ここから本文エリア 現在位置:asahi.com >歴史は生きている >5章:満州事変と「満州国」 > 絵空事に終わった五族の共生
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まるで日本の城を移設したかのような旧関東軍司令部。今もそのまま共産党吉林省委員会が使っている=中国・長春で |
溥儀(プーイー)(ふぎ)(1906〜67) |
東京の新大久保は不思議な街だ。
韓国、中国、モンゴル、ベトナム、タイ、マレーシア……。いろんな国の料理店が軒を並べ、様々な外国語が飛び交う。
かつて「満州国」があった中国・延辺(イエンピエン)朝鮮族自治州の人が出した店もある。
「ぼくのふるさとの味です」
そう言って、満州の朝鮮人を研究している一橋大客員研究員の許寿童(ホ・スドン)さん(43)が私を誘った。
許さんの父親は満州国時代の1938年に、8歳で家族と一緒に朝鮮南部から延辺に移った。当時の朝鮮は日本の植民地。土地を奪われ、食べていけない農民も多かった。そんな農村の人減らしと、満州に日本の勢力を増やそうとする移民政策で、押し出されるように国境を越えたのだった。
許さんと話しながら、二つのことを考えた。一つは、満州国とそれまでの日本の植民地とのつながり。もう一つは、新大久保の街が象徴する日本の今と満州国とのつながりだ。日本では今、人口減や少子化を補うように外国人が増え、多くの民族が共に生きる社会のあり方が問われている。「五族協和」に失敗した満州国に学ぶものがあるのではないか。
そう口にすると、許さんはこう言った。
「五族協和はウソでした。それを前提に歴史に目を向けるべきでしょう」
*
満州国の首都だった長春(チャンチュン)に飛んだ。
ここもまた、不思議な街だ。
満州国時代は「新京(しんきょう)」と呼ばれた。壮大な都市計画で造られた建物群がほとんどそのまま残っている。しかも、大学や病院として今も使われている。生きた歴史のテーマパーク、とでも言おうか。
たとえば、満州国政府の中枢だった国務院は、西洋と中国の伝統様式を混ぜた造りで、日本の国会議事堂のようだ。
なぜこんなところに日本の城があるんだろう――。そう驚かされるのが、街の中心で威容を誇る関東軍司令部の建物だ。満州国の支配権を誰が握っていたか、一目瞭然(りょうぜん)と言っていい。今は共産党の吉林(チーリン)省委員会。この地域の最高権力者であり、権力のバトンタッチを見る思いがする。
侵略者の建物を壊さずに、使い続けているのはどうしてだろう。省の公文書館にあたる機関で、満州国時代の憲兵隊文書などの整理に取り組んでいる張志強(チャン・チーチアン)さん(55)に疑問をぶつけてみた。
二つの理由がある、と張さんは言う。
まず、日本の敗戦で満州国が崩壊したとき、まだ数年しか使っていなかった。それに、設計は日本人でも建てたのは中国人。「自分たちの血と汗で造ったものを使うのは当たり前」だったのだそうだ。
二つめは、青少年への「愛国主義教育」のためだ。「侵略された時代の物を残せば歴史の事実が見えますから」
確かに、ここに来れば、満州国の記憶がよみがえる。ところが、建物には「偽満(ウェイマン)」「偽満州国(ウェイマンチョウクオ)」の史跡という金属板が張ってある。目の前にはっきりと存在しているのに、ニセモノとはどういうわけか。
東北淪陥(りんかん)14年。満州事変から満州国の崩壊までを中国ではそう呼ぶ。東北地方が占領され踏みにじられた屈辱的な時代という意味だ。20年ほど前から淪陥史をつくる事業が始まった。編集長を務めてきた省社会科学院の孫継武(スン・チーウー)さん(81)を訪ねた。
「偽満というのは、満州国を認めないということです。私たちの土地を奪った日本がつくった国ですからね」
その時代を生きた孫さんは、小学校から日本語を習わされた。タバコとタマゴの発音が区別できず、先生に「バカ」と言われて殴られた。日本人の子が中国人を殴っても先生は注意しない。朝礼も別々に並ばされた。「何が五族協和だ」。日本への反感は高まるばかりだったという。
孫さんたちは80年代末から90年代末にかけて、「偽満」の時代に日本の開拓民が入植した地域の農民100人余りの聞き取り調査をした。見えてきたのは日本の軍隊に土地を奪われる農民の姿だった。山野に追われて荒れ地を開墾するか、土地を手にした日本の開拓民の小作をするしかなかった。その日本人も多くは貧乏な農民だった。
「彼らも日本の侵略の犠牲者。中国の農民と友好的なつきあいをした人もいたんですよ」。そう言ったあとで、孫さんはすぐ言葉を継いだ。「全体的にいうと、日本人はすごく優越感を持っていた。自分たちは優等民族で、中国人は劣等民族だと」
それを象徴するのが、孫さんが学校で毎日やらされた宮城遥拝(きゅうじょうようはい)だ。天皇がいる東京に向かって拝み、それから満州国皇帝の方を拝む。この順序で、満州国は日本の傀儡(かいらい)国家だと子供にもわかったのである。
■朝鮮からの移民急増 植民地政策が後押し
さて、そろそろ冒頭の許さんの故郷を訪ねなくてはなるまい。
延吉(イエンチー)の空港に降り立つと、冷気が肌をさす。朝鮮南部から来た人々にこの寒さはこたえたはずだ。それでも、朝鮮が日本の植民地になったあと、とりわけ満州国ができたあとに朝鮮人の数は急増した。なぜか。
延吉にある延辺大の民族研究院長、孫春日(スン・チュンリー)さん(49)は二つあげる。
一つは、日本の植民地統治への不満があって逃れてきた人たち。もう一つは、日本が始めた土地調査で証明書がないなどで土地を奪われた人たちだ。いずれも、日本の植民地政策が背中を押したことになる。
朝鮮人の移民は17世紀から始まったが、日本の統治後には満州事変までに100万人を超え、満州国時代に230万人に達した。そう指摘して、孫さんは言う。
「満州国をつくってから、日本は朝鮮でも王道楽土の宣伝を始めました。朝鮮人は反日感情が強いが、このころには日本にはもう勝てないという心理も芽生え、日本人扱いされて優越感を持つ人もいた。一旗揚げようと満州へ来る人が増えました」
36年からは計画移民政策が始まった。20年で日本の農家100万戸を移住させ、満州人口の1割を占める。そういう計画だったが、日本人だけでは足りず、朝鮮人も毎年1万戸を入植させようとしたのだった。
その一方で、日本軍は朝鮮人の「反満抗日運動」にも手を焼いた。そのために、農民たちを「集団部落」に囲い込み、外側の抗日勢力との分断をはかった。
延辺朝鮮族自治州を車で走ると、あちこちで「抗日戦士」の記念碑に出あう。その数の多さが、日本の弾圧の厳しさと犠牲者の多さを物語る。「日本がここに派出所を出した1907年から38年間の抗日の歴史があるんです」。案内してくれた州博物館研究員の金哲洙(チン・チョーチュー)さん(58)がそう言った。
■台湾からも官僚・医者 日本人並み身分求め
日本の植民地になったために、満州とつながる。この流れは台湾でも起きていた。
台北にある中央研究院台湾史研究所の所長、許雪姫(シュイ・シュエチー)さん(54)は、満州に住んだ台湾人の研究を90年代から続けている。
47年2月28日に国民党政権が住民を虐殺した「二・二八事件」とその後の弾圧を調べるうちに、犠牲者に満州から帰った人がいるのに気づいたのが発端だった。
「日本統治時代の研究はそれまで、中国南部の重慶(チョンチン)に行って国民党に参加した人たちに偏っていた。満州に行った台湾人に焦点を当てた研究はなかったんです」
許さんはまず、満州体験者700人のデータを集めた。驚いたのは、医者の多さだった。満州医大の卒業生だけでも100人余り。次いで目立つのは公務員だった。
その背景を許さんはこう見る。
「台湾には高等教育機関が少ないうえ、就職も容易でなく、日本人とは給与差別もありました。だから、日本人待遇で活躍できる満州へ、という流れでした」
また、台湾出身で満州国の初代外交部総長(外相)を務めた謝介石(シエ・チエシー)にあこがれ、満州へ渡った若者も少なくなかったという。
許さんは満州から帰った約50人に話を聞いた。だが、彼らの口は重かった。謝介石が戦後は「漢奸(かんかん)(中国の裏切り者)」とされたように、身の危険があったからだ。
その一人で、38年に開校した満州国の最高学府、建国大を1期生として卒業した李水清(リー・ショイチン)さん(89)に会うことができた。
「入学したころは、五族協和の理想に燃えていた。同窓生は今でも兄弟のように仲がいいです」。きれいな日本語だ。
貧しかった李さんにとって、学費や衣食住の費用がいらず、小遣いまで出る建国大は輝いて見えた。学生は日本人、中国人のほか、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人もいて、寮で6年間生活をともにした。日本人はコメ、中国人はコーリャン。そんな満州国の差別に憤り、同じ食事をとった。
だが、3期生が入った40年ころから動揺期に入り、やがて崩壊状態になったというのが、李さんの見方だ。日本が英米と開戦した41年末には、関東軍による思想弾圧事件が起こり、獄死する建国大学生も出た。
戦後は、建国大の後輩が二・二八事件で殺され、李さんも2年半の獄中生活を強いられた。それでも李さんは、建国大に行って良かったと思っている。
「違う民族が一緒にいて、立場をかえて物事を見る姿勢を学びました」
それも大学の中の話。外の満州国は矛盾だらけだった。行政のトップには中国人が置かれたが、それは名前だけで実権はその下の日本人が握っていた。そもそも満州国には国籍法がなかった。法的には「満州国民」は一人もいなかったことになる。
「日満合併に持っていくつもりだったからでしょう」。李さんはこともなげに言った。そう見られていた満州国が、すでに日本の植民地になっていた台湾や朝鮮とつながっていて何の不思議もない。
*
ここに紹介できなかった人も含めて、当時を生きた多くの人々から聞いた言葉がある。孫継武さんが口にした、日本人の「優越感」だ。そんな感覚の「五族協和」は、ウソに終わるしかなかったろう。
私たちはこれから、外国人と共に暮らす社会をどのようにつくればよいのか。その答えを探るとき、まず自分のどこかに異民族、異文化を見下す気持ちがないかどうかを点検してみたい。
◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。