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2009年02月15日

第349回「器のはなし」

第349回「器のはなし」
お前は人としての器がちっちゃいなぁだとかあの人は器が大きいというように本当に人に人としての器があるとしたらその大きさを決めるのはなんなのかと考えたときおそらくそれはどれくらい現実を受け入れることができるかどうかだろうと個人的には思います。たとえば好きな人にフラれたとか会社をクビになったとか考えると納得のいかないことだったりするけどいつまでも感情にふりまわされて起こった現実を拒絶していても人の器は大きくならずヘタしたら小さくなるのに対し、嫌な現実さえも受け入れて前に進もうとしたときにその分だけ人としての器は大きく広がっていくのではないでしょうか。
あまりに幸せすぎて受け入れられないという状況もありますが、基本的に人は、楽しいことは受け入れるけどそうでないことは受け入れたくないものです。なぜ拒絶したくなるかというと、自分のイメージと現実とのギャップであって「そんなはずじゃなかった」と勝手に裏切られたという被害者意識を持ってしまいます。でも現実に悪気はなく現実はあくまで現実なだけ。なのに自分のイメージと違うからという理由で現実を拒絶することによって嫌度が増幅し余計に現実から逃亡したくなる。現実に怒りを覚えても事態が好転するわけではないのにひたすら感情に振り回されてその場に立ち止まってしまう。嫌なことが起きたときこそ冷静になにが嫌なのかを考えれば物事の本質が見えて怒ってもしょうがないということがわかるもの。そうして冷静に現実を受け入れて前に進むことができたとき、器は大きくなるのです。
さっきから器が大きいとか小さいとか言ってるけど、じゃぁ器が大きいことがそんなにえらいのか、という風に思うかもしれません。別に俺は器が小さくったっていいし大きくしたいなんて思ってないと。でも、器は大きくないとだめなのです。なぜなら人を受け入れることができなくなってしまうからです。
無人島で一人で暮らすならともかく、社会の恩恵を受けといて一人で生きていくなんて身勝手です。社会ではたくさんの人やたくさんの価値観を受けいれなければなりません。自分に合わないからといって逃げていてはますます世の中を嫌いになってしまいます。器が大きければ、ちょっとやそっとのことで腹を立てることもなくゆとりをもって生活できます。そんなに難しいことではありません。実は受け入れるのは無理だと自分で決め付けているだけで、受け入れようと思えば受け入れられるものなのです。大切なのは、拒絶しようとする気持ちから受け入れる気持ちにシフトすることです。
前回と同様、じゃぁ目の前でナイフを突きつけてくる人を受け入れろというのかというと、そうではありません。受け入れるというのはすべてを許すという意味ではなく、現実を受け入れたうえで自分で判断することなのです。
なんだか説教くさくなってしまいましたが、いま悔やんでいることや腹を立てていることも時間がたって冷静に考えてみれば実はたいしたことなかったりするもので、そのときは感情のせいで盲目になっているだけなのです。善と悪の境界線は自分が勝手に引いているだけで自分にとってマイナスと思うこともあとから振り返ればきっとそれはマイナスにはなっていないはず。現実を受け入れて一生懸命生きていればどんな辛い過去も輝いて見えるもの。なぜなら生の世界ではすべて美しいものだから。時間は生きている人だけに与えられたご褒美。悲しいできごとだろうと楽しいことだろうと生きている間はすべて美しいのです。そう信じてすべてを受け入れることができたなら、もうなにもこわくないはずです。

2009年02月15日 06:23

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