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満州の「真実」 青い袋が届いた

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リットン調査団の主な動き

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リットン調査団に渡された冊子「TRUTH」。国連欧州本部の図書館に保管されていた(同図書館提供)

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1932年3月、リットン調査団(リットンは前列左から2人目)は、靖国神社にも参拝した

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張作霖

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張学良

 消防車のサイレンに似た響きが、雨の夜空に響き渡った。時刻は2007年9月18日の午後9時18分。

 私は、中国・瀋陽(シェンヤン)(しんよう)市の「九・一八歴史博物館」の前にいた。年に一度の瀋陽市による式典が開かれている。76年前のこの夜、日本の軍隊が突然、近くで武力攻撃を始め、またたく間に中国東北部の広大な地域を支配した。式典はその記憶をとどめ、そして平和を祈るためのものだ。

 空襲警報を思い起こすためという、その響きは3分間続いた。広場に集められた高校生や兵士、武装警察官たちは、雨にぬれながら直立姿勢のまま身じろぎもしない。

 その2日後、近くの撫順(フーシュン)(ぶじゅん)市で開かれた「抗日戦争」をテーマにしたシンポジウムで、意外な人に出会った。

 満州事変の3年前まで、中国東北部で軍事勢力のドンであった張作霖(チャン・ツオリン)(ちょう・さくりん)の孫にあたる張閭実(チャン・リュイシー)さん(45)だ。シンポの主催者から招かれたという。日本軍によって爆殺された張作霖から軍事勢力を受け継いだ張学良(チャン・シュエリアン)(ちょう・がくりょう)は閭実さんの伯父にあたる。学良は満州事変後は東北地方に戻れず、日中戦争の後は台湾に移った。一族も同じようにした。閭実さんが一族の故郷、瀋陽に戻ったのは今年5月だった。

 「日本人は、中国人に対してどのように考えていたのか。まったく分からない」

 過去を語りたがらなかった張学良だが、閭実さんら一族の人々にはよく、そう話したという。

 関東軍が満州事変を引き起こした翌年、中立的な立場から事変の実態を探ろうとした人たちがいた。国際連盟が事変の原因調査や解決方法を検討するために送ったリットン調査団だ。その報告書は、当時の多くの日本人が信じていたものとは異なる姿を描いた。それが日本の連盟からの脱退につながり、国内での排外主義、反欧米主義を強めさせていく。

 リットンは誰に会い、どんな話を聞き、その目には何が映ったのか。私は、リットンたちの道をたどってみることにした。

■共産党との闘い優先 日本軍には抵抗せず

 そもそもなぜ国際連盟は調査団を送ったのか。

 満州事変が起きた時、南京を首都にする国民政府は指導者の蒋介石(チアン・チエシー)(しょう・かいせき)が、国内での「敵」である中国共産党勢力の壊滅を優先させる方針をとっていた。日本軍には抵抗せず、国際連盟の舞台で決着をはかろうと即座に提訴した。

 第1次大戦後に誕生した国際連盟にとっては、初めての重大な国際紛争となった。日本は連盟を実質的に動かす「理事会」の常任理事国であり、中国も満州事変が発生する4日前に非常任理事国に選ばれたばかりだった。現在の国連安全保障理事会での地位とは、逆だったのだ。

 報告書によれば、調査団は1932年2月に日本に着いた。臼井勝美(うすい・かつみ)・筑波大名誉教授の著書によると、リットンらは東京で犬養毅(いぬかい・つよし)首相ら政府要人と相次いで会見し、日本の言い分を丁寧に聞いた。

 荒木貞夫(あらき・さだお)陸相は率直にこう語っている。

 「日本の狭い国土は増大する人口を養えない。日本はアジア大陸に資源を求めなければならない」「中国には真の政府が存在しているか疑問だ。統一された文明国とみなすことはできないと私には思われる」

 中国大陸に移り、南京で蒋介石ら首脳と会談した後、北平(ペイピン)(現在の北京)では張学良が迎えた。自らの拠点だった満州を奪われた張学良は一行を歓迎する宴会で大弁舌をふるった。

 「東三省(満州)は人種上、政治上、経済上いずれも中国と分離できない」「紛糾の真の原因は、中国が統一に向かっているのを、日本がねたむことにある。日本は東三省を奪おうとしている」

 中国は統一できるのか。この点で、日中の主張は真っ向から食い違っていた。

■日本に接触阻まれ 学生ら手紙で告発

 リットンらが重視し、そしてもっとも苦労したのは、満州で普通の住民から意見を聞くことだった。日本や「満州国」側が、調査団の安全を守るという口実で、住民との接触をはばんでいたからだ。「会見は常に甚(はなは)だしき困難の中、秘密のうちに行われた」と報告書には記されている。

 住民らはどのようにリットン調査団に近づき、何を伝えたのだろう。九・一八歴史博物館の王建学(ワン・チエンシュエ)研究員に聞くと、当時の奉天(ほうてん)(今の瀋陽)にいた鞏天民(コン・ティエンミン)という銀行家の名前を挙げた。

 王さんの説明はこうだ。

 満州事変が起きると、10万人以上の奉天市民が北平などに逃げた。しかし鞏はふみとどまり、侵略者への抵抗を始めた。キリスト教青年を組織して義勇軍を支援。リットン調査団に手紙を書くよう学生らに呼びかけて、多くの手紙を書かせたという。

 報告書には実際、「『満州国』に反対する学生や青年から多数の手紙を受け取った」と書かれている。

 2005年7月、瀋陽の地元夕刊紙「瀋陽晩報」は、鞏天民の当時の活動を伝える記事を掲載した。息子の鞏国賢(コン・クオシエン)さんのインタビューに基づいたものだ。

 それによると、鞏ら9人のグループはリットン調査団が来ることを知ると、事変が日本側によって計画的に起こされたことや、満州の新政権が日本人にコントロールされていることを告発しようと考えた。それを証明するための資料をひそかに集めて「TRUTH(真実)」と題する冊子をつくり、瀋陽在住のイギリス人牧師に託した。牧師が自宅でリットンらを夕食会に招き、そこでひそかに渡した。牧師はたまたま、リットンの親類だったという。

 この話は確かなのだろうか。

 王さんに問い合わせたが、「そうしたエピソードは知られているが、史実としては確認されていない。冊子もこちらでは確認していない」という答えだった。鞏国賢さんにも人を介して取材を申し込んだが、理由がはっきりしないまま断られた。

 途方に暮れつつ、最後の望みを託したのが、国際連盟の資料を持つジュネーブの国連欧州本部の図書館だった。

 「『TRUTH』は本当にリットンの手に渡ったのでしょうか」と尋ねると、2日後に「関係史料の中にありました」と返事がきた。

 それは青い布を張った表紙でとじてあるアルバムで、同じく青い布の袋に入っていた。袋には、ピンクの糸で「TRUTH」と刺繍(ししゅう)されている。

 75の資料がまとめられており、その主な件名を拾い出すと――。

 ▼1931年9月18日以来、日本の兵士によって銃撃された罪なき市民のリスト

 ▼学校教科書の書き換え、削除リスト

 ▼日本軍憲兵によって検閲された手紙

 これらの資料について解説する手紙も添えられていた。英文タイプで27ページある。「証拠のいくつかは生命の危険をおかして入手した」と事情を明かした後、柳条湖事件の計画性やその後の主権の侵害、満州国建国に関して日本の軍当局が行った活動について説明する。「満鉄線の爆破は武力攻撃の口実としてでっち上げられた」「満州国の建国は日本人によって手ほどきされ、操られた」などと述べている。

 最後の「結論」は切々たる訴えだ。

 「満州の人口の95%以上は中国人であることを思い出してほしい。中国人は自然に中国人であることを欲し、永遠にそうであろうとする」

 冊子をつくった9人は全員、本名と職業を署名したという。だが、署名など作成者をうかがわせる部分はすべて切り取られていた。連盟側は9人の安全を守るためにあえて切り取ったのかもしれない。

■九・一八事変から中国人意識強まる

 調査団は満州滞在中に1550通の手紙を受け取った。報告書によると、「2通を除くと残りはすべて、新『満州国政府』と日本人に対して痛烈に敵意を示していた」という。報告書は次のようにまとめた。

 「公私の会見、手紙および陳述によって提供された証拠を慎重に検討した後、『満州国政府』は現地の中国人には日本側の手先と目せられており、中国側の一般の支持はないという結論に達した」。日本軍の行動については「自衛とは認められない」と結論を下し、日本側の主張を退けた。

 リットン報告書が思い通りの内容にならないと察知した日本は、それが公表される直前の32年9月に満州国を承認した。翌年、国際連盟が満州国を否定する勧告を可決したときは1国だけ反対し、常任理事国の立場を捨てて連盟を脱退してしまった。

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 満州事変を経験した人は中国でも年々少なくなっている。地元の歴史家を通じて瀋陽市内で探してもらうと、老人ホームで暮らす95歳の単立志(シャン・リーチー)さんが見つかった。

 最北の黒竜江省で生まれ育ち、柳条湖事件が起きたときは貧しい小作農だった。「国民党は東北を見捨てたと、みんなはうわさしていた」と話す。翌年、村に現れた日本軍に抵抗して、村の「反日会」に加わった。やがて「抗日」のゲリラ戦を戦う兵士になったという。

 中国の人々は、抗日運動に参加することで、自分が「中国人」であるという意識を高めていった。中国社会科学院近代史研究所の歩平所長は話す。

 「アヘン戦争以来少しずつ育ってきた中国人としての意識は、九・一八事変とそれに続く抗日戦争で一気に強まった。中国人が団結する特別なきっかけとなったのです」

(吉沢龍彦)

キーワード:リットン調査団
 満州事変を調査するために国際連盟が派遣した調査委員会。米英仏独伊の5カ国が委員を1人ずつ出し、イギリス人のビクター・リットン卿(きょう)が委員長に。リットンはインド総督の息子でベンガル州知事などを務めた。  調査団は1932年2月末から日中両国をまわり、同年秋に報告書を作成した。日本の軍事行動は自衛措置であり、満州国は自発的な独立運動で生まれたという日本の主張は認められなかった。一方で日本の利益にも配慮して、連盟主導のもとで日本を中心とした列国が指導する自治政府の設置を提案した。
キーワード:関東軍
 日本が中国の東北地方(満州)においた常備軍。日本は大連、旅順を含む遼東半島の租借地が、万里の長城の東端にある「山海関」の東にあるため、「関東州」と呼んでいた。この租借地と、日本が経営していた南満州鉄道(満鉄)を守るために置いた軍隊が前身。1919年、関東都督府の改革で軍事部門が切り離され、独立した関東軍が誕生した。兵力は満州事変まで1万人強にとどまっていた。張作霖爆殺事件と柳条湖事件は、いずれも関東軍参謀の謀略だった。満州事変後は兵力を増強し、抗日運動の鎮圧や華北、内モンゴルへの侵略工作を担った。後に生物兵器開発のための人体実験を行った731部隊も関東軍の組織。
キーワード:満州事変
  日本が中国の東北部(満州)や内モンゴル東部に侵攻した戦争。事変の期間については、狭くとれば1931年9月18日の柳条湖事件から、1933年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定まで。広くとれば日中全面戦争が起きる1937年7月7日の盧溝橋事件までをいう。中国では九・一八事変と呼ぶ。  当時の日本政府は、不戦条約などの国際法に違反しているという指摘を避けるために、戦争ではなく「事変」と認定することをわざわざ閣議決定した。  日本は日露戦争で得た旅順、大連などの租借地や南満州鉄道(満鉄)の経営権を「特殊権益」と呼んで重視していた。これを取り戻す動きが中国側で強まると、日本が常駐させていた関東軍が奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖の満鉄線を爆破し、「中国軍が爆破した」という口実で攻撃を開始した。これを柳条湖事件と呼ぶ。関東軍は満州と内モンゴル東部の領有を目指していたが、陸軍中央が認めなかったため、清朝の最後の皇帝溥儀をかついで「満州国」をつくり、政権を操った。
張学良(チャン・シュエリアン)(ちょう・がくりょう)(1901〜2001)
 張作霖の長男。父が関東軍に爆殺された後に奉天派軍閥を引き継ぐと、国民政府に合流した。1936年、共産党との内戦を優先していた蒋介石を軟禁し、「抗日」への転換を迫った。これで国民党と共産党が協力して、日本軍と戦うことになったが、張学良自身は幽閉され、戦後は台湾に移された。

 ◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。

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