弥生時代臼・杵の復元
平成19年春~夏 柴田芳一(柴一臼屋)製作
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sk/kgs/douritsu/seika/kaitaku01.htm
臼と杵が生み出した生活文化-北海道・日本そして世界を探る-
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この研究は、本道と本州における臼類の発達過程、その関連性や歴史的背景などに関する比較研究を基軸とし、さらには臼類をめぐる生活文化と本州および大陸文化、そして世界の諸民族との比較研究へと展開しながら進めてきました。その成果として、北海道および日本における生活文化の独自性が、先史時代から近代に至るまで、それぞれの時代に自然環境や地理的、歴史的条件などを背景とし、朝鮮半島、中国、サハリン、千島を含む大陸文化と深く係わりながら推移してきたことを示す新たな事実を明らかにするに至りました。 |
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また、世界における臼類の比較研究から、日本の生活文化が稲作文化圏に位置づけられるものの、朝鮮半島、中国東部・東北部に認められるパン食を含めた粉食文化が伝播しなかった事実は、日本文化の独自性を解明する上できわめて重要な課題と結論づけられました。 |
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臼や杵は、古代から近代にいたるまで、世界の諸民族において、主として食料の調整用具、粉砕用具として活躍してきました。 |
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日本列島に伝わった臼・杵類については、中国や朝鮮半島の文化などと深く関連しながら、独自の発達過程をたどってきたものと思われますが、その詳細については、いまだ十分に解明されていません。 |
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これらの解明を目指すことは、アイヌ文化さらには北海道の移住者の文化の形成と変容を明らかにすることにつながると考えました。 |
以下のような課題に焦点を当て、調査の計画を立てました。 |
(1) |
縄文時代晩期から日本に伝わった竪臼、竪杵などとアイヌ文化はどのように関係するか |
(2) |
東南アジア北部、中国、朝鮮半島そして日本のみに分布する横杵の発生と伝播の過程 |
(3) |
ヨーロッパ、西アジア、東アジアに広く分布したサドルカーン(石製粉挽き具)が日本列島に伝わらなかった理由
※■サドルカーン

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(4) |
日本におけるロータリーカーン(回転式粉挽き具)の発生過程 |
(5) |
北海道式石冠(石製粉挽き具の一種)をめぐる諸問題 |
縄文期以降の発掘報告書をはじめとする文献調査を行うとともに、 |
(1) |
弥生文化期の資料を大阪府立弥生文化博物館(堺市) |
(2) |
東アジアの資料を韓国の国立民族学博物館(ソウル市)、農業博物館(ソウル市)、韓国民族村(龍仁市)、及びロシア・ハバロフスク地方、ウラジオストク周辺地域 |
(3) |
西アジアの資料を東京大学総合研究博物館(東京都文京区) |
(4) |
世界の資料を国立民族学博物館(吹田市)、野外民族博物館リトルワールド(犬山市) |
等において比較調査し、従来の研究の再検討を行いました。 |
(1) |
本道の縄文時代に特徴的に出土する石皿と石冠は、東北北部にも認められ、同一文化圏であった可能性を示す資料の一つでした。また、札幌市の遺跡から出土した竪杵は10世紀前後のものと考えられ、東北北部からもたらされた可能性の高いものであり、石狩低地帯との交流を強く物語るものとして位置づけられました。これらの事実は、本道の先史から中世社会が周辺地域ときわめて密接な交流を展開していた可能性を示しています。 |
(2) |
アイヌ民族に竪杵と臼が普及した時期は近世期と考えられ、粟稗の脱穀調整に加え、米の移入などによって、本州文化の影響を強く受け、変容した過程を物語っています。 |
(3) |
近代において本道内陸部を中心に特徴的に分布した小型の臼は、本州における伝統的生活文化を基本としながらも、移住民の食生活が馬鈴薯や雑穀を中心とし、新たな道具を生み出す過程を示しています。 |
(4) |
ヨーロッパ、西アジア、中国東北部、朝鮮半島、アメリカ大陸などの先史時代に分布するサドルカーンが日本列島に伝播しなかった事実は、小麦を中心とする粉食、あるいはパン食文化を受け入れなかった可能性を大きく示唆するものと考えられます。 |
(5) |
日本における竪杵と臼が稲作と大きく係わりながら縄文晩期以降に大陸を中心とする周辺地域から伝播したことは明らかですが、米、餅を中心とする食生活文化と道具などの関連性から、長江流域との関連性を解明することが、今後の大きな課題であることを提起しました。 |
(6) |
世界における横杵の分布は、酒や餅作りの道具として中国、朝鮮半島、タイ、ナガランド(ミャンマーと接するインド東北部の高地)、日本のみであることを明らかにしました。しかし、この横杵の発生に関しては、全く解明されていない状況にあり、今後の研究課題となっています。 |
この研究成果は、以下のとおり公表し、北海道の文化についての新しい知見を提供しています。 |
(1) |
「北海道開拓記念館調査報告」第40号に掲載されます。 |
(2) |
平成13年度公開講座「 臼と杵が生み出した生活文化-北海道・日本そして世界を探る-」(10月28日、会場:帯広百年記念館)を開催します。 |
(3) |
平成15年度に、開拓記念館において、特別展「(仮称) 臼と杵が生み出した生活文化-北海道・日本そして世界を探る-」を開催する予定です。 |
[担当試験研究機関]開拓記念館
[事業名]開拓記念館調査研究事業(H10~11)
■タイの臼と杵(1)
■タイの臼と杵(2)
http://www.pref.iwate.jp/~hp2088/park/kikaku/The%2024th%20plan%20exhibition%20text.htm
1 稲の脱穀と調製
春の苗代から始まった米づくりは二百十日も過ぎると稲穂が垂れはじめ、やがて黄金波打つ稲田が広がって刈り取りが始まる。
刈り取った稲は棒掛けやハセ掛けで天日干しされ、作業小屋に収納して脱穀作業に入る。脱穀は、それまでの「扱きはし」から、江戸時代前期には「千歯扱き」が出現し使用された。大正時代からは「足踏脱穀機」が使われ出したが、1日5アール程度の能率であったとされる。
脱穀に平行し、籾に付着した芒や枝梗を、「箕」や「篩」、「唐箕」等で選別を行うが、夜10時過ぎまで脱穀選別しても、作業は12~1月まで続くのが普通であった。
脱穀・選別作業が終わると「木摺臼」や「土摺臼」を使った籾摺りが2月末まで続いた。これが籾摺機械が開発普及される昭和初期まで行われた。籾摺りが終わった玄米は俵や叺に入れて出荷される。
籾摺りされた玄米は、いよいよ自分たちが食べる飯米用に精白される。この作業は精米機が普及される昭和20年ころまでは、集落毎に整備されていた「水車」を利用するか、自宅で「木臼」を使った米搗によって行われていた。

千歯扱きの脱穀
2 雑穀の脱穀と精白・製粉
島立てやハセで乾燥したヒエ、アワ、キビ、ソバ等の雑穀は、「木臼」を伏せた台等に打ち付けるか、地面に直接置いて「木槌」などで叩いて脱穀したが、大正後期から昭和初期には「足踏回転脱穀機」に移行してきた。
脱穀した穀物は精白して利用される。雑穀の精白は、「木臼」や「水車の臼」で搗いて行うのが一般的であるが、ヒエやアワは小粒で硬く、キビの実は卵形をして滑らかなため大変難儀した。
また、ソバでは、精選した玄ソバを「木臼」に入れて搗いて、ソバの粒と種皮をはがしたのち唐箕で殻を取り除き、「石臼」で粉挽きをした。

水車による脱穀や精白・製粉
3 稲の脱穀・調製用具と変遷
大陸から稲作が伝わった弥生時代から平安前期ころまでは、稲の刈り取りは石包丁で穂首刈りされ、そのまま臼に入れ竪杵で搗き、脱穀・脱ぷ(籾摺りにあたる)・精白を行なったとされる。
この臼には、胴がくびれている「くびれ臼」とくびれがない「胴臼」があり、杵も、細長い棒状の「竪杵」と丸太に柄を付けたような「横杵」がある。
江戸中期あたりからの古い文書や絵巻物の絵に「胴臼」と「横杵」が初めて出てくるが、やがてこれが全国に広がったとされる。
横杵は竪杵に比べて大変重い杵であり、これが何故広く普及したのか。横杵は搗き面(断面積)が大きくそれに見合うよう重さが必要であり、重さは二貫目(7.5kg)から三貫目(11kg)あった。横杵は、搗く能率が竪杵の十倍以上もあって、作業能率向上のために普及されたが大変な重労働であった。
[扱き竹]、[唐箸]
延喜5年(905年)ころからの稲の刈り取りは、稲わら利用や作業能率などから地際からの根刈りに変わってきた。これに伴い脱穀は二本の割竹のあいだに挟んで脱穀する扱きはしによって行われるようになった。しかし、扱き竹は強度や耐摩耗の点から、実際にはイネ扱きよりムギ扱きに利用していたとされ、その後鉄製の唐箸が出た。これがもっぱらイネの脱穀用に利用された。
唐箸
[千歯扱き]
鉄製の扱き箸によって扱き歯の強度が増したものの脱穀能率は依然として低く、脱穀は大変難儀で長期間を要する作業であった。
その後に利用された千歯扱きはいつ頃あらわれたものか、この時期が明記されている史料として「和泉誌」(元文元年 1736年)があり、そこには千歯扱きが元禄年間に、高石(大阪付近南部)の「大工邑人」によって初めてつくられたと記されている。その千歯扱きは鉄製の歯を20本並べたイネ扱きであったが、「センバ」という名前は、多くの歯が並んでいる「千歯」からきているとされるが、多量のイネが処理できる「千把」であったとも言われる。
その後、当時とすれば画期的な脱穀用具である「千把扱き」が足踏み脱穀機が普及する大正時代前半まで使用された。
千歯扱きによるイネ扱きの能率は、「粒々辛苦録」(天保年間、1830~43)によると、半日では上手で30束、下手で23,4束とあり、扱きはし(男12束、女9束)に比べて約3倍となっている。

千歯扱き
「足踏脱穀機](人力用回転脱穀機)
人力脱穀機は、明治18年(1885年)に宮本孝之助(東京)が回転式稲麦穀機を発明し専売特許第1号を得ている。本県には明治45年頃に兵庫県で生産されたシバタ式が最初に入ってきた。
本県の足踏脱穀機は水田地帯では大正2年~12年、畑地帯では大正4年~14年にかけて普及し、千歯扱きに取って代わった。

足踏脱穀機
[動力脱穀機]
明治30年代から開発が始まった国内の農業用小型石油発動機が昭和の始めに出回るようになり、本県では昭和10年代に入ると動力用脱穀機が普及し始めた。
昭和15年2月末現在の岩手県経済部調査によると、北上川流域71町村(水田地帯)の農家戸数に対する普及率は電動機1.94%、石油発動機3.80%、動力脱穀機3.78%、動力籾摺り機4.28%である。
[杵と臼]、[踏臼]
脱穀した籾は籾がら(種皮)で覆われており、これを取り除く作業(籾摺り:脱ぷ)は臼に籾を入れて杵で搗いた。この臼と杵は稲作とともに大陸から伝わったとされ、弥生時代の登呂遺跡(静岡県)から出土している。
踏み臼は、足で踏んでテコの向こう側に取り付けた杵を動かして搗く臼で「からうす」とも言った。この「からうす」は、奈良時代の万葉集にも出てくるが、「古事類苑」には慶長・元和年間(1596~1623年)の輸入と記されている。これは、「からうす」がすでに我が国でもあったものの稀であったため、あらためて中国から伝来されたと思われたものらしい。
しかしながら、この「からうす」(踏臼)は、その後出現した水車や摺り臼の普及によってすたれてきた。

からうす(踏臼)絵図
[木摺臼][土摺臼]
木摺臼は、二人が向かい合い、上臼にかけた縄や取っ手を交互に引いて約半回転ずつ交互に逆回転させて摺った。また、土摺臼は、竹で編んだ円筒形の容器に粘土を詰め、樫の木などを入れて固めたものを回転させて籾摺りした。
日本ではこれらの摺り臼はいつ頃から使用されたものか。
明記された史料が無く不明であるが、天和2年(1682年)に書かれた「百姓伝記」には、“寛永元年(1628年)のころ、土にて作るうす作りが長崎より来て作り見せたのが広がり、木うすがすたれた”との記載がある。
このように江戸初期に我が国に伝わった土摺臼は、回転方向が一定で回転速度が速いため、従来の木摺臼に比べて能力が高かったが砕米も発生した。その後改良されて全国的に普及した。
木摺臼や土摺臼で籾摺りした米は、籾殻を箕や唐箕で吹き飛ばし、揺り板(ゆるみ)や万石で選別・精選した。
本県の籾摺りも、木摺り臼や土摺臼、水車やバッタリ等によって行われ、やがて水田地帯では大正末期、県北部等畑地帯では昭和15,6年ころからロール式
籾摺機へ移行した。

左:
木摺臼 右:
土摺臼
4 雑穀の脱穀と精白・製粉
[唐竿][木槌][まどり]及び[穀打ち台]
ヒエ、アワ、キビ、ソバ等の雑穀は、弥生時代の遺跡である登呂遺跡でヒエが、他の雑穀についても、3世紀末から6世紀中頃にいたる古墳時代の遺跡から、畑作物として耕作されていたことが明らかになっている。 これらの脱穀は、収穫物を地面に置いて上から木槌や竿(唐竿)で「叩く」か、穀打ち台に「打つ」方法で行われた。
しかし、木槌のうち丸木に柄を付けた横槌は、江戸中期に書かれた「百姓伝記」に“穀物から落としに使いて、はか取りこと多し”とあり、竿や棒に改良を加えて槌として使われ出したと思われる。
穀打ち台
[足踏脱穀機]
このように本県でも、大正中期までは叩くか打って脱穀していたが、大正後期から昭和初期からは足踏回転脱穀機の普及によって、機械脱穀に移行した。
[杵と木臼][石臼]
穀物の脱穀や精白・製粉の用具として搗き臼と杵は弥生時代から使用されており、大正時代まではどこの家にも必ずあった。この搗き臼が進歩したのが踏み臼(バッタリ)や水車である。
※この記述の詳細は下に追加している
木臼で搗き種皮をはがしたソバやキビ、コムギ等は、石臼(磨臼)で粉挽きがされるが、この臼は飛鳥時代に伝来したとされている。石臼で
挽かれた粉は、うどんやそうめん、そば、きな粉、香煎、豆腐等として大正末期から昭和初期まで利用され、その後は動力製粉機に替わった。

石臼
(資料責任 非常勤専門員 安藤 誠)
参考・引用文献
「岩手県農業史」 森嘉兵衛監修 岩手県
「東北稲作史」 加藤治郎著 宝文堂
「農具」 飯沼二郎・堀尾尚志著 法政大学出版局
「臼(うす)」 三輪茂雄著 法政大学出版局
「写真で綴る昭和30年代農村の暮らし」武藤盈・写真 須藤功・聞き書き 農文協
■日本では戦国時代終了頃(17世紀)からロータリーカーン状態の小型石臼が全国に分布する。
この時点で、一般庶民の粉食文化が可能になったのである。
それまでの石臼は、基本的に、商業で使うものや寺院が所持するものであった。
戦争の弾薬(加薬加工)作りに、石臼を使用していたので、戦国期に石臼の数や石臼作りの技術者が増えたことが原因である
