2009年2月17日(火)
思惑
このブログの主題は2009年1月29日の【花風社 浅見淳子】にあります。お仲間に是非こんな話があると電話を入れて下さい。
瞬間の判断を要するスポーツでさえ、無意識下での視線検出器が働いていることがよく分かる。
実生活では尚更だ。
人が居る。目を合わせない。或いはこちらを伺うように時々見る。
そこには、何かのメッセージが込められていて、定形発達であればそれらを察知する能力がある。
私はさっぱりそのメッセージが分からない。
おおよその見当は付くが、知ろうとも思わないし、知ったからと言ってどうにも出来ない。
定形発達であれば、それを察し、それの対抗手段として、声を掛けるとかなにやらいっぱい方法があるようだ。
問題は、クロムやえびすの様に、「メッセージを知る能力が欠如」しているのに、「メッセージを読みとろうと努力」するヤツらだ。
今の療育は、「心が読めないんだから、読むようにしよう」と言うのが根本だ。
出来ないことを無理矢理やらせるとどうなるか。
ここに二人も良い先輩が居る。
相手の「心を読めない」にも関わらず、読もうと努力する。
或いは「心を読める」と錯覚している。
答えを導き出せない、特殊な数式を子供に解けと要求するように、
彼らは永遠にその答えを解こうとする。
しかし、答える前に時間だけが過ぎ去り、また新たな数式を与えられる。
宿題は、積もりに積もり息も出来ない程に積み重なり覆いかぶる。
宿題出した方は、とっくに忘れてるのに。
そうだと思う人も思わない人もリンクの最後の行をポチットね。
だってぇ読めないとおカネ稼げないんだものー(つд`)
おカネ稼げなくなっても誰も助けてくんないんだものー(つд`)
「メッセージを知る能力が欠落している」
と
「メッセージを読み取ったとしてもそれに対しての対応能力が欠落している」
の二つがあると思います。
私は状況を読み取ったとしても、あくまでそれに対して部外者であるという意識が強いので、
「ぶつかるということは分かっていてもどのようにハンドルを切ってブレーキを踏めば事故が回避できるのか分からない」
状態です。
泣くなよ。
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