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7月22日、サンタナやジェフ・ベックが躍るUDO MUSIC FESTIVAL会場である富士スピードウェイで、シャケと8年振りの再会をはたした。偶然とは本当、恐ろしい。
「富士山麓に住んでる」だの「仙人になった」だの、「ほえ?」としか返答しようのない未確認情報は聞いてたのだが、インドでヒッピーな恰好で裸足で満面笑みを浮かべながら歩いてくる姿を目撃した瞬間、大いに納得した私がいた。おおーっ。この男は昔から「極端」だったからなぁ。
お互い話す時間もあまりなかったので、アドレスを交換して改めての再会を期したそして数日後、自宅に送られてきたMtデリシャスの8曲入りCD-Rを聴いた途端、私は嬉しくなってしまった。ここで聴かれるサウンドも声もギターも世界観も、まぎれもなく「あの」木暮武彦そのものだったからだ。
同封されていた紙資料には、<最小限のロックバンドの編成でありながら、ジャンルにとらわれない自由な音楽的冒険と共に、宇宙とのつながり、存在する喜びを表現する>と記されていた。まさに「その通り!」の作品なんだけども、ロックとは元々そういう音楽表現であったことを、改めて思い出させてもらった気がしたのである。
シャケも私も同世代で、今や立派な「ロック中年」だが、そもそも文学や哲学や人生や衝動や本能や理性や感情や――とにかく自分に関わるこの世に存在するもの全てをひっくるめた<サイケデリア>に、己れを見い出した。そんな思春期の頃からもう、ずーっと「ロック漬けの日々」なわけだ。
勿論その都度その都度――シャケならば、レベッカの時代もあればレッドの時代もあり、カジノ・ドライヴだった頃もあればサイコデリシャスもあるわけで、具体的な表現スタイルの変遷は当然、経てきている。だけどそれは、終始一貫して「自分らしさとは何なのか」を探求する旅だったように映る。そうはいっても人間だからして、反抗心やら自己顕示欲やら逃避願望やらの「煩悩」たちに苛まれることもあったはずだ。しかし、それもこれも全て通ってきた上で今なお、シャケが「自分らしさ」を正直に表してることが、私にはやたら心強い。だからこそ、Mtデリシャスは美しいのである。
往々にして、40過ぎたロック・ミュージシャンの行き着く先は「枯れたブルース・ロック親父」とか「頑固でマニアックなロック職人」とか、が多い。それはそれで一つの生き方だと思う。正直、シャケも富士山の麓で「ロック世捨て人」みたくなってたらどうしようと思ってたのだが、Mt.デリシャスを聴いて安心した。シブくもなく枯れてもなく、ロックが本来持ってた怪しさと艶を相変わらず発散してる、恰好いい煩悩と妄想に満ちたクールなサイケデリアだったからだ。レッドもカジノもサイコも、「今ある」ための素敵な経験だったことがよくわかるよ。ねえ?
ちなみに私は、ピンク・フロイドの“虚空のスキャット”を大胆に拡大解釈したような“光の海”にたまげたのだけど、とりあえずいい感じの<ロック道>を歩んでる同志を、早く富士山麓に訪ねたいと思っている。君の歳の食い方は正しいよ、シャケ。
市川バカボン哲史(音楽評論家)
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