《展覧会の見どころ》
●3人の修行時代 −豊国・豊広への入門−
役者絵の世界で絶大な人気を誇った初代歌川豊国と、美人画や版本の挿絵などで名を成した歌川豊広。国貞・国芳・広重3人の画業は、歌川派の2人の絵師に入門することから始まります。国貞と国芳は初代歌川豊国の門下となり、広重も初代豊国の門を叩きますが、定員オーバーのため断られ、豊広への入門を決めたといわれています。
本コーナーでは、初代豊国、豊広という師匠のもとで修行に励んだ、3人の文化文政年間(1804〜1830)の作品を中心に展示いたします。国貞筆「さかい町 中村座楽屋之図」(3枚続)、広重筆「青野ヶ原ニ熊坂手下ヲ集ム」(3枚続)など、まだ独自の画風を確立する前の、3人の作品にご注目ください。
●師匠の死 −それぞれの画風の展開−
文政8年(1825)には初代豊国が、文政12年(1829)には豊広が相次いで亡くなります。国貞・国芳・広重にとって師匠の死が、絵師としての心構えや、表現の方向性を決めさせる重要な転機となったことは想像に難くありません。すでに人気の絵師となっていた国貞は初代豊国の死後、「香蝶楼」という新しい号を用いだし、精力的に作品を発表します。国芳は、文政10年(1827)頃から手がけた武者絵が人気を呼び、ようやく絵師として軌道に乗り始めました。広重は豊広の死後、天保初期に名所絵「東都名所」を発表、すぐ後に代表作「東海道五拾三次之内」を手がけ、風景画家としての道を歩み始めます。
本コーナーでは、国芳筆「近江の国の勇婦於兼」、広重筆「東海道五拾三次之内 三島」など、師匠亡き後、3人が独自の画風を展開する天保年間(1830〜44)の作品を中心にご紹介します。
●天保の改革 −浮世絵への統制−
老中水野忠邦によって行われた江戸時代の3大改革の一つ、天保の改革。天保の改革は、歌舞伎や寄席など、文化への厳しい規制や弾圧で知られますが、浮世絵にもその矛先は向けられました。天保13年(1842)6月に出された出版統制令では、遊女を題材とすることや、歌舞伎役者の似顔、名前、紋などを浮世絵に描くことが禁じられます。浮世絵師たちは苦境に立たされますが、画題を変え、あるいはカムフラージュし、浮世絵の出版は続けられました。
本コーナーでは、国貞筆「歳暮の深雪」、国芳筆「盤上太平棊」など、天保の改革による出版統制がもっとも厳しかった、天保14年から弘化年間(1843〜1848)頃の作品を中心に展示いたします。
●浮世絵師としての大成 −幕末歌川派の栄華−
天保の改革のほとぼりが徐々に冷めてくるのにあわせ、3人はそれぞれの分野で精力的に作品を発表し、浮世絵師として大成していきます。国貞は弘化年間初めに豊国の号を襲名し(三代豊国)、名実ともに歌川派の総帥の座につきました。国芳は、戯画などを数多く手がけ、個性的な作風で人気を呼びます。広重は、名所絵の大家としての地歩を固め、晩年にはその集大成とも言える「名所江戸百景」を手がけました。
本コーナーでは、国芳筆「人かたまつて人になる」、広重筆「名所江戸百景 鎧の渡し 小網町」など、3人が歌川派を、そして浮世絵を代表する大家となっていく弘化年間(1844〜1848)からその死までの作品を中心に展示いたします。
●三代豊国のライフワーク -「嘉無路喜久(かむろぎく)」と晩年の役者大首絵-
50年以上に渡って役者絵を描き続けた絵師、国貞(三代豊国)。その役者絵への情熱は晩年になっても衰えず、数十枚に及ぶ役者絵大首絵のシリーズものを精力的に手がけます。
また晩年の三代豊国が、豪商八代目紀伊国屋長三郎をパトロンとし、版元恵比寿屋庄七(えびすやしょうしち)とともに深い交流を結び、役者大首絵などの作品を数多く制作していたという興味深い事実が、近年の研究で明らかになりつつあります。そして、太田記念美術館に所蔵される「嘉無路喜久(かむろぎく)」という役者大首絵の下絵集が、その交流の一端を示す新資料であることが最近明らかとなりました。
本コーナーでは、「嘉無路喜久」を展示するほか、当期の役者大首絵として、東海道の各宿場を背景に役者を描いた「役者東海道」シリーズなどの作品をご紹介いたします。 |