再掲「日本の犬食を含む肉食の歴史」+yakinikuについて No4
縄文時代以降、16世紀まで、脈々と続いてきた日本の犬食文化ですが、江戸時代に続きます。
江戸時代
江戸時代の犬食文化について。
江戸時代、というと、庶民は、魚と野菜と卵、肉は鶏肉のみ、米、雑穀しか食べていないイメージがありますが、ひきつづき、ほ乳類の肉も食べていました。
■綱吉公の生類哀れみの例
1685年徳川綱吉は「生類憐れみの令」という、動物保護令を出しました。1687年以降内容が極端化します。
別名「犬公方」徳川綱吉

儒教を熱心に学んだため、母親の言葉にそのまま従ったという説があるます。しかし、本当の目的は徳川家に反抗する武士の勢力を減らすことだという説もあります。
江戸時代になり、世の中が平穏になり、戦闘集団であった「武士」達はその存在意義を失うようになりました。行政手腕に長けた吏僚派の武士たちが力を持つようになっていきます。
武闘派の武士たちは、現状に不満を持ち反抗的な態度に出るようになり、粗野な言動をスタイルとして確立します。彼らは「かぶき者」と呼ばれました。彼らは戦国の野蛮さを殊更強調する為に 「犬食い」 をすることを常としていました。
幕府の狙いは、生類憐れみの令によって、かぶき者の象徴である「犬食い」を大罪として押さえこむことで、戦国の世が完全に終わったことを人々に、印象付けようとした・・・という理由です。
まぁ、85年前は、こういう状況です
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1600年に行われた関ヶ原合戦図
当時の日本は、世界一の鉄砲を数所する軍事大国です
江戸幕府が、徳川家以外の武士が武力を誇示することを警戒するのも無理はないかなと思います。
動機はどうあれ、この政策の保護対象は多種類の生き物に適用されたのですが、綱吉は戌年生まれであったので、犬は特に、手厚く保護されました。
元禄年間、各町村に犬毛付帳を作成させ、犬の毛色や品種の記載させました。また、四谷・喜多見・大久保(二万五千坪)・中野(一万六千坪)などに野犬を収容する犬小屋を作り、犬医者を設置しました。
集めた野良犬は郊外で飼育されましたが、飼育条件が悪かった(狭い場所で飼うので、喧嘩→伝染病感染→全滅する)ので、短期間で、病気になり、たくさん死んだそうです
これって、結果的に、保護なのか、虐待なのか~、、、、^^;
元禄十年(1697)には大久保・中野の両地に収容した犬は49,000匹近くにもなったといいます。
この法令により、江戸に10万頭もいた野良犬が減ったようです。野良犬の数が激減したので、犬食いも多少は減ったのではないかと思いますし、野良犬による害獣被害数も減少したようですね。
また、他の説としては、当時のキリシタン(キリスト教徒)は肉食を推進していた為、この令の発布によって動物殺生を発見させ、隠れキリシタン(キリスト教徒)の摘発を促進したという話もあります。
しかし、文化・文政(1804~1830)当時の世相を伝えるものに、”犬の糞と侍が怖くては、江戸に来られぬ”、”このごろお江戸に多いもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞”という記述がありますから、この時期になると野良犬が増加していることが分かります。