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2009-02-18 22:36:27 stanford2008の投稿

桜井淳所長から東大大学院人文社会系研究科のH先生への質問 -神学研究の方法 17-

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H先生



仏教の創始者は、いわゆる、釈迦ですが、この釈迦というのは、氏名ではなく、生まれたのがインドの北東のネパールという小さな国の釈迦族(しかも、王子として生まれる)であったため、そのように、ただ、漠然と表現しているだけで、本当の氏名は、ゴータマ・シッダグールタです。小さな国でも、王子ですから、普通のひとに比べれば、大変、贅沢な、恵まれた生活をしておりました。釈迦は、普通に、16歳で、結婚して、子供がひとりおりました。しかし、何が原因か分かりませんが、29歳(19歳の時という説もあります、たとえば、『梅原猛著作集第9巻-三人の祖師-』(小学館、2002))の時、ある日、突然、奥さんと子供を捨てて、出家してしまいました。王子として、恵まれた生活を送っていたのでしょうが、世の中の貧しく、恵まれないひとたちの生活等を見て、世の中の矛盾を感じて、それで、むなしくなり、耐えられず、出家してしまったのでしょう。出家して6年間、悟りを開くために、苦行に苦行を続けました。しかし、なかなか悟りが開けませんでした。ある日、菩提樹の下で瞑想している時、そこで初めて悟りを開いたと言われております。釈迦が35歳の時でした。それは並の人間にはできない速さです。ところが、悟りを開いても、誰も見向きもしないため、釈迦は、苦行を続けていた5名の仲間に、自身の説(狭義には仏教哲学ですが、広義には哲学)を話してみました。すると、5名の仲間は、すごく感激して、弟子にしてくれと頼んできました。それが釈迦の説法の始まりでした。釈迦は、自信を得て、それ以後、インダス河の流域のあちらこちらで説法を繰り返しました。釈迦は、一時期、立派なお寺で生活しておりましたが、そこでの安定した生活にも満足せず、乞食をしながら、露命をつないで布教し、説法の旅を続けていたというのが釈迦の人生でした(いまでもまだ正確なことは、分かっておりませんが、約80歳で亡くなっているとされています)。釈迦の悟りと説法の過程を認識し、私は、いささか僭越ですが、自身の学術セミナーも釈迦の説法と同じような発展の過程をたどっていると感じたものです。最初は頭の中の世界、つぎに、周りの何人かの研究者に聞いていただき、小さな小さなセミナーを開催して、話してみる。それを繰り返す。すると、よいうわさが流れ、ひとが集まるようになってくる。学術セミナーのレクチャ内容を充実させ、募集人員も多くする。学術セミナーは、ひとつだけでなく、ひとつひとつ増やして、同様の試行錯誤をくり返す。そして、いまでは、連続5時間半の12種の学術セミナーを開催するに至り、セミナーで組み上げたオリジナルな概念は、日本原子力学会論文誌や関係国際会議、日本原子力学会研究専門委員会等の成果報告書、大学生用教科書等の形で発表してきており、全部で約20編になります。最初はただひとりなのです。私は、物事の本質を悟るために、積極的に苦行をくり返し、十分に耐えることができました。



桜井淳

2009-02-18 14:43:52 stanford2008の投稿

桜井淳所長から東大大学院人文社会系研究科のH先生への質問 -神学研究の方法 16-

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H先生



東大大学院人文社会系研究科博士課程修了者(宗教学専攻)の中にはきわめて優秀な研究者がおります。私は多くの研究者を知っております。優秀であるか否かの判断根拠をどこに置くかは、単純ではなく、なかなか難しい問題になります。(1)ひとつの判断基準は、関係学会で口頭発表したり、関係学術研究会で研究発表したり、大学の紀要や学会の論文誌に"原著論文"を発表したり、さらに、体系化して、研究・学術書として発表したりというふうに、学界内で学術的検証のプロセスを経ていることです。(2)もうひとつは、決して、(1)を軽く考えているわけではないでしょうが、学界での学術的検証よりも、むしろ、頭に描いた独創的なアイディアを短時間でそのまま世の中に発表することに重きを置くことです。(2)の方法の具体例としては、多くのひとたちが見聞するマスコミでの発表に重きを置いておりますが、そのようなものは、社会科学の分野では、(1)と明確に区別して、学術論文とは呼ばず、"エッセー"(essay)と呼んでいます。"エッセー"と言うと、一般のひとたちには、"随筆"が頭に浮かぶと思いますが、それでもよいでしょうが、本来の意味は、"自由に書いたもの"ということで、第三者の学術的検証(査読)を経ていない解説論文や"原著論文"や著書は、すべて、エッセーに分類されています。人文社会科学の分野では、(1)だけではなく、(2)も評価対象になっています。かの有名なトーマス・サミュエル・クーン『科学革命の構造』(中山茂訳、みすず書房)も、クーンが序論に記しているとおり、"エッセー"です。歴史的に話題になった"エッセー"の中には、(1)の判断基準に劣らないどころか、はるかに優る研究成果物も存在するため、研究評価の判断基準は、単純に、機械的に、分類されたり、位置づけられたりするものではないでしょう。要は、その物を高く評価してくれるひとが存在するか否かだけです。誰かが"くだらない"と言っても、他のひとが高く評価すれば、それで済むことですから・・・・・・。私の記憶に拠れば、東大大学院人文社会系研究科博士課程修了者(宗教学専攻)の中で(2)で社会に強烈なインパクトを与えた宗教哲学研究者のひりは中沢新一先生(現在、多摩美術大教授)ではないでしょうか。おそらく、先生と同世代か、わずかに、上くらいの年齢ではないかと思います。あるいはゼミ等をとおして、何度も顔をあわせ、議論していたかもしれません。中沢先生のことで思い出すことは1987-88年にかけての東大教養学部での人事問題(当時、東京外大助手で、『チベットのモーツアルト』の著書が話題になっていた中沢先生を東大教養学部社会系の一部の先生方が教養部の助教授に推薦する人事案)です。この問題は、おもしろおかしく、マスコミで論じられ、揶揄されましたが、大変残念な結果になってしまい、私は、当時、心を痛めておりました。人事問題は、関係者以外、軽々しく語るものではありません。この問題については、唯一、正確な情報が公表されております。当時の教養学部長の毛利秀雄先生が東大総合文化研究科・数理科学研究科・教養学部編『駒場の50年-1949-2000-』(東大出版会、2002)の中で報告しております(同書、pp.18-23)。その記載内容をどのように解釈し、どのように受け止めるかは、意見の分かれるところでしょう。起案から選考手順まで、いろいろ紆余曲折があったかもしれませんが、私の認識では、原因はふたつあったと思います。(1)ひとつは、研究者グループの権力争い、(2)もうひとつは、東大の学問とはどのようなものであるという根源的な問題です。(1)について、昇任人事問題では、普通、事を穏やかに進めるため、関係部門内部で事前調整し、推薦者を一本化するものですが、どういうわけか、あるグループが中沢先生を推し、もうひとつの対立グループがY先生を推したため、分裂人事に進展してしまったことです。後は足の引っ張り合いの泥仕合になってしまいました。(2)について、東大では、第三者の学術的検証(査読)を経たものを評価してきましたが、中沢先生の場合、確かに話題性やオリジナリティは高いかもしれませんが、"エッセー"のレベルであったことです。人文社会科学系の研究者は、それなりの理解と評価はしたようですが、理系の研究者は、厳しい評価をしていました。昇任人事案が教授会で否決されることは、きわめて希なことですが、中沢問題とは、その希なことが起こってしまったことです。中沢先生は、東大大学院人文社会系研究科博士課程修了者(宗教学専攻)で、博士課程在学中に、チベットに行き、チベットの仏教の四大宗派のひとつに体験入信し、その成果をまとめた著書『チベットのモーツアルト』が大変話題になったため、たとえ、当時、まだ、博士学位を取得していなくても、経歴と研究歴からして、東大助教授に昇任しても、おかしくありませんが、そこは、俗な世の中、学問の評価法以前の問題として、当時、若くして流行作家並みになっていた人物に対する研究者間に働いたやっかみは、想像以上のものがあり、私は、中沢問題とは、人間の卑しい心の問題に起因していたように思えます。先生はどのように受け止めておりましたか。その後、今日まで、中沢先生には、東大への人事話は起こっておりませんが、もちろん、そのような事例は、掃いて捨てるほどあり、優秀だから東大の先生になれるわけでもなく、世の中、さまざまな要因と思惑がありますから、何とも言えませんが、中沢先生の研究が本当に歴史的に優れているのであれば、東大から評価されるはずで、そうでないならば、件の中沢問題ですべて読まれていたということになるのでしょう。



桜井淳

2009-02-17 19:20:46 stanford2008の投稿

桜井淳所長から東大大学院人文社会系研究科のH先生への質問 -神学研究の方法 15-

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H先生



これまでに、いろいろなテーマで講演してきました。最近では、意識的に、theology、すなわち、神学を掲げることもあり、自分でも、構え過ぎのように思っております。できることならば、哲学者・宗教家の梅原猛先生のように、まったく構えず、まず、印象からして、もっと、ソフトに、ふくよかに、安心感を与え、話す内容も、年齢相応の円熟味を示せ、ユーモアがあり、それでもって、話の内容に斬新さがあり、つまり、オリジナリティがあって、あるどころか、ものすごく高くて、聞くひとたちに、そのことの価値がよくわかるような話をしてみたいと念願しております。では、限られた時間内に、1時間半か、長くても、5時間半くらいで、まとまった話をするには、神学や宗教をどのように体系化して、どうしても触れなければならない話題が何なのかを考えなければならず、時間をかけて、詳細に話すのであれば、誰にでもできるようなことでも、その逆は、なかなか難しいものです。そのような迷いは誰にでもあることだと思います。私は、つぎのような内容を頭に描いており、実践しつつあります。(1)旧約聖書は、すべての基礎であり、すべてを省略することは、できないでしょう。(2)最低限、紀元前約13世紀の「モーセの十戒」の前後の神話と史的事実は、欠かせません。エジプト人とヘブライ人(ユダヤ人)の関係、その後のパレスチナ人のことも欠かせません。(3)天地創造やアダムとイブ、それに、ノアの方舟やバベルの塔は、省略してもよいでしょう。(4)そして、ここで、いきなり、新約聖書の世界に入り、イエス誕生の前後の神話と史的事実に触れます。(5)イエスをめぐるひとたちとの関係と出来事を詳細に語り、もちろん、数々のたとえ話や奇蹟等、イエスがメシア(キリスト)であることを示す数々のエピソードも欠かせません。(6)12名の弟子ついては特に詳細に語らなければなりません。(7)特に、12名の弟子を連れてエルサレムに向かう途中の出来事も重要です。さらに、続き、(8)最後の晩餐(イエスは最後の最後まで裏切り者ユダへの気配りを怠りませんでした)、(9)審判(どのような証人にたずねてもイエスの罪を証明できませんでした)、(10)十字架刑(イエスは、最後、7項目の言葉を口にしていますが、その中のひとつ、神に向かって、「父よ、彼らを赦し給え、その為すところを知らざればなり」と、実は、キリスト教の精神は、すべて、この言葉に集約されているのです)、(11)復活の話の順になります。1項目に10分かけても、すべて話すと、110分、つまり、2時間にもなってしまいます。ほんの少し話しただけで2時間にもなります。2時間では話の要約にもなりません。実際には、旧約聖書と新約聖書の話だけではなく、各項目の関係するところでは、釈尊(お釈迦様)や仏教、それから、日本の仏教について、私の場合には、特に、空海の教えと人生についても、触れることにしています。実際には、2時間では収まらず、その二倍から三倍もかかるでしょう。先生ならどのようなところにウェイトを置いてお話になりますか。



桜井淳

2009-02-17 17:47:16 stanford2008の投稿

桜井淳所長から東大大学院人文社会系研究科のH先生への質問 -神学研究の方法 14-

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H先生



これまで、何度も何度も、くり返し、旧約聖書と新約聖書を熟読・吟味してまいりました。可能なだけ、神話であろう記載内容と史的事実の記載内容については、見極めたつもりですが、そのようなことは、しょせん、人間のすることですから、明確な見極めなどできず、厳密な言い方をすれば、聖書研究の永遠のテーマとして、「史的実証研究」と「神的権威化」のふたつの矛盾は、残ることでしょう。私は、歴史的実証として、古代ヘブライ人の行為、それから、その流れの中のユダヤ人の行為、新約聖書前のイスラエル王国の建設・崩壊、新約聖書の対象となっていたパレスチナ、新約聖書後の古代から中世をとおして、1948年のユダヤ人によるパレスチナ先住者を押しのけてのイスラエルの建国(この問題は単純な解釈では済ませません)、今日のイスラエル・パレスチナ問題を客観的に吟味してみました。しかし、第二次世界大戦時に、ドイツ(ヒトラー政権)等により、特に、ヒトラー政権によるホロコースト政策(ユダヤ人大虐殺)によって、なぜ、ユダヤ人が数百万名も殺害されたのか、その歴史的根拠と殺害根拠がまったく分かりませんでした。先生は、中東を含む国々の神学と宗教を研究しておりますが、この問題をどのように受け止めているのでしょうか。これは大変興味のある問題です。何かをやるのであれば、それに匹敵する根拠や理由があるものですが、この問題には、たとえ、旧約聖書の時代まで遡っても、その根拠と理由が見出せませんでした。いったい、ユダヤ人が何をしたというのでしょうか。



桜井淳

2009-02-17 15:52:08 stanford2008の投稿

桜井淳所長から東大大学院人文社会系研究科のH先生への質問 -神学研究の方法 13-

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H先生



誰しも数十年も生きていれば、才能のあるなしにかかわらず、また、頭の良し悪しにかかわらず、意識的に勉強しようがしまいが、特定の分野のことについて、相当の知識の蓄積があることに気づくものと思います。私も、神学や宗教についても、意識的に文献に当たるにつれ、意外と良く知っていることに驚いております。文献を当たるにつれて、犬養道子『新約聖書物語』(新潮文庫、1980)がますます光って見えます。熟読吟味していないひとたちは、何も知らないがゆえに、その書を素人の記載内容と錯覚して、否定的な評価を下していますが、実際は、そうではありません。私は、新約聖書の構造と内容を分かりやすく解説した書として、最も優れているように受け止めております。そして、いま、最も優れた研究書・解説書が、最近出版された教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著・里野泰昭訳)『ナザレのイエス』(春秋社、2008)ではないことに、止め処もない衝撃を受けております。もっとも、『ナザレのイエス』は、10冊シリーズの中の1冊であって、たった1冊によって、他の完成・訳出を待たずに、評価など下せませんが、その書の著者の立場、すなわち、キリスト教カトリック系最高峰のバチカンの教皇であることを考慮すれば、たとえ、その著の中で、そのような職位を意識して著したものではなくて個人の見解と明記していても、内容が内容だけに、容易に分離できるものではなく、最高峰の権威の認識として受け止めても、何も、不思議なことはありません。私はそのような認識で読みました。ところで、世界には、キリスト教にかかわる年中行事が、意外と多くあるものです。改めて記すまでもありませんが、最初に挙げなければならない行事は、"クリスマス"です。毎年12月25日に、イエスの生誕を祝うことになっていますが、いままでに分かっていることは、その日がイエスの誕生日ではなく(新約聖書には記載されていません)、何日が誕生日なのか、それどころか、いまでも、何年に生誕したのかさえ、紀元前6年とも4年とも推定されておりますが、本当のことは、何も分かっていません。それから、毎年10月31日に実施されている"ハロウイン"も、ペテロやパウロ等の聖人を称える万聖節前夜のキリスト教の行事です。Hallowとは、アングロサクソンの言葉で聖人を意味し、聖人の日の前夜祭All Hallows Evenが縮まって、Halloweenとなりました。"ハロウイン"が世界で最も華やかに実施されているのは米国です。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロや米国のニューオーリンズの"カーニバル"もキリスト教カトリック系の行事で、特に、前者は、盛大に、華やかに実施されることで有名です。毎年3月22日から4月25日のいずれかの日曜日に実施される"イースター"(キリスト復活祭のEasterは、東の者の意で、太陽神のこと)もキリスト教カトリック系の年中行事です。イエスは、復活祭の前の日曜日にエルサレムに入城し、その週の木曜日が最後の晩餐、金曜日が十字架刑、そして、翌日の土曜日が復活祭の前夜祭、夜を徹してキリストの復活を祝います。ところで、話は、がわりと変わりますが、いま世界で利用されている1週間が7日間の暦は、さまざまな根拠や意味がこめられているものの、私は、これまでに世の中に承認されている説明をまったく受け入れることができません。なぜ7日間なのかということです。私は、その謎を解く鍵は、旧約聖書の記載内容にあると解釈していますが、つぎにお目にかかる時に、持論を詳しくお話したいと考えておりますので、ご期待ください。



桜井淳

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