2009-01-31
イエスの型破り、型破りのイエス
マルコ福音書(1,21−28)には癒しの話しが述べられています。登場人物は「悪霊に取り付かれた」と言われた人です。イエスは彼を癒し、その病から解き放つのです。マルコの書き方は一見して奇跡物語や悪魔払いものがたりのように見えます。聖書の勉強会で取り上げるとき、はじめてその話しを聞いた者は「奇跡なんかありうるのか」、「悪魔払いなんかありうるのか」とひっかかって、奇跡も悪魔も信じられないといっても無理もないでしょう。しかし、この話しの背後にどの史実があったかと言うと、それは奇跡でも悪魔払いでもなくてもかまいません。いや、はっきり言って、奇跡を信じる必要もないし、悪魔を信じる必要ももちろんないのです。
現代なら、発作的に痙攣をおこし、手足をもがき、口から泡を吹いたりするような病気は、癲癇(epilepsy)と診断するでしょうが、当時、原因が分からない病気のことを「穢れた霊にとりつかれた」のだと人々は解釈していました。そしてその人々は差別扱いされていました。いろいろな精神病も、皮膚病も、生まれつきの身体障害も同じく差別あつかいされて、村の外へ追い出されることもありました。
どのようにイエスがこの人々を癒したのでしょうか。安心させて、自身を与えて平安を取り戻させたでしょうか。わかりません。とにかく、この話しは、イエスがその人を大切にし、癒しを必要としている人を大事にし、弱い立場にいるその人を解き放つということが言いたいのです。
福音書のほかのところでは、人を癒すイエスが言います、「あなたの信仰はあなたを救った」。つまり、イエスから、魔法使いみたいに、魔術的な力が出て人を癒すのではありません。人を癒す力は、その人自身のうちにあるのです。自分のうちにその力があると、人々には信じきれないから癒されないのです。
さらに、イエスは人を癒すのはその人を慈しむからです。自分の名誉のためではなく、お金をもうけるためではなく、自分が神だと信じさせるためではないのです。
ある日のことイエスは敵対者から言われた。「空の上に何か不思議な業を行ってみなさい、幻が現れるとか、何か常識では起こるとは考えられないような不思議なわざを行って見なさい。そうすれば私たちは信じます」。しかしイエスは断りました。十字架につけられたときまた、敵対者から言われました。「奇跡を行って十字架から降りみよ。そうやってみせてください」。しかしイエスは十字架から降りませんでした。
では、マルコ福音書のこの癒し物語の趣旨に耳を傾けましょう。
イエスは弱い立場の病人を癒します。土曜日で、安息日でした。人を縛り付ける宗教指導者たちから見れば、安息日に癒しを行ってはいけないのですが、人を解き放つ宗教を教えるイエスから見れば、安息日よりも人が大切です。だから人々がおどろいて言った「このイエスはうちの宗教指導者たちとは違う。威厳があり、権威があり、力があり、型破りです」。マルコ福音書では特に強調されるこのイエスの型破りです。
このイエスの生き方と行い方によって私たちはどのように語りかけられているのでしょうか。
具体的に私たちは現代の社会の病理に対して何ができるのでしょうか。現代なら癲癇のことを悪霊と間違えないでしょう。精神病などには薬やカウンセリングなどを進められるでしょう。しかし、現代社会の圧力によって人々が病気させられることは少なくないのです。たとえば、うつ病から過労死まで、いろいろな実例が上げられます。では、具体的に私たち、教会では、どのように人が癒されるように手助けをすることができるでしょうか。
そこに書かれている文章のある部分は事実でないけれど、そこに現われて語るイエス様だけは実在し、信じるべきだと言われることには矛盾はないでしょうか。
また、「福音書」に書かれている奇蹟や天使や悪霊の存は信じなくても良いとして、神父様は全く個人的な解釈を述べられ、他の解釈は時代遅れだと言われますが、そう断言される根拠は示して下さいません。
人間が勝手に考え出して書いた文章ではない「福音書」に記述されている内容を受け入れたうえで、さらにそこから多くの教えを導き出すのであれば、それは素晴らしいことだと思いますが、どのような分野の研究であっても、自分の主張に都合良い部分だけを取り上げて、他の記述は黙視するという姿勢には偏りがあると言えるのではないでしょうか。
「福音書」をとおして私たちが知りうるイエス様のお言葉や行動は、私たちの生き方に光を注がれるものであり、私たちの日々の出来事も、神様の御摂理によって導かれているということをそれは教えてくれます。日々の小さな出来事にも神様の御心が反映していることに気付き、感謝しながら過ごすことができるのも、「福音書」が存在するからです。そしてイエス様が人であると同時に神の第二のペルソナであられるという信仰をもって見れば、つまらぬ魔術ではない本当の奇蹟を信じることは簡単です。
「悪魔の存在」は信じても「悪魔」そのものを信じてはなりません。信じる対象は、神様だけですから。
6行目:…奇蹟や天使や悪霊の存は→…奇蹟や天使や悪霊の存在は(なぜか「在」が最終的に抜け落ちました。)
9行目:黙視→無視
11行目:光が注がれる→光を注ぐ
いつもどうもどこかにズレがあるように思えてなりません。私としてはどこか、こう、もどかしさを感じますが、
いちいちどこがどうだと挙げる熱意はなくて。
ご自分のためにも、ご自分のブログを立ち上げて、そこでご意見を披露なさってはどうかな。
あるいは、師に、直接お話を伺ってみては。
神父様と長時間お話しすることができず、私は長い時間坐っていることもできないから、体調に合わせて、家でブログを読んだり書き込んだりできるだけのことをしています。
自分でブログを立ち上げるのは、もっと体力がなければなければできません。お元気な方にはご理解いただけないのでしょうけれど…。
と、Lucia様よりは幾らかは元気であろう私は思います。私にはあのような根気の要るコメントはとても書けません。
ブログ作りには、お仲間が良いアドバイスを下さるでしょう。
私が皆さまのブログを読むようになったのは、外出もあまりできず、長時間座っていることもできない状態ながら、何かを学びたかったからです。自分でテーマを考えてブログを開き、皆さんにお答えするだけの体力は私には与えられていません。私は、与えられた能力でできるだけのことをしているだけです。
人は、誰でも、他人には理解できない、「命」と「能力」を神様から与えられているのですから、どうか推測だけで私が何をすべきかというご助言だけはご遠慮ください。心からお願いいたします。
また旅人様がお忙しくてお時間がなく、私のコメントは読みこんでいただけていないのであれば、お言葉を賜ることもご遠慮いたします。もし、しっかり読みこんだうえで、私の意見に矛盾があるとご判断くださるなら、旅人様のお考えもしっかりと学ばせて頂きますので、宜しくお願いいたします。
イエスの型破り、型破りのイエス、いいですね!まったく同感です。
>人を癒す力は、その人自身のうちにあるのです。
そうですよね。今朝の創世記でも、神さまは人を極めてよかったと言ってくださり、思わず私も「よしよし」って満足されているみ顔を想像してしまいます。潜在的に眠っている、神と人とを愛する力を引き出してくれる、その方は、まさにイエス・キリスト。泣きながらですがついていきたい・・・
すみません、上記のコメントでの会話を中断してしまうようですが、自由に書き込みできる雰囲気のように思いましたので失礼しました。
まさしく、このまえ、私自身も考えていた「宣教と癒し」に共通していると感じましたので。ではでは。
ついでながら、私はkarpos様のコメントをたいへん嬉しく思いました。
lucia様のご体調おつらいことお察しいたします。しかしながらいつもご自分のハンデをこちらに押し付けられるような息苦しさを感じております。理屈ではないのです。みなさまそれぞれいろいろ抱えておられます。
「旅人」様が私個人に向けて発言されたので、私は「旅人」様に個人としてお返事しただけです。
それをどなたもお読みになれるブログと言うものの性質上、皆様に私が自分の話を押し付けたかのように受け止められたのでしょうか。
しかし、私はただ事実を述べただけで、皆さんに私の個人的なハンディを訴えたり、押し付けたり、皆さんの同情を買う意図は毛頭ありません。
「通りすがり」さんのご意見によれば、私はどなたに何を言われてもお返事しなければ良かったのでしょうか?
「理屈ではないのです」と仰る言葉の文脈と意味が私には理解できませんでしたが、
「通りすがり」様にも、多分他の皆様にも、不愉快な思いをさせてはいけないから、これからはブログを開かないことにしようと思いますので、お返事は結構です。開けば、次々と疑問が出てきて書き込みたくなりますから。
それではこれにて皆様にはお別れいたします。大変長らくお世話になりました。
もうご本人がご覧になってない可能性の方が高いと思いますが、同種のトラブル防止を望みます。
通りすがりさんや旅人さんの書き込みが、ただ無理解だとか冷たいものとは思いませんので。
Luciaさま>
大変失礼ですが、ネット上の発言のやり取りにもう少しお慣れになった方がよろしいのでは?
ネット上の情報には不特定多数の人々がアクセス出来ます。一つの情報にも多様な感想があります。残念ですが、意図したとおりに受け取ってもらえないことも多いです。テキストの内容以上に対話の相手の表情を読みながら話す「ナマの会話」とは違うので、仕方ないことです。
これは、ブログのコメント欄や掲示板だけでなくメールでもよくあるトラブルなんです。
Luciaさまのハンディやお悩みについては、「同情」でなくて「理解」と「具体的な援助」が必要な切実さがあるものとお見受けします。
しかし、それをネット上で訴えられてもネットの住人に出来ることは「同情」止まりだと思います。冷たい言葉と思われるかも知れませんが、事実、Luciaさまとはテキスト上だけのお付き合いに過ぎませんから。
私自身も障害を持っており、テキストだけで判断できない部分を少しは補完できる部分もあります。でも、Luciaさんの本当に書きたかった・理解して欲しかったことを正確に読み取っているかは100%の自信はとても持てません。まして健常の方々だったら、もっと<実感として分からない>部分の方が大きいのでは無いでしょうか。
だから、苦しみの部分を訴えられる表現(ニュアンス)だけが目についてしまうのだと思います。
どなたも、LuciaさんやLuciaさんのご意見そのものも批判してはいません。
しかし、発信者の一人として「それを受け止める側のこともお心に留められること」も必要なのではないかと思うのです。いつか落ち着いてご考慮の出来る時間がありますように祈っております。
私にはいくつかのコメントが、Luciaさんに対する何かネット上のイジメの様に感じられて、とても悲しいです。
細かいことにこだわらないといっても、細かいことにこだわりたくなってしまうのが、ネットの恐ろしさなのです。
最も肝心なことを忘れて。
自分自身も病の身ですので、Lucia様に共感しつつも、いつもコメントを拝見しながら、ある種の苦しさを感じておりました。きちんとした主張がおありですからコメントも続けてほしいですが、合わせてご自分のブログ欄で持論を展開なさった方が、読む方も息苦しさを感じずに済むと思いました。それで旅人様のご提案は良いように思ったのです。
Lucia様、皆様本当に申し訳ありませんでした。
ブログ勧めた人に悪気は無かったんじゃない?
本人の事情をよく知らなかったのは不幸だけど、
そこまで責められんだろ。もしかして、
神父様のブログのコメント欄から出てけって
言われたような気持ちがしたのかも知れないけど、
それはご本人にしか分からないっす。
皆さん、ドンマイ。私もLucia氏のため祈ります。
ただ彼女にやはり話が通じない、と言う印象を持ったので、打ち切ったのです。
ブログを勧めたのは嫌味でも皮肉でもなく本心からです。以上。
ただ、ネットというメディアの特徴が少しずつ分かってくるに従って、それの限界と問題点も明らかになってきたので、それが、一人ひとりの人間の向上に役立つならとても良いとは思いますが、私の発言が、たとえおひとりの方にとっても不愉快な思いをさせてしまうのであれば、私はそれを止めるべきだと判断したので、お別れのご挨拶をいたしました。
ここに書き込まなくても、学ぶ手段はありますし、私が書き込まないからといって困る方もありませんから、これは正しい判断であると思います。
これからも時々は開いてみますが、積極的な書き込みはご遠慮させていただきます。
皆様にとっては、様々なことを深く考える手段として、ブログが大いに役立つことを願っています。