(cache) フラミンゴ



フ ラ ミ ン ゴ


 今年もWGPが行われる。

 WGPとは、モーターサイクルによるロードレースの最高峰のもののことだ。4輪の最高峰のF1と同じく、世界の国国のサーキットをまわり、その総合得点でシリーズチャンピオンを決めるのである。

 といっても、大半の人間にとってはさして興味もない話だろう。それくらいは私も承知している。ただ、他のラウンドに比して、このスペインGPは、私にとって特別の感慨を抱かせるものがあるのである。そのことについて少しばかり書いてみたい。尚、嫌々読まれるのも嫌なので、興味のない人は去ってくださいね。

 若井伸之。それが、今回の話の中心になる人物の名である。

 彼のGP挑戦は、1991年から始まった。国内ランキング2位という経歴を持ち、意気揚々と世界最高峰の舞台に乗り込んでいった彼ではあったが、その戦いは決して楽なものではなかった。

 彼の参戦した125ccクラスは、他のクラスに比して各選手のマシンに戦闘力の差がない。それはつまり、経験による駆け引きが重要な要素であることを意味する。新参者の若井は、幾度となく世界の壁に跳ね返され、挫折を味わう日々が続いた。そんな荒波にもまれる中で、彼はゆっくりと、しかし着実に力をつけていった。

 その彼が、ついに壁を貫く時がやってきた。91年の最終戦、マレーシアGP。それまでの鬱憤を晴らすかのような快走を見せた彼は、熾烈なトップ争いの末、3位に入賞。念願の表彰台に立ち、成長の程を見せ付けた。

 その後も着実に実力をつけていった彼は、92年のシーズン終了後、125ccクラスから250ccクラスへとステップアップを遂げる。日本人ライダーとしては幾年ぶりかに海外のスポンサーからのサポートを受け、まさに順風満帆の状況の中に彼はあった。

 レーサーとしての彼の非凡な資質は、この段階で既に周囲の知るところであった。だが間もなく、思わぬ偶然が彼の別の側面をテストすることになった。

 その出来事がおこったのは、93年のシーズン第4戦、スペインGPの予選走行中のことである。

 スペインは、GPの開催される各国の中でも、それに対する熱狂度がとりわけ群を抜いていることで知られている。それは4輪のF1をも遥かに凌ぎ、20万の観衆が詰め掛けることも珍しくない程である。予選走行日とはいえ、その日も既に観衆の熱気は決勝に向けて徐々に高まっていく中にあった。

 そんな異様な熱気の中、若井は決勝に向けて、マシンのセットアップを進めていた。

 彼の特徴として、予選走行中のピットアウトの際にも、常に全力で加速し飛び出していくという点があった。これは無分別に行っているのではなく、決勝レースでのスタートを想定しての練習なのである。スタートダッシュの善し悪しで、決勝レースでの勝率も大きく変わってくる。予選中から戦いは既に始まっているのだ。

 そうやっていつものように飛び出した若井は、闘志を高めるようにピットロードを猛然と加速していった。その頭の中は、いかにしてタイムを詰めるか、という一点に絞られていたに違いない。

 だが、その眼前に、通常見えるはずのないものが姿を見せた。

 人影だ。

 人間が歩いている。

 それは、ある有力ライダーの招待客であった。周囲の熱気にうかされたのだろうか。その男は非常識にも、のこのことピットロードの中へと足を踏み入れ、そこを横切ろうとしていたのだ。もちろんオフィシャルからの警告は為されていたわけだが、それも彼の耳には届いていなかった。

 加速するマシンの前方に現れた人影。操縦する側にとって、それはよけられるものではなかった。ぶつけられた側は悪くすれば即死、もちろん自分もただでは済むまい。

 そのとき、彼の頭の中を何が去来したのかはわからない。

 事実としてわかっているのは、彼が奇跡を行ったということだけだ。 若井は衝突を完全には避けきれなかったが、しかし正面からの直撃は免れた。それでもその観客は跳ねとばされ、衝撃でアスファルトの上へと転がった。だが結局、彼は脳震盪と打撲のみで一命をとりとめた。

 しかし、奇跡は二度は起らなかった。若井自身はそのまま進路を曲げ、コンクリート製の側壁に衝突。側頭部を強打した。

 彼は救急車で近くの病院へと運ばれた。数時間に及ぶ開頭手術が行われたが、その甲斐もなく、彼はこの世を去った。1993年5月1日。25歳であった。

 その事故について彼の母国がニュースで報道したのは、ほぼ一日遅れてのことであった。中には「日本人オートレーサー死亡」などという杜撰な見出しで報ずるものもあった。

 ニュースのなかのいくつにかは、事故直後の映像と称して、アスファルトの上に倒れた二人の姿をブラウン管に一瞬だけ映し出すものもあった。そのとき、倒れた若井の手が、相手の頭部を労るように差し伸べられた形になっていたあの光景を、私は一生忘れないであろう。

 新聞各紙も、事故について取り上げてはいたが、それらはいずれの内容も不正確なもので、A紙は「レース中」の事故とし、一番詳細な記事を載せたM紙にしてからが「トラック上」での衝突事故だと報じていた。Y紙に至っては、事故について触れた記事すら1行もないという有り様であった。

 事故の翌日の決勝レースでは、250ccクラスで原田哲也が、125ccクラスで坂田和人が、それぞれ優勝した。2クラスで日本人が優勝するという快挙であったが、若井と仲の良かった二人は、ただ泣きじゃくるだけであった。

 それから数ヶ月たち、この事故のあったヘレスサーキットに、若井を記念する像が建てられることとなった。それは、彼のシンボルマークであったフラミンゴを模したものであった。極東の島国からやってきた青年の死を悼んだこの像について、地元スペインの新聞はこの記事を第一面で取り上げた。しかし、彼の母国でそのことに言及した新聞はなかった。

 そして今年も、あの日から何度目かのスペインGPが行われる。

 私は別に、彼の事故について書くことで、彼のためにも日々を精一杯生きようだの、怠惰な毎日を顧みて反省すべきだだのといった、三日と続かぬようなくだらぬ決意を示そうというのではない。彼の人生は、こんなつまらぬ日記の綾付けのために存在したのではないからだ。

 私に言えることは、あの長身の手足を窮屈そうにマシンに収めたような独特のフォームが見られないことが、そしてそれ自体をこんな時でないと思い出せなくなっていることが、堪らなく寂しい、それだけである。