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雑感
来週のプレゼンテーションの打ち合わせ → 会議6時間、途中で前年度実績の分析報告 → 来週用のプレゼンテーション作って終わったら午前3時半。企画課のリーマンか私は(挨拶)。
というわけで疲弊したので少し晩酌。ジョッキに氷とともに入っているのはホッピーではなく、ビアラオというラオス製ビールです(他にあるのかは知らない)。冷蔵庫がまだ十分ではないせいだと思うのですが、現地ではよくこうして氷に注いで飲みます。まあ邪道ですが、暑い中でこうして薄まった軽いビールをぐびぐびやるのもなかなか風情のあるものでした。ビール自体はアルコール5%程度の、まあ軽いけどそれほど不思議ではない味のものです。指導している大学院生(と言ってもラオスの職業裁判官ですが)からお年賀にもらったのでありがたく堪能しました。というわけで、雑感。
- AとBが対立している場面において、「Aを絶対善だと考えるな」という主張が「Bが絶対善である」という主張を含んでいるという意見は理解不能で、むしろ「AにもBにも問題点がある」という意味だと理解する方が普通だと思う。さらにそこで「それは『どっちもどっち主義』だ」と批判する人はきっと過失相殺とかない世界の住人なんだろうなあとは思うのだが、日本で社会科学の専門家を名乗る資格には大いに疑義が呈されてしかるべきだと思うのでもうちょっと落ち着いた方がいいと思う。
- というか「動いている車同士の事故においてはどちらかが100%正しいということはない」とは巷間よく言われることなのであるが、だから衝突のパターンを細かく分類してみたり双方当事者の責任割合を加重したり軽減したりする要因を細かく細かくリストアップしてみたりして一生懸命実体的正義にかなった判断を導こうと関係各位が努力しているわけであって、弱者に対する配慮とか必要であってもその判断基準の内部で処理すればいいわけである。それを否定して「100%善か、悪か」という発想に立てば双方の一応合意できるような紛争処理は不可能になり、一方当事者が他方当事者を暴力的に打倒するという形でしか平和が回復されることはなくなるだろう。
- でまあ、基本的にはそうなれば定義上弱者が勝利する可能性はきわめて低くなるので、弱者に味方したい人がそういう「1か0か」的観点を称揚するというのはどういう自爆行為だろうと思うわけである。いや私は(思想的)リベラルなので他人を巻き込まない限り誰かが自爆する自由を擁護したいと思っているところではあるが。
- もちろん、しかし直接的・一対一の関係では弱者であっても周囲を巻き込むことによって社会全体の対抗関係においては強者に転化し得るんですという反論はあろう。まあその、のびた君はジャイアンに対して弱者であるがドラえもんを引っ張り出してくれば逆転するとか、あるいはスネ夫としずちゃんと出来杉君の説得に成功すれば何とかなるとか、そういうこともある。この可能性についてはまあがんばってくれというか、確かに存在すると思うので誰かがそれに賭ける可能性を否定しようとは思わない。ただその場合、それはもう完全に当事者としてのコミットメントなので、まあアカデミシャンとしては死ぬよね(それが何ほどのことであるかはともかく)という気はするわけである。
- まあでも、白燐弾デマゴギーとかに付き合うのは端的にアタマワルイのでやめたがいいよね。フィロソフィーが云々言っていた人がいて、いやその事実の因果関係記述は(事後に制作されるので)無数にあり得るってのはまんまダントー・野家啓一の「ナラティブ(物語り)」論だし、従って当然そのなかから特定の「物語り」を選別する基準が重要になってくるわけである(てえのは私が『法解釈の言語哲学』でちゃんと書いておいたことなわけだが、歴史記述に関する部分は単行本に収録しなかったので一般の方にはアクセスしにくいらしいジャーナルに載っているだけではある)。個々人が心の中で信じている分にはそれはもうどのような基準に従っていただいても自由なわけであるが、特に弱者の権利を保護した社会的な合意形成のためには一定の手続的正義にかなった基準が要請されるだろう(さもなければ「大衆の健全な偏見」によって被差別者に不利な「物語り」が選択されてしまう)。科学や法というのはこの「物語り」の選抜に関する手続的基準として存在するわけ(前者は主に事実に関する因果関係記述に、後者は規範的関係に中心がある)。
- で、その基準ということについて言えばデイヴィッドソンのprinciple of charity(訳しにくい)というのが有名であって、これはつまり他者ができるだけ賢明かつ合理的であると想定した解釈をしようという話。他者が不合理だとか愚かだという想定を置けばたとえば歴史記述にしても何でも言えてしまうので検証不能だし、知的怠惰に陥る(「なぜ加藤某が秋葉原で大量殺傷に及んだかというとヤツは出来損ないのくるくるパーの生来的犯罪者だからだ」と決めつければ別に派遣労働者問題への対策とか考えないでいいわけで)。だからそれはダメですよ、というわけ。
- 白燐弾問題についてJSF氏が言っているのはこういうことであって、つまり「殺傷目的で白燐弾を使う」というのは、他に殺傷効果が高くて合法でイスラエルが実際に持っている兵器がある以上わざわざ不合理な手段を選択しているという主張になりますよと。もちろん上記三点のどこかをひっくり返すか、別の要因からそれが合理的な選択だと示せれば話は別なのだが、それができなければ「イスラエルは愚かだ」と信じなさいと言って回っているのと同じことであって、何らかの事情でそれを信じ込んでしまいたがっている人たち同士でならともかく科学的・法的検証には耐えないよねえと、そう思うわけである。
- しかしその、なんである種の人たちは批判対象を愚かだと思いたがるのかねえ、イスラエルにせよ国家ないし政府にせよ。「敵をあなどっては勝てない」というのは我が国における歴史の教訓とやらだと思うんだが。
なお言及した先は2ちゃんねる某スレで紹介されたので見に行きました。最近心が狭いので(元からか?)半可通の書いたものが本当に読むに耐えないのですよ。新聞やテレビの時事番組・ドラマをほとんど見なくなっているのも同じ理由です。時代劇とか「あぶない刑事」レベルまで完全にファンタジーになってれば大丈夫なんだけどね〜。
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charity は現代社会でいう「チャリティ」じゃなくて原義の charitas なんじゃないかな、っていうか欽定訳の。アガペーの訳語。耶蘇の人たちはむかし愛徳といってたんじゃないかな。
でも「愛の原則」じゃ甘ったるくてちょっといやですかね。