2009.2.14

リトルピアノスト2009~小学生によるピアノ・コンサート

ふとしたご縁でご紹介いただいたリトルピアニスト・ニューイヤーコンサート2009(2月7日)を聴きにカザルスホールへ。

このホールは閉館が発表され、最悪の場合、取り壊しという事態もあり得るとの報道ですが、そのようなことをしたら芸術学部を擁する日本大学は致命的なダメージを受けることでしょう。このようなすばらしいホールを壊すような大学が芸術を教えるなど笑止千万です。あまり期待できそうもありませんが、とりあえず今は経営陣の賢明な選択に期待しておきましょう。恐らく、ホールの跡地の有効(?)活用による収支の改善よりも、イメージ低下による収支の悪化の方が激しいでしょうね。何より、「買ってしまえば所有物」といった発想が嫌です。これでは、ストラディヴァリウスを死蔵している成金たちとやっていることは同じです。

このコンサートはヤマハ関連の教室に所属する小学生たちのコンサートですが、実質的には「発表会」的性格が強く、一人当たりの持ち時間は5分前後。私は時間の都合で第2部までしか聴くことができませんでしたが、それでも実に60人ほどのリトルピアニストたちの演奏を聴いたことになります。

なお、いつもは辛口モードの当ブログですが、さすがに小学生相手に毒舌モード全開で行くほど子どもではありません。特に印象に残ったお子さんについてはお名前を挙げることもありますが、そうでなかったお子さんについては全体の感想の中でぼやかして書くことにします。もっとも、私のプログラム冊子には殴り書きで本音の感想が綴られており、記憶の一助とするために100点満点で簡単な点数もつけてありますが、これは「公表しない」という前提で演奏と演奏の合間に書いたものなので、ここで明らかにすることはしません。…というか、時間の都合で婉曲的な言い回しを考えているヒマがなかったので、明らかにするのははばかられます。

まず、まだ来年度のマスタークラスのメンバーは決まっていないとのことでしたが、小6のお子さんの中からズバリ次期マスタークラスに入るお子さんを大胆予想してみます。但し、私が聴いたのは前述の通り7日の第2部までですので、他にも入る方はいると思います。

確実に入ると断言できるのは、柏渕恵理佳さん。基本的なテクニックが半端なものではなく、その上に彼女なりの表現が乗っていました。曲目は宍戸睦郎/ピアノ・ソナータ第2番~第4楽章。プロでもここまで弾きこなすのは容易ではないでしょう。私が聴いた中で一番上手いと思ったのは彼女です。しかし、小6でここまで完成されてしまうと、逆に今後が心配…と言ったらさすがに気の毒でしょうか。幅広くいろいろなものを学び、吸収していけばきっとすばらしいピアニストになることでしょう。

次に森彩乃さん。森さんもやはり基本的な部分が本当にしっかりしています。基本がなっていなくてその上にいくら自分なりの表現を乗せたって、基本の上に応用は成り立ちません。シベリウス/「10の小品」よりカプリスという選曲も良かったのではないでしょうか。柏渕さんの次点にしたのは、もう少し遊び心が加われば更に良くなるかもしれないという期待を込めてのことです。

もう少し下の学年では、島田眞衣さん(小5)の湯山昭/日曜日のソナチネ第3楽章。彼女は演奏前にペダルにかなり気を使って調整していましたが、演奏前に決まってしまう部分はかなり大きいと思います。つまり、補助ペダルやイスの高さの調整を先生任せにしているお子さんは大体上手く行きません。相手が先生であろうが誰であろうが、遠慮なく注文を付けるくらいでないと、「プロ(を目指す)意識」に欠けると言われても仕方ありません。島田さんの演奏はフォルテがうるさくないというのが最大の特長でした。ただ、できればもう少し長い曲でもっと聴いていたかったとも思います。

小4にして驚くべき才能を見せたのが、才田夏葵さん。右手の旋律が美しいだけではなく低音の響かせ方も上手く、何よりもピアノ全体の音の響きに気を配ることが出来ていることには驚きました。プロでもピアノ全体の音の響きに無頓着なピアニストは山ほどいますから、若干小4にしてこれほど美しい響きを作り上げることができるのであれば、現時点で一番良かったとは言いませんが、潜在能力で彼女を上回る人はいませんでした。小3の池田佳乃さんもとてもいい音を持っていましたね。

面白かったのは前川竜成くん(小2)。カバレフスキー/「4つのロンド」よりロンド・ダンス、ロンド・トッカータを弾きましたが、躍動感があって非常に個性的な演奏を聴かせてくれました。小2でここまでやる子どもがいるんですね。

そして、100年に1人の大物が登場。普通は緊張してガチガチの子どもが多いのですが、吉岡孝浩くん(小2)はイスに座ってから客席をグルッと見回しました。何という大物! 何のために客席を一瞥したのかわかりませんが、この余裕は恐るべしです。

吉岡くんが一番上手かったとは言いません。しかし、個性という点では間違いなく吉岡くんが一番だったと思います。非常にリズム感が良く、ノリがいいのに変化をもたせる術も知っている。ドビュッシー/小さな黒人という選曲もベスト・チョイスでした。家に帰ってベロフの録音を聴きましたが、「面白さ」という点では吉岡くんの方が上です。弱音にもう少し気を配ると、更に良くなることでしょう。

あとはまぁキリがないのでこのくらいにしておきますが、全体として目立ったのが選曲ミス。第2部の総評では音大の講師の方も選曲ミスについては触れていました。ただ、私とその講師の方とは意見が全く正反対でして、その講師は「(狭義の)技術的にもう少し余裕のある曲を。」という意味で選曲ミスを指摘していましたが私はそうは思いません。

このレベルの子どもたちともなると、逆に音符が少ない方がピアノは難しいと思います。初級段階の子どもでの発表会であれば音符が少ない方がいいかもしれませんが、トップクラスの子どもたちは技術的にはそれほど大きな差があるわけではなく、むしろ差がついているのは技術以外の部分ですから、モーツァルトのような音符の少ない作品を弾かせると人としての経験不足が露呈され、酷でした。ショパンのワルツがこんなに難しいものかという感想も、同様の理由から抱きました。

あとは、ガンガンとピアノを叩きまくってしまうお子さんが多いのが気になりました。もちろん、プロを目指すのであればある程度大きな音量を出せることは必須条件です。しかし、カザルスホール規模のホールであればそんなにガンガン弾かなくても音は通りますから、そのあたりはもう少し先生が気を配ってあげられないものかと思います(子どもにそこまで気を配れと言うのは無理なので・・・)。

とにかくまぁ、メチャクチャ楽しかったですよ。今度は、吉岡くんの自作曲を聴くために茨城県の牛久まで遠征します。チケット代より交通費のが高いんですけど。。。

2009.2.11

下野竜也=読響のオール・ドヴォルザーク

「こんなすばらしいドヴォルザーク聴いたことがありません!」

どうしてもマエストロに感動を直接お伝えしたくて楽屋口で待ち、下野竜也に対して発した第一声がこれでした。ご本人としては特に意識して演奏スタイルを変えたとかいうことはないようなのですが、やはり読響との関係が深まっていく中で何も言わなくてもオケが応えてくれるようになったとのこと。つまり、下野が変わったというよりも、下野がやりたかった音楽が読響という優れたオーケストラを通じて、より聴衆に伝わりやすくなったと考えるべきなのかもしれません。もちろん、日々進化しているのは間違いのない事実でしょう。

今日はオール・ドヴォルザーク・・・・・・のはずが、開演前にファゴットの方が練習していたのは、恐らくショスタコーヴィチの第9番の一節ではないかしら・・・? ちょっと早めに会場に入ると、こういう楽しみもあるんですね! 普通はその日の曲目を練習していることが多いですけど、こういうのも聴衆にとっては結構嬉しいです。また一つ楽しみが増えました。

1曲目は「オセロ」序曲。この段階で、「下野は変わったなぁ・・・」と唸らされました。下野がこれほど情感豊かにしっとりとオケを鳴らしたのを聴いたのは、今回が初めてです。いつの間にこんな奥深い指揮者になったのでしょうか。

2曲目の「チェコ組曲」では、「のだめカンタービレ」でも使われた第2曲「ポルカ」などでテンポを嫌味のない範囲で大胆に揺らしていたのが印象的。こういう「遊び」的な要素も、以前の下野には少なかったように思います。かと思えば、思いっ切りオケを鳴らして大迫力で聴かせたり、オケを大胆に煽って加速して一気呵成に聴かせたりと、表現の幅がこれほど広い指揮者だったのかと舌を巻きました。

そして休憩後の3曲目は交響曲第4番。演奏機会も少ないですが、私自身、CDですらそんなに何回も聴いている曲ではありません。しかし、この曲に対する認識を新たにするほかない、とてつもない名演でした。

下野というと、比較的真面目な音楽作りをしていた印象があるのですが、大音響でオケを鳴らしてみたかと思えば一気に音量を落として静かに聴かせたり、そして何と言ってもオケを煽って物凄いアクセルを踏んでみたりと、ご本人は「地味な曲」とおっしゃっていましたが、地味どころか後期交響曲にも劣らない名曲中の名曲ではないですか。

正直、「名曲シリーズ」という割には随分と冒険的なプログラムを組んだなぁと思いましたし、実際、会場はせいぜい6割程度の寂しい入り。しかし、曲が終わり一瞬の残響を待って、会場からは一斉に大きなブラボーのかけ声が! 1人や2人ではなく、10人とか20人とかいった単位で一斉にブラボーが飛んだのです。こういうブラボーは、粋でいいですよねぇ・・・。

鳴り止まない拍手に応えてアンコールはもちろんドヴォルザーク。スラブ舞曲op.72-7でした。これがまた痛快な演奏で、勢いのとどまることを知らない本当に楽しいものでした。もちろん、終演後の会場は大盛り上がり!

あまりのすばらしさに、「ひょっとして将来、読響の初代音楽監督なんてことは・・・。」とスタッフの方におうかがいしてみたら、「それは彼のためになりません。」とのこと。つまり、音楽監督というポストを新設するかは別として、「常任指揮者」という現在ある読響のトップのポストですら彼を囲ってしまうことになるから、下野が国内外のほかのオケで研鑽を積む機会を奪ってしまうことになるということなのだそうです。

確かに、スクロヴァチェフスキですら読響常任指揮者に就任してからは国内の他のオケを振っていないはずですから、近い将来に下野を常任指揮者にしてしまえば、下野は国内の他のオケを振ることが難しくなってきます。スダーンやアルミンクが音楽監督になってから他の国内オケを振ったという話は聞いたことがありませんしね。

さすがに読響ともなると、スタッフの方の見識も違います。既にこれだけの演奏ができる指揮者なのですから、カンブルランの後任として常任指揮者に据えたって十分にその任務を果たせるはずなんですよ。でも、それではせっかくのすばらしい才能を伸ばしきれないかもしれないから敢えてそれはしない。

だからこそ下野のためにわざわざ「正指揮者」というポストを創設し、なおかつ、常任指揮者に次ぐ2番手のポストとしては異例としか言いようがないほど下野の好きなようにプログラミングを任せています。こういったあたりに、読響の下野に対する深い信頼と大きな期待がうかがいしれるというものでしょう。さすがです。

今日を境に、まだ39歳の若さではありますが下野竜也を「若手指揮者」と呼ぶのはやめることにしました。さすがに「巨匠」と呼ぶにはいささか早いかと思いますが、「中堅指揮者」と呼ぶべきマエストロでしょう。

少しだけ楽屋口でお話させていただきましたが、本当にいい方でした。私が「素人がこんなことを申し上げて・・・。」と言っても、「いやいやそんなことは。」と私の話に耳を傾けてくださいましたし、(感動を直接お伝えしたかっただけで別にサインが目的で出待ちをしたわけではないのですが)サインをお願いしたら、「もちろん!」と応じてくださったばかりでなくマエストロの方から握手を求めてきてくださいました。

今後も、下野=読響コンビの快進撃に期待です! それにしても今年は、「当たり」のコンサートがやたらに多いなぁ・・・。

2009.2.7

エリシュカ=N響のスメタナ/交響詩「我が祖国」

「私、N響のファンです!」

いつも当ブログをご覧いただいている方は突然何を言い出すのかとお思いになるかもしれませんが、指揮者次第ではこれほどの演奏を繰り広げるのかと驚きました。今まで行った全ての公演の中で、最高の部類に入る演奏であったと言うほかありません。

開演前の室内楽ではドヴォルザークの弦楽四重奏曲が演奏されましたが、メンバー紹介に先立ち、エリシュカからのメッセージが紹介されました。開演前の室内楽に指揮者がメッセージを寄せたというのは過去に例があったのかすらわからないような珍事ですが、エリシュカの方からリクエストしたわけでもないのに、開演前の室内楽でドヴォルザークが演奏されることを知ったエリシュカが自らメッセージを寄せたとのこと。その内容の概略はこうです。

「私はドヴォルザーク協会の会長だから、もちろん会長としてドヴォルザークを愛しています。しかし、それ以前に私は一人の人間としてドヴォルザークを愛しています。」

そして、マエストロは「一人の人間としてドヴォルザークを愛しています。」と言った後に、冗談交じりにこう続けたそうです。

「妻よりも・・・。」

ドヴォルザークよりも奥様の方を大切に思っていらっしゃるに決まっているのに、ユーモアとしてこういうことを言えるマエストロ。正に、「巨匠」の名にふさわしい方だと思います(そうそう。エリシュカに「幻の巨匠」というキャッチ・コピーをつけているチラシを未だに見ますが、「幻」というのはさすがに失礼ではないでしょうか。幽霊じゃないんだから・・・。)。こういうユーモアのセンスは、私もいずれ身に付けたいものです。

そして始まったスメタナ/交響詩「我が祖国」。

これは名演中の名演でした。これだけ抑えた演奏で、これだけ揺るぎない音楽を作り上げるエリシュカの力量には感服するとしか言いようがありません。決してガンガン鳴らしたりはしないんです。それなのにどうしてこんなにも堂々とした音楽を作り上げることが出来るのか、皆目見当が付きません。

N響も最近は本当に調子がいいです。近年ネックとなっていた金管もかなり持ち直していますし、大きな問題となるようなミスは皆無です。「我が祖国」では途中休憩が入りましたが、そのときにたまたま近くを歩いていた人の会話が聞こえてきて、「今日は上手いわねぇ・・・」だそうな。褒めてるんだか貶してるんだか微妙なところですが、まぁとりあえず今日の演奏に関しては褒めているんでしょう(笑)。「その心」は読まないのが大人のマナー。

よく評論で使われる、「何も足さない。何も引かない。」というのはこういう演奏のことを言うのかもしれないと思いました。また、会場で売られていたポストカードに書いてあった、「音楽における最高のものは、楽譜の中にはない。」というマーラーの言葉も、正に今日の演奏を形容するにふさわしい言葉でしょう。

スコアを見ながら聴いていたわけではありませんからどこまでスコアに忠実にやったのかはわかりませんが、「何もしていないように聴かせる」ということほど難しいことはないと思うんですよ。いかにも、「私の音楽はこういうものです!」というタイプの音楽ではなく、本当に何もしていないかのように聴こえるんです。

もちろん実際には何もしていないということはあり得なくて、どこまでも緻密にスコアを読み込み、数々の経験を重ねているからこそ、あたかも何もしていないかのように聴かせることができるのだと思います。

あまり具体的なことが書けませんが、逆に言うと何も書けないくらいすばらしすぎて、本当に言葉がありません。明日も当日券が出ることと思いますので、都合のつく方はぜひNHKホールにいらっしゃって生演奏をお聴きになってみてください。

演奏スタイルは本当に静かです。しかし、その中にあるエリシュカの熱い想いや心のあたたかさがひしひしと伝わってきます。N響に対しても、今回ばかりは何一つ注文のつけようがありません。




ブラボー!



2009.2.1

ハイティンク=シカゴ響のマーラー/交響曲第6番

そろそろ「シカゴ響」=「ショルティ」という幻影に浸るのやめません? そう思わせる演奏会でした。

ショルティの実演は聴いたことがありませんが、シカゴ響の金管の技術力はショルティ時代に比べて全く衰えていないと思います。ただ、ショルティ時代のシカゴ響と今のシカゴ響は、良い伝統を受け継ぎつつもかなり変化したのではないでしょうか。

私が今回一番驚いたのは、弦の美しさでした。「シカゴ響といったら何と言ってもあの金管陣でしょ?」とお思いになるのは良くわかります。実際、私もそういうものを期待して聴きに行きましたから。

でもそうじゃなかった。確かに金管は上手いなんてもんじゃないですよ。ウィーン・フィルの金管の技術なんてシカゴ響に比べたら足もとにも及びません(但し、VPOにはVPOにしかない魅力があって、VPOが超一流オケであるということは言うまでもありません)。

今まで、国内のそれほど技術レベルの高いとは言えないオケの演奏を聴いて、「音楽って技術じゃないよなぁ・・・」と思ったことは数知れずあるんです。でも、こういう超絶テクを持っているオケの演奏を聴いて、「音楽って技術じゃないよなぁ・・・」と感じたのは初めての経験でした。ロサンゼルス・フィルでも、ここまでの感想は抱かなかったですね。

具体的にどういうことかというと、技術は確かに万全なんですが、それが音楽を作り上げる上で一つの要素ないし補助でしかないんです。つまり、それくらい中身のある音楽を作り上げている。これほど優美なマーラーを聴かせるハイティンクは、真の意味で巨匠と呼ばれるべき指揮者になったと言えるのではないでしょうか。

それでいて技術的にはケチのつけようがないですから、もはや言葉がないですよ。「いくら何でもS席40000円はないだろ。」と思っていたんですが、これなら高くないかもしれない・・・と思うほどの名演でした(あ、ちなみに私はS席じゃないです。と言っても安い席は瞬時に売切れてしまって争奪戦に敗北したので、清水の舞台から飛び降りるつもりでA席を買いました。でも、A席でRBブロックの平行四辺形のところだったら6000円得したとも言えますね。N響だったらここもS席ですから。新日フィルに至ってはRAブロックにまでA席が割り振られているという信じられない席割り・・・)。

で、海外の一流オケを聴いて日本のオケと一番違うと感じるのは、音の厚みなんです。しかし今日はシカゴ響といってもハイティンクですから、そんなにガンガン鳴らしまくるタイプの指揮者じゃないですよね。むしろ、緻密で丁寧な指揮がハイティンクの特長です。その意味で、今日の演奏は巨匠ハイティンクの新境地を聴かされたような見事な名演でした。シカゴ響の技術を借りれば力技で押し切ることなら若手指揮者でもできますが、逆にシカゴ響をここまで意のままに操ることができるというのは、老匠ならではのことでしょう。

あ、金ピカのチラシはいくら何でも趣味が悪すぎると思うので、私の美的センスからして当ブログにはアップできません。チケット代はともかく、あのチラシはないんじゃないの?

2009.1.21

キタエンコ=N響のプロコ(with 上原彩子)とチャイコフスキー/交響曲第6番ほか

N響のサントリー定期は確か2回目だったでしょうか。チケットを取るのが大変なので、B定期にはほとんど行くことができません。しかし、今回の指揮者はキタエンコ。マエストロの大ファンとして、これは聴き逃すわけには行かないでしょう。

1曲目はベートーヴェン/序曲「エグモント」。ホールはいきなり、重厚な響きに包まれます。「速報」にも書いたんですが、こういう古き良きベートーヴェンを直球で勝負することのできる指揮者って今は例えばどんな方がいらっしゃるのでしょうか。私はジンマンやパーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェンが好きですから(スダーンはハイドンとモーツァルトは好きだけど、ベートーヴェンはあまり良いと思ったことがない)、私の好みとは正反対の方向性を持ったベートーヴェンなんです。

しかし、ここまで堂々とやられてしまうとこれはこれで納得してしまうし、素直に体がしびれるんですね。これは、今日は大いに期待できそうだ。

続いて2曲目はプロコフィエフ/ピアノ協奏曲第3番。ピアノは上原彩子です。上原は女性であることを考えてもピアニストとしてはそれほど手が大きい方ではありませんし、ガッチリした体格の持ち主でもないので、パワーの面では若干物足りない気がしないわけでもありませんでした。

ただ、静謐な旋律の奏で方は実に見事なもので、エヴァ教授から受け継いだ本場ロシアのピアニズムを見せつけてくれたように思います。もちろん、プロコを弾くには一定のパワーは不可欠です。しかし、パワーだけで押し切るようではプロコ弾きとしては疑問が残りますし、そもそも上原のパワーはプロコを弾くという点で致命的な不足を感じさせるものではありませんでした。全体としてすばらしい演奏であったと思います。ヤマハ・マスタークラスの先輩である竹島さん(パーカッション)との共演も、古くからのファンにとっては嬉しいものでした(何と言っても竹島さんは小学校の頃からテレビに出てましたからねぇ・・・。何でも、当時は学校に沢山のファンレターが届いたそうですよ。竹島さんは女の子たちの憧れの的。エレクトーンのプリンスだったんです。あ、ちなみに、テレビ朝日で放送していたヤマハのJOCに出演していたからと言って誰もにファンレターが届くわけではありません・・・・・・このネタ、わかる人だけわかってください。この件に関するご質問には完黙を通しますが。)。

ここで休憩を挟んで、後半はチャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」。前半から気になっていたのですが、この曲で重要な役割を担うファゴットには見たことのない若い女性奏者が座っていました。「誰なんだろう?」と思ってN響のスタッフの方におうかがいしてみたら、福士マリ子さんという方なのだそうです。N響の楽員ではないのですがエキストラでもなく、強いて言うならば「首席エキストラ」とでも言えばいいのでしょうか。要するに、普通のエキストラとは異なるトライアル期間中の方とのことでした。調べてみたら、藝大の4年生なんですね。よりによって「悲愴」でファゴットのトップという重責を任されていることから考えると、定年の近い岡崎さんの後継候補ということもあるのかもしれません(ここは根拠のない推測であることを強調しておきます。別にトライアル期間を終えたからと言ってポストが保証されているわけではありませんから。)。

曲が始まると、エグモントでも感じた通り、今日のN響は低弦がとんでもなくすばらしい。そこへ福士さんのファゴットが入ってくるわけですが、聴いている方が緊張しちゃいますよね。「頑張れ! 頑張れ!」と、親心にも近いような気持ちを感じてしまいます(そんなに歳は離れていませんけどね)。福士さんはこの大役をきちんとこなしてくれてホッと一息。でも、聴衆に緊張させているようではまだまだ。正直、岡崎さんが近々定年退職されることは大変残念に思っていたので、こういう若い才能が出てきてくれるというのは本当に嬉しいことです。私が日本一のファゴット奏者だと思っている名手、水谷さんも健在ですから、もし福士さんが入団してくれれば、N響もファゴットは万全だなぁ。

それで、全体として感じたことは、音がうねっていて悲劇的な曲調を浮き彫りにしてはいるのですが、どういうわけか非常にあたたかい。マエストロのぬくもりを感じずにはいられないんですね。N響の生演奏を聴いて、「いいな。」と思ったことはあるんですけど、ウルッと来たのは今日が初めてでした。

「北風とお日さま」っていう童話を知ってます? 厚いコートを着た旅人のコートを脱がすために北風とお日さまが対決をするというお話なんですが、北風がいくらビュービューと冷たい風を浴びせてコートを吹き飛ばそうとしても、旅人はますますコートをきつく着てコートを脱がすことはできなかった。しかし、お日さまがポカポカポカポカと旅人を照らしたら、旅人は「暑い暑い。」と言って自らコートを脱いだ。勝負あり。お日さまの勝ちです。子どもの頃、この童話が私は大好きで、小児ぜんそくのためしょっちゅう学校を休んでいた私は、布団の中でこのお話のカセットテープ(年齢がバレる・・・)を文字通り擦り切れるほど聴きました。

今日のキタエンコの演奏も、そういう「お日さま」的な要素を含んでいたんじゃないかな。もちろん曲が曲だから、悲劇的であることは間違いないんです。しかし、その中にあたたかさがあるので、この曲が「絶望」ではなく、「悲愴」という副題で呼ばれていることにも納得といった感じでした。悲しいということは、本当は実に人間らしいことであって、それを必ずしも絶望に結びつける必要はないのかもしれないな、と思ったりします。

それと、たぶん皆さん気になっていると思うので書いておきますと、テレビ収録の入っていた今日は第3楽章終了時の拍手はありませんでした。そして、私がとてもいいと思ったのは、マエストロが第3楽章と第4楽章の間に十分な時間を置いた点です。ここは拍手防止のためかライブではアタッカぎみに入る指揮者が多いのですが、私としてはここに十分な時間がほしい。そうでないと、第3楽章と第4楽章がつながらないような気がするんです。つまり、アタッカで音をつなげるのではなく逆に十分な時間を置くことによってはじめて、第4楽章の前に勇壮な第3楽章が置かれた意味が出るのではないかと。

第3楽章は立派でありながら、キタエンコらしくしっかりと束ねられている。大きな音を出しても音がバラけないというのは、キタエンコならではという気がします。東響とも相性は抜群だと思いますが、N響にも2年に一度くらいは客演してほしいですね。練習はとても厳しいらしいですけど、結果的にこれだけの成果を挙げられるのであれば、こってり絞られた甲斐もあるというものでしょう。

第4楽章も本当に見事でしたね。重低音は抜群に効いていますし、驚くなかれ今日のN響は金管までもが絶好調なのです(何か言いたげであることには気づかないのが大人のマナー)。トランペットにしてもホルンにしても(なぜ2つだけ挙げるのかには気づかないのが大人のマナー)、いくらやり慣れた曲とは言えこれほどの精度に仕上げるのは並大抵のことではないでしょう。ちなみにトランペットは、なぜだか一度首席マークがなくなって再び首席マークが点灯した関山さんではなく、津堅さんでした。今日の津堅さんはしっかりとトランペットを構えていて頼もしかったです。

そして、これはプロコや「悲愴」全体を通じて感じていたことなのですが、ピッコロを甲斐さんが担当していたのは今回の公演の成功に大きく寄与したと思います。ピッコロというのはミスがあるとホルン並みに目立つので重要なのですが、首席フルート奏者が担当するということはまずありません。しかし、甲斐さんならば首席のお二人と比べても遜色ないどころか、私はN響のフルート奏者の中では甲斐さんが一番好きなくらいです。そういう高い技量をお持ちの方がピッコロをミスなくこなしてくださるので本当に良かったと思います。

とにかく、全体を通じて文句の付けようのない大変な名演でした。マエストロが終演後に立たせたのは福士さんただ一人。誰も彼も立たせる指揮者もいますが、演奏の成功に寄与するのが全員であることは当然のことなので、「とても良かったよ。明日も頑張ろうね。」という意味合いを込めて若い福士さんだけを際立たせる形で立たせたマエストロは、本当にお心のあたたかな方なのだなと感じました。ますますマエストロを愛してしまいます。何というジェントルマンなのでしょうか。さりげなくて、かっこ良すぎです。

毎回とは言わないから、こういうレベルの演奏を少なくとも年に何回かはできるオーケストラになってほしいものだと痛切に願います。そのためには、本当はNHKホールを卒業する必要があると思いますが、NHKホールでの定期公演で2000人を割るようなことはまずないでしょうから、実際には難しいでしょうね。

しかし、今回は若い才能に触れることもできましたし、最近は室内楽などで腕を磨いている方も多くいますから、N響の今後は案外明るいのかもしれません。但し、キタエンコに限らず、こうした良い意味で厳しいマエストロを音楽監督に迎えることが絶対条件になるであろうことは言えるでしょう。

以上、今日は大変にすばらしい演奏を聴くことができました。こういうことであれば、エリシュカのオーチャード定期と「我が祖国」(全曲)も大いに楽しみです! 日ごろN響に対しては異常なほど手厳しいことばかり書いている私が言っても説得力がないかもしれませんが、エリシュカの「我が祖国」は相当な聴きものかと。

2009.1.9

藤岡幸夫=都響のアランフェルス協奏曲(with 村治佳織)と「火の鳥」(1919年版)

この公演に携わった全ての関係者のプロフェッショナルとしての見識を強く疑うと同時に、彼らを激しく非難する。

今日の1曲目はグルダ/チェロ協奏曲。チェロは都響首席チェロ奏者の古川展生。

曲が始まった瞬間、私は耳を疑うと同時に耳をふさぎたかった。あろうことか、古川はPAを使用している。この曲の場合、クラシック・ギターにPAを使うのは当然だが、なぜチェロにPAを使う必要があるのだろうか。確かにドラムスこそ入っているが、オケの編成自体は他のチェロ協奏曲に比べて非常に小さい。したがってこの曲に関する限り、音量的にチェロが負けることはない。

もし音量的にチェロがオケに隠れてしまうとすれば、それは独奏者がよほど非力であるか、指揮者が全体のバランスを考える力を持っていないかのどちらかだ。しかし、古川の技巧と楽器をもってすれば、この曲でチェロが聴こえなくなるということは100%あり得ない。

実際、ただでさえよく響くサントリーホール内は吐き気を催すようなチェロの過度な残響に制圧されてしまった。古川は、自分で演奏していて気持ちが悪くないのだろうか? 藤岡は、独奏楽器とオーケストラのバランスを全く考えないのだろうか? 都響のスタッフは、ゲネプロの段階でPAの調整を行うに際し、チェロの気持ち悪い残響を何とも思わないのだろうか? 古川がこの曲を演奏する場合、常にPAを用いるとのことであったが、今までに誰一人として古川にPAの使用をやめるよう進言した者はいなかったのだろうか? あるいはそのような進言があったとして、古川はそれに一切耳を貸さなかったのだろうか?

都響のスタッフに話を聞いたところ「この曲はPAを使うものです。」と言ったが、どこまで不見識なのであろうか。例えグルダがスコアにPAの使用を明記していたとしても、この曲においてチェロにPAが必要ないことは明白である。もし作曲家が誤った指示をスコアに残したとすれば、それを修正するのが演奏家の役割だ。それとも、古川や藤岡は常に作曲者の指示を愚直に守り、一切の修正を加えないとでも言うのであろうか。

現に、ゴーティエ・カプソンは同曲の演奏に際しPAを使用していない(←別エントリーにて詳述致しましたとおり、この記述に関しては事実誤認に基づくものである可能性が極めて高いとの結論に至りました。ここに訂正し、お詫び申し上げます。)。サントリーより残響の少ないすみだトリフォニーホールでも、全く問題なくチェロの音色は客席全体に伝わるにもかかわらずサントリーでPAを使用したらどうなるか。プロならばわからないわけがない

古川が暴走したのであれば、PAの調整を担当するスタッフが、音響のプロフェッショナルとして「客席で聴くと残響が多すぎるのでPAは使うべきではない」ということをきちんと説くするべきだ。そして、ソリストが不適切な主張をした場合には、演奏の全責任を負う指揮者がしっかりと諌めなければならない。もし関係者の中にプロフェッショナルが一人でもいたとすれば、このような愚行が許されることはなかったことだろう。

古川に言いたい。チェロ協奏曲においてチェロにPAを用いるということは、「この作品は出来が悪い」と公言しているに等しい冒涜だ。こんなことを素人に言われなければならないほど古川が不見識であることは未だに信じ難いが、チェロ協奏曲でチェロにPAが必要になるとすれば、その曲は独奏楽器とオーケストラのバランスを考えずに作られた駄作だということを意味する。

それがPA技術の発達した時代に作曲した曲であったとしても事情は変わらない。PA技術の発達した時代に作られた曲であれば、当然ながら響きの豊かなホールで演奏されることを前提として作られている。そして、響きの豊かなホールで演奏することを前提として作られた曲においてチェロ独奏にPAが必要になるとすれば、その曲は演奏に値しない。なぜなら、響きの豊かなホールでチェロのような大きな音の出る楽器にPAを用いれば、全体の音量のバランスがメチャクチャに崩れてチェロだけが目立ってしまうことが明白だからである。今日のサントリーホールは正にそういったバランスのメチャクチャな響きに包まれ、聴いていて気持ちが悪いことこの上なかった。

百歩譲って、この曲にPAが必要であるとしよう。そうだとしても、アンコールの無伴奏曲(マーク・サマー/「ジュリー・オー」)にまで古川がPAを使用した理由は何だろう? どれほど愚かなチェリストであっても、2000人規模のコンサートホールで行われるソロ・リサイタルでPAを使用する者はいないはずだ。だとすれば、せめてアンコールの無伴奏曲だけでもPAを切るべきではないのか? それとも彼は、プロフェッショナルとしての芸術的判断から無伴奏曲にもPAを使用したのだろうか? いくら何でもそこまで愚かではあるまい。すなわち古川は、グルダでPAを使用したから何となくアンコールでもそのままPAを使用しただけ。無伴奏曲にPAを使用するという風変わりなチェリストは、世界中探しても彼だけだろう。

確かに、技巧的には極めて高度に完成されていた。しかし、だからと言って、機械の力を借りて自分だけが突出して目立つような方法を選択したことは、古川の音楽家としての幼稚さを露呈したとしか言いようがない。全体のバランスを考えることなく俺が俺がと自分だけ前に出てホールをグワングワンと気持ちの悪い音響で鳴らしまくる。スターにでもなったつもりか??? 勘違いも甚だしい。

加えて、都響のスタッフにも苦言を呈したい。若いスタッフの方は私の話を真剣に聴いてくださったが、ロビーにいた年配の男性スタッフは一体何年この仕事をしているのだろうか。その男性は「そういったことは私どもに言われましても・・・」と述べたが、あなたは都響のバッジを付けている。都響のバッジを付けている以上、あなたは都響を代表してロビーに立っているのだ。聴衆からの意見は、仮にそれが的外れなものであったとしてもきちんと受け止めるべきであり、「我々に言われても困る」といった態度はあまりにも幼い。

そんなことは小学校で教わっていることであり、あなたはプロフェッショナルとして失格である以前に、社会人として必要な要素を何一つ満たしていない。都響を代表してその場に立っているという自覚すら持ち合わせていないのであれば、都響の名誉のために都響のバッジを外した方が良いだろう。あなたが個人の立場でどこでどんな恥を晒そうと勝手だが、都響のバッジを身に付けた者の行いについて恥をかくのは都響である。

しかも、私は若いスタッフの方とお話をさせていただいているのに、意味不明な横槍を入れてくるのはどういった了見に基づくものであろうか。はっきり言わせて貰えば、あなたのような人間と話すのは時間の無駄だと考えたから私はあなたを無視して、良識ある若いスタッフの方と話をしていたのだ。私が素人だとすれば、あなたはド素人だ。あたかもこの曲においてチェロにPAを用いることが一般的でそれに対し疑問を挟む私を適当にあしらおうとする態度が極めて不快であったが、あなたは一度でもPAを使用した同曲をホール内で聴いたことがあるのか? 逆に、あなたは一度でもPAを使用しない同曲をホール内で聴いたことがあるのか? せめて、あなたがどこかからの天下りか何かで都響のスタッフになった「新米」であることを祈りたい。もしあなたがどこかから天下ってきた「新米」事務局員であれば、あなたの叩いた無駄口にも合点が行く。いかにも官僚らしい物言いで結構ではないか。

ソリスト、指揮者、PA技術者が揃いも揃ってこのような演奏会を作り上げたことが不思議でならない。彼らの中に、ただの一人でもプロフェッショナルがいなかったのか? PA使用に異を唱える者が、ただの一人でもいなかったのか? 古川には、二度とグルダの作品を演奏するなと言いたいし、古川の行為を許した藤岡の見識も信じ難い。一度でいいから、PAを使用した同曲を客席で聴いてみるといい。仮に彼らが素人の聴衆と同等以上の感性を持ち合わせているとすれば、この気持ち悪さに耐えられるわけがない。

前半があまりにも気持ち悪い演奏であったために後半も集中して聴くことができなくなってしまったが、村治佳織によるロドリーゴ/アランフェルス協奏曲は実に見事なものであった。もちろん村治はPAを使用していたが、クラシック・ギターの場合は極端に音量が小さいので大ホールで演奏する場合はPAを使用することが適切だ。村治は持ち前の高度なテクニックを駆使し、なおかつ心底楽しんで演奏しているように見受けられたし、藤岡はギターを消さないようにオケの音量をうまくコントロールしつつすばらしい演奏を繰り広げた。

村治のアンコールはマイヤーズ/「カバティーナ」。「上手いなあ・・・」としか言いようがない。単にテクニックがあるだけでなく、クラシック・ギターの持つ音色を存分に生かした名演であった。

続くストラヴィンスキー/組曲「火の鳥」(1919版)では都響の技術力の高さに改めて驚いた。個々の奏者の技巧の高さだけではなく、オーケストラ全体としての広義の技巧の高さを感じさせるものであったし、そのようなヴィルトゥオーゾ集団を意のままに操った藤岡の力量は目を見張るものがあった。緩急のメリハリがはっきりとついたすばらしい演奏であったと思う。

しかし、そうであればこそ、藤岡が古川の愚行を許した理由が全く理解できない。「火の鳥」という難曲中の難曲においてこれほど繊細な配慮に基づいてスケール感のある演奏を作り上げることのできる指揮者が、なぜチェロの独奏にPAを用いるという暴挙を許したのであろうか。どうせ何を言っても無駄だろうから古川に訊ねたいことは何もないが、なぜ古川の暴走を止めることができなかったのかについて、藤岡の見解を聞きたい。藤岡はチェリストがPAを使用しなかった場合に、まさかPAを使用するべきだと主張するのであろうか?

以上、この演奏会に携わった全員にプロフェッショナルとしての意識が全く感じられない最悪の演奏会であった。古川がソロを務める演奏会は、二度と行かない。

2009.1.3

「さだまさし35周年記念コンサート(千秋楽)」(2008.12.4、NHKホール)



WOWOWで放送された、「さだまさし35周年記念コンサート(2008年12月4日、NHKホール)」の千秋楽を見終わりました。当日は私も最前列付近のほぼ中央という席で聴いていていたので、カメラが入ると知った時は嬉しいような緊張するような思いでした(発売開始直後にアクセスしたとは言え、一般発売で買ったんですけどね)。

このコンサートは18時35分くらいに始まってアンコールを歌い終えたのが21時15分くらいだったと思いますから、途中休憩20分挟んだことを加味しても3時間20分歌いっぱなし・・・じゃなかった・・・歌って、喋りっぱなしでした。

しかし放送枠は2時間ですから、どこをカットするかというのが大きな問題になります。結果的にカットされたのは、下記セットリストのうち、「献灯会」と「秋桜」の2曲。2曲しかカットしなくて3時間20分のコンサートを2時間に収めることができるわけですから「どんだけ喋ってんだよ?」ってことではあるんですが、2曲で15分として、3時間20分のうち最低1時間はトークなんですね。まぁ、面白いからいいんですけど。

ただ、その中で出来ればカットしてほしくなかったのは、例の秋葉原の無差別殺傷事件についてのお話(詳しくは千葉県文化会館公演に行った際に書きましたので、こちらをご覧ください)。確かに重たいテーマではありましたが、より多くの方に、さだまさし自身の声でお聴きいただきたい内容でした。私は今回の「35周年記念コンサート」に千葉県文化会館、神奈川県民ホール、NHKホール(2日目)と3回行きましたが、このお話はいつも聴かせてくれ、その度に考えさせられました。「こんな犯罪防ぎようがない」と諦めるのではなく、「防げたはずの犯罪」だとおっしゃっていたのが今も心に残っています。

で、まぁ何しろ最前列付近の中央ですから、「映ったら恥ずかしいな」という思いと、「映らないかな?」という期待が交錯するわけですね。結果的には、よ~く見ると自分では「これが私だ」とわかるところが一箇所、私の顔を知っていれば他の方でもわかりそうなところが一箇所でした。うん。まぁ、このくらいの映り方がちょうどいいです。あんまり映りまくっても恥ずかしいしね。終演後にメンバーが投げた風船を必死で取りにいくさもしい姿とか。。。

千葉県文化会館では1階席後方、神奈川県民ホールでは3階席だったので、アンコールの際に振ってきた飛行機(ウィングハート)、「前の方の人だけ取れていいなー」とか思ってたんですけど、この日は無事ゲット。後ろの方ではわからなかったんですが、これ、薄い発泡スチロールで出来てるんですね。考えてみれば、紙飛行機だと先が尖っているからお客さんの顔に当たったりすると危険です。ハート型で、よく見るとプリントも何色かありました。

風船もゲットできて、完全に子どもですが素直に嬉しかったです。だって、まっさんではないけれど、メンバーが直接投げてくれたものですからね。誰かが投げて、誰かに届く。こういうの、いいよねぇ・・・。

でも、コンサートというのは投げるだけでは成立しなくて、受け手がいないとやっていけないわけです。そういう意味で、決して一方通行ではないというのが、ライブの醍醐味なんではないかと思ったりしています。

以下のセットリストは、「夢鏡」さんを参照させていただいて作りました。羽柴小一郎さん、ありがとうございます。

メンバー表を見て思うことは、凄い人たちが揃っていたんだなぁということ。私がさだまさしのコンサートに行ったのは今年の千葉公演が初めてだったから、失礼ながら名前とか全然知らなかったんですよ。でも、素人なりにやっぱり上手いなぁと思います。ボブさんのサックスは味があったし、石川さんのアコギは、まっさんが「フォーク界の無形文化財」と呼ぶのもわかるような気がします。マリンバの宅間さんはキャラが良すぎ! パーカッションの木村さんはアンコールで歌まで聴かせてくれましたが、パーカッションだけじゃなくて歌も上手いんですね。また聴きたいです。

あと、これは後で知ったんですけどオーボエの庄司さんは、元、東フィルの首席オーボエ奏者なんですね。クラシックからポピュラーへ転向する人というのはいることはいるんですけど、東フィルという日本有数のオーケストラのオーボエ奏者(しかも首席!)までのぼりつめてポピュラーへ転向する人というのはめずらしいと思います。もちろんクラシックの方が上でポピュラー音楽が下ということはないんですが(その逆もない)、レアケースだということは言えるでしょうね。

とにかく、笑いあり涙ありの感動のコンサートでした。

2008年12月4日 NHKホール

<第一部>

唐八景~序

1. 長崎小夜曲
2. 絵はがき坂

トーク

3. 指定券
4. 最終案内
5. フェリー埠頭

トーク

6. 殺風景
7. 春雷

トーク

8. フレディもしくは三教街

<第二部>

9. 北の国から~遥かなる大地、五郎のテーマ、純のテーマ、蛍のテーマ、遥かなる大地
10. 案山子

トーク

11. 献灯会

トーク

12.秋桜

トーク

13. 関白宣言

トーク

14. 天然色の化石
15. 防人の詩

トーク

16. まほろば
17. 修二会

アンコール 風に立つライオン

メンバー

ドラム:島村英二
ベース:岡沢章
エレキギター:松原正樹
アコースティック・ギター:石川鷹彦
マリンバ:宅間久喜
パーカッション:木村誠
オーボエ、イングリッシュホルン:庄司さとし
サックス、フルート:ボブ・ザング
ピアノ:倉田信雄

2008.12.29

広上淳一=新日フィルの「第九」 with 栗友会合唱団

指揮者が発表された時点で、今年の「第九」は新日フィルと決めていました。私は「第九」には例年2回ずつ足を運んでおり、「どちらかが良ければいい」と思っています。1つだけにしてしまうと、満足できなかった場合に気持ちよく年を越せないんですね。

年末に「第九」ばかりが演奏されることに否定的な立場を採る方もいらっしゃいますし、中には「こんなことをしているのは日本だけだ」といった意見も散見されます。そういった意見が全く理解できないではありませんが、私は年末を象徴する音楽があり、なおかつ多くの生演奏の機会がある(プロだけでも推定100公演は下らないのではないでしょうか。アマチュアを含めると全部で一体何公演あるのでしょう?)というのは、世界に誇ることのできる日本の文化であると思います。「こんなことをしているのは日本だけ」なのであれば、むしろ世界に広めたいくらいです(最近は年末に「第九」を演奏する国も徐々に増えているようですね)。

ただ一方で、「年末にしか『第九』を聴けない」(皆無ではありませんが、年末以外の「第九」公演は非常に少ないです)というのは残念であり、イベント的要素を一切排除した「第九」も聴きたいものです。年末以外の「第九」公演のチラシを見て、「季節外れ」と感じてしまうことがあるのは私だけでしょうか。

なお、今日の布陣は、ソプラノ:釜洞祐子、アルト:重松みか、テノール:市原多朗、バリトン:河野克典、合唱:栗友会合唱団、合唱指揮:栗山文昭でした。

1曲目はミヒャエル・ハイドン/クリスマスのパストレッロ(ミヒャエル・ハイドンは有名なヨーゼフ・ハイドンの弟)。これは初めて聴きましたが、新日フィルならではの透明感のある弦の音色が非常に良くマッチしていました。ちょうどクリスマス・シーズンでしたから、粋な選曲と言えるのではないでしょうか。

ここで休憩を挟んで(「ただいまより、15分間の休憩を・・・」とアナウンスされた時、場内からはどよめきが。1曲目は10分ですから休憩なしでやっても良かったのでしょうが、私は「第九」の前には休憩があった方がいいと思います)、メインはベートーヴェン/交響曲第9番「合唱付き」。

今回は主に広上に期待して行きましたが、結果的には栗友会合唱団の独壇場であったと言っても過言ではありません。もちろんこれは、決して広上の演奏が悪かったということを言いたいのではありません。広上=新日フィルのすばらしい演奏が霞んでしまうほど栗友会の合唱がすばらしかったということです。

今年は東響の「第九」も聴きましたから、期せずしてアマチュア合唱団の聴き比べということになりましたが、栗友会合唱団の圧勝でした。もちろん東響コーラスはアマチュアと言ってもほとんどセミプロですから、東響コーラスの合唱もすばらしいものだったと思います。しかし、アマチュア合唱団でここまで透明感がある整った合唱を聴いたのは今回の栗友会が初めてです。とりわけ女声コーラスの透明感という点においては、スウェーデン放送合唱団に匹敵すると言っても過言ではないでしょう(正気です、念のため。)。

ソリストでは釜洞が無理に声を張り上げることもなく音程も安定していたために光っていましたが、テノールとバリトンはどうだったでしょう。市原は年齢の割には健闘していると言うべきなのかも知れませんが、年齢的な衰えが見えないと言えば嘘になります。福井敬が牽引しているテノール界にあって、いま少し若手の台頭がほしいと思いますし、「第九」公演などは若手にチャンスを与えても良いような気がします。バリトンは、東響と共演した三原剛の方が良かったかな。

合唱を称えるばかりでは感想にならないのでオケについても書いておきましょう。広上は例によって拳を突き上げたりと熱い指揮ぶりを見せていましたが、全体としては奇を衒ったような感もなく、ベートーヴェンの作品と正面から対峙していたと思います。

恐らくマエストロご自身は私事を演奏会に持ち込むようなことはしないと思いますが、今年は広上にとって大変な一年でした。まずはご尊父がお亡くなりになり、それでも予定されていた公演をこなすため米国から帰国せずに指揮台に立ちました。その時の演奏会はライブ録音としてCD化されていますが、広上は楽団員に実父の死を一切告げていないにもかかわらず、ステージには広上の父親のために黒いリボンをかけたワインが捧げられたとのこと。いかに広上が楽団員に愛されていたかということを象徴する逸話です。結局、広上は労使関係をめぐる紛争の際に事務局側ではなく楽団員側の味方について、大将自ら詰め腹を切る形でコロンバス響を辞任(事実上の解任)することになりますが、それだけ相思相愛の仲にあったこのコンビが解消されてしまったことは残念でなりません。

実父とコロンバス響という2つの大切な存在に別れを告げなければならなかった広上にとって恐らく今年最後の仕事となるであろう「第九」に、聴く側が勝手に感傷的なものを持ち込んではいけないのかもしれませんが、それでも広上の熱い思いというものはひしひしと伝わってきました。「年末の第九」というイベント的な色合いよりも、「第九」というベートーヴェンの遺した偉大な交響曲にガチンコ勝負でぶつかって行く要素を強く感じさせるというのは、何とも広上らしいと思います。

というわけで、広上一流の力強さの中に新日フィルらしい音の美しさが感じられる演奏だったと思いますが、それすらも凌駕するほど栗友会合唱団がすばらしい合唱を聴かせてくれました。アマチュア合唱団がなぜここまで・・・? 海外のアマチュア合唱団は聴いたことがないけど、日本のアマチュア合唱団のレベルは、実は世界的にも相当なものなのかもしれない。もちろん、プロの東京オペラシンガーズなどは世界に通用する合唱団だと思いますが。

なお、いつもは公演のチラシをエントリー冒頭に掲載していますが、今回はマエストロのご尊父への弔意を込めて、たまたま白黒で印刷されていた当日のプログラム冊子を掲載しています。マエストロはこんなことをされてもお喜びにならないかもしれませんが、これは一方的な私の気持ちです。

2008.12.7

ジョン・アダムズ/「フラワリング・ツリー」(日本初演、セミ・ステージ形式)~ピーター・セラーズ演出、大友直人=東響

最高でした。

ジョン・アダムズについても「フラワリング・ツリー」についても私は何も知らない。たぶん、シーズン会員でなければ今日は来ていなかったと思うんです。でも、本当に行って良かった。

とりあえず今日の布陣を書いておきますと、指揮:大友直人、演出:ピーター・セラーズ、クムダ:ジェシカ・リヴェラ(ソプラノ)、王子:ラッセル・トーマス(テノール)、語り部:ジョナサン・レマル(バス・バリトン)、舞踊:ルシニ・シディ、エコ・スプリヤント、アストリ・クスマ・ワルダニ、合唱:東響コーラス、合唱指揮:有村裕輔でした。

コンサート形式のオペラは以前行ったことがあるんですが、セミ・ステージというのはどういうものかと思ったら、オケの後ろに2メートル弱くらいの高さのステージがあって、そこで歌手陣とダンサーたちが舞台を繰り広げる。もちろん大掛かりなセットがあるわけではなくて、出演者が衣装を着ているだけのものでした。でも、私は現代演出のオペラの意味が全くわからないから、変に現代演出されるよりもこういった簡素な形式の方が私にとっては有難いかもしれません。チケット代も、そんなに高くならないしね。

で、このオペラは今回が日本初演ということで私もこれを観るのは初めて。正直言って、期待より不安の方が大きかったです。「わけわかんなかったらどうしよう・・・」と。

しかし、これはすばらしい作品でした。まず、音楽がそこそこわかりやすい。この、「そこそこ」というのが重要で、現代に問う新作であるからにはあまりに古典的な音楽を付けられちゃうと、「だったら『カルメン』でも観るからいいよ」ってことになってしまう。一方で、あまりにもバリバリの現代音楽を付けられてしまうと、「わけがわからない」ということになってしまう。その点、このオペラは音楽だけでも十分に楽しめる内容を備えており、わかりやすさと現代性の両面を満たすものでした。

また、ストーリーがわかりやすいと感じたのは、登場人物が少なくそれほど複雑なストーリーでなかったことや事前にホームページに掲載されていた「あらすじ」で予習をしていったこともあると思いますが、語り部(ストーリーテラー)が配役されているために文字通りストーリーを説明してもらえるわけです。これはいいですね。

しかし逆に、明快なストーリーをここまで劇的に仕上げるというのは、並大抵のことではないように思います。そんなに展開の早いオペラではないので、第1幕では聴き手の私がやや集中力を欠いてしまった部分もありました。そもそもオペラというものに慣れていないので、字幕と歌手&ダンサーのどちらに視線を向けていればいいのか、なかなかつかめなかったのです。

それでも、第2幕に入ると少し慣れてきたのか、「あらすじは知ってるんだから、そんなに字幕に釘付けになっていなくてもいいんだな」ということに気づき、歌手&ダンサーの方に集中することができました。すると、これが面白いんだ。ダンサーは言葉を発しないし、ぴょんぴょん跳ねるわけでもなくゆっくりと体をくゆらせているだけ。

それなのに、どういうわけだか物凄く重要な役割を果たしているんです。たぶん、いわゆるコンサート形式にしてダンサーがいなかったとしたら、これは酷くつまらないものになっていたと思う。このオペラを正式なオペラ形式でやるときにどういう風にやるのかは知らないけれど、少なくともセミ・ステージ形式でやる限りにおいてダンサーなくしてこのオペラは成り立たない。

また、いつもながら東響コーラスもお見事。いくら上手いとは言ってもアマチュアではあるし、しかも当然ながらこのオペラをやるのは初めてなわけだから、パーフェクトかと言われればそうではないような気もします。ちょっと揃わない箇所もないわけではありませんでした。

でも、そういう「間違い探し」的な聴き方をするのは野暮なことで、日本で初めて上演されるオペラがこれほどのものに仕上がったのは、東響コーラスの貢献によるところも非常に大きいと思います。サポート役に回るところでは出過ぎず、逆に表に出るべきところでは迫力のある合唱を聴かせてくれました。

オケも、とりわけ第2幕は良かったと思います。プレトークでも言われていた通り透明感のあるサウンドでしたが、これは大友直人一流の音でしょう。堅実なようでいてなおかつ感情をえぐるような響きを作り出せていたのは大友の力によるところが大きいと思いますし、もちろん東響という日本を代表するオーケストラなくしてこれほどの演奏は困難だったと思います。このコンビは、聴けば聴くほどいいですね。

本当に東響は指揮者陣に恵まれていると思います。それは、東響が良い指揮者をポストに迎えているというだけでなく、ポストに迎えた指揮者を大切にしているからこそのことでしょう。もちろん客演指揮者の人選もすばらしく、なおかつそういった客演指揮者との関係も回数を重ねるごとに深まっているように感じられます。闇雲にビッグネームを招聘したり、他の国内オケで好評を博した指揮者を後追いで招聘したりするだけではこうは行きません。

それにしても、ハッピーエンドで終わるこのオペラ(特に第2幕)が、どうしてこれほどまでに劇的に仕上がったのでしょう。やはり最大の賛辞を受けるべきは、ジョン・アダムズの音楽そのものではなかったかと思います。いかにも「ドラマチックに仕上げてみました」という感じではなく、静かな部分と迫力のある部分の書き分けが見事で、合唱の用い方も実に効果的。

それに大友=東響の切れ味鋭い演奏と東響コーラスの迫力ある合唱、そして歌手陣の歌唱、ダンサーの踊りが加われば、もはや名演は約束されたようなものだったのかもしれません。

作曲者、演出家、出演者、そしてこのような企画を通してくれた東響の関係者並びにスポンサー。その誰もに、最大限の感謝とブラボーの賛辞をお送りしたいと思います。東響にとってもホールに居合わせた聴衆にとっても、歴史的な一夜となったのではないでしょうか。こういう演奏が可能であれば、このオペラはきっと100年後も200年後も上演されていると思う。近い将来の再演を強く望みます。もちろん、ジョン・アダムズの新作も、また東響で紹介してほしいと思います。

言うまでもなく終演後の会場は異例とも言える大盛り上がり。いつまでもいつまでも、大きな拍手が続いていました。東響のファンで、本当に良かった。

2008.11.30

チョン・ミョンフン=東フィルのマーラー/交響曲第4番 with 森麻季

久々となってしまった東フィルのオーチャード定期。年間会員になっているのに、体調を崩したために今シーズンはあまり行かれていません。ネックとなるのは、やはりホールの立地なんですね。杖を使って歩いている状態だと、歩くには遠い。タクシーを使うには近すぎる(でも、渋滞するからいくらかかるかわからない)。結局、7月以来のご無沙汰となってしまいました。6000円の席を1回あたり4000円ちょっとで買ってるから、何とか元は取れてるのかなぁ・・・?

前半はモーツァルト/「証聖者の荘厳な晩祷」K.339。ソプラノ:森麻季、アルト:小川明子、テノール:望月哲也、バス:成田眞、合唱:新国立劇場合唱団、合唱指揮:三澤洋史という布陣でした。

東フィルが定期公演で合唱を要する曲を演奏する場合、東京オペラシンガーズを起用するのが定番でしたが、最近は新国立劇場合唱団との共演も増えています。そのあたりの事情は部外者の私にはわかりませんが、いずれにしてもプロの合唱団を起用してくれるというのは有難いことだと思います。

この曲は初めて聴きましたが、事前にプログラム冊子の楽器構成を見ていなかった私は、「あれ? ヴィオラは???」と探してしまいました。慌ててプログラムを見ると「弦楽4部」と書いてありましたから、この曲にヴィオラは入っていないんですね。何でヴィオラを入れなかったんだろう?

まずは新国立劇場合唱団のすばらしい合唱を称えるべきでしょう。東京オペラシンガーズが日本を代表する合唱団であることは論を待たないところですが、なかなかどうして、新国立劇場合唱団もすばらしい。プロならではの声量でアッと言わせるというよりも、むしろ静かに声を響かせるという面に重点を置いた合唱であると思いました。一定の声量が出せるというのは合唱団の最低ラインだと思いますが、プロとアマで一番差が出るのは、こういう静かな部分なんですね(但し、アマチュアでも東響コーラスは別格)。これは、オーケストラについても同じことが言えると思います。

オケの方はというと、やはりミョンフンならではのあたたかな音楽作りが印象的。この人はガッチリ締めるところは締めるんだけど、何とも言えない包容力を持った音楽を作り上げることに長けていると思います。モーツァルトの作品に、安心して身を委ねることができました。

ソリストは、テノールの望月哲也こそやや影が薄かったものの、他の3人はすばらしい歌唱を聴かせてくれました。

ここで休憩を挟んで後半はマーラー/交響曲第4番。ソプラノはもちろん森麻季です。

この曲はソプラノをどういうタイミングで入れるかというのが一つの問題となりますが、私が最悪だと思うのは楽章間で入場して拍手が起きてしまうパターン。曲の途中で拍手というのは、どうしても抵抗があります。

その点、今日は第3楽章が終わりかけたところで森麻季がゆっくりと舞台下手から歩いてきてとても良かったです。牛歩戦術ばりのゆっくりさでしたが、正に「女神の登場」という感じがしてこの曲に非常に良く合っていると思いました。こういう風にゆっくり歩いてくるのがベストかもしれません。

ところでこの曲、第2楽章ではコンマス(今日は荒井さん)が2つのヴァイオリンを使い分けています。ソロのときだけヴァイオリンを持ち替えるのですが、私にはその理由が今いちわかりませんでした。そこで、「にのじ@ばよりん的日常」を運営なさっている東フィル第一ヴァイオリン奏者の二宮純さんにブログのコメント欄で質問したところ、以下のようなご回答をいただきました(たぶん二宮さんのお答えの方がわかりやすいと思うので、こちらの記事の二宮さんのご回答もご参照ください)。

すなわち、これはマーラーの指示によるもので、ソロ用のヴァイオリンは2度(=1音)高くチューニングされているとのこと。すると、それだけ弦が強く張られているわけですから、「同じ音」を出しても音色は変わります(まぁ私は意識的には聴き分けられなかったわけですが、無意識裏に感じ取っていたことを祈りましょう。でも、いつも音色がどうこうとか書いているのにこの程度を聴き分けられないとは・・・恥ずかし。。。)。

2度高くチューニングされているヴァイオリンを弾くということは奏者にとっては当然混乱を招くわけで、スコアにはソロ用とトゥッティ(総奏)用に分けて書かれているそうです。そして、ソロ用の方はあらかじめ2度低く書かれているとのこと。2度高くチューニングされたヴァイオリンでその楽譜通り弾けば2度高い音が出るわけですから、楽譜通りに弾けばマーラーの意図した音が出るわけです。

・・・って、書いていても混乱してくるんですが、これはプロの奏者でも混乱するのだそうです。だって、ドの音を出したつもりで弾いたらレの音が出ちゃうんですよ。おまけに、実際に出てくる音と楽譜に書いてある音が異なる・・・。理屈の上ではわかっても、私のような素人には感覚として理解することはできません。

それにしても、凄い時代になりましたね。演奏会に出かけて疑問に感じた点を実際にステージで演奏なさっていたアーティストの方に質問することができて、それに対して大変丁寧かつわかりやすいお答えをいただける。こんなこと、少し前なら考えられません。中でも、にのじ@ばよりんさんのブログはいろいろな裏話も書かれていてイチオシです。「そこまで書いちゃって大丈夫ですか?」なんて、こちらが冷や冷やしてしまうこともちらほら・・・。

演奏に話を戻します。今日は全体的にすばらしい演奏でしたが、白眉はやはり第4楽章。森麻季の美声はこの曲にぴったりでしたし、声を張り上げることなく自然な歌い方をしていたのが心に残りました。ミョンフンの音楽作りはここでもあたたかいもので、優しく聴衆を包んでくれました。それでいてアンサンブルが乱れたりしないのは、ミョンフン・マジックとでも言うべきでしょうか。

以上、ますますこの曲の魅力に気づかされた演奏会でした。

2008.11.29

アルミンク=新日フィルのショスタコーヴィチ/交響曲第9番

アルミンクの意欲的なプログラムを楽しみにサントリーへ。「こんなプログラムでお客さん入るのかなぁ・・・」と思っていたら、定期会員で売り切れているはずのPブロックに空席が目立ったほかはそこそこ埋まっていて、どうやらアルミンクのプログラミングは新日フィル・ファンに支持されている模様。おまけにNHKのカメラが入っていたので、この公演の模様は日本全国に放送されることになる。NHKもなかなか渋いところに収録を入れてきますね。なお、放送は「オーケストラの森」が2009年1月24日(土)16時から。BSは未定とのことですが、いつものパターンだとBS2では全曲放送されるはずです。

1曲目はショスタコーヴィチ/交響曲第9番。なるほど。新日フィルが今シーズン掲げている「秘密」というテーマに照らしたとき、ショスタコーヴィチの交響曲中、この曲ほどテーマに即した曲はありません。ソ連が大戦に勝った1945年に作られたという事実のみ書いておけば、それ以上の説明を付け加える必要はないでしょう。

ここでは新日フィルの誇る木管陣が大活躍。欲を言えば、第1楽章におけるピッコロこそ今一歩の精度が欲しかったものの(ちょっと強欲?)、続く楽章における木管は見事としか言いようがありません。とりわけ、ファゴットの河村さんは技術的に安定しているだけでなく実に表情豊かな音色を聴かせてくれました。ファゴットって、地味なようで実はとても重要ですよね。曲が終わった後、アルミンクが真っ先に立たせて称えたのは河村さん。それも当然でしょう。他のお客さんからも、一際大きな拍手が送られました。

もちろんオーボエの古部さんやフルートの白尾さんも貫禄のパフォーマンス。やっぱりこの曲は木管が命です。クラリネット副首席の澤村さんもなかなかのものでした。更に、金管ではトランペットの服部さんやホルンの吉永さんが安定していて、とにかく個人技ではどこを取っても文句なし(但し、第1楽章における崔コンマスのソロは音程が若干不安定だったかも)。

また、最初は少々腰が重いかなと思ったオケ全体も徐々に軽妙さを発揮し、いかにもアルミンクらしい演奏に仕上がっていました。やっぱり、こういう曲をやらせるとアルミンクは上手いですね。

ただ一つ思ったのは、この曲について必ずと言っていいほど書かれる「軽妙洒脱」という例のキーワード。この言葉は私も使ったことがあるし、別にそれが不適切だとも思わない。でも、今日聴いていて、この曲はただ軽妙なだけの曲ではなく、もう少し深い内容を持った曲であるようにも感じました。随所に、重たい部分もあるんですよね。まぁそれも含めて「秘密」ということなのでしょうから、今日は深入りしないでおきましょう。

ここで休憩を挟んで2曲目はウィリ/「・・・久しい間・・・~フルートとオーボエのための協奏曲(2002/2003)」。基本的にはフルートとオーボエのための二重協奏曲ですが、持ち替えがあるので実際には「フルートとアルト・フルートとピッコロとオーボエとイングリッシュ・ホルンのための五重協奏曲」という大変めずらしい構成の曲です。

なお、当初フルートはウィーン・フィル・ソロ奏者のヴォルフガング・シュルツの出演が予定されていましたが、急病のため息子のマティアス・シュルツが代役を務めました。オーボエは、元ベルリン・フィル首席奏者のハンスイェルク・シュレンベルガー。

この曲はどうだったでしょう。率直に言って、それほど面白い曲だとは思いませんでした。同じウィリが作曲したホルン協奏曲もアルミンク=新日フィルは演奏していて、その時は非常に面白いと思ったんです。しかし、この「・・・久しい間・・・」はソリストの妙技こそ楽しめるものの、何とも安っぽい動機が繰り返されたりと完全に飽きてしまいました。ボンゴの使い方もあまりに凡庸。

ただ、二人のソリストとオケのオーボエ、フルート、クラリネットを抽出して掛け合わせるところなどはなかなか面白いアイデアだと思いましたし、そこでは二人のソリストに負けじと新日フィルの木管陣も大健闘。ここをこれだけできる国内オケはそれほど多くないのではないでしょうか。でも、どうせだったら下を支えていたクラリネットを外してオケの方もオーボエとフルートだけにした方が、より面白い試みになったのではないかとも思います。

続いて3曲目はヤナーチェク/「シンフォニエッタ」。これはいきなり13人もの金管バンダ(別働隊)がオルガン前で高らかにファンファーレ。でも、最初っからオルガン前をライトで照らしちゃってるのでそれがバレバレ。アルミンクが指揮棒を高く掲げた瞬間にライトをパッと照らしてファンファーレを鳴らした方が、エンターテインメント性があっていいんではないかと思います。もちろん、この曲を知っている人にはあまり意味のない演出かもしれませんけどね。

このファンファーレはバンダの13人中12人がエキストラだったこともあってか、今いち合っていない。ここはきっちり合わせないと台無しでしょ。若い人が多かったけど、全員がプロ奏者というわけでもないのかなぁ?

その後は、ウィリの作品ほど退屈はしなかったものの、どうもヤナーチェクはよくわからない。随所に「あぁ、いいな」と思えるところはあっても、全体としての大きな流れが私には理解できないんです。第五楽章冒頭のフルートの三重奏など、オケの個人技を楽しむにとどまりました。

そして再びライトが早々と付けられてバレバレの、バンダによるファンファーレ。ここもやっぱり合ってない。そりゃ他のオケだって忙しいわけだし、13人もの金管陣を他のオケの主要メンバーからトラに呼ぶのは難しいのかもしれないけれど、せめてバンダのトランペットのトップに、降り番だったヘルツォークさんを配置するとかできなかったのかなぁ。もちろん様々な事情があるのでしょうが。。。

というわけで、バンダを除けば演奏にはあまり不満はありませんでしたが、作品自体に今一つ馴染めなかったために大満足とは行きませんでした。ヤナーチェクを普段全く聴かない者の感想ですので、適当に読み流して置いてください。

以上でコンサートは終了。こういった意欲的なプログラムを組めるのは在京オケの指揮者ではアルミンクと下野が双璧だと思いますが、またいろいろな作品を紹介してくれることを期待したいと思います。テレビでもう一度、河村さんの超絶パフォーマンスを聴けるのはうれしい。

2008.11.23

ヴァンスカ=読響のベートーヴェン/交響曲第4番、第8番

ヴァンスカのオール・ベートーヴェン・プログラムを楽しみに横浜みなとみらいホールへ。

ヴァンスカは以前から一度聴いてみたいと思っていた指揮者ですが、その演奏に触れるのは今日が初めて。しかしヴァンスカのベートーヴェンは評判も良く、以前から楽しみにしていました。ただ、席が2階正面席になってしまい(マイ・セレクト会員で買うとき、読響取り扱い分は完売とのことで席が選べなかった)、ここは以前聴いたときの印象があまり良くなかったのでその点はやや不安・・・。

1曲目は序曲「コリオラン」。オケは全曲対向配置でした。ヴァンスカの出す音は私が何の根拠もなくイメージしていたものとは異なり、結構重厚なもの。こういう重たいベートーヴェンは必ずしも私の好みとは合致しないんだけど、不思議と聴いていられるんです。別に快速テンポですっきりやるだけがベートーヴェンでないのは当然のことで、むしろこういったスタイルで堂々と勝負することができる指揮者というのは案外貴重なんではないかと思います。

続いて2曲目は交響曲第4番。私はベートーヴェンの交響曲というと、第2、第4、第8、第9番あたりが好きで、この第4番も大好きな曲。ちなみに次点では第1、第5、第7あたり。あれ? 第3と第6は?ってことになるんですが、恐らく私が第6番の良さをわかるようになるには、もう少し歳を重ねていくことが必要なのではないかと推測しています。そういう意味で私にとって、歳を重ねるということはあまり否定的な要素を持たないんですね。第3番は演奏次第かな。

それで、第4番の演奏ですが、これはなかなかに良かったのではないかと思います。ただ、好きな曲だけに「そこはクレッシェンドで行った方が・・・」などと思う箇所もあり(もっともスコアを持っていないのでそういう指示があるのかどうかは知らない)、大満足というほどでもありませんでした。やはり、パーヴォ・ヤルヴィ=ドイツ・カンマーフィルの名演と比べると分が悪いというのが正直なところです。

ここで休憩を挟んで3曲目は序曲「命名祝日」。これはそれほど多く聴き込んでいる曲ではありませんでしたが、それなりに良い演奏だったのではないでしょうか。

続いて4曲目は交響曲第8番。これは冒頭のテンポが若干速めだったこともあり、重厚さを維持しつつも私の好みとも合致する演奏でした。ヴァンスカ、なかなかやるじゃない。

聴いていて思ったのが、やはりベートーヴェンは偉大だなぁという当たり前のこと。「一番好きな作曲家は誰ですか?」と訊かれたら、今の私はショスタコーヴィチかマーラーを挙げると思います(以前は躊躇なくショスタコーヴィチだったけど、最近マーラーの重要度が増してきた)。しかし、「一番偉大な作曲家は誰だと思いますか?」と訊かれたら、私はベートーヴェンを挙げると思う。変に気の利いた言葉を使うと却って伝わらないと思うので敢えて稚拙な表現をすると、やっぱりベートーヴェンは「凄い」んです。

そして、そのベートーヴェンの偉大な交響曲に対して正面から対峙した今日の演奏は、本当にすばらしかったと思います。来年の読響の「第九」はヴァンスカが担当するとのことで、早くも私は来年の「第九」は読響にしようと決めました。

パーヴォのようなベートーヴェンもすばらしいし、私はパーヴォのベートーヴェンの方が好きです。しかし、ヴァンスカのベートーヴェンも実にすばらしい。まだ聴いていらっしゃらない方は、ぜひ一度ヴァンスカのベートーヴェンを体感なさってはいかがでしょうか。

なお、かなり久々にみなとみらいホールの2階正面席で聴いた感想ですが、音量的にも不足することなく大変バランスの良い音響を楽しむことができました。以前聴いたときは、オケがやや非力だったのかな・・・?

2008.11.22

トプチャン=アルメニア・フィルの「シェエラザード」

今回が初来日となるアルメニア・フィルハーモニー管弦楽団を聴きにオペラシティへ。

アルメニア・フィルについての予備知識はないに等しくて、何となく「別に上手くなくてもいいから勢いのある『シェエラザード』が聴きたいな」と思ってチケットを取りました。

しかも今日はプログラム冊子を買わなかったのでチラシに載っている限度での情報となってしまいますが(プログラム冊子を販売するのは別に構わないし、実際買うこともあるけど、値段に見合うものを作ってほしい。質量ともにペラペラの冊子で1000円はないでしょ。)、アルメニア・フィルはアルメニアの首都エレバンで活動するオーケストラで、創立81年の歴史を持っています。

しかも、創設者はリムスキー=コルサコフの弟子であるスペンディアリアンだということですから、今日の「シェエラザード」は正に本流を行くオーケストラの演奏ということになるでしょう。なお、音楽監督・首席指揮者のトプチャンは2000年から音楽監督の任にあるとのこと。両者の息の合った演奏にも期待することができそうです。

1曲目は、ハチャトゥリアン/バレエ組曲「ガイーヌ」より「剣の舞」、「レスギンカ舞曲」ほか。この曲は「剣の舞」ぐらいしかきちんと聴いたことはありませんが、その肝心の「剣の舞」でアンサンブルが乱れてしまったのは痛恨でした。トプチャンはやや速めのテンポを要求していたように思われましたが、パーカッションがそれについて行けない。これではこの曲の醍醐味が失われてしまいます。「シェエラザード」は大丈夫か・・・とやや不安。

続いて2曲目は、チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリンはカトリーヌ・マヌーキアンです。マヌーキアンの演奏は録音も含めて聴いたことがありませんでしたが、日本でも東響や東フィル、大阪センチュリーなどと共演しているそうですからお聴きになった方もいらっしゃるかもしれません。

このマヌーキアンの演奏は、技巧的に安定しているだけでなくチャイコフスキーの名曲をきちんと聴かせてくれるすばらしい演奏であったと思います。はっきり言って、私は特別この曲が好きではないんです。むしろ、翌日に予定されているハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲の方を聴きたかった。しかし、マヌーキアンの演奏は技巧的に安定しているだけではなく、コクのある響きなどなかなかのものだと思いました。でも、だからこそハチャトゥリアンを聴きたかった・・・という思いは残ったりするわけですが。。。

ここで休憩を挟んでメインは、リムスキー=コルサコフ/交響組曲「シェエラザード」。まずはコンマスが美しい音を出してくれたので一安心。やはりこの曲は、コンマスのソロが命ですからね。

そして、上述の通り私は「別に上手くなくてもいいから勢いのある『シェエラザード』」を・・・と思っていたのですが、存外にアルメニア・フィルの技巧は安定していました。私の愛聴盤はコンドラシン=コンセルトヘボウ(ヴァイオリン・ソロ:ヘルマン・クレバース)とゲルギエフ=マリインスキー劇場管で、今日の私は後者のようなタイプの「シェエラザード」が聴きたかった(なお、ゲルギエフもかつてこのオケの音楽監督をやっていたことがあるそうです)。

しかし、トプチャンの解釈はゲルギエフほど(良い意味で)「下品」にはなっていなくて、もう少し落ち着きのあるものでした。その意味ではやや肩透かしを食らった感は残りましたが、迫力のある金管などは旧ソ連の面影を残しており、やはりメジャー級とは言えないオケの方がその地域独特の響きを残しているのかなという認識を新たにしました。

アンコールはボロディン/歌劇「イーゴリ公」より「だったん人の踊り」。こちらも迫力あるいい演奏でしたが、どうせなら「シェエラザード」もこのノリでやってくれたら良かったのに・・・という思いは残りました。

というわけで、何の気なしに取ったチケットではありましたが、全体としては満足することができ、また一つ好きなオーケストラが増えました。また、トプチャンという俊英の指揮者も、ぜひ国内オケに招聘してほしいと思います。

ところで、アルメニアってどこだっけ・・・?(あぁ、ここね。旧ソ連の国はどの辺りに位置するのかなかなか覚えられない。。。)

2008.11.15

岡田博美のシューマンとフロラン・シュミット

岡田博美のリサイタルを聴きに東京文化会館小ホールへ。いつも書いていますが、岡田博美は私が世界で一番好きなピアニスト。そんなピアニストの演奏がこういった小さなホールで聴けるというのは、本当にありがたいことです。ただ反面、これほどすばらしいピアニストのリサイタルに当日券が出てしまうというのは、岡田博美の大ファンとして複雑な心境ではありますが・・・。

前半は、シューマン/「子どもの情景」と「交響的練習曲」(変奏曲形式による練習曲)。この中では、やはり「交響的練習曲」が圧巻でした。ここでは岡田博美の変幻自在の音色が遺憾なく発揮され、一体この人はどれほど多彩な音色を持っているのだろうと驚嘆するばかり。こういう曲を弾くと、岡田博美は天下一品ですね。若い頃はその卓越した技術が人々を驚かせたそうですが、今の岡田博美は高度な技術を維持しつつもこうしたバリエーションに富む音色で聴衆を魅了します。本当にすばらしい演奏でした。

ここで休憩を挟んで後半は、フロラン・シュミット(1870~1958)/「ちぎれた鎖」(ピアノのための組曲)と「幻影」。どちらも初めて聴く曲である上にシュミットの作品を聴くこと自体も初めてでしたので詳しいことは書けませんが、どちらも岡田博美の持つもう一つの魅力が存分に発揮された名演でした。

岡田博美は静かに音を奏でることにも秀でていますが、そのスリムな体型からは想像もつかないパワフルな打鍵も大きな魅力の一つです。また、このような現代曲を私のような素人にもわかるように聴かせてくださいます。それは、岡田博美の同曲に対する深い理解と敬愛の証でもあり、こうした耳慣れない作品を意欲的にプログラムに取り入れることで現代を生きる我々にシュミットの音楽のすばらしさを伝えてくれるということでもあります。

また、単にミスなくパワフルに聴かせるだけが岡田博美の魅力でないことは論を待たないことであり、静かに聴かせるべきところはあくまで静かに、心に染み入るような演奏を聴かせてくれたのが印象的でした。このあたりは、正に岡田博美の魅力全開といったところでしょうか。

終演後はサイン会が開かれ、私も列に並びました。行く度にいただいているので既にいくつもサインはあるんですけど、ちょっとチャレンジングなことをしてみたかったのです(右画像はクリックで拡大)。

「大変失礼かとは思いますが・・・」と前置きした上で、手の大きさを比べてほしいとおねだり。すると岡田さんは、「ピアノをやってらっしゃるんですか?」などとおっしゃった上で私のおねだりに応じてくださいました。するとびっくり。何と、岡田さんの手は私の手より少しだけ小さいのです。ご自分でも、「ピアニストとしては大きい方ではないと思います」とおっしゃっていましたが、私の手も特別大きい方ではありません。私の手は思いっきり広げて親指から小指まで22センチと少々。岡田さんの手は、それよりも1センチ弱(7ミリくらい?)ほど小さかったでしょうか。

しかし、岡田さんはどんな難曲でもいつも涼しい顔をして弾いていらっしゃいます。私はちょっとテンポが速くなると余裕で届くはずのオクターブですら音を外してしまうのに、岡田さんがその程度のことで音を外すなんてことは勿論ありません。バルトークの協奏曲ですらあたかも簡単であるかのように弾いてしまいます(もちろん、実際にはめちゃくちゃ難しいわけですが・・・)。当たり前のことではありますが、やはり想像を絶するような努力をなさっているのですね。親指から小指まで伸ばして20センチ以上あれば、手の大きさは言い訳にならないということでしょうか。

アンコール曲(フォーレ/「シチリアーノ」、シューマン/「預言の鳥」)の写真を撮ろうとしたら他のお客さんに話しかけられて、「何をお話しになっていたんですか?」と訊かれたので手の大きさを比べていただき、私の手を見せながら「僕の手より少し小さいんですよ」と申し上げると、大変驚いていらっしゃいました。そりゃそうですよね。私もてっきり、岡田さんの手は人並みはずれて大きいものだとばかり思い込んでいましたから・・・。

なお、岡田博美は2009年2月の東響定期にも登場しますが(リスト/「死の舞踏」)、3月7日(土)にも東京国立博物館平成館にてアルベニス/イベリア第1巻、ショパン/エチュードop.10-3「別れの曲」、同op.10-12「革命」、ガーシュイン/3つのプレリュード、リスト/愛の夢第3番、メフィスト・ワルツ第1番というプログラムでリサイタルを開くそうです。東京国立博物館に問い合わせたところまだチケットは売っていないとのことでしたが、こちらもぜひ行きたいと思います。

2008.11.14

飯守泰次郎=シティ・フィルのマーラー/交響曲第9番

ごめんなさい。どんな言葉をもっても表現することができないので、何も書く気が起こりません。ただただ、大変な名演奏でした。以上です。

2008.11.10

ヤンソンス=ロイヤル・コンセルトヘボウ管のメンデルスゾーン/交響曲第4番「イタリア」ほか

コンセルトヘボウを聴きにサントリーへ。

ヤンソンス=コンセルトヘボウのコンビは、以前ミューザで聴いたことがありますが、その時はあまり満足することができませんでした。しかし、「ラ・ヴァルス」ならヤンソンスの音楽性が存分に発揮されるのではないかと思い、チケットを取ったのでした。

今日はほぼ満員で当日券もS席(28000円)が若干枚数残っているだけでしたが、逆に言うとコンセルトヘボウの公演が前売りでは完売にならないんですね。世界でも5本の指には入るであろうオーケストラの演奏が、ウィーン・フィル(S席35000円)やベルリン・フィル(S席40000円)よりもはるかに格安な価格で聴けるにもかかわらずこの状況は、一体どのあたりに理由があるのでしょうか。普通のクラシック音楽ファンならば、コンセルトヘボウの実力はご存知だと思うのですが・・・。やはり、VPOやBPOの来日公演は、日ごろクラシック音楽にそれほど親しみのない人が多く詰めかけているということなのでしょうか?

1曲目は、いきなりドヴォルザーク/交響曲第8番。普通は後半に演奏されることの多い曲ですが、今日はいきなりドヴォ8からスタートです。

冒頭の弦の音色は、正直それほどすばらしいとは思えませんでした。「ハイティンク時代の繊細でありながら表情の深いあの弦を聴くことはもう叶わないのか・・・」とやや落胆。

その後も、第3楽章などは大袈裟にならない程度にうまくテンポを調整しながらヤンソンスらしい音楽を聴かせてくれましたが、かつてのコンセルトヘボウの響きとはやはり違うとの思いを拭い去れません。「ヤンソンスがコンセルトヘボウをダメにした・・・のか?」と思いました。途中からはウトウト。。。まだ杖をついているので、溜池山王駅からサントリーまで歩くだけでも結構疲れちゃうんだよなぁ。地下鉄に乗らないでアークヒルズまでタクシーを使うのはどうにかやめられたんだけど。まぁ今年中には杖も卒業できるでしょう。

ここで休憩を挟んで、2曲目はメンデルスゾーン/交響曲第4番「イタリア」。メンデルスゾーンの交響曲は普段全く聴かないので、CDで軽く予習はしていったもののほとんど初めて聴く状態でした。

しかし、今日のメインはこの「イタリア」であったと言っても過言ではありません。繊細な弦の音色を聴くことができただけではなく、嫌味のないテンポ調整はヤンソンスならではのもの。なじみの薄い曲なので詳しく書くことは出来ませんが、この曲がこんなにも楽しいものであったのかと瞠目するばかり。また1曲好きな曲が増えました。名演というほかないでしょう。来年はメンデルスゾーン・イヤーということで、日ごろは演奏されることの少ない初期交響曲が演奏される機会もあり、できるだけ足を運びたいと思います。

そしてラストは、ラヴェル/「ラ・ヴァルス」。これはもう、ヤンソンスの独壇場でしょう。「音の破綻? 何それ? 野放図な爆演? それが何か?」というような、正にやりたい放題の演奏でした。私の好みとしては大友直人=東響の演奏に軍配を上げたいと思いますが、まぁこの曲の場合は楽しんだ者勝ちみたいなところもあるわけでして、鳴らしたい放題鳴らしてくれる今日のような演奏も、非常に気持ちのいいものです。

アンコール1曲目は、ドヴォルザーク/スラヴ舞曲op.72-2。お決まりの選曲といった感もありますが、もうこれはコンセルトヘボウの弦の魅力が存分に詰め込まれたすばらしい演奏でした。どうして交響曲でこの響きが出せないのかわからないんだけど、単に1曲目は私が疲れていただけなのかなぁ?

アンコール2曲目は、J.シュトラウス2世/ポルカ・シュネル「ハンガリー万歳」op.332。これはヤンソンスがウィーン・フィルのニュー・イヤーでも取り上げた曲ですね。最初っから最後まで楽しくて仕方のない、正にヤンソンス節が炸裂した快演でした。最後の掛け声も粋でいいですね。思わず笑みがこぼれました。

なお、終演後はサイン会が開かれ、私も「ラ・ヴァルス」の収録されたCDのジャケットにサインをいただいてきました。

2008.11.8

大友直人=東響の「威風堂々」第3番ほか with グルミネッリ

「ここでこんな楽しいことが行われていたなんて・・・」と、うれしい後悔をした演奏会でした。

今日は大友直人プロデュースの東響芸劇シリーズ。今季の3回目でした。

1曲目はエルガー/行進曲「威風堂々」第3番。「威風堂々」は第1番ばかりが有名で、恐らく私も全曲を通して聴いたことはないと思います。

しかし、わずか5分ばかりのこの曲を、大友は文字通り実に堂々と仕上げ、大変すばらしい演奏に仕上がっていました。この時点で、「あぁ、安い席でもいいから芸劇シリーズも会員になっておくんだった・・・」と私は大後悔。やはりイギリス音楽をやらせると、日本人指揮者で大友の右に出る者はそうそういないでしょう。

続いて2曲目はP.マクスウェル・デイヴィス/「オークニー諸島の婚礼と日の出」。P.M. ディヴィスは1934年、マンチェスター生まれのイギリスの作曲家。この曲もディヴィスの作品も初めて聴いたので細部は覚えていませんが、ボストン・ポップス・オーケストラの委嘱により作曲されたとのことで親しみやすい一方で、なかなか聴き応えのある曲であるように思われました。

曲の終盤で大友が客席を振り返ったので何が始まるのかと思ったら、1階席左手後方から東響首席クラリネット奏者の十亀正司が民族衣装に身を包んでバグパイプで登場。「おぉ、そこから出てくるか・・・」と驚くと同時に、大友はやはりエンターテイナーだなぁと感じました。ステージに階段がかけられていたのはそのためだったんですね。

せっかくめずらしい楽器が登場するのにこの曲では出番が少ないからということで、アンコールは「ハイランド・カテドラル」。ここでも十亀は1階客席内を歩きながら演奏したりと、存分に楽しませてくれました。こういうサービス精神があると、私の東響好きにはますます歯止めがかかりそうもありません。

ここで休憩を挟んで3曲目はモーツァルト/フルート協奏曲第2番。フルートはアンドレア・グルミネッリです。グルミネッリのフルートは録音も含めて初めて聴きましたが、非常に高度な技巧を持っているだけでなく、やや寒色系の太い音色は正に私好み。ランパルやゴールウェイといった私の大好きな巨匠たちに師事したこともあるとのことで、今後は注目していきたいと思います。共演者もプレートル、ジュリーニ、メータにレヴァインと、これまた錚々たる指揮者たちが並んでいます。

続いて4曲目は三枝成彰/フルート協奏曲。これは初めて聴きましたが、グルミネッリの超絶技巧が余すところなく発揮される難曲で、それをあたかも簡単であるかのように吹いてしまうグルミネッリの力量には舌を巻きました。ただ、先日の話の蒸し返しになってしまうのは本意ではないのですが、曲の方はそれほど優れた作品ではないように思われました。

これが例えば大河ドラマのテーマ曲として作曲されたのであれば、私は高く評価したと思います。しかし、これは特にタイアップを得ているわけではありませんから「現代音楽」として作曲されたものと推察され、そうだとすれば私には三枝がこの作品を現代に問うた意味がわかりません。

大変聴きやすい曲ではあると思いますし、何も不協和音を奏でるだけが現代音楽ではないとも思います。しかし、その後に演奏された黛敏郎が25歳で書いた作品と比べても、還暦を過ぎた作曲家が5年前に発表するには、いささか物足りないというのが率直な感想です。

こう書くと、「大河のテーマなら良くて現代音楽ならダメとはどういう意味か」という反論があると思います。この前も申し上げた通り、私はクラシック音楽の方が映画・映像音楽より上だという発想は持っていません。例えば映画のサウンドトラックを作曲する際にバリバリの現代音楽を作ってしまったとしたら、映画を見ている方はドン引きしてしまうことでしょう。要は、音楽にもそれぞれ与えられた役割があるということです(用法的には少しおかしいですが、音楽にもTPOがあるということです)。

それでもなお、「無意識のうちにクラシック音楽や現代音楽を高く見ているのでは?」というご批判はあると思います。しかし、例えば私は同世代の友人にはほとんど理解されない演歌も好んで聴きますが、演歌が「くだらない」とか、「どれも似たようなもの」と言われてしまう風潮があることは非常に残念に感じています。私が演歌を聴き始めたのは、五木ひろしの「山河」を紅白歌合戦で聴いたのがきっかけですが、これは歌詞(作詞:小椋佳)も曲(作曲:堀内孝雄)も歌唱(五木ひろし)も本当にすばらしい作品であり、これについてクラシック音楽との価値の優劣を論じることは全く意味のないことだと思います。

脱線ついでに「山河」の歌詞について少しご紹介しておくと、私がこの歌詞で最もすばらしいと思うのは、「愛する人の瞳(め)に 愛する人の瞳(め)に 俺の山河は美しいかと。美しいかと。」という部分です。ここでいう「俺の山河」とは自分の人生を指しているのだと思いますが、人生の終わりに、第三者や社会ではなく、あくまで愛する人の目に自分の人生が美しく映ってほしい、愛する人の目に自分の人生が美しく映っていればそれでいい、という思いが切々と訴えかけられているように感じます。

その上で、現代音楽として今回の三枝の作品を聴いたとき、ソリストのテクニックを存分に堪能できるというエンターテインメント性はあるとしても、やはり聴き応えがあるとは言い難いと感じます。もちろん感じ方は人それぞれですので、私の感じ方をどなたかに押し付けるつもりはありませんし、この曲を高く評価される方の見識を疑うことも一切ございません。

ただ、とにかくグルミネッリの妙技を堪能することができた点には大満足で、また東響に招聘してほしいと思います。できれば、物凄~~~く難しい曲で(笑)。ハチャトゥリアン、イベール、ジョリヴェ・・・。

そして最後は黛敏郎/「饗宴」。これは前述の通り黛が若干25歳の時に書いた作品で、「作曲者自身の説明によると、この作品は『音響の饗宴』そのものを意図しており、『饗宴』という言葉には、それ以外の意味はない」(プログラム冊子より引用)とのことですが、そういったエンターテインメント性を前面に押し出した作品でこれほどの内容を備えているというのは驚きですらありました。黛の偉大さを改めて感じます。

演奏の方も大変すばらしいもので、(これは今年2月にも「ラ・ヴァルス」を聴いた時に感じたことですが)、大友という指揮者は大音量を破綻なく聴かせることに長けた指揮者だという思いを新たにしました。国内では東響常任指揮者、京都市響桂冠指揮者、東京文化会館音楽監督などの要職を務めていますが、国際的な舞台にも更に活躍の場を広げてほしいとも思います。特にイギリス音楽やフランス音楽はすばらしいと思いますし、日本人作曲家の作品を更に世界に紹介する上で、欠かせない指揮者の一人なのではないでしょうか。

とにかく、今日は楽しかったです。あぁ、やっぱり今季は芸劇シリーズも会員になっとくんだったなぁ・・・。

あ、そうそう。今日は初めて東京芸術劇場の1階LBブロックで聴いたのですが、ここは音響的にも視覚的にもすばらしい席ですね。芸劇の1階席はサントリーほどではないものの、若干音が上に行ってしまう印象があり、傾斜も少ないので視覚面でも優れているとはいえません。しかし、ここは適度な高さがある上に2階LB・RBなどと比べて音のバランスが良く、今後、お気に入りの席になりそうです。

2008.11.5

テミルカーノフ=サンクトペテルブルク・フィルの「悲愴」ほか

今まで行った全てのコンサートの中で、これほどガラガラなコンサートは初めてでした。

今回は、当初予定されていた3日のサントリー公演が中止になって、そのプログラムを急遽オペラシティで予定されていたプログラムと差し替えるという不運もあったと思いますが、それにしても客席が3分の1、いや、4分の1埋まっていたでしょうか。3階バルコニー席こそほぼ埋まっていたものの、2階バルコニー席ですら半分少々しか入っておらず、全体ではせいぜい500人程度だったのではないかと思います。1階席にいたっては、中央ブロックの20列目より前を除いては、ほとんどお客さんがいませんでした。

これには、前述の通りプログラムの変更による払い戻しも影響したとは思います。しかし、仮にもサンクトペテルブルク・フィルがチャイコフスキーの第6番をメインにする公演でこの客入り。やはり、このコンビでS席20000円というのはいくら何でも無理があったのではないでしょうか。確か前回来日時は15000円だったように記憶していますが・・・。

1曲目はチャイコフスキー/「ロメオとジュリエット」。これは今までそれほど多く聴いてきた曲ではありませんでしたが、金管の迫力などはさすがロシア・オケという感じで、大迫力の痛快な演奏でした。

続いて2曲目はチャイコフスキー/「ロココの主題による変奏曲」。これも私は普段それほど好んで聴いているわけではありませんが、ソリストのタチアナ・ヴァシリエヴァが非常に高度な技巧を駆使したパフォーマンスを披露してくれ、なおかつ変化に富んでいたため、大いに楽しむことができました。それを目当てに聴きに行ったわけではない、日ごろ自主的にはあまり聴かない曲の魅力に改めて気づかせてくれるというのもまた、コンサートならではですね。

ここで休憩を挟んでメインはチャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」。冒頭はもう少し暗い音色がほしいような気もしましたし、音の入りがずれてしまう箇所も見受けられるなど、弱点を探そうと思えば見つかります。ここでも金管は大迫力でしたが、かつてのレニングラード・フィルの流れを汲むこのオケならば、弦には更なる鋼鉄のごときサウンドを求めたくなる思いもあります。

しかし、テミルカーノフらしく必ずしも彫の深い演奏ではなく、なおかつそのような演奏は必ずしも私の好みのタイプの演奏ではないにもかかわらず、第4楽章が終わった時の得も言われぬ安息感は一体何だったのでしょう。「もともとこの曲が好きだから」というのは確かにあると思います。それでも、好きな曲なればこそ思い入れも深いわけで、あそこをこうしてほしいとかいった思いもいろいろとあるのです。

にもかかわらず、テミルカーノフの「悲愴」はこのところ身の回りがバタバタと忙しかった私の心に静かな安らぎをもたらしてくれました。本当に、すばらしい演奏だったと思います。静かな演奏の中にテミルカーノフの作り出す音楽の大きさを感じたのかもしれません。

私はいつまでも拍手を続けていたい気持ちでしたが、楽員の方が楽譜をめくり始めたため、「まさかアンコール???」と嫌な予感。そして、「悲愴」では出番のない奏者がステージに出てきたためにアンコールの存在を確信した私は、仕方なくカーテンコールの途中で席を立ちました。ショスタコーヴィチの第5番の後にアンコールをやるのは、もうとやかく言いません。マーラーの第5番の後にアンコールをやるのもギリギリ許す。でも、チャイコの第6番の後にアンコールをやるのだけは絶対にやめてほしい。何をやっても、蛇足以外の何ものでもない。そして、「悲愴」の演奏が充実して入ればしているほど、その後には何も聴きたくない。

それにしても、せっかくのいい演奏もこの客入りでは・・・と思います。主催者はもう少し考えてほしいですね。

2008.10.21

サロネン=ロサンザルス・フィルの「マ・メール・ロワ」、「火の鳥」

日本では恐らく最後となるであろうサロネン=ロサンザルス・フィルハーモニックのコンビを聴きにサントリーへ。今日は協奏曲がないから予算の都合もあってRAブロックにしたんだけど、ロス・フィルでC席13000円は正直高いと思います(だって、コンセルトヘボウと同じですよ?)。案の定、ホールはガラガラ。これほどサントリーがガラガラだったのはちょっと記憶にないくらいで、せいぜい6~7割の入りだったのではないでしょうか。2階のLD・RDはもちろん、Cブロックの前方まで空席が目立つというのは、やはりチケットの価格設定に無理があったのではないかと言わざるを得ません。

これがウィーン・フィルやベルリン・フィルならあっという間に売り切れるのに、ちょっとオケのネーム・バリューが落ちるとこの有様。私はこのコンビにはそれだけの価値があると思ったからお金を出したわけだけど、高額なチケット代を設定した主催者を責めるべきなのか、VPOやBPOばかりにお金を出す聴衆を責めるべきなのか、微妙なところです。もちろん常識的な価格設定なら聴衆が責められる謂われは全くないんだけど、今日と同じ曲目をムーティ=ウィーン・フィルとサロネン=ロサンゼルス・フィルがやって、チケット代が同じだというなら私は後者を選ぶ。

1曲目はファリャ/「恋は魔術師」から3つの踊り。これはよく知らない曲でしたが、この後に続く他の曲に大きな期待を抱かせるすばらしい演奏だったと思います。

続いて2曲目はラヴェル/「マ・メール・ロワ」。これはもう、びっくりしました。それまで、アメリカのオーケストラというと力強い金管というイメージが強くて、いくらサロネンが振るといっても正直ここまでの演奏は予想していませんでした。

何が凄いって、全部凄いんです。金管の安定感はもちろんのこと、木管がメチャクチャ上手い。アメリカのオーケストラでこれほど優美な木管が聴けるとは、うれしい誤算でした。しかも、弦がまた凄いんだ。こんなに透き通った弦の音色は、フランスのオーケストラでもそうそう聴けるもんではないのではないでしょうか。いや、まだ生ではパリ管とか聴いたことないし、下手なこと言わない方がいいかな・・・。

それにしても、終盤へ向けての弦の美しさは筆舌に尽くしがたいものだったなぁ。名演というほかありません。このコンビでシベリウスが聴けたら、ロスまで飛んで行きたいくらい。たぶん無理だけど。

やっぱり、音楽の世界でもボーダレス化というのは進んでいるのかもしれませんね。残念ながら生では聴いていないけど、昔はそれぞれの地域にそれぞれ特有の音があったように思います。しかし昨今、有名なオケになればなるほどそういうものは消えていって、むしろあまり名の知られていないオーケストラの方が古き良きその地方の音を残していたりするような気もします。

もちろんこれは一概に良し悪しを語るものではなくて、それだけ世界のオーケストラ全体のレベルが上がってきているということでもあるんだけど、もし私が日本人でなかったら、昔の日本のオーケストラと今の日本のオーケストラを比べてどう感じるのかというのは一つ知りたいところです。昔の日本のオケには、「日本的」ないし「アジア的」な音があったのだろうか。それとも、最初から西欧文化をストレートに受け入れていたのだろうか。こればかりは、日本人である私にはわからない。もちろん、地方オケなどを聴くとそれぞれに特色のある音を出しているけど、それをもって「関西的なサウンド」とか「広島風のサウンド」などと言う人はいないだろうし・・・。お好み焼きじゃないもんね。

ここで休憩を挟んで、3曲目はストラヴィンスキー/「火の鳥」(全曲版)。これがまた痛快な演奏で、とにかく技術レベルがケタ違いに高いもんだから気持ちいいことこの上ないんです。もちろん音楽というのは技術だけで成り立つものではありません。しかし、それを重々承知の上でなお、これほどまでに技術力が高いとやっぱり気持ちいいんだな。

いつもは「日本のオケも捨てたもんじゃないよ」みたいなことをよく書いていて、その前言を撤回するつもりはありませんが、それでもやはりたまには名の通った外国オケを聴きに行きたくなる。それは、この辺に理由があるのかもしれません。日本のオケには日本のオケの良さがあり、時として世界的に通用するのではないかと思われる演奏をすることもめずらしくはないんですけどね。でも、今まで生で聴いたVPOやRCO等の名のある海外オケを含めても、ここまで上手いのは聴いたことがない。

なお、休憩時にロビーでサインを求めている人を見かけたので誰にサインを貰っているんだろうと思ったら、ノセダが聴きに来ていました。そういえばNHK音楽祭等のために来日中でしたね。ノセダが振るロス・フィルなんてのも、聴いてみたい気がします。

アンコールはシベリウス/悲しきワルツとストラヴィンスキー/「花火」。悲しきワルツは必ずしも私好みではありませんでしたが、「花火」の方はすばらしい演奏でした。

それにしても、ロサンゼルス・フィルでこのレベルってことは、来年のシカゴ響はもっと期待しちゃっていいってこと? 何か聴きに行くの恐くなってきた。あ、もっと凄かったらどうしようという意味と、実はそれほどでもなかったらどうしようの両面で・・・。

2008.10.20

キタエンコ=東響のチャイコフスキー/交響曲第5番

「この後には何も聴きたくない」。そう思わせる演奏会だった。

今日は一昨年、ショスタコーヴィチ/交響曲第7番「レニングラード」で空前絶後の名演を残したキタエンコが東響定期に再登場。あの「レニングラード」を生で聴いた人、あるいはあの「レニングラード」の評判を聞いて駆けつけた人、たまたまチャイコフスキーを聴きに来た人。様々な人がいただろうが、平日夜&翌日にミューザでも公演がある(そちらは完売)ということもあって満員にはならなかった。しかし、終演後の聴衆の熱狂を見れば、今日の演奏会が大成功であったことに疑う余地はないだろう。

1曲目はシューベルト/イタリア風序曲第1番。これは聴き慣れない曲だったので詳しく書けませんが、このキタエンコという指揮者は本当にいろいろな音をオケから引き出す指揮者だなぁと思いました。

続いて2曲目はショスタコーヴィチ/チェロ協奏曲第1番。チェロはモーザーです。このチェリストは録音も含めて初めて聴きましたが、結論から言って今後最も注目すべきチェリストの一人であろうと思います。若手の奏者らしく技巧面で安定しているばかりではなく、その切れ味の良さはショスタコーヴィチ演奏に適していると言えるのではないでしょうか。

また、カデンツァの入りでは、キタエンコがしばらく指揮棒を降ろすことなく構え、楽員も楽器を構えたまま止まっていました。そうすることにより、カデンツァへの入りに凄まじいほどの緊張感が生まれ、キタエンコが指揮棒を降ろした後もその緊張感が持続しました。つまり、キタエンコはソリストのみが演奏する箇所でもオーケストラ全体を掌握し、大げさに言えばホール全体を支配してしまったのです(「支配」という言葉は適切ではないかもしれないけど、まぁ意を汲んでください。要は、それほどの緊張感に包まれたということです)。

モーザーのアンコールはJ.S.バッハ/無伴奏チェロ組曲第1番より「サラバンド」。大変すばらしい演奏で、今度来日した時はぜひリサイタルの方にも足を運びたいと思いました。コダーイの無伴奏とか、弾いてくれないかなぁ。

ここで休憩を挟んで、メインはチャイコフスキー/交響曲第5番。あの「レニングラード」の演奏の後、マエストロは「今度客演する時はチャイコフスキーを」と希望したそうですが、ああいう演奏を聴いてしまうともう一度ショスタコーヴィチの交響曲が聴きたいと思っていたというのが正直なところです。何なら、もう一度「レニングラード」を演奏してくれても良かった。

しかし、今となってはそれは大きな誤りであるばかりか、マエストロに対して極めて失礼な愚考だったと言うほかありません。

キタエンコの演奏を聴くのは前回東響に客演した時が初めてでしたし、それを聴いた後にショスタコーヴィチの交響曲全集を買って聴きましたが、考えてみればショスタコーヴィチ以外の曲をキタエンコの指揮で聴いたことは一度もありませんでした。ただ、前回聴いた「レニングラード」の演奏から推察するに、ゆったりしたテンポの堂々とした演奏を予想していました。

そして演奏が始まると、やはりテンポはやや遅め。ただ、キタエンコの演奏の魅力はそれだけにとどまりませんでした。何と言えばいいのでしょう。どのような言葉をもってあの演奏をお伝えすれば良いのか非常に難しいですが、私の知る限り、日本のオケの奏でる音がこれほどまでに色気を帯びていたのは聴いたことがありません。

ホルンを筆頭に金管セクションが安定していたのは特筆に値しますし、ロシアン・ブラスを彷彿とさせるようにバリバリ鳴らしていたのも気持ちが良かった。そして、フレーズの受け渡しが絶妙でオケ全体と見事に溶け合っていた木管セクション。それに、東響特有の艶のある弦が加われば、もう名演は約束されたようなものです。

しかし、キタエンコの演奏はそれ以上のものでした。一体どこをどうすれば日本のオケからこれほどまでに色っぽい音を引き出すことができるのでしょう。以前、フェドセーエフ=モスクワ放送響のチャイコフスキーを聴いた時に、オケの響きの色彩感について私はこう書いている。すなわち、「あの響きは日本のオケにはありません」と。

経験不足とは恐ろしいもので、こんな不見識なことを平気な顔で書いてしまう。もちろんこれはその当時の私の嘘偽りのない感想であって、正しいとか間違っているとか、そういう問題ではないのかもしれません。それにしても、まだそれほど多くの演奏会に足を運んでいるわけでもない段階で、こんなことを断言してしまったことを、今となってはただ恥じ入るばかりです。

今回の演奏でとりわけ印象深く残っているのが第2楽章の終わり方。やや長めに伸ばした音の消え行く様の美しさたるや、筆舌に尽くしがたいとは正にこのことを言うのでしょう。今まで何回この曲を聴いたか見当もつかないけれど、第2楽章がこれほどまでに美しく終息するということに私は気がつきませんでした。「こんな風に死ねたらいいな」なんて少し思ったりした。まぁ、まだ曲の途中なんですけどね。あ、でも、ひょっとすると死とは必ずしも終わりを意味するのではないのかもしれない。現に、チャイコフスキーは今でも生きているわけだから。

そしてスケール感たっぷりの第4楽章。そこには間違いなく、広大なロシアの大地がありました。今までも、この曲の第4楽章が「立派な音楽だ」という認識はありました。しかし、それを前にして涙が出そうになった経験は今回が初めてです。たとえば「悲愴」のような暗い曲調であれば、涙することは何ら不思議ではないかもしれないけれど、どちらかと言えば前向きな表情を浮かべるこの第4楽章のあまりの大きさ。それはひょっとすると、初めて太平洋を見たときの感動に似たものかもしれないし、初めて地平線を見たときの感動に似たものなのかもしれない。

もっと言えば、人間という小さな存在に対する、大いなる自然の包容力。そうしたものに私は心を動かされたのだと思います。自然の大きさに人間がひれ伏す必要はないと思うし、人間という存在を超えたものを神格化して崇めることばかりが己を見つめることになるのではないと思う。ただ、自分以外のあらゆるもの、それは同じ人間であってもいいだろうし動物や自然であってもいい。そういったものに対する敬意や感謝の念といったものは、やはり持つべきなのではないかと改めて感じさせられた。なぜなら、己以外の存在の大きさを知ることなくして己の存在をはかることはできないから。

またちょっと話が大きくなっちゃいました。。。音楽の話に戻ると、私はキタエンコという指揮者はとんでもなく大きな音のカタマリをほころびなく美しく聴かせることに長けた指揮者だと思っていました。しかし、キタエンコの魅力はそれだけではない。舞曲風のところは楽しく躍らせることもできるし、小さく静かな響きを奏でても大きく深みのある音楽を聴かせる。そして、何より楽員に気持ちよく演奏させる術を知っている。

こんなすばらしいチャイコフスキーは今まで聴いたことがなかった。以前、飯守泰次郎先生がおっしゃっていた「名曲こそ難しい」というお話。それをこのキタエンコというマエストロは、体現して見せた。この曲はもともと好きな曲だったけれど、それでも、これほどまでの傑作だとは思わなかった。マエストロは言葉ではなく演奏を通じて、この曲の魅力を余すところなく私に教えてくださった。キタエンコならばすばらしい演奏をするだろうとは思っていたけれど、予想をはるかに上回る名演中の名演だった。ブラボー。

なお、終演後はどうしてもマエストロに会いたくて楽屋口で出待ちをしました。もちろん、サインはほしかった。でもいつも書いているように、私がサインを貰いに行くのは、サインをしていただくときのほんのちょっとしたやりとりが思い出に残るから。

そして、私はどうしても前回の「レニングラード」に大変な感動を覚えたことをマエストロに伝えたくて、サインをいただく時に思い切って声をかけてみた。出待ちしている間に「何て言えばいいのかなぁ」なんて頭の中でいろいろセリフを考えていたけど、いざマエストロを前にすると緊張してしまってその時に考えていたセリフなんてどこかへ行ってしまった。

しかし不思議なもので、本当に伝えたいことがあるときはセリフなんて考えなくても自然に出てくるものなんですね。結局私はやや興奮ぎみに、2年前にここで「レニングラード」を聴いて、それは"historical performance"であったと思うとマエストロに伝えた。するとマエストロはとてもうれしそうににっこり微笑んでくれて、"Thank you."とおっしゃってくださった。2年の歳月を経て、私はマエストロにあの時の感動を直接自分の言葉で伝えることができたのだ。それは私にとって、サインをいただけたことの何十倍も何百倍も大切な思い出だ。サインは手元に残ったけれど、"Thank you."とおっしゃってくださった時のマエストロの笑顔が写真に残っているわけではない。でも、私はあの時のマエストロの素敵な笑顔を一生忘れない。

そして、またマエストロの音楽が聴きたい。来年はN響やウィーン放送響と共演するとのことなので、頑張ってチケットを取ろうと思います(ウィーン放送響の方は両日とももう押さえてあるんだけど、N響の方はサントリーだし争奪戦が大変そうだなぁ)。

なお、どこまで公にしていい情報なのかわかりませんが、今回のチャイコフスキーをCD化するべく努力はしているとの噂を小耳に挟みました。どうなるかはわかりませんので、「あくまで噂」レベルの話として受け止めてくださればと思います。

あ、ついでに、長らく工事中だったアークヒルズ森ビルの元サブウェイのところに、"plates"というイタリアンのお店ができるそうです。オープンは11月28日。

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