http://toron.pepper.jp/jp/middle/tsusin/siire.html
(引用)
室町時代前期の一四二九年、日本に来た朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を報告している。
この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」、、、、、と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。
だが、残念なことに、それらの技術はいずれも朝鮮の風土に定着しなかった。
灌漑施設としての水車の優秀性は、その後も何度か提議されていたし、造紙のほうも17世紀になり、柳馨遠が「倭の楮(こうぞ)の軽沢精緻に如かず」と、日本の楮である倭楮を使った紙の製造を提唱しているからだ。
これらの事実は、朝鮮側には日本の技術を受容し、維持するだけの土壌が整っていなかったことを示している。
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が「徒然草」(第五十一段)に記されている。
その水車が、農民達の手で取り付けられていた事を考えると、当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことが解る。
したがって、韓国の歴史教科書にあるように「技術を学ぶのに苦労していた」のは、日本側ではなく、寧ろ朝鮮の方であったのである。
日韓・歴史克服への道 下條正男 著 より
韓国では19世紀末まで農業用の灌漑施設は、大方、腕力による流水の汲み上げしかなく、足踏み水車すらほとんど見ることができなかったから、一般には「天水水田」といって雨水に頼り、きわめて原始的な農業が行われていた。
(李朝末期の治山・治水の状況 http://toron.pepper.jp/jp/20cf/agri/kr-agri.html)
0020__補足
徒然草(吉田兼好 著)
鎌倉時代、1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとする説が主流
http://www.tsurezuregusa.com/contents/51.html
(全訳のサイト引用)
(原文)
亀山殿御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭を給ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたづらに立てりけり。
さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るゝ事めでたかりけり。
万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。
(訳文)
亀山殿(※注1)という建物に、大井の小川(※注2)の水を引水しようということで、大井川沿いに生息している住民に命令して水車を作らせたことがあった。あまりにもお金をばらまいたので、水車は二、三日で完成して、川に掛けたのだけど、どんなに頑張っても廻ることがなかったので、あちこちと修理をしたのだけれども、いつまでたっても廻ることがなかったので、そのまま放置されることになってしまった。
それからして、京都の宇治川沿いに生息している住民を呼びだして水車を作らせたら、簡単に作り上げて、思い通りにクルクル廻ったので、水を汲み上げる姿が上出来だった。
どんなことでも、専門家というものは、ただ者ではないのであった。
(※注1 一二五五年に、後嵯峨上皇が嵯峨に作った仙洞御所のこと)(※注2 保津川が嵐山を流れるときに、こう呼ばれる)
水車を普段から使っている、宇治地方の庶民は、水車を製作することが得意であるという説話ですね。
また、お金が普通に使用されていたことも理解できる描写です(*^_^*)
室町時代「石山寺縁起絵巻」
通信使 朴瑞生の日本レポート (1429年)
以下は、朝鮮王朝実録 世宗莊憲大王實録十四冊 卷第四十六からの引用です。
http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_11112003_005
この中では、日本の貨幣を利用した流通事情や商品の陳列をするスタイル、日本の旅の様子や、橋を通る時に通行料を徴収し、お金をプールして保守用に使っていること。
また、日本人が清潔好きであるとして、風呂文化についてもレポートしていますね。
そして通信使・朴端生は、これらの事情を朝鮮社会に根付かせようとして数々の提案をしています。
さらに倭寇により、朝鮮の民が奴婢として連れていかれ、転売されたりしている実態を見て嘆いたりしています。
私めの拙い日本語訳で申し訳ないが併記しておきましたので、ご参考にどうぞ
○通信使 朴瑞生 具可行事件以啓:
通信使・朴瑞生が行くことにあたり申し上げるには、
(略)
一。日本農人、有設水車、斡水灌田者、使學生金愼、審其造車之法。
其車爲水所乘、自能回轉、而注之、與我國昔年所造之車因人力、而注之者異矣、但可置於急水、不可置於漫水也。
水砧亦然。 臣竊料之、雖漫水、使人踏而升之、則亦可灌注矣。
今略造其形以獻、乞於各官可置之處、依此造作、以助灌漑之利。
一.日本農民には、水車を設置して、水を汲んで回して田畑につける者がいるから、学生 金愼を使って、その水車を作る法を調べてきなさい。
その水車が水の所に乗って、自然に回転し、水をすくい上げて注いでいて、我が国が昔年に作った人力による水車では、水を注ぐところに人がいなければならないし、ただ水の勢いが急な所には設置できるが、水の流れが緩い所には設置できません。
水砧 もまたそうであり、臣がじっと考えて見ていたら、たとえ水勢が緩くても、人が足で踏んで水をあげたら、また水を流し込むのができるようでした。
もう手短にその模型を作って献じるから、各官は各村に設置可能な所に、この模型に依って製作し、潅漑の便利の助けになるようにしてください。
(略)
世宗莊憲大王實録十四冊 卷第四十六 29-30page参照
http://kyujanggak.snu.ac.kr/home/digital.htm
http://kyujanggak.snu.ac.kr/IMAGE/kyu03103.PDF
通信士は、エリートだったはずです。
しかし、このレポートを読むと、、、、。
調べないと構造が理解できない。
さらに、水車の基本的なことにも説明が及んでします。
よほど、珍しかったのでしょう。
模型を作って、朝鮮の農業に役立てましょう、というレポートです。
、、、、これが、朝鮮の農業の実情ですね。