高時代の到来です!」
雨はいまも降りつづいている。
7月に入ったにもかかわらず、長梅雨は一向に終わる気配を見せない。
最近の新聞やテレビでは、契約を打ち切られた派遣社員の話題で持ち切りである。明日はわが身だ。中堅クラスの商社に勤めて、はや30年になろうとする自分だ。この年で解雇などされると、さすがに再就職もままならないだろう。
梅雨が重い。湿気を帯びた空気が全身に纏わり付いてくる感触に、山本は2度、3度、何かを振り払う動作を見せた。
「ただいま……」
口元から漏れ出た声があまりにもうつろに響き、山本はわが事ながら思わず皮肉な笑みを浮かべたものである。それほどの疲労は感じないのだが、声色はごまかせない。
玄関脇の傘立てに重さを増した傘を突っ込み、顔を上げると、リビングの扉から薄明かりが漏れ出ているのが見えた。
(……帰っていたのか)
山本は口元に歪んだ笑みを張り付かせたまま、リビングルームへと足を向けた。
「あ、父さん。お帰り!」
50インチを優に超える大画面液晶テレビから目を離さずに、息子の和仁が声だけで出迎えてくれた。その口調は若者特有の快活さに満ちていて、山本の眉間に微妙に皺が寄った。
大学に入学したばかりの息子は、いつも陽気な態度を崩さない。むろん陰鬱な顔ばかり見せられるよりはマシだが、日々の仕事で気が休まる暇がない身としては、いささか忌々しく感じるのも確かだ。
5年ほど前に妻に先立たれ、いまは息子と2人暮らしの父子家庭だ。山本はソファに乱暴にビジネスバッグを放り出すと、何げなくテレビに目を向けた。
瞬間、山本は背筋が凍りつく思いを味わったのである。画面の上部に「79円50銭!」と極太のテロップが浮かび上がり、中年の脂顔の男がヒステリックな口調で繰り返している。
「79円50銭です! 史上最高値が更新されました!」
この脂顔のアナウンサーの名前は、たしか古林といったか。悲観的なニュースを嬉しそうに語るそのスタイルが、山本は個人的に大嫌いだった。
「超円高時代到来か……」
山本は搾り出すように呟き、続けようとした。これで日本経済はおしまいだ、と。
ところが山本の台詞は、妙に明るい口調の息子に遮られてしまったのである。
「良かったね、父さん」
「な……」
唖然とする父親に向き直り、和仁は目を輝かせながら続ける。心の底から嬉しがっている表情である。
「通学にバイクを使っていると、やっぱりガソリン代がきついんだよねぇ。これだけ円高になれば、ガソリンの値段もそうとう下がるはずだよね」
「あのな、和仁……」
山本は声音が荒々しさを帯びないように、注意深く語り掛けた。未成年とはいえ、自分の息子がここまで世間知らずだと、さすがに腹立たしい。
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月刊誌『Voice』は、昭和52年12月の創刊以来、激しく揺れ動く現代社会のさまざまな問題を幅広くとりあげ、つねに新鮮な視点と確かなビジョンを提起する総合誌です。
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