中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞記念館・解説
その2 記念館解説部分(下)



8、祭奠広場にて

 歴史の掛け橋を渡り、祭奠《さいてん》広場に来ました。(質問)観衆の友人の皆さん、筆跡を見てください、碑の上の題字はどの偉人が書いたものでしょう?
(ちょっと立ち止まって):真正面の石壁はさながら一個の巨大な記念碑のようであり、壁面にはケ小平《とうしょうへい》同志が親筆で本館のために書いた館名が刻まれています。石壁の前には3列の青々と生い茂った松が並び、記念碑に対して飾りをそえています。ここでは、毎年多くの内外の観客がつつしんで花輪を捧げ、受難者に哀悼の意を示しています、ですから、この小広場を祭奠広場と名づけたのです。
 石段を登ると、真正面の石壁には中・英・日の三国の文字で一列の黒色の字で大きく「遇難者300000」と刻まれており、本館陳列の主題を明示し、人々に忘れがたい印象を残しています。


主  題  碑

9、屋上の平台の前
                   
 江東門一帯は南京大虐殺歴史事件の代表性を持った遺跡の一つであり、また「万人坑《ばんにんこう》」遺跡の一つでもあります。史料の記載と幸存者の記憶によると、当時、中国を侵略した日本軍はかつてここで10000名余りの武器を放棄した中国人兵士と一般大衆を虐殺し、後に南京の慈善団体が死体を収容し、この二つの大土坑内に埋めました。ですから、本館の主要建築は記念的墓地の風格を呈しています。墓地広場は丸石を敷き詰め、全く草を生やさず、累々たる白骨を象徴し、死亡を象徴しています。そして両側の青緑色の芝生と壁外の常緑樹はまた生命力と抗争精神とを象徴しています。生と死とが、ここで強烈な対比を形成しており、生と死という主題が一線の間に展示されています。その幾株かの枯れ木は南京市の当時の三分の一の建築物が焼かれ破壊されたことを表わしているばかりでなく、また凄惨な雰囲気をそえています。
 (質問):観衆の友人の皆さん、当ててみてください。遠くの小さな建物の外形は何に似ているでしょう?? 
(ちょっと立ち止まって):遠くの遇難同胞の遺骨陳列室は青灰色の大理石を張り、外形は棺のようであり、室内には「万人坑」から発掘した遇難同胞の遺骨の一部を陳列しています。
 広場内の小道の両側には、17個の小さな石碑を置き、碑面には全市17箇所の遇難同胞記念碑の碑文を刻んでいます。これは全市に立てられた遇難同胞記念碑のミニチュアの集中陳列です。
 周りを囲んだ塀は破壊された形を示しており、南京市が当時、重大な破壊を受け、到るところ廃墟となったことを表わしています。?壁には三組の大型レリーフがはめ込まれています。それは歴史的な写真に基づき、芸術的手法でもって、南京大虐殺と言う歴史的事件の前後の情景を再現しています。


墓 地 広 場
10、魚雷営碑の前

 魚雷営《ぎょらいえい》は南京・長江大橋のたもとの金陵《きんりょう》造船所内に位置しており、当時は海軍の小埠頭であり、南京大虐殺の歴史遺跡の一つです。1937年12月、中国侵略日本軍は魚雷営、宝塔橋《ほうとうきょう》一帯で我が同胞30000余人を殺害しました。遇難者の屍は数ヶ月も放置され、やっと翌年2月になって紅十字会によって埋葬されました

11、中山埠頭碑の前


 中山《ちゅうざん》埠頭は南京人が長江を渡る際にもっともよく利用する埠頭です。ここで受難した10000名余りの同胞は、主要には日本軍が国際安全区内から狩り出した青壮年であり、中山北路を通ってここまで連行された後、機関銃によって射殺されました。彼らの死体は長江に投げ捨てられました。


12、第1のレリーフの前

 このレリーフは「劫難《ごうなん》」と言います。それは南京市陥落前後の情景を反映し、母親がか弱い身体で4人の幼児をかばっている像があれば、破壊された南京の城門もあるし、太縄で縛られ虐殺地点まで連行される人々もいます。


レリーフ『劫  難』

13、燕子磯碑の前

 燕子磯《えんしき》は南京の名勝の一つであり、また長江を渡るための小埠頭でもあります。しかし、1937年12月、ここは中国侵略日本軍の殺人屠殺場となりました。前後して10万人がここに集まり長江を渡る準備をしていましたが、その中の5万人余りが日本軍に狩り出され、むごたらしく殺害され、死体の大部分は長江に投げ捨てられました。翌年の春になって、長江の水が引いた後には、長江の岸辺には死体が堆積しており、全部が江岸に埋められました。映画『屠城血証《とじょうけっしょう》』の江岸の虐殺のいくつかのシーンは、ここで撮影したものです。

14、草鞋峡碑の前

 草鞋峡《そうあいきょう》は関門を下った江岸に位置しており、その峡谷の形が草鞋に似ていることから名づけられました。1937年12月13日、合わせて57000人余りの人がここで日本軍に機関銃で射殺されました。草鞋峡は南京大虐殺事件において集団虐殺人数が最も多い地点の一つです。

15、第2のレリーフの前

 この大型レリーフは「屠殺」と言い、芸術的手法でもって中国侵略日本軍の焼く、殺す、犯す、奪うという暴行を再現しています。画面上には、刀で首をはねられものもあれば、火で焼かれるものもあり、銃殺されるもの、生き埋めにされるもの、死体を長江に投げ込まれるもの、強姦されて死を願う女性もいます。

16、立像「母親の叫び」前

 その立像は高さ4b、花崗岩を彫刻してできており、「母親の叫び」と名づけられ、中国の30年代の一人の母親の形象です。これは当時南京に留まっていたアメリカの宣教師ジョン・マギー氏が、現場で撮影したフィルム中の一人の竹ざおをつき、家族を探している老母を原型に設計製作されたものです。顔つきは悲憤に満ち、左手を前に伸ばし、行方不明の家族を探し求め、右手は堅くにぎりしめ、彼女の内心の憤怒を表わしています。


立像『母親の叫び』

7、受難同胞名簿壁の前

 この長さ43b、高さ3.5dの花崗岩の石壁は、遇難同胞名簿の壁と言い、人々はこれを「慟哭《どうこく》の壁」と呼んでいます。表面には3000名の南京大虐殺遇難者の名簿が刻まれ、30万の遇難者を代表しています。

18、遇難同胞遺骨陳列室の中

 これらの遺骨は1985年本館が建てられた時、「万人坑」から掘り出した一部の遇難者の遺骨です。これらは中国侵略日本軍の暴行の鉄の証拠です。

19、史料陳列ホール外形

(質問):この遺骨陳列室の外形は棺のようですが、あの建物(史料陳列室を指して)の外形は何に似ているでしょう??
 (ちょっと立ち止まって):本館の主要建築は遺骨陳列室の他に、鵞卵石《がらんせき》(丸石)広場向かい側の史料陳列ホールがあります。その造型はまるで古代の墳墓のようであり、墓垣、墓室、墓道があり、観衆は墓道を通って、半地下の史料陳列大ホールに行けます。

20、「万人坑」遺跡

 これは1998年4月30日以後、新たに発掘された遇難者の遺骨であり、7層に分けて並べられており、表層には20体余り、420平方・を占め、ここには約2800体あると見積もられています。法学、医学、考古学そして史学等の多方面の考証を経て、これらの遺骨は南京大虐殺の遇難者の遺骨であると確認されました。
 被害者の当時の年齢と性別から見て、老若男女[の遺骨]が等しくあります。年齢最小のものはたった3歳(児童の遺骨は16体に達しています)、最も年取ったものは60歳余りです。遺骨の骨質の分析から見ても、史料の記載と符合一致しています。南京・鼓楼《ころう》医院がアメリカから輸入した骨密度計で測定した結果を、法医学所に記載された骨密度値と対照した所、これらの遺骨は地下に60年埋められていたものと測定されました。
 遺骨に残っていた弾丸の痕、刀剣で刺された痕から見て、これらの遺骨は日本軍の暴行の鉄証であります。例えば、遺骨1号は、60歳余りの老婦人であり、彼女の眉間には弾の穴が一つ残っています。遺骨6号は18歳の女性であり、その右側の股の骨には一本の刃による刀傷の痕があり、日本軍が当時使用していた銃剣によるものでした。現場からはまた日本軍の三八式歩兵銃の薬莢《やっきょう》が3発発掘されています。この他にも、まだその他の残虐の痕跡が残っており、例えばある9歳の児童の二本の下肢の骨と肩甲骨の所には、今なお3本の鉄釘が残っており、ある女性の頭蓋内には、なお一本の大きな鉄釘が残っていました。


「万人坑」遺跡の累々たる白骨

21、青少年紀念林

 南京のいくつかの大学、中学と小学校は、「万人坑」のかたわらに植樹したり、碑を建てたりなどの、特別な方法でもって遇難同胞を紀念しています。
22、第3のレリーフの前
このレリーフは「祭奠《さいてん》」と言います。大意は焼香・拝跪《はいき》等の中国の伝統的方法で、南京大虐殺事件で受難した同胞を祭奠する[祭る]ことにあります。右上角は中国人が手を携え、肩を並べ、抗戦を堅持し、最終的に抗日戦争の勝利を勝ち取ったことを示しています。

23、日本人の植樹及び建碑

 日中友好協会は1986年より、毎年春には日本国民を組織して南京に植樹に来ています。これは彼らが1986年春、本館で植えた二本の木で、以後毎年春、水やり、除草に来ています。本館の土地が狭いので、南京市の関連部門は彼らのために手配して江北・浦口《ほこう》の珍珠泉《ちんしゅせん》公園内で植樹をさせ、既に5、6万株が生育しています。彼らはこの種の活動を「緑色の贖罪《しょくざい》」と呼んでいます。ここで植樹しているのは、他にも「日本社会党訪中団」、「日本鹿児島県教職員訪中団」、「日本『銘心会』」等があります。
 この漢白玉大理石で製作した贖罪碑は、日本の80余歳の一老人・横山誠が出資して建設したものです。横山誠は当時、上海で杉山書店を開いていており、日本軍の上海と南京での暴行を見聞したことから、日本に帰ってから、彼はずっと中国人に対してすまないと感じており、彼の民族を代表して中国人民に贖罪すべきだと考えたのです。多方面の努力を経て、その老人の長年の願望はついに実現しました。




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