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気仙坂

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 「チェンジ」日本でも?
☆★☆★2009年02月15日付

 「チェンジ」「イエス・ウィ・キャン」と颯爽と登場した米オバマ新大統領。政治姿勢や政策面で前大統領との違いを際立たせている中、十七日から全米で予定されていた地上テレビ放送の完全デジタル化を四カ月先送りするという。日本でもごく近い将来、デジタル放送に移行するので関心を持ってその報道に接した。
 それによると、アメリカでは十六日限りでアナログ放送(現行地上放送)が停止されることになっていたが、昨秋来の景気悪化でデジタル化に対応する準備ができていない世帯が多いとし、完全デジタル化を六月まで延期するのとの法案を上下両院が可決。これを受けたオバマ大統領が同法案に署名し、正式決定したというもの。
 デジタル対応テレビやデジタルチューナーを買う余裕のない消費者に配慮したもので、いわばブッシュ路線の「チェンジ」。が、現下の経済情勢が四カ月で好転し、全世帯が買えるようになるかどうかは不透明だ。テレビはいまや生活に欠かせない最低限の情報源として深く浸透しており、四カ月過ぎてもデジタル対応できなと“情報難民”が発生しかねない。
 翻って、日本での完全デジタル化はアナログBSとともに二年五カ月後の二〇一一年七月二十四日。「まだ二年以上もある」と余裕で受け止めるか、「あと二年しかない」と切羽詰まって受け取るかは、まちまちだ。
 もっとも、これは地デジを受け入れる人(やむなしという人も含めて)の考え方で、「いまのままで不便はない」という視聴者も少なからずいる。NHK、民放画面の右上隅っこの「アナログ」表示や、SMAPの草塙笋C鵑サ个謄妊献織覯修鬟▲圈璽襪靴討い襪海箸魘譟垢靴Z廚ス佑發い襪畔垢@」
 そもそもテレビ放送のデジタル化は、電波の有効利用を目指すとともに盾報時代に対応するのがネライ。VHF電波を使う現行のアナログテレビ放送を、より周波数の高いUHF帯に移し、圧縮技術という効率的なデジタル方式に改める。空いたVHF帯は高速道路交通システムや携帯電話、業務用通信、公共機関向け通信、地デジラジオなどに活用する計画だ。
 では、地デジにどんなメリットがあるかといえば、高画質(高精細)、高音質、音声多重化、電子番組表・番組情報の提供、データ放送、双方向サービス、標準画質による番組のマルチ編成など、従来のアナログ放送にはないサービスが受けられること。
 もちろんデメリットもある。その一番は、これまで見てきたテレビでは映らないこと。見るためには地デジ対応チューナー、あるいは地デジ対応テレビを新たに買わなければならず、要するに新たな出費を強いられる。チューナー受信の際は、テレビがそのままなら高画質などデジタル化の恩恵が一部享受できない。
 UHF電波が届かない山間地対策、地デジ対応のチューナーやテレビが購入できない低所得者対策、アナログテレビの大量廃棄、受信時に強制されるB・CASカード登録と個人情報の扱い、NHK受信料制度などの課題もある。
 これらの対策としては、住田町が導入したような有線による全世帯へのサービス、放送衛星を使った地デジ番組の提供、国による低所得世帯へのチューナー配布、アナログテレビのリサイクルシステム確立、発展途上国への輸出などが考えられるが、個人情報保護や受信料への対応は決め手を欠く。それならばいっそ、現行アナログ放送とデジタル放送を並行すれば…とも思うが、放送事業者は中継所や諸設備を維持するのに莫大なコストがかかり、経営に支障をきたすという。
 こんなことを考えていると、果たしてあと二年半弱で完全デジタル化に移行できるのか心配になってきた。日本でも「延期する」と、思い切って「チェンジ」するだろうか。(野)

木地師と気仙大工D
☆★☆★2009年02月14日付

伊達藩政期に活躍した気仙木地師たち。彼らの位置づけがどうなっていたかと言えば、「木地挽たちそれ自体が藩直営か、もしくはそれに準ずる経済的性格を持っていた」(山田原三氏著『気仙之木地挽』)という。
藩直轄の御林で、原材料となる木を伐採していたということが証拠のひとつ。さらには、木地師たちが新たな山に移る場合、道普請が必要となる。その時、各村から人手が供出されただけでなく、時には気仙郡中からの「御人足出役」で山中への道や橋が造られたことからも、藩との密接な関係が分かる。
一方で木地師たちが、里人からどのように見られていたかとなると、必ずしも芳しいものではなかった。移り住んだ地で、時には半世紀以上にわたって居住することもあったが、いつかは必ずその地を去らなければならないだけに、技術は評価されても「漂泊渡世集団」としてよそ者∴オいされることが多かったという。
気仙に、どのぐらいの木地師たちが暮らしていたかについては、山田氏は天明年間(一七八一〜八八)の記録として「人頭十三人、人数六十人余」と紹介。それが、天明飢饉後には「人頭八人、人数四十人ほど」に減少したとする。
気仙における木地師たちの足跡は、大きく@貞享年中(一六八四〜八七)以降の約六十年=上有住秋丸御林A寛保四年(一七四四)以降の約十五年=下有住火の土御林B宝暦九年(一七五九)以降=世田米種山御林、と区分。
暮らしぶりについては、天明飢饉前まではある程度順調だったようだが、飢饉以降は木地師集団が減少。加えて、里人の暮らしも厳しくなったことから、生産物が売れなくなり、「御役山手金」という藩への税金も思うように支払いできなくなっていった。
 江戸時代は士農工商の身分制社会。基本的に、木地師の子は木地師を継ぐことになり、技能錬磨が認められると晴れて「新免木地挽」となる。その際には、役所に届け出て正式な許可をもらう決まりだったという。
 しかし、時代が降るに従って木地物に対する需要が減少。木地師たちの生活は苦しくなっていき、年貢減免願いや御山返上、さらには木地師を継がずに「新百姓」として里への定住を目指す人たちも現れるようになっていく。
 一時は六十人を数えたという気仙木地師たち。江戸末期には、世田米村種山にいた「万蔵」という人物が矢作村生出大松沢に「御百姓」として移住しており、その孫の「木地挽熊蔵」が元治二年(一八六五)に細工用の原木払い下げを役所に願い出て許可されたという。
 さらに昭和初期には、生出大松沢のトヤノ沢で「辰治郎」という人物が木地椀づくりをしていたことも判明。山田氏によると、その子が釜石市内に移ったことまでは関係者の証言を得たものの、その後の消息は不明だという。
トヤノ沢という地名は、烔屋ノ沢のなまりから生じたとされる。江戸末期には、砂鉄を木炭の燃焼熱で精錬するたたら製鉄が行われていた地であることに由来するが、そこに住んでいた辰治郎までは木地師の仕事をしていた。しかし、その子が釜石市に移ったということは、木地師という熟練技能者の子孫が製鉄業に仕事を替えたとの推測も成り立つ。
 釜石市は、「近代製鉄の父」と呼ばれる大島高任が安政四年(一八五七)に、日本で初めて鉄鉱石による製鉄に成功した地として知られる。トヤノ沢にいた辰治郎の子は、本格的な製鉄の仕事を求めて釜石市に移ったのではなかったか。
 さらに想像をたくましくすれば、場合によってはトヤノ沢で古式製鉄に携わった人々の中にも、かつては山中で木地師をしていた人たちが含まれていたのではなかったか。時代の変遷の中で木地物需要が落ち込んだことから、木材伐採の仕事を生かして木炭生産や製鉄にも従事したと考えられないこともない。       (谷)

「どうしてクモは……」
☆★☆★2009年02月13日付

「ねえ、どうしてクモはついてくるの?」
 そう、若いお母さんが小学一年生の息子に質問された。
 その母親から今度は妻が、「どう答えます?」と問いかけられたという。
 そんな話を帰宅して夕飯を食べながら、妻から聞いた。
 そして、いきなり振られた。
「お父さんだったら、どう答える?」
 何の用意もなく、不意に襲ってきた難問。箸と口を動かしながら、意識はクモと少年に集中し、頭をフル回転させた。
 簡単そうな質問ほど、得てして解答が難しい。まして相手は小学一年生。その子が納得するように単純明快でなければならない。
 一つの答えが浮かんできた。
 質問した子どもの名前を挙げながら、こう言った。
「『○○ちゃんのことをクモが好きだから』っていうのはどお?」
 ちょっとキモ可愛い過ぎたかな、と自分でも照れが入った。
 ところがその後で、妻がこんなことを言い出した。
「○○ちゃんのお母さんは、『地球が丸いからよ』って答えたんだって。私なら、『風が吹いているから』って答えるな」
 はあ?この二人、一体、何の話をしてるんだ??
 確かに、糸にぶら下がったクモが風に吹かれれば、風の向きによっては自分の方に近寄り、ついてくるように見えるかもしれない。しかし、問題はクモと丸い地球だ。この二つに一体全体、どういう関係があるというのだ。
 考えれば考えるほど、私の頭は制御不能な混乱状態に陥った。
 理解できないならできないで、そこでやめておけば良かった。だが、思わず聞いてしまった。
「なんで、クモと地球の丸さが関係あんの?」
 その問いかけに、妻がけげんな表情を浮かべた。
 それを見て、ハッと気づいた。同時に、自分が言った答えを思い出し、顔が火照ってきた。
 そうなのだ。クモはクモでも、話題のクモは生き物の「蜘蛛」ではなくて、空の「雲」。不覚にも「クモ」「ついてくる」という二つの単語から、生き物の「蜘蛛」を勝手に連想してしまっていた。
 歩いても歩いても空の雲との距離は開かない。それが少年には雲がついてくるように感じられたに違いない。その不思議さが「どうして雲はついてくるんだろう?」と素朴な疑問になって表れた。
 近ごろの私は、空を見上げても、「雲が流れてる」ぐらいにしか感じなくなっていた。雲を見て、想像もつかない表現で問いかけてくる子どもの感性や素直さ、好奇心。それが私には新鮮に感じられ、うらやましくもあった。
 そんな私が、雲の子を主人公に童話を書いてみようと思ったことがある。二十年以上も前のことだ。主人公の名前も決まっていた。ドイツ語で「自由」を意味する『フライ』と名付けた。
 はぐれた家族を探しながら、雲の子が世界中の空を旅して回る冒険談で、途中、いじわるな大風に吹き飛ばされたり、鳥たちと大空で楽しく運動会をしたり、仲間を呼び集めて日照りで困っている人たちを助けたり。さまざまな出来事や出会いを通じて、雲の子の成長する姿を描きたいと願ったものだった。
 久しぶりで空を見上げ、グルーっと見渡してみた。大きな雲もあれば、小さな雲もある。生き物のように刻々と姿形を変え、時に速く、時にはゆっくりと空を移動していく。見ていて飽きない。
「あの雲たちはどこへ行くんだろう?雲に乗って、世界中を旅して回りたいな」
 笑われるかもしれないが、失ったと思っていた童心までも蘇る。
 さて、読者の皆さん!
 皆さんなら、「どうしてクモはついてくるの?」という疑問にどう答えますか。(下)

歴史はどう判断するか
☆★☆★2009年02月12日付

 地域医療の厳しさが増す中、県医療局の「県立病院等の新しい経営計画」の最終案が十日、公表された。住田など五地域診療センターと沼宮内病院から入院ベッドをなくす無床化計画を盛り込んだもので、昨年十一月の当初案公表以来、対象地域からは計画撤回や実施先延ばしを求める声が相次いだが、医療局は当初案通りに無床化実施の方針を定めた。
 この計画案は、公立病院の経営改善を図る国のガイドラインに基づき、医療局が平成二十一年度から二十五年度を対象にまとめた。現在は十九床ある紫波、大迫、花泉、住田、九戸の各地域診療センターを二十一年度に無床化し、二十二年度に沼宮内病院(六十床)を無床診療所とする。また、八病院でも減床を行い、気仙では大船渡病院を三十床減の四百五十九床、高田病院を十三床減の五十七床とするもの。
 各地域の広域基幹病院への医療資源集約により、赤字脱却と過酷ともいえる医師らの勤務環境改善をネライにしたものだが、大幅な減床で診療所化されたばかりで入院できる唯一の施設がなくなってしまう可能性の浮上した住田町をはじめ、無床化対象地域からの反発は、いまだ根強い。
 当初案公表後のパブリックコメントに寄せられた意見では、「計画案に反対」が二千三百二十七件(82・8%)、「もう少し時間が必要」が三百六十九件(13・1%)と、九割以上が否定的なものだったという。
 無床化対象の六地域で医療局が開いた説明会に出席した住民は千六百人余り。「計画案の白紙撤回」「時間をかけて地域の実情に沿う案にすべき」などとする意見が多かったのは、その後開かれた市町村や住民代表との懇談会でも同様だった。
 さらに、県議会十二月定例会の最終本会議では、無床化方針の撤回を求める請願六つが賛成多数で採択され、対象地域の住民を中心に多数の反対署名などが提出されてきた。
 「地域の意見を聞いたうえで最終案を策定する」としてきた医療局だが、今回の最終案に新たに加えたのは▽無床化に伴う転院先と転院になる患者とその家族の足の確保▽空きベッドの民間移管への支援――など数点。明記はしていないが、当面は夜間・休日に当直の看護師を配置する考えもあるという。これら追加点は、無床化後の不安として地域から出された声に対応したものだ。
 しかし、圧倒的に多かった「白紙撤回」「実施延期」の意見を反映して軌道修正を図ることはなかった。「最初から無床化ありきで、説明会や懇談会で意見を聞いたのはポーズだったに過ぎない」。医療局の判断に対する批判の声には、うなずける要素がある。
 一方で、医師不足が勤務医への負担増を招き、十五〜十七年度までに七十五人もの医師が辞めるといった悪循環を断ち切るためには、「無床化なしにいまの体制を維持するのは難しい。実施が遅れれば遅れるほど事態は深刻化する」という医療局の考えもまた、しかりだ。
 過去の取材の中で、今回の新経営計画案同様、賛否分かれての大議論となったあるケースがあった。この件は、激論の末に賛成の意見が通って決着した。その際に賛成意見の提案者が「決断が正しかったのか誤っていたのかは、すぐに結果が出ることではない。歴史が判断することだ」と発言したのが深く印象に残っている。
 新計画案も一朝一夕で結果が明らかになるものではない、素人目に見ても非常に難しいケース。このまま無床化実施となれば、それは英断なのかその逆なのか。歴史はどう判断するのだろうか。(弘)

宮城県沖地震への備え
☆★☆★2009年02月11日付

 昭和五十三年(一九七八)六月十二日午後五時十四分、マグニチュード7・4(震度5)の大規模地震が仙台市を襲った。市内での死者は十六人にのぼり、重軽傷者数は一万百十九人。住宅関連では、全半壊が四千三百八十五戸、部分壊が八万六千十戸という大きな被害を及ぼした。
 しかし、この地震による被害で特徴的だったのは、比較的火災の発生件数が少なかったことが挙げられる。地震が大きかったにもかかわらず、火災は八件に抑えられた。
 これは▽「地震が来たらまず火の始末」という意識が住民に定着していた▽季節が初夏だったこともあり、石油ストーブなどの暖房器具が使われていなかった▽本震が夕食の支度時間には早かったこともあり、火を使っている家庭が少なかった▽八分前に震度2の前震があり、火を消した家庭が多かった――などの要因が考えられている。
 当時、この「宮城県沖地震」は人口五十万人以上の都市が初めて経験した都市型地震の典型と言われ、仙台新港で四十九aの津波が観測された。
 震源は宮城県東方沖の日本海溝(海洋プレートと大陸プレートの境界部分)の大陸プレート側。同じ震源地で過去に何度も繰り返し地震が起きており、この二百年間のうち、マグニチュード7・3以上の地震は六回発生している。
 順に見ると▽寛政五年(一七九三)二月十七日=M8・2▽天保六年(一八三五)七月二十日=M7・3▽文久元年(一八六一)十月二十一日=M7・4▽明治三十年(一八九七)二月二十日=M7・4▽昭和十一年(一九三六)十一月三日=M7・4▽同五十三年(一九七八)六月十二日=M7・4――となっている。
 宮城県沖地震の発生には周期性があり、その間隔は短くて二十六・三年、長くて四十二・四年。過去六回の平均間隔は三十七・一年。要するに「三十七年に一回は大規模地震が発生している」ということになる。
 前回の昭和五十三年から数えると、今年は三十一年目(地震発生経過率83・5%)を迎えており、三十七年目にあたる平成二十七年(二〇一五)は、いまから六年後に迫っている。
 これらのことから、政府の特別機関である地震調査研究推進本部(本部長・塩谷立文部科学大臣)はこのほど、向こう十年以内に発生する確率を今年一月から「70%程度」と公表した。この発生確率は、昨年までの「60%程度」から二年ぶりに引き上げたもので、二十年以内「90%程度以上」、三十年以内「99%」は前年と同じ。
 宮城県沖地震の発生により、三陸沿岸部には津波が押し寄せてくることも考えられ、十分な備えが必要となる。防災関係者は「常に近所の避難場所を確認し、防災グッズの用意を」と呼び掛けている。
 昨年、県内では岩手・宮城内陸地震、岩手北部地震が相次いで発生し、各地で防災への意識が高まっている。一度大きな災害が発生すると、復興には長い年月が必要。
 前回の宮城県沖地震では、電気やガス、水道などのライフラインが大きな被害を受け、市民生活に大きな影響を与えた。中でも、ガスが復旧するまでに一カ月もかかったというだけに、被害は最小限に食い止めたいところだ。
 この機会に改めて「災害は忘れたころにやって来る」ということを肝に銘じ、防災への認識を新たにしたいものである。(鵜)

森林再生を解く鍵は?
☆★☆★2009年02月10日付

 二月三日のNHKテレビ「プロフェッショナル〜仕事の流儀」に、京都市日吉町森林組合の参事、湯浅勲氏が登場するというので、午後十時からの放映を待った。番組の予告で同町の人工林の七割を再生したというその手法を知りたかったからである。
 手入れがされないため荒れ果てて放置されている人工林を低コストで再生し、全国から見学者がひきもきらないという同氏の「魔法」を確かめたいという思いにかられるのも、現実に当地の針葉樹林が口紅や白粉はおろか、ファンデーションすら施されず無残な姿になっているのを見るにしのびないからだ。
 戦後復興を急ぐあまり、どんな急峻な場所にも、山頂にまですら植林し「植えよ増やせよ」と奨励した結果、日本中が針葉樹林だらけになったのはよしとしても、安い外国材がどんどん輸入されるようになったあおりを受けて国産材が売れなくなり、植林、手入れ、伐採、搬出という手間のかかる仕事の代償が「赤字」というのでは誰もがそっぽを向くようになる。
 だが、山を荒れるにまかせている現状は単なる林野行政の失敗という一言でくくることはできない。かっては予測もできなかった経済のグローバル化が結局は自分の首を締める結果になったのである。しかし目前にある現実のすべてをその一点のみに帰していいのか?これは国の将来のためにも国が、国民が真剣に対策に取り組み、わが事として正面から向き合うべきであろう。
 湯浅氏の実践活動が全国から注目を浴びるのは、行政や森林組合などの専門分野だけでなく、当方のような素人まで心を痛めるような情景が周囲に広がっているからに他なるまい。心を癒してくれる森林浴を楽しむその行く手に待ち受ける光景は、間伐しないためやせ細った杉林だ。そこには折れたり朽ちたりした木々の残骸が放置され、足の踏み場もないほど伸び放題となった下草、その上にうずたかく積もった杉の葉など、まさに林業のたどった過程、その結果としての凋落ぶりを物語る現状を目にせずにいられない。
 三十五歳で技術屋から転身、故郷に戻った湯浅氏が目にしたのは、そんな故郷の山のあまりな変貌ぶりだったろう。森林組合に就職して現状の打開を考えに考えた末、同氏がたどり着いた結論が、いかにコストを下げて手入れをするかということに尽きた。
 売れる木を育てるには間伐し、枝打ちをし、下草を刈ってすくすくとまっすぐに伸びる環境を整備しなければならない。しかし人力だけに頼っていては能率が上がらず、コスト削減など思いも寄らない。そこで同氏は作業道の整備に重点を置き、かつ職員、作業員の意欲を喚起するため従来の日給出来高払い制から月給制に改めた。
 このチャレンジ精神というより愛郷心が日吉町の人工林の七割を再生するという驚異的な実績を上げる元となったのである。「誰がやってもできない」から「やればできる」という見本となり、これが全国から注視されるようになったことの意義は大きい。
 ただ、日吉町の成功例がにわかに全国に影響するとは考えにくい。その土地、土地で地理的条件は異なり、まして林道はおろか作業道を作るのさえ困難な場所で費用対効果を前提にすれば、答えはノーと出るだろう。同氏も言う。「勾配のきつい高所は諦めた方がいい」と。
 素人考えで恐縮だが、今後の森林再生は低地から始め、次第に上に向かっていくことではないか。そして山頂部などの人工林は針葉樹の代わりに広葉樹に置き換えていくことが必要ではなかろうか。治山治水の上からも、活力ある山にするためにもだ。そのためにも、搬出を容易にする機動力、つまり機械の導入が大前提となる。そうした林業の構造改善は国策として劇的に展開することが求められよう。森林の緑を外からの見かけだけではなく真の緑にするには、まさに国家百年の大計が問われるのである。(英)

職人・山内さんのこと
☆★☆★2009年02月08日付

 「六日付のスポーツ紙を見たかい。僕が目にしたのはスポニチとサンスポだけだったけど、ともに山内一弘さんの訃報がトップ記事だった。一般紙でもかなりのスペースを割いていた。プロ野球で二千本安打や二百勝以上の成績を残した名球会の一員として名前は聞いたことがあるけど、野球には深入りしなかったからよく分からない。君は団塊世代だからよく知ってるだろ。気仙の球児たちのためにここで披瀝してよ」
 「知っているとはいっても、活躍していた当時の新聞や野球雑誌、ラジオ、テレビ放送を通じてだけど…。昭和三、四十年代の球界を代表する強打の外野手だった。残念ながらナマの姿を見たのは選手としての最晩年、巨人・広島戦一試合のみ。どんな場面に出たか忘れてしまった」
 「各紙で紹介された生涯成績をみると、すごい数字が残っているねぇ。毎日、大毎、阪神、広島で実働十九年。二千二百七十一安打、三百九十六本塁打、通算打率二割九分五厘。MVP一回、ベストナイン十回、球界初の三百本塁打、史上二人目の二千本安打、そして野球殿堂入り。その割には新聞の大見出しになったり、テレビで活躍する場面を見ることは少なかったんじゃない?」
 「でも、団塊世代以上で山内さんを知らない人はいなかった。そんな印象があるのは、一番活躍したころ所属した球団がパ・リーグだったせいもあるな。当時本格化したテレビのプロ野球放送、とくに民放はほとんどが巨人戦、すなわちセ・リーグばっかりだったからね。山内さんのいたチームの試合は年に二、三度、NHKが取り上げた程度だったし」
 「年度ごとの成績表にある毎日とか大毎という球団にいたころの話だね。たしか今のロッテ・マリーンズの前身だったとか」
 「うん。毎日は毎日新聞が巨人の読売新聞に対抗してつくったチーム。大毎は大映と毎日が統合してできた。だいえい≠ヘ一時ホークスを持っていたスーパーのダイエーではなく、映画のほうの大映。映画界が最も羽振りがよかった時代だったが、経営的にはうまくいかず、毎日新聞が手を引いたあとはロッテに身売りしてしまった」
 「山内さんの選手経歴にロッテがないから、阪神に移籍したあとのことだね。そういえばテレビの巨人・阪神戦では時折見たことがある。山内さんは内角球、とくに食い込んでくるシュートボール打ちの名人と、よく解説者やアナウンサーが言っていたなぁ」
 「ほかにも『打撃の職人』『オールスター男』『かっぱえびせん』といったニックネームがあった。打撃の職人は字を読んだ通りだし、オールスター男はオースターゲームでMVP三度という活躍からきたものだけど、かっぱえびせんは注釈がいる。長嶋巨人のコーチに迎えられたとき、熱心な指導ぶりが『やめられない、止められない』のフレーズで売れたかっぱえびせんに例えられたんだとか」
 「現役引退後はロッテや中日の監督、阪神、巨人、オリックスなどの打撃コーチを務め、若手の育成におおいに貢献したと紙面が伝えていた。のちに三冠王になった落合や振り子打法のイチローら、指導法に馴染めない選手もいたとの報道も目にした。自身の実績があるからゆえに、その熱心さで個性を失いかねないこともあるんだねぇ」
 「個性といえば山内さんがいた大毎は柳田、榎本、田宮、葛城らの強打者が揃い、ミサイル打線と恐れられた。昭和二十年代以降、阪神のダイナマイト打線、松竹(現横浜)の水爆打線、大洋(同)のメガトン打線、ちょっと小振りな近鉄はピストル打線などといった物騒な愛称があった。でも最近は個性的なチームも選手も少なくなったように思う。三、四十年代には……昔を懐かしむのは年をとったせいかなぁ」(野)

木地師と気仙大工(4)
☆★☆★2009年02月07日付

 東北の木地師本流は、蒲生氏郷が会津(福島県)転封を機に近江(滋賀県)から招いて始まった。時は、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた天正十八年(一五九○)とされ、それらの木地師たちはやがて東北各地に広がっていく。
 本領の会津を追われた形となった伊達政宗は、気仙を含む旧葛西・大崎領内を平定。輩下の国分氏が居城としていた千代の地に仙台城を築き、全国屈指の大々名として大藩の基礎を固めた。
 郷土史家・山田原三氏(大船渡町)の『気仙之木地挽』によると、その伊達領内には大きく三つの木地挽物の生産地があった。@一の迫郡(鬼首、鳴子)A刈田郡(山中道、蔵王山麓)B気仙郡(五葉山麓、種山、火の土)――で、気仙は木地師の故郷≠ナもあったことになる。
 江戸時代には、これら三地域の木地師たちは生活必需品のお膳やお椀などを中心に生産していたが、現在も木地師の伝統が色濃く残っているのは鳴子のこけしぐらい。藩政期の鳴子村時代、何が生産されていたかには「塗物、箸、楊枝、木地挽き物」の記述があるという。
 こけしは、漢字では小芥子、木牌子、木形子などが当てられた時代もあったが、「木削子」という字は、木地師の技を連想させられる。それだけに、こけしの歴史はそう古いものではなく、文久二年(一八六二)に「こふけし」があったとの古文書が残ることから、こけしが作られ始めたのは江戸末期の文化・文政期ころと推定されている。
 首を回すと、キュキュと音がする「鳴子こけし」に代表されるように、東北各地の温泉地で土産品として売り出され、やがて全国に広がったのがこけし。ロクロを使った丸みが特徴で、こけし生産が始まった江戸末期は、木地師たちにとっては本来の生産物が以前のようには売れなくなったという時代背景を物語る。
 それでは、気仙には一体いつ木地師が来住したのか。『気仙之木地挽』から、関連する部分を引用すると「白河領の人で近江文左衛門・次右衛門という人が、貞享年中(一六八四―八七)に仙台へ出て、木地細工を願い上げ、許可を得て上有住村秋丸御林を渡されて、気仙の木地挽渡世細工が始まった」。
 山田氏は、この福島県白河市周辺からの木地師移住説を確かめるべく現地調査も行っている。しかし、末裔となる近江氏宅では江戸期の古文書を焼失したということで、何人で気仙入りしたかまでは不明だった。
 ともかく、近江文左衛門・次右衛門という二人をはじめとする木地師たちが、伊達藩直轄地である気仙郡の上有住秋丸御林を皮切りに、木地物生産に着手したことは間違いなさそう。
 当時のロクロ生産は、現在のように電動はもちろん一人による足こぎ方式でもなく、二人一組だったという。一人がロクロを回転させ、もう一人が木に刃物を当てて加工するだけに、互いの呼吸が大切。それはまた同時に、何人かの集団でなければ木地師生活は成り立たないことを意味していた。
 秋丸御林は、里の人家から六`ほど山中に入った場所という。この場所を起点に、秋丸御林を切り尽くした木地師たちは、次に下有住の火の土御林に移動。さらに、世田米の種山御林へと移る。
 種山御林で木地師たちが居住した子飼沢は、「江刺往来より道筋十八丁」の場所。ここが気仙では唯一、「木地山」という木地師由来の地名が残る地。ここはまた、津付ダム建設の予定地だけに、ダム完成の曉には湖底に沈み、地名消滅の心配もある。しかし、山田氏は「国土地理院によれば、地元自治体を通じて申請すれば地図上に地名を残せるとの説明を得ているので、何とか歴史ある地名を残したいものだ」と語っている。(谷)

大船渡発の「T・K・G」を
☆★☆★2009年02月06日付

 「人生最後の晩餐に何を食べるか?」と聞かれたら、何と答えるか。オリコンが調べた「もしも、人生最後に食べるなら、何が食べたい?ランキング」では一位ハンバーグ、二位カレーライスで、三位はお寿司。四位、五位はそれぞれ味噌汁、おにぎりだった。
 ハンバーグもいいし、家庭の味の味噌汁やおにぎりも捨てがたい。「これで最後」といわれたら、大好きな寿司ネタの小鰭(コハダ)を注文したくもなるが、自分なら「卵かけご飯」と答える。
 茶碗に盛ったご飯の真ん中にくぼみを作り、生卵を落とす。次に、卵を中心にダシ醤油を三回ほど回し掛け、ご飯粒一つひとつに卵がからむまでかき回す。ふんわりと空気を含ませたところで一気にかき込む(流し込む)のが自分流の食べ方だ。
 炊きたての白いご飯と生卵と醤油。たったこれだけの素材でいつも最高の満足感を与えてくれる食事はほかにない。病気で食欲がない時でも、卵かけご飯なら食べられる。空腹時の卵かけご飯は特に美味しく、東京で独り暮らしをしていたころは、レトルトご飯の卵がけが夜食の定番だった。
 「早い、美味い、安い」と三拍子揃ったこの日本伝統のファストフードが今、ちょっとしたブームになっているらしい。卵かけご飯の専門店が全国各地にオープンし、味付けに使う専用醤油がヒット商品になっているというのだ。
 ブームの引き金となったのは、島根県旧吉田村の第三セクターが二〇〇二年に売り出した卵かけご飯専用醤油。インターネットなどで評判が広がり、三年間で約三十万本を売る大ヒットとなった。
 六町村が合併した雲南市はこれに勢いを得て、二〇〇五年十月、「日本たまごかけごはんシンポジウム」を開催。参加者は三日間で延べ約二千五百人に達し、十月三十日を「たまごかけごはんの日」と定めた。
 関連イベントとして卵かけご飯に関するレシピや作文、論文の審査などが行われ、マスコミでも大きく取り上げられた。イベント終了後、シンポジウム事務局の電話は、卵かけご飯の問い合わせで一日中鳴りっぱなしだったという。
 同じように、卵かけご飯で町おこしを仕掛けたのは岡山県の美咲町。日本最初の従軍記者として活躍した同町出身の明治のジャーナリスト・岸田吟香が卵かけご飯を日本に広めた説があることや、町内に西日本最大級の養鶏場があったことに着目し、新鮮な卵を使った「卵かけご飯」の店を昨年一月にオープンさせた。
 これが見事に大当たり。一カ月で全国から五千人もの客がつめかけ、ご飯、卵、味噌汁、つけものをセットにした三百円の定食が一年間で七万食以上も売れたそうだ。
 卵かけご飯は今、その頭文字をとって「T・K・G」とも呼ばれる。三百六十九種類のユニークな卵かけご飯を紹介した「365日たまごかけごはんの本」というレシピ本が売れ、卵かけご飯=「T・K・G」という呼称が広がった。
 今でこそ卵は物価の優等生といわれるほど安値で安定している食品だが、第二次大戦後の食糧難の時代は希少価値が高く、病気の時などにしか食べられなかったと聞く。当時、卵かけご飯はご馳走で、それが庶民の味となり、誰もが気兼ねなく口にできるようになったのは高度経済成長期に入ってからだという。
 現在の中高年世代にとって、卵かけご飯は最も手軽に作れ、美味しく摂取できる栄養源、戦後の日本にとっては高度経済成長を支えたエネルギー源だったのかもしれない。昨今のブーム、リバイバルの背景には、そんな時代への郷愁があるのではないだろうか。
 ところで、ここ大船渡には最上級の品質と全国区の人気を誇る「南部どりたまご」の生産メーカーがあることを皆さんご存じだろう。何か新しい切り口で、他とはひと味もふた味も違う大船渡ならではの「T・K・G」を発信できないものか、と思う。(長)

海フェスタの感動の続き
☆★☆★2009年02月05日付

 大船渡港で開催された「海フェスタ」から、はや半年。感動の余韻はいまだ続いている。
 海フェスタでは、ぜひ見たいと思っていた世界最大級の帆船『日本丸』の「登檣礼(とうしょうれい)」の様子を見る間がなかったが、ありがたいことに読者の方から、その時の登檣礼を撮影したDVDが贈られてきて、一昨日手元に届いた。
 秋篠宮様ご夫妻がご出席されて開かれた海フェスタは、九日間の期間中、大船渡港を中心に六十万人を超える観光客などが訪れた。日本丸をはじめ、豪華客船『飛鳥U』、深海調査研究船『かいれい』、護衛艦『すずなみ』『さざなみ』などの有名な船が相次いで十隻も入港し、一般公開された。港は笑顔と歓声が広がり、海フェスタを取材する側も楽しかった。
 日本丸は、茶屋前五万d岸壁で帆を張りセイルドリルを披露し、出航の時、帆船の最高礼である登檣礼を行って、岸壁に集まった大勢の見送りの人々に応えた。
 登檣礼は、「Man The Yard」といい、見送りに来た人たちへの御礼を表す儀式で、日本丸を所有する独立行政法人航海訓練所によると、日本で最初に登檣礼が行われたのは、昭和二十八年という。
 ヤードという帆桁に登り、訓練生がずらりと並んで行う、すごい儀式である。
 その日本丸が、大船渡に入港したのは、海フェスタで二回目。二十二年前の前回も、帆船の見所の一つである登檣礼を見る機会を逸してしまい、今度こそ見ようと思っていた。しかし、日本丸が出航するちょうどその時は、対岸の野々田埠頭で一般公開中だった、客船『飛鳥U』の船内取材をしていて今回もまた見られなかった。
 見送る人々を感動させるという登檣礼を、見られなかったのが心残りだった―と、この気仙坂の欄に一行書いたら、なんと、登檣礼のシーンをその場でビデオに撮っていた方からDVDが贈られてきたのである。
 贈ってくださったのは、八十三歳になる陸前高田市の若松佐一さんで、若松さんは船や列車のファンで、海フェスタでは日本丸の出航セレモニーをビデオで撮影していた。それをダビングし、登檣礼の場面を編集して贈呈してくださった。「『ゴキゲンヨー』とマストの上からの掛け声は、心にひびきわたります。どうぞ少しでも満足して頂けたら幸いです」という手紙が添えられてあった。
 驚き感激しながら、さっそく拝見した。
 黄色いハンカチや旗を振り、見送る人々。日本丸の乗組員たちが大きな掛け声を発し、一斉にスルスルと帆桁へ登っていく。全員素足のようである。
 帆桁の上から下までずらりと並ぶと、帽子を取り、高々と振り上げて、見送り客に向かって、「ごきげんよう」と三回繰り返した。
 見送る人たちも、日本丸が海フェスタに参加してくれたことへの御礼の気持ちを込めて、全員で敬礼し、それに応えて敬礼する船長。日本丸も大きな汽笛を鳴らして応えていた。
 目の前で繰り広げられる登檣礼に感激した見送りの人から自然発生的に、「日本丸バンザイ」という声が上がり、全員で三唱する場面も。
 それに応えて、日本丸も再び大きな汽笛を鳴らすといった、感動的な登檣礼の儀式が収められていた。
 登檣礼のDVDは、タイトルやBGMも入っており、編集の労も伝わった。おかげで、その場に居なくても、登檣礼の感動を味わうことができた。DVDは有り難く頂いたが、もし、大船渡港での登檣礼を見たいという方がいれば、独り占めせずにお貸ししたい。こうして振り返ってみても、海フェスタはやはりすごかったとあらためて思う。(ゆ)


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