日本のワサビ「HONWASABI」(4)
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日本のワサビ「HONWASABI」(2)http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfood&nid=55689&st=writer_id&sw=0020
日本のワサビ「HONWASABI」(3) http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfood&page=2&nid=55757&st=writer_id&sw=0020
山葵シリーズですが、前回の投稿から、時間が経過してしまいました(^^;)
初めてご覧になる方も多いと思われますがご容赦ください。
さて、(3)では、日本の地方に住む商人が「山葵漬け」を発明して、「山葵漬け屋」を開業、地元で安定生産しながら、販売するまでの経過を説明致しました。
今回も前回に引き続き、「田尻屋tajiriya」の販売促進方法をご紹介致します。
商売の工夫3
■消費拡大を行うために、宣伝広告を成功させる■
味が良くても、安定した生産が可能な製造状況であっても、無名であれば、消費者は購入しません。
これは当然ですね。
二代目の時点では、農家と契約し、最良確保することが必要なほど、店は繁盛していたようです。
地元の人に好評を得ていたのでしょう。
しかし、顧客が定着しても、地元民だけの需要では、多くを販売できません。
そこで、家業を継いだ「三代目」は宣伝広告をすることにしました。
地元で宣伝したのでは、成功しても、消費拡大は小規模に留まります。
彼が宣伝広告に選んだのは、政治を行う、徳川家の将軍が居住する、日本で一番人口の多い都市、「江戸都市」でした。
宣伝は成功し、「新通」にある本店が非常に繁盛する結果となります。
地図を確認しましょう。
■東海道の地図(赤い線は、当時の日本最大の主要道路、●は宿場町)
★江戸(edo)
目的地
★江尻 (ejiri)四十一里半(江戸まで、約166km)
店がある場所に近い、大きな主要道路

「わさび漬け屋」がある場所(3)と、江戸(1)の距離は、男性が徒歩で約五日ほどの距離です。
相当離れていますね。
しかし、宣伝は成功しています。
では、なぜ、宣伝は成功したのでしょうか?
いくつかの要因があります。
(1)「江戸」からワサビ漬け屋がある「新通」までの、客と商品の流通ルートが確保できていた。
まず、上の図を見てください。
赤い線は、当時の「東海道」と呼ばれるルートです。
「東海道」とは、東の大都市「江戸」と、西の大都市「京都」を結ぶ、道路のことです。
京と江戸を結ぶ、日本の中で最も重要な街道です。
江戸の日本橋を起点として、京都三条に至るまで一二六里半、五十三駅がおかれました。
京都から大阪に至るまで一三里。
間に伏見、淀、枚方、守口と四駅ありますので、江戸と大坂は五十八駅となります。
大勢の人間がこの道路を利用しました。
東海道「江戸・日本橋」

■「東海道中膝栗毛」江戸時代の旅行小説・挿絵

当時の、日本経済の大動脈で、物流も人の動きも活発でした。
宿場町があり、宿場町は常ににぎわっていました。
江戸時代は庶民の娯楽の旅も大変流行していました。
その様子を旅行小説にしたのが、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」です。
(上の図参照)
江戸時代の旅行コメディー娯楽小説でベストセラーになりました。
また、にぎわった街道の様子を絵に描いたのが「東海道五三里」という風景シリーズです。
つまり、この当時、東日本の江戸から、西日本の大阪方面に行くには必ずこの街道を通ることになります。
江戸での宣伝が成功すれば、西に方面に行く人間は、店に立ち寄る率が非常に高いのです。
(2)江戸で宣伝する為の、店の立地が有利だった
江戸で宣伝するためには、宣伝に使う大量の酒粕を、清水から江戸に送る必要があります。
しかし、大きな荷物は、徒歩や馬では運ぶことが難しいし、料金が必要です。
三代目はどうしたでしょうか?
船を使いました。
実は、店の近くには、大きな港があったのです。
店の近くにはejiri江尻という町があり、その町のすぐ隣に「simizukou清水港」がありました
※クリック拡大

2枚目の図を見てください。
右上に大きな町が見えるでしょう。それが江尻の宿屋です。
大きな道路は、「東海道」です。
川が流れており、海へつながります。
山葵屋の主人は、そこから、宣伝に使う山葵漬けを船に積み込んだのです。
江戸時代は、陸上交通ばかりでなく海上航路も発達していました。
大坂から江戸には大小百三十余の港が有り、菱垣廻船や、樽廻船など千石船が活躍しました。
清水港はそのルートの中でも大きな港です。
駿府の薪炭、木材、茶のほか、甲州や信州からの穀類(米、麦、そば、大豆、小豆)等を江戸や大坂へ運ぶと共に両国の塩、たばこ、酒、油の廻送などに利用されていました。
また、江戸幕府が水軍の拠点としていたため重要な港として栄えました。
三代目は、清水港で荷物を載せて、荷物と共に江戸に直接船で向かいました。
陸路と違い、船は安価、かつ安全に、大きな荷物を運ぶことが出来ます。
三代目の宣伝活動は一度ではなく定期的に行われていました。
遠く離れていた浅草に、清水在住の三代目が定期的に出かけることが出来たのはこのような理由があったからです。
■千石船
現代でも輸送コストが一番低いのは船です。
浮力を利用して、大容量を一度に運搬することが可能なのです。
飛行機が普及した現代、輸送に大型タンカーなどが使用されるのはこのためですね。

では、山葵漬けと共に、旅をしましょう。
山葵漬けと3代目を乗せた船は、どんどん進んで、edo江戸に近づきます。
江戸は、水の町。
水上交通が張り巡らされた都市です。
■江戸と、その要所の橋
船で荷物と一緒に、江戸の町に入ります。
1→2→3のルートを通り、目的地の街を目指します。
途中、船を乗り換えた可能性もありますがそれは省略(^^;)
彼が向かう目的地は「浅草」でした。

最後の写真は、目的地の浅草側の橋のたもと。
多くの人がいて賑やかである。
(3)宣伝広告は効果的な場所で行う
さて、江戸に向かった、三代目ですが、なぜ彼は江戸を販売宣伝場所に決定したのでしょうか?
この当時、江戸以外にも船で交通可能な都市はいくつもあったからです。
それにはまずこの事実があると考えられます。
「都市江戸は日本一、庶民が裕福な土地であった」
江戸時代の江戸都市は、大部分が地方出身者でした。
しかも、地方出身者のほとんどは職業は職人です。
また、独身者の男性が多いのです。
生涯結婚しない男性も少なくありません。
職人は、働けば技術料に応じて高い賃金が支払われるので、経済的にゆとりがあります。
彼ら江戸都市住民は、気質的に「ケチではない」「義理がたい(誠実である)」ことを誇りとし、「新しい物好き」です。
つまり、「比較的裕福な独身者男性が、非常に多い都市」なのです。
このような場所では、自然と消費が拡大されます(これは現代でも該当する条件です)。
事実、飲食店を始め、各種娯楽施設が江戸中に存在し、繁盛していました。
船に乗って、江戸に到着した三代目ですが、宣伝方法と、宣伝を行う場所にも工夫したようです。
彼が宣伝方法として選んだのは「試食」
そして、到着したのは「浅草」でした。
彼が浅草を選んだのも理由があります。
■当時の浅草
日本一の繁華街であった。

■戦前の浅草
やはり、繁華街として栄えていた。

現代の感覚では浅草は「過去に栄えた形跡のある伝統的な街」なのですが、当時の日本の浅草は、日本一の観光行楽地、最大の繁華街でした。
現代の、遊園地、ゲームセンター、有名寺、各種飲食店、各種お土産屋、雑貨店、衣服店、演芸場、サーカス、動物園、綺麗な女の人がいるお店、、、これら全てが集まっているような場所で、遊びの流行の最先端です。
浅草は、子供から老人まで遊ぶことが出来る、庶民向けの複合テーマパークのような場所でした。
ですから、繁華街でも、行商人などが商品を売っていました。
■1ギヤマム細工舩(ガラス細工の船)弘化4年(1847)3月頃
ギヤマンすなわちガラスの細工で船を作って展覧した見世物。
弘化4年3月に浅草奥山で興行して人気を呼んだ。
ギヤマン船の興行は文政期以来たびたび行われており、記録に残るかぎりでは、これが六度目。
■2駱駝の見せ物
移動動物園のようなものも、江戸では盛んだった。
見物すると御利益がある(良いことがある)と信じられていたようだ。
■3女軽業師(北斎)
■4軽業師の早竹虎吉。江戸時代末期から明治時代に活躍。
アメリカに渡って各地で興行し大いに話題を呼んでいる。

このような理由で、浅草付近には、参拝したり、買い物をしたり、遊んでいる江戸の住民と地方からの観光客が沢山います。
江戸都市住民には地方出身者が多いことは説明しました。
また、地方から観光旅行で遊びに来ている人・仕事で来訪した人たちも非常に多いのです。
行楽地で遊ぶ人間は、お金を普段より消費しますし、性格も開放的になっています。
また、お土産を配る習慣は昔の日本人にも存在したようで、財布の紐はゆるみます。
人が密集しており、物流が常に流動しています。
彼が浅草を、宣伝地として選んだ理由は納得できるでしょう。
(4)土地柄に合った、販売促進宣伝を行う
理想的な宣伝場所で、江戸では非常に珍しい「ワサビ漬け」を試食してもらいました。
「これは私の店の商品ですよ。ワサビ漬けですよ。美味しいから試食しませんか?」
おそらく、そのように、通行人を呼び止めて、食べて貰っていたのでしょう。
■現代でも行われている試食宣伝
「試食」という、3代目の宣伝方法は、当時、一般的に行われたかどうか不明です。
しかし、江戸都市住民つまり消費者の気質「ケチではない」「義理がたい(誠実である)」「新しい物好き」に効果的だったと思われます。
また、地方から、江戸浅草に観光に来ている人には、東海道の新通を通過して帰る人も沢山いたでしょう。
「試食品が美味しかった→機会があったら商品を買おう」と多くの人が思ったはずですし、知人に紹介も行った可能性があります。
■当時の浅草の地図(クリック拡大)
文字の向きが異なるのは、玄関のある場所を基準に名前を書いているから。

上に書いたことは、私の想像です。
しかし、大きくは外れてはいないと思います。
なぜなら、定期的に三代目が浅草での試食を行った結果、最終的には、一般庶民だけではなく、東海道を通過する大名までが、江戸から遠
く離れた新通のワサビ漬け屋で、ワサビ漬けを購入するようになったからです。
以前にも説明しましたが、酒粕漬けは保存食でもあるので、お土産としても最適だったのです。
■大名行列(このような身分の人が、個人商店でワサビ漬けを購入していました)
※クリック拡大

地方の地元の人に愛される商品には留まらず、全国的に有名になり、顧客の大幅獲得を成功させたのです。
それ以降も、歴代の当主は3代目に習い、江戸に試食宣伝を定期的に行ったと伝えられています。
現代でも、老舗としてこの店が現存しており、「山葵漬けの元祖」としてグルメに愛好されているのは、この3代目の活躍が大きな要素となっていると思います。
その後、4代目以降の当主に続く。