李容洙(イ・ヨンス)
証言
元「慰安婦」へ補償を 参院議長らに法案成立要請(しんぶん赤旗 2002.6.26)
韓国の李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。
全国同時証言集会・京都 証言者のプロフィール (2004.12.4)
1928年韓国の大邱(テグ)生まれ。1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。
その後、連れて行かれた先の台湾で、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた。「解放」(日本の敗戦)後、しばらくしてから韓国に戻る。
慰安婦問題で在米韓国人ら抗議デモ ホワイトハウス前で(asahi.com 2007.4.27)
李さんは「私は15歳の時に拉致された。まわりの女性は誰も売春婦のようにはお金をもらっていなかった」と訴えた。安倍首相が宿泊する迎賓館ブレアハウス前まで足を運び、「謝れっ」。デモに参加した米国人男性は「日本の政治家は歴史を書き換えようとしているのか」と語った。(魚拓)
米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」(JanJan 2007.4.26)
1928午12月13日
慶尚南道大邸市に生まれる。
貧しいながらも両親と兄と本人と五人の弟の大家族で暮らす。
学校にも通ったが、下に弟が沢山いたので一年程で辞める。
その後、夜学に通い、日木人の先生に日本の歌を教えて貰う。1944年 秋
15歳の時、家で寝ていると、小窓を叩く音に目を覚まし手招きされるままに外に出てみると、日本軍人が立っていました。そして、脅かされるままに連行されました。
慶州から平壌、安州から中国大連、そして台湾新竹海軍慰安所へ。1945年 春
16歳。慰安所が爆撃にあい、家の下敷きになる。
親切にしてくれた特攻隊の軍人は、出撃して帰って来ませんでした。
8月。日本の敗戦で解放され、収容所に集められました。1946年 春
17歳。帰還船で釜山港へ。
大邸駅から走って父母の元へ。しかし、誰にも被害を語れませんでした。いつか誰かに知られてしまうのではないかと、毎日恐れながら暮らしていました。それでも幾つかの仕事をしながら、弟達の援助で生活していました。1992年6月25日
63歳。恐る恐る何度も迷い、そして勇気を振り絞って名乗り出でました。その後、韓国、日本、アメリカ、カナダ、フィリッピンと抗議活動を続けています。
79歳元慰安婦、ハーバード大学で涙の訴え(朝鮮日報 2007.4.30)
28日午後、米ハーバード大学ケネディー・スクール(行政大学院)の講義室。さまざまな人種の聴衆約100人が見守る中、時には感情を抑えきれず絶叫に近い声を上げる高齢の韓国人女性の話に耳を傾けた。16歳の時に強制連行された後2年間、日本兵の「慰安婦」をさせられたイ・ヨンスさん(79)は、ハーバード大の学生の前で同日、当時の「地獄の日々」について証言した。1944年に強制連行された後、繰り返し受けた無差別な暴行・強姦・拷問の悪夢を60年以上経った今でも忘れることのできないイさんの叫びに、聴衆は嘆き、目頭を熱くした。
「国際社会の良心の勝利」...聴聞会証言の元慰安婦イ・ヨンスさん(中央日報 2007.8.1)
「米国議会が私の恨みを晴らしてくれた。日本は私の前で謝罪し、賠償すべきだ」。30日午後、米下院で慰安婦決議案が採択された直後、元慰安婦のイ・ヨンスさん(80)は取材陣の前で、喜びと怒りが入り混じったような声でこう叫び、座り込んでしまった。
17歳という年齢で日本軍に強制連行されたイさんは今年2月15日、米下院慰安婦聴聞会で当時の苦難を証言し、その後3回も米国を訪問した。決議案の採択を後押しするためだった。