2009-02-16
エルサレムの村上春樹
2月16日です。授賞式から一日が経過しました。
みなさん、どのような感想をお持ちでしょうか?
僕の評価は次の通りです。
まず、スピーチ原稿の質は、確実にスーザン・ソンタグよりも高いものでした。おそらく、練りに練って作られたものだと思います。
また、例のパフォーマンスにしても、なかなかのものであったと言ってよいと思います。
われわれの「要求」は、期待以上のかたちで実現しました。
さて質問です。
何かが変わったでしょうか?
答えは否、です。
というか、変わりました。
悪くなりました。
なぜならば、これに関わった人々が、すっきりしてしまったからです。
その人々は、数少ない善人で、またなおかつ実践家でした。
岡真理のような癒し系アイドルとは違います。
あなたがたは、地道な努力をして、運動に関与してきたのです。
さて、運動というものを腐敗させる要因の一つは、「ニセの達成感」というものです。
そもそもからして、スーザン・ソンタグの演説自体が、おそろしくぬるいものでした。
彼女は、エルサレム賞がイスラエル及びそのほか全世界における諸関係において果たしている機能を機能させる役割を引き受けました。
イデオロギーというのはそういうものです。
エルサレム賞とはなにか?
すこしネットで調べればすぐにわかることですが、イスラエルの中東における特殊性を証明するための制度と儀式です。特殊性とは、「民主主義」とか「自由」とか「寛容」といったようなことです。
さて、それらは、一見、現実の軍事力やその行使のあり方と矛盾しているように見えるかもしれません。
しかし、その矛盾にこそ価値があるのです。
少なくとも現代の国家暴力は、ある程度ねじれたあらわれ方をします。
それはこのような論理を背景としています。
よきものがある。よきものは脅威にさらされている。脅威はよきものではない。したがって、よき戦術は通用しない。だから、よきものをまもるために、「あえて」わるくなる。
これは一人一人の個人のなかにある正当化のひな形でもあるし、また、集団内における「良心」と「無法者」の役割分担でもあります。これについては「永遠の嘘をついてくれ」というエントリーで詳しく説明しましたので、ぜひご参照ください。
背景は以上の通りです。
その文脈においてエルサレム賞は存在します。
ということは何を意味するでしょうか?
たとえば受賞者がエルサレム賞を拒否したり、授賞式において苦言をていしたとしましょう。
そのようなことを可能にするイスラエル社会とは何でしょうか?
そのようなリスクをおかしつつスーザン・ソンタグを選んだことに、どのような意図があったのでしょうか?
しかしそれでも、今回、ハルキは立派でした。
とりあえずほめてあげましょう。
そして、そのことはすっぱり忘れましょう。
また今日も、明日も、明後日も、今までの実践が続きます。
そして、それを少しレベルアップした自分がやります。
なぜならば、村上春樹を媒介することによって、われわれは自覚せざる得なかったからです。
いま、まさにここが「エルサレム」だということを。
街に出て、キョロキョロしてみてください。「壁」が見えてきます。
↑あと1時間19分で消します。もうやり方については色んなノウハウを伝授したと思うので、各自で工夫してください。
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(今泣いています)