中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞記念館・解説
その3 展示史料解説部分(上)
二、史料陳列 |
28、「陥落前の南京」の写真の前
この大型歴史写真は、1937年南京陥落前の中華門地区の街並みを鳥瞰《ちょうかん》したものです。当時の南京は中国の首都であり、政客が雲のように集まり、商人が潮のように押し寄せていました。しかし、中国侵略日本軍が迫るや、この101万の人口を擁した古都は、50万人余りが故郷を離れ、残ったのは約50万余り、そして10万余の守備軍がなお南京に滞留していましたが、彼らを待っていたのは災難でした。
29、全体紹介のビデオ
次にビデオを見てください。
30、「日本軍の江南一帯での暴行」標題板の前
この資料陳列ホールの陳列内容は六つの部分に分かれます。私がまず皆さんに紹介した第1部分は、日本軍の江南一帯での暴行です。
当時、中国侵略日本軍が行った大虐殺事件は、決して南京から初めて開始されたものではありません。日本軍国主義が全面中国侵略戦争を発動した最初から、中国の[当時の]首都・南京への進攻を画策し、上海占領を南京進攻への第一歩とし、かつ前後して蘇州《そしゅう》、無錫《むしゃく》、常州《じょうしゅう》、江陽《こうよう》、鎮江《ちんこう》、広徳《こうとく》、蕪湖《ぶこ》等の地に侵攻しました。日本軍の到る所、虐殺、放火、略奪、強姦をほしいままにし、我が江南一帯の同胞は悲惨な境地に陥りました。
31、「日本軍の上海侵攻」展示板の前
1937年8月13日、中国侵略日本軍は「八・一三」事変を引き起こし、上海に大規模な軍事侵略を発動すると同時に、一連の殺す、焼く、犯す、奪うの暴行を犯しました。上海市区の無数の建築物は破壊され、非常に多数の同胞が殺戮に遭い、大量の難民が路頭に迷いました。
(写真を指して解説):これは日本軍の航空機が狂ったように上海を爆撃し、閘北《こうほく》区一帯が炎に包まれた写真です。
(写真を指して解説):これは日本軍の爆撃により死亡した上海市民の死体が大通りに転がっている写真です。
(写真を指して解説):これは1937年8月23日、日本軍が上海で我が同胞を虐殺している写真です。
(写真を指して解説):これは上海市民が京瀘《けいろ》鉄道に沿って南京に避難している写真です。
(写真を指して解説):これは、皆さんの注意に値する、第2次世界大戦史上有名な写真の一つです。同年の8月28日、日本軍が上海南駅を爆撃した時、ここで汽車を待っていて爆死した200名余りの婦女児童です。一人の体中血まみれの児童は激痛と恐怖とで大声で泣き叫んでいます。この写真は新聞メディアを通じて発表された後、当時、全世界をおののかせました。
32、「日本軍の金山衛侵攻」展示板の前
「八・一三」事変後、日本の上海派遣軍は長期にわたる攻撃にも関わらず、上海を陥落させることが出来ず、そこで、東北、華北の戦場から日本軍の一部を引き抜き、第10軍を編成し、大連、塘沽《タンクー》の港から軍艦に乗せて上海の戦場に増援しました。1937年11月5日、第10軍は杭州湾に上陸しました。
(写真を指して解説):彼らが上げた気球には、「日本軍百万杭州北岸に上陸」との標語が掲げられていますが、その実、彼らの兵力は決してそんなに多くはなく、百万と称しても、これは虚勢を張って、人心を撹乱するためのものでした。この日本軍部隊は上陸後、金山衛《きんざんえい》で三日間、焼く、殺すをほしいままにし、金山衛虐殺事件を引き起こしました。後には、日本軍第10軍は上海派遣軍と協同して、江南一帯を経て、狂気のごとく南京に殺到しました。
33、「日本軍の蘇州侵攻」展示板の前
1937年11月19日、日本軍は蘇州《そしゅう》に侵攻し、ついで蘇州市区および常熟《じょうじゅく》、太倉《たいそう》、呉江《ごこう》、昆山《こんざん》、張家港《ちょうかこう》等の地で一連の焼く、殺す、犯す、奪うの暴行を行いました。常熟県城内だけでも、3万余戸の民家を焼き、一般人3000余人を殺害し、婦女374人を強姦しました。
(写真を指して解説):これは日本軍の爆撃で爆死した3歳の児童の死体が蘇州郊外に横たわっている写真です。
(写真を指して解説):この少女は劉●蘭《りゅうろらん、●は王に路》と言い、日本軍の砲弾で左腕を切断されました。
34、「日本軍の無錫侵攻」展示板の前
同年11月27日、日本軍は無錫《むしゃく》市に侵攻しました。彼らはほしいままに財物を略奪し、婦女を強姦し、火を放って七昼夜にわたり街を焼きました。
(写真を指して解説):これは当時、日本軍が火を放って焼いた無錫市の写真です。
35、「日本軍の常州侵攻」展示板の前
同年11月29日、日本軍は常州市に侵攻しました。彼らは火を放って市内の甘棠橋《かんどうきょう》、鉄市巷《てつしこう》等の所を焼き、また郊外で難民4000余人を虐殺しました。
(史料を指して解説):この資料は日本軍が常州市の難民を、前北岸の盛蓮鎮の製氷工場の氷蔵に押し込め、しかる後に機関銃によって集団射殺し、前北岸虐殺事件を引き起こしたことを詳細に記載しています。
(写真を指して解説):これは江南の農村の女性が、一組一組日本軍の司令部に押しこまれて凌辱、輪姦を受け、銃殺された写真です。
36、「日本軍の江陽侵攻」展示板の前
これは江陽《こうよう》砲台を占領した日本軍が砲口に字を刻んでいる写真です。当時、日本軍は、この砲台をなかなか攻め落とせず、彼らの軍艦は長江を通って南京に殺到することが出来ませんでした。1937年12月1日、日本軍は江陽を占領した後、すなわち狂気の報復を行いました。彼らは半月もの間、火を放ち続け、民家1000余戸を焼き、一般人1000余人を殺害しました。江陽市内外到る所、死体が転がり、あたり一面血の海となりました。
37、「日本軍の鎮江侵攻」展示板の前
鎮江《ちんこう》市は日本軍が南京に殺到する最後の守りでした。同年12月9日、日本軍は鎮江市区を占領した後、機銃で四方から掃射し、山の洞窟や地下室に逃げ隠れた市民もまた難を免れることは出来ませんでした。
(史料を指して解説):これは日本人が『一億人の昭和史』という書物の中で、日本軍第13師団が鎮江を占領した後に犯した各種の犯罪を暴露しています。 この他、日本軍はまた安徽《あんき》省の広徳《こうとく》、蕪湖《ぶこ》に侵攻すると同時に、一連の焼く、殺す、犯す、奪うの暴行をはたらきました。12月初めには、日本軍は南京に対する三路からの包囲を完成し、兵は南京城下に至りました。