伝統的なジャン(醤油や味噌などの総称)類のうち、最も遅く韓国の食生活に導入されたコチュジャンは、世界で例を見ない韓国民族が自ら作り出した独創的で固有の香辛調味料の1つである。唐辛子が伝来する前には山椒、川椒、胡椒などを利用し、辛い味を出すものを椒醤といったが、唐辛子が導入されてからコチュジャンに定着した。

まず唐辛子が韓国に入ってきた歴史を考察してみると、1613年の「芝峰類設」によれば、唐辛子が日本から来た芥子だという意味から「倭芥子」と呼んだことで、それ以前に入ってきたことが推定できる。また朝鮮開化史によると、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際、韓国民族を毒殺するために持ち込まれたが、韓国民族の体質に合ったため好んで食べたという記録があり、壬辰倭乱の頃に唐辛子が入って来た可能性が高い。
唐辛子という名は「訓蒙字会」によると、「苦」が今は辛い味を指すが、ここでは火花で燃えるという意味だったので、唐辛子を「椒」に「苦」を付けて「苦椒(コチョ)」と書き、唐辛子(コチュ)と呼んだという。

このようにコチュジャンは、唐辛子が流入した16世紀以降開発された韓国の伝統的食品として、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の前後、日本から唐辛子が伝来し始めた16世紀以降、開発されたジャン類で朝鮮後期以降の食生活様式に大きな変化をもたらした。

初期の唐辛子の使用は、酒のつまみとして唐辛子そのものを使ったり、唐辛子の種を使っていたが、17世紀後期には唐辛子を粉にして、以前から使ってきた香辛料である胡椒、川椒を使用した。川椒を混ぜて漬けたジャンを「川椒醤」という。次第に唐辛子栽培の普及によって一般化し、従来の味噌、醤油兼用のジャンに辛い味を添加するコチュジャンを漬けることに変遷、発達することになった。

こうした歴史の中で、我々が唐辛子を導入し、肉食よりは菜食中心の韓国の食生活で刺激的な味が味覚を高めることに大きく寄与したことで、コチュジャンが様々な形に発展して今に至っている。
コチュジャンの漬け方に対する最初の記録は、朝鮮中期の「増補山林経済」(1766年)にある。速成味噌のような形のジャンで、ここにはコチュジャンの味を良くするため、乾燥した魚、昆布などを添加したという記録から見て、当時今日のようなコチュジャンが作られていたことが分かる。
英祖(朝鮮の21代王)の時代にイ・ピョが書いた「松聞事説」(1740年)中の食治法「淳昌(スンチャン)・コチュジャンの製造法」には、穀倉地帯である淳昌地方の有名なコチュジャンを漬け方として、アワビ、大エビ、貽貝、生姜などを付け加えて他の地方とは違う変わった方法で漬け、栄養学的にも優れていたことが分かる。

「歴酒方文」の「コチュジャンの漬け方」には、精麦を混ぜる方法があり、「閨閤叢書」には少し進歩して必要な材料の量を紹介しているが、特にコチュジャンの味噌麹を別に作った漬け方と、塩で味付けをする方法などは、現在のものと似ている。また蜂蜜、干し肉、ナツメを混ぜるなど、現在より華やかな内容のコチュジャンの漬け方が紹介されている。その後次第に唐辛子の使用量が増え、現在のように塩水で味付けをする方法が主流になった。

「農家月令歌」(1861年)中「三月令」を見ると「人間の重要な仕事、ジャンを漬けることだ。塩を予めもらって方法通り漬ける。コチュジャン、豆腐ジャンも合わせて」と三月にコチュジャンを漬けることを教えている。

こうしたコチュジャン製造法は先祖の知恵で持続的に開発され、種類が多様化した。麹の粉と唐辛子の粉という基本的な主材料にもち米を混ぜて作ったもち米コチュジャン、うるち米を混ぜて作ったうるち米コチュジャン、黍を混ぜて作った黍コチュジャン、麦を混ぜて作った麦コチュジャン、小麦を混ぜて作った小麦コチュジャン、小豆を混ぜて作った小豆コチュジャンなどがある。この他にも味噌麹の粉を作って残った味噌麹のかすに太い唐辛子を入れて作ったかすコチュジャン、お焦げを集めておいて作ったお焦げコチュジャンなどが開発され、庶民から愛された。

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