攻撃陣形

攻撃陣形は古くからおそらく人類の発生以来、研究されたと思われる。もし敵・味方が軍隊を形成しているとすれば野戦で雌雄をつけるためには、何らかの陣形を準備せねばならない。

それでも、防御であれば陣形は古くからの形、「鶴翼の陣」が優るとされている。これは横一線に広がり、戦略予備隊をやや後方に配置し敵に突破や包囲作戦に出られた時、弱くなった部分を手当てするというもので、縦深陣地戦術が編み出されるまで、理想の防御陣形とされた。

問題は攻勢に出る場合で、将領によって様々な陣形が工夫された。

@方陣戦術は敵が線で広がっているとすれば味方は四角形の陣形を持って突入すくなくとも局所で優勢を占めるという考え方である。ギリシャ人が様々な工夫を行ったとされ、方陣=ファランクスという言葉を残した。ただ、槍をもつ重装歩兵がこの時代の主力兵科であり、実際の戦いでは最前列の少数の重装歩兵のみが戦うことになった。

A縦隊戦術は方陣戦術と異なり、双方が騎兵部隊という機動力をもち、また榴弾は発明されていないが砲兵が遠距離から脅威を与えられるという時代の産物である。

機動戦術と結びつき、迂回作戦による包囲、側面攻撃と組み合わされた。このため司令官自ら作戦を立案、更に攻撃のタイミングを決断した。指揮しやすいよう騎兵・歩兵は縦隊陣形(コラム)で司令官はしばしば最先頭で指揮した。この戦術は日本海軍がとりいれ、日露戦争で艦隊を縦隊に編成したことは有名である。また機甲師団や戦車師団はこの陣形を多用する。

B横隊戦術は塹壕戦となり戦線が膠着した場合、1点を狙い突破しようとする場合に用いられる。攻撃部隊は大隊規模で横一線に並び、塹壕とりわけ機関銃ポストなどの強化地点(トーチカ)を狙って進む。まず最強の脅威を取り除こうとしたのだ。第1波が失敗すれば第2波・第3波が次から次へと攻撃した。

すると機関銃ポストからは同じ的(マト)が同じ地点に何回も出現するように見える。当然命中させることは簡単である。イギリス軍のソンム戦の悲劇がこれである。朝鮮動乱で中国義勇軍もこの戦術をとり人海戦術と呼ばれた。

C塹壕戦が膠着するようになると、突破は不可能であると考えられた。ところがそれまでも夜間パトロールなどで第一線壕を占拠することはいとも簡単に出来ていた。すなわち少人数で弱い地点を襲撃し塹壕を突破することは難しいことではない。1916年ロシアの将軍ブルシロフは自身の名前がついたブルシロフ攻勢で攻撃部隊を10名前後の分隊に細分化し、約500Kmの幅で多点突破作戦を実施した。攻撃は例をみない成功で、オーストリア=ハンガリー陸軍の骨格を破砕した。




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