総合芸術、という観点から比較した、茶道とオペラ
韓国人の多くは理解していないようだが、「茶道sadou」とは、日本独自の総合芸術文化である。
では総合芸術とはなんだろうか?
総合芸術
音楽・美術・文学・料理・建築技法・マナーの美学・など、これまで個別に機能していた既存の芸術や技術が、互いに融合して生まれる一つの新たな芸術である。
例えば映画は、一般的に、ストーリー重視、映像による表現に頼りすぎ、という偏りがあるものの立派な総合芸術である。
また、オペラやバレエは古典的総合芸術と呼ぶ事ができるだろう。
そして、日本茶道も、多くの芸術・技術が融合して生まれた芸術であった。
つまり、分かりやすく、図解で説明すると
オペラは単純な「歌を歌う行為」だと思っている人間はいない。
★「歌を歌う行為」と「オペラ」

そして、茶道も、単純な「茶を飲む行為」ではない。
★「茶を飲む行為」と「茶道」

これらを比較して、「歌を歌う行為=オペラ」「茶を飲む行為=茶道」であると、主張する人間は、いるだろうか?
いるとすれば、判断能力のない愚か者だろう。
「訓練されていない者の、単純な行為」は、「総合芸術」ではないのです。
茶道の成立経緯
茶道の成立ですが、元来、単純な「茶を飲む行為」であったものに、様々な日本文化の要素が付随して、「茶道という名前の総合芸術」に変容しました。
その経緯を、茶道に関わる日本文化※を紹介しながら、簡単に説明します。
★が文化説明
★香道(匂いの芸術)

香木が推古天皇3年(595年)に淡路島に漂着してから、宗教的(主として仏教)
に利用されてきた香木を、炷き、香りを聞いて鑑賞するものとして利用するようになった。
★茶花(茶道用の華道)

茶花(ちゃばな)とは茶の湯の席でいけられる花のことです。茶会で茶席の床の間に飾ります。
茶花の基本は、「季節の花を自然のままにいける」である。
茶花に使う花には決まり事があります。
匂いの強い花、毒のある花、色や形がどぎついもの、季節の無い花、などは茶花には使ってはいけない。
「茶を飲む行為」から総合芸術としての「茶道」への過程
9世紀から11世紀
茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされた。
当時の茶は現代の烏龍茶に似た半発酵茶で、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。
12世紀から14世紀
鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって、「抹茶」が中国から薬として持ち込まれる。
この茶を飲む行為は「茶の湯 tyanoyu」と呼ばれた。
禅宗(仏教の宗派)の広まりと共に精神修養的な要素を強めて「茶の湯」は広がっていった。
茶の栽培が普及する。
それに伴い「茶の湯」に用いる ★菓子 ★料理(懐石料理) などの技術も発達した。
★茶菓子の発達
茶道用の菓子が考案された。
この菓子は、主に現代の茶席で使われる「nerikiri」




★懐石料理
「懐石」は、禅寺の修行僧が温石を懐に入れて暖をとったことからの言葉。
もともと茶の湯(茶道)に伴う食事として作られた。
格式はあるが、単なる高級料理ではない。季節感を重視して作られる。

14世紀から16世紀
室町時代には「路上で茶を売る商売が存在する」程度に生産量が増大する。
庶民への普及率が高まった。
※しかし「上流階級の茶の湯=精神的修行行為」とは違い、茶を飲む行為には目的がない。
この時代の茶の湯の傾向
●飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。
●中国の茶器「唐物」が流行する。大金を使って茶器を蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した。この場合、茶会は、富と権力の象徴である。
これらの傾向を非難した人物がいる。
村田珠光という人物だ。
彼は、茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。
これがわび茶の源流と成っていく。
わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成された。
★茶道に用いる建築物
利休は「茶の湯」に大きな影響を与えた茶人であったが、茶会の会場となる建築物も例外ではない。
・上の写真は茶室待庵(国宝) 千利休の作とも言われる。
・下の写真は他の茶室の内部。非常に狭い。
この非常に狭い茶室は侘び茶の境地をよく示している。
小さな茶室は、狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間が生まれる。
17世紀以降
その後、江戸時代には茶道の精神性などに多様性が生まれる。
特に大衆化することに伴い「遊芸化」の面が強まる。
他方でこのような遊芸化の傾向に対して、本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美
しさ」が強調されるようになる。
★江戸時代末期の絵

この絵のような庶民も総合芸術としての「茶の湯」を楽しんだ。
茶の湯に必要な道具は揃っており、形式通りに茶を楽しんでいる。
河鍋暁斎「百福図」1831年 - 1889年
19世紀
井伊直弼が「一期一会」の概念を完成させた。
各流派による点前の形態や茶会様式の体系化と言った様式(「結婚式には礼服を着る事」程度のマナ−の範疇である)の整備を行った。
「人をもてなす事の本質とは(常日頃の振る舞いと、その奥底にある心の本質に気を使わないと、本当の意味で人をもてなす事はできない)」と言った茶道本来の精神を見直す活動を行ったのである。
この時点で、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯の「様式」が完成したことになる。
つまり、茶道の概念が現在のように完成したのは、19世紀である。
★「静寂」を感じるための、工夫。
鹿威し

★工夫を凝らした茶道具
時代によって、流行がある。

茶道とオペラの違いについて
茶道を構成する要素には、上に挙げた通り、日本の芸術・技術が多く含まれる。
音楽・美術・文学・料理・建築技法・漆器や、陶磁器、鉄器など、茶の湯に用いる道具。
これらすべては、伝統的な日本文化(芸術・技術)だ。
茶道を行う会は「茶会 tyakai」である。
「茶会」を成立させるためには、「会場」は必要不可欠である。
オペラの主催者が会場を準備するように、亭主(主催者)は、茶会に必要な準備をする。
全体のバランスを考えて、過不足無く、客をもてなす準備を整える。
そして、客の側も、会場の格式にあわせて、服装などを整える。
客も芸術を楽しむためには、場違いにはならないように、相応の準備を行う必要があるのである。
ここまでは、オペラも茶道も大きな違いはない。
だが、当日の状況は内容が異なる。
オペラは、舞台芸術であるので、出演者と観客が、完全に区分けされる。
コンサート会場の主催者側は演奏者も含め、観客にサービスを行うことに全力を尽くすのである。
オペラの観客になるためには、声楽の練習をすることは必要がない。
客として主催者が提供する芸術を楽しむ。会場の雰囲気と舞台を楽しむ。
客の1人が、不作法に眠ってしまっても、急用で退出してもコンサートの出来には変化がないのである。
では「茶道」の「茶会」はどうだろうか?
茶道を行う場に出席すると同時に、客の側も「茶会」を成立させる要素の一つになる。
客でありながら、演奏者の役目も果たすのだ。
作法(茶道の決まり事)に従いながら、客は「茶の湯」を楽しむ。
亭主(茶会の主催者)も同様である。
格の高い会場であれば、高度な作法の技術が要求される。
そこには「観客」は存在しない。
招いた者と招かれた者が、茶を飲み、心から楽しむという行為だけが存在するのである。
『利休七則』
一、茶は服のよきように点て
二、炭は湯の沸くように置き
三、花は野にあるように
四、夏は涼しく冬暖かに
五、刻限は早めに
六、降らずとも傘の用意
七、相客に心せよ
韓国伝統茶について
朝鮮半島では、高麗時代までは仏教の影響で、中国人が記録するほど喫茶文化が盛んだった。しかし李氏朝鮮時代には仏教弾圧、お酒を重視する儒教文化の影響などにより、仏教とともに伝来してきた喫茶文化は寺院や王室、両班など一部を除き衰退した。
朝鮮半島はもとより気候的に茶葉栽培に適した土地が少なく、現在は全羅南道の南部などでわずかに栽培されているのみである。一説に拠れば韓国の伝統的な茶は元々茶色が主流で緑茶は少なかったが、今では緑茶が主であり、これは日本植民地統治下で日本の茶文化の影響を受けたものであるとされる。また、伝統的な韓国式茶道(正確には茶礼)を復興させる試みもある。
朝鮮半島では元来庶民の間で茶葉を使用しない飲料が広く飲まれており、伝統的な茶の喫茶習慣の衰退後は茶に替わる嗜好飲料として確立した。これらも現在韓国伝統茶と呼ばれる。(ウィキより引用)
■建国以来、半島の庶民が愛飲した伝統茶
(茶の木の「葉」を使用しない、果実や薬草のハーブティ)
★柚子茶

★ゴミシ茶

★菊茶

この他、茶の木の葉を使わないハーブティが多種多様である。
一方、茶の木から作られる「茶」は、朝鮮時代には特権階級や一部の人しか飲めない飲料であった。
その影響か、現代の韓国人のお茶の消費量は、日本人と比較するとかなり少ないのである。
★新羅時代ギムデリョムが植えたという最初の茶畑 慶南河東の茶始培地

戦後に作られた「韓国茶道」
日本の茶道の流派を参考に、「正座して、粉のお茶を混ぜて飲む韓国茶道」が新しく作られました。
韓国人は、百済が伝えた茶の形式が日本にそのまま残っていると主張します。
が、日本の「茶道」に必要な小型の臼や茶(パウダーにして飲む)は12世紀頃に中国から菓子と共に直接伝えられた形式です。
百済の茶文化と「日本茶道」の関係性はありません。
なお、日本茶道の道具や作法は「戦国時代頃に大きな形が整った」ものです。
ですから、現代の韓国人が以下のような写真の飲み方を、「韓国人が復元した、百済茶道=日本茶道の原形」と主張している意見も間違いなのですね。時系列が狂っている主張なのです。
ですから日本茶道の起源は百済というのも間違いですし、百済人が日本に茶を伝えたという意見も間違いです。
最近、日本を参考にして成立した文化であるので、道具さえも形が決まっていない。
茶を混ぜる道具の柄が日本茶道と差別化するために「異常に伸びている」。
正座や膝を立てて座る、小道具は日本茶道の模倣であるなど、オリジナリティが確立するまでまだ時間は必要なようである。
この文化(茶道の形式)を韓国人が「ウリナラ起源」を主張しないのであれば、日本人としては温かく成長を見守りたい。
