キートンのセブンチャンス (1925)
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さらっと差別
2008/11/20
by
アキラ
問題を抱え借金だらけのキートン。恋人にプロポーズしようにも彼女にまで苦労はかけられないと弱腰。そんな彼に朗報。祖父が亡くなったので莫大な遺産が転がり込む。だが遺言により譲渡の条件がある。それは、その日の午後7時までに結婚しなければならないというもの。これはしめたと恋人のもとに駆けつけるが上手く切り出せずに誤解されてしまう。困っていると友人が花嫁探しに協力。ナンパに出かけ「セブンチャンスだ」とパーティに来ていた7人の女性を口説こうとするがあえなく撃沈。焦った友人は花嫁募集の公募を出す。
花嫁の大群に追いかけられたり大岩に追いかけられたり後に様々なハリウッド映画で模倣される名シーン満載のキートン作品を代表するラブコメな訳だが話自体にはあまり共感できませんでした。何よりもヒロインとの関係が最初から最後まで両想いで何も危なげを感じさせない所がドラマとして弱い。だからこそキートンの七転八倒自体が「こんなにも想い合っているのに結ばれないかもしれない」というサスペンスになる訳だが、その主人公自体に魅力を感じられないのでピンチに興味を惹かれない。簡単に恋人との結婚を諦めて多数の女性に声をかける不誠実さに呆れたから。さらりとマネキンと黒人女性を同等に扱ってしまう差別意識にムカついたせいもあるかもしれない。良くも悪くもキートンは典型的な米国白人。
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事実誤認です
2009/02/01 by
鳳仙子
>さらりとマネキンと黒人女性を同等に扱ってしまう差別意識にムカついたせいもあるかもしれない。良くも悪くもキートンは典型的な米国白人。
お言葉ですが「マネキンと黒人女性を同等に扱ってしまう差別意識」というのは完全な誤解ですよ。貴方が指弾なさっているのは主人公が花嫁候補を探している途中で街の美容院に迷い込み、カットモデルのマネキンの頭と本物の女性の頭を取り違えてしまう場面なのだと思いますが、ここに登場する女性は黒人ではなく、歴とした白人です。
そして更に重要なのは、主人公がその直前の場面で必死に追いかけて後ろから声をかけている通行人の女性こそが黒人だという事です。何故ならキートンは立派な衣装を着た彼女を、人種などに拘らずごく普通の女性として口説こうとし、全く普通に振られているからです。
私はキートンの大ファンとして、彼を事実誤認から「(当たり前のように人種差別をする)典型的な米国白人」と決め付ける意見は聞き捨てなりません。「キートンの異人種観」という物を論じるおつもりなら、まずは短編の「白人酋長」や「隣同士」をご覧になって下さい。そこで彼がアメリカ先住民や黒人を物語にどんな風に組み込んでいるか、それが本当に侮辱的なものかをじっくり観察なさってからご発言下さい。
私は元来この二本を観てキートンという表現者を信頼するようになったのです。人種差別の事を言うならば、今日の凡百のコメディ映画の方が我々東洋人を平気で愚弄しておきながら、黒人には上辺だけ気を使って他人種を平等に扱う義務を果たした気になっており、余程偽善的で不愉快ですよ。キートン映画は総じて白人至上主義が自明の常識であった当時の米国において、他人種を驚異的な程自然に扱っています。 -
Re: さらっと差別
2009/02/16 by
アキラ
はじめまして。
キートンファンの方が相手となると米国に対しあまり好意的ではない私が何を云っても角が立ってしまいそうですが、とりあえず誤解だけは解いておきたいと思います。これは誤認ではありません。ヅラの一件に関しては片方が黒人でも同等の扱いとはなりません。”後姿で声をかけたが相手がマネキンだったから止めた”というシーンの後に”後姿で声をかけたが相手が黒人だったから止めた”というシーンが同列にある事を指して私は同等の扱いと書いているのです。”人間じゃない物=マネキン=結婚できない=黒人”って事は”黒人=人間じゃない物”って事になります。当時としてはこれが南部出身者の仲間内で共感を集められるネタだったのでしょう。どの作品を見ても良くも悪くも彼の南部気質は明らかですし。一般的に代表作とされる『大列車追跡』でも南北戦争でどちら側だったかを見れば明白ですし『海底王』での未開人の扱いにしても明らかに米国人特有の偏見で有色人種を笑いものにしています。
また自ら演出していた頃の『(白人)酋長』や『隣同士』も私は子供の頃に何度か見ていますが短編で記憶が極端に古い作品までレビューし始めると曖昧な記憶で一万件以上書く羽目になりそうなので、このサイトには『落下の王国』をきっかけに再び見た作品と最近初めて見た作品のみを記しています。それで、それらの短編の表現がネイティヴの擁護になっているとするのは酷い偽善と誤解の元に思えます。ここに描かれるネイティヴは偏見の産物でしかありません。彼らの文化の表層をディフォルメしただけです。これはコメディを作る上では常套手段。だが悪く云えばネイティヴを笑いものにして金を儲けたとも取れます。
弱い立場の民族を擁護するのであれば旧ソ連に対しウクライナではドヴジェンコの『ズヴェニゴーラ』があったり、アルメニアではパラジャーノフの『火の馬』があったり、ウズベキスタンではラジコフの『演説者』があったり、本気で大国に存在を認めて貰いたい民族の作家たちは責任ある明確な立場を示しています。残念ながらキートンの表現はもっと享楽的でメッセージ性とは程遠い。この点に関しては批評家連中に蔑まれる原因でもある訳だけど、そこに後付けで意味を持たせようとするのは尚更みっともなく感じます。DVD版では”OilShark”を”ハイエナども”と訳しているが、いくら後付けで批判的スタンスを臭わせても後のアルドリッチの『アパッチ』や『ワイルドアパッチ』ですら新しかった白人至上以外のスタンスをキートンが持っていた事にするのは無理があります。むしろキートン映画の魅力は古き良き西部として後のペキンパー映画に描かれるような風土に生まれ育った男たちの気質を感じさせる米国映画ならではの世界です。「黒人蔑視が仲間との共通認識として笑いに繋がるならそれも良し」とちまちました事には拘らないからこそ生まれた派手なコメディ。キートンの業績を賛美するならば下手に差別を隠すよりも、その点を根底から肯定してあげて欲しいものです。 -
やはり事実誤認です(1)
2009/02/17 by
鳳仙子
ご回答ありがとうございます。私の反論に対する反論を拝読しましたが、残念ながら貴方の意見には依然として、単純な誤解と認識の飛躍が複雑に絡み合った事実誤認の色が濃厚です。どの辺の誤解から解いていったら良いものか…
>”後姿で声をかけたが相手がマネキンだったから止めた”というシーンの後に”後姿で声をかけたが相手が黒人だったから止めた”というシーンが同列にある事いいですか。私が件の場面を説明するに当たって何時、
>”後姿で声をかけたが相手が黒人だったから止めた”
と書きましたか?それが違う、と申し上げているのです。私の好きな映画の一場面がこれ程までにねじ曲げられて再現されるのは不愉快です。かなり頑固な記憶違いをなさっておいでのようなので、まず明確にしておきますが、「問題」の美容院のシーンには黒人は一人も出て来ません。私が先の反論で指摘したのは、キートンが美容院に入る「前」(”後”ではなく)、つまり美容院が登場する直前の、美容院のシークエンスとは全く関わりのない街頭の場面で、早足で彼を追い越して前を歩いていた件の黒人女性に追い縋り、礼儀正しく帽子を取って声をかけた所、「その女性の方に」相手にされず、つれない態度でフラれているという事実です。つまりここで最も肝心なのは、相手を拒否する権利を与えられていたのは「白人男性」であるキートンの方ではなく、「人種不問の、不特定多数の女性の一人」という意味合いを帯びて登場していたその黒人女性であったという点です。従って、貴方が今回の投稿文の中で、
>”後姿で声をかけたが相手がマネキンだったから止めた”というシーンの後に”後姿で声をかけたが相手が黒人だったから止めた”というシーンが同列にある事
>”人間じゃない物=マネキン=結婚できない=黒人”って事は”黒人=人間じゃない物”
という表現によって示唆した物、言葉を換えれば、貴方がいわば呼応し響き合う一対の差別表現だったのではないか、という風に疑った「声をかけたが黒人だったのでやめた」場面(=実際には存在しない、キートンと黒人女性とのやり取りを読み違えたという錯誤に基づく架空の場面)と、その直後の「美容院でマネキンの頭と生身の白人女性の頭を取り違えた」場面との因果関係は最初から存在しなかったという事になります。これは私が今回、該当場面を改めて以下のURL
"Buster Keaton - Seven Chances 5/8 (1925)"
<リンクURL>
において何度も見返して確認しましたので間違いありません。私の推測ですが、貴方が「美容院に黒人がいる」と誤解してしまったのは単に貴方がご覧になったバージョンの画質が悪く、画面が暗かったからではありませんか?上の動画を参照なさった上で、この点をどうかご再考下さい。
一方、「キートンの異人種観」についてですが、まずご指摘の件の中には一部頷ける部分がある事も確かです。実の所、私もまた今日の良識から考えて、彼が『海底王』において、白人の妄想の産物に過ぎない「南洋の人喰い人種」を敵役に設定した脚本を採用してしまった事は大きな失点であったと内心口惜しく思っています。故に些細な事ですが、私は今の所『海底王』を「ファン(映画)」に登録する事は敢えてしておりません。
(以下、次の投稿に続きます) -
やはり事実誤認です(2)
2009/02/17 by
鳳仙子
しかしながら、キートンとその映画にはそうした失点を補って余りある大らかな気風が横溢しているという私の信念は依然揺らぎません。私はまず、彼が『大列車追跡』を作るに当たり、北軍側の一兵士が主人公であった原作を南部側からの視点に書き換えたという有名な事実をもって即、彼がKKKの成員のような白人至上主義の信奉者であったと断ずるような乱暴な推論には与しません。
そして何より私が先に例に挙げた『白人酋長』についても、先住民を「ただ金の為に面白おかしく描いて利用した」とは考えておりません。言っておきますが、これは彼が脚本において悪役を先住民の群れではなく"Oil Sharks(悪徳石油会社)"とし、先住民がその不正に対して憤り決起する過程をきちんと描き、彼らの立場を「擁護」して体裁を整えたという表層的な事実のみに拠っているのではありません。代わりにこの作品において私が特に評価するのは以下のシークエンスです。
後半、先住民と悪徳白人との荒野の対決の場面で、先住民に受け入れられ「白人酋長」("Little Chief Paleface")となって戦いに参加していたキートンは出くわした敵の一人に銃で脅され、その人物が着ていたフロックコートにトップハットの白人風衣装と、彼が先住民の「一員」となって以来纏っていた民族風アレンジの衣装を無理矢理取り替えさせられた後、同じ白人という事で、遠目に彼の顔と敵の顔の見分けがつかない味方の部族に一転して矢を射掛けられ追われる羽目に陥りますが、私見ではこの作品においてキートンの異人種観を考察する際、最も注目されるべきは正にここなのです。
何故ならこの描写にこそ、キートンが米国における白人支配を正当化するイデオロギーとしての「白人至上主義」や「白人世界における人種間関係」といった従来の固定観念から全く自由ではなかったにせよ、本質的には無縁であったという事が明確に表れているからです。彼がここでほのめかしているのは「白人は常に正しく、従って常に守られていて当然」というご都合主義の「常識」では決してなく、「仲間になったつもりでも衣装を戻せば結局は敵同士」ひいては「"種族の違い"もしくは"民族の血"はそれ程までに非情」という冷徹な人間観です。つまり、以上をもって、彼の根本的な考え方の基になったものは如何なる偏った先入観とも無縁の、素朴で無垢な生活哲学であったと推察する事が可能でしょう。
また、彼が貴方の挙げられた社会派映画・政治映画の作り手達のように、問題意識を盛り込んだ自覚的な映画作りをしていなかった事は当然です。彼が自作を通じて追求していたのはあくまでも娯楽なのですから。従って「『白人酋長』は白人と先住民の在り方の違いを利用して笑いを取った『享楽的な』映画である」と言われればただ頷くしかありません。ただし、ここで彼が利用したのはあくまで「互いが暮らす世界の落差」であって、決して「地位の差」ではありません。むしろ私は、彼が最も関心を抱き、自らの表現に取り込もうとしていたのは「この世界のありのままの姿とその滑稽さ」であり、だからこそその作品のどれもが、安易な同情や偽善に溺れるという陥穽に陥る事もなかったのだ、と確信しています。
事実、キートンの映画ほど偽善やその表れである過度な贖罪意識といった不自然な要素から遠く隔たった作品群はないでしょう。言うなれば彼は「無自覚」であったのではなく、仏教にいう「無分別知」、即ち賢しらな思想や概念に囚われず、物事を無闇に分け隔てしない一種の天然の智慧の持ち主であったように思うのです。要するに、本人としては難しい事を一切考えずして知らぬ間に世の真理を突いていた、とも言えましょう。 -
やはり事実誤認です(3)
2009/02/17 by
鳳仙子
以上の事は、私が彼の創作物に接するようになって以来自然に抱いていた率直な感想であり、貴方の仰るように利口ぶって必死に「後付け」で構築した理屈ではありません。また、貴方が非難なさっている「キートンの人種差別意識」なるものを隠蔽し、綺麗事で糊塗しようとする意図など、こちらには毛頭ございません。私の主張はあくまで「(『海底王』の脚本に見られる欠陥のように)皆無とは言えないにせよ、キートンの作品における白人至上主義の影響は、時代背景に比して驚異的な程希薄である」という一点です。
第一、貴方は
>後付けで意味を持たせようとするのは尚更みっともなく感じます。
という表現を使い、私がキートンを過度に礼賛していると言ってたしなめているおつもりのようですが、貴方がキートンに向けて不用意に発した「(人種差別の担い手である)典型的米国白人に過ぎない」との非難の方が余程深刻で重大な決め付けであり、「後付け」もしくはこじつけではないでしょうか。一人の表現者に対する粗暴な中傷は「(小賢しく)後付けで(何の意味もない所に)意味を持たせようとする」事の弊害とは比べ物にならない程の悪影響を残すものです。
無論、誰にどのようなレッテル貼りをしようが、それは言論の自由であり、尊重されるべきものです。けれども私は今回、貴方と正反対の見識と信念の持ち主として、明らかな事実誤認からなる貴方の意見を放置しておく事が出来なかった為、同じ様に与えられていた言論の自由を行使しました。私の意見が必ずしも貴方に受け入れられるとは思いませんが、キートンの事を何も知らずにこのページを見た人があらかじめ無用な偏見を持ってしまわぬようにとの一心から今回の一連の投稿に至りました。
※最後に、貴方はまたキートンを繰り返し典型的南部人であるかのように断定していますが、ついでに申し上げると、これもやはり酷い事実誤認ですね。キートンの出生地はカンザス州ピクア(Piquaもしくは"Pickway":キートン自伝における表記)であり、米国の地域区分では「南部」ではなく「中西部」となります。(但し土地の気質としては南部に連なる「バイブルベルト」に属している為、やはり保守的なキリスト教原理主義の信奉者が多いようですが)ちなみにそこも、インディアナ州およびアイオワ州出身の旅芸人だった両親が巡業で立ち寄っていた際、臨月を迎えていた母親がたまたま産気づいて彼を出産した為に偶然出生地となった所であり、厳密な意味での彼の故郷ではありません。
本人は生まれた時から両親に従って米国各地を転々としており、その途上での主な公演先は、例えばニューヨーク・ブロードウェイの有名な演芸場であったりしました。従ってキートンは南部とは縁もゆかりもなく、故に「南部気質」なるものも有しておりませんでした。ご参考までに。
[キートンの自伝および複数の評伝による]
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