「日本の犬食の歴史」前編
こんにちは。日韓の皆さん。
「日本人は犬を食べない」
現在、このように、皆さんは理解していると思います。
これは、事実です。
現在の日本の伝統料理には、「犬料理」は存在しません。
現在、日本にある、犬食料理店は、韓国料理店などの、「外国伝統料理店」のみです。
では「長い歴史の中で日本人は犬を食べたことがなかった」のでしょうか?
「食べていました」
現在、完全に消滅してしまっただけです。
日本には古代から近年まで、日本肉食文化の1ジャンルとして、犬食が存在したのです。
今回は、日本の犬食の歴史紹介を行いたいと思います。
犬食いの歴史
縄文時代~古代
縄文
日本の犬食いの歴史は、縄文時代中期から後期まで遡ることが出来るようです。
貝塚から、他の動物の骨と共に、割れた犬の骨などが発見されています。
於下貝塚(おした・かいづか)からは、犬の骨格がバラバラに散乱して出土しました。特に1点の犬の上腕骨には、解体痕の可能性が高い切痕が確認されました。調査報告では、当時犬を食用として解体していた事を示す物的証拠と評価されています。
しかし、縄文時代を通じて「犬を埋葬した」痕跡も出土しています。
食べる犬と埋葬された犬がいたことが理解できます。
縄文人は狩猟死守で生活をしていましたから、狩りに使用する犬を埋葬しても不自然なことではありません。
1縄文時代ジオラマ
2丁寧に埋葬された犬の骨
3人間と一緒に埋葬された犬
4復元された縄文犬
弥生
採取狩猟文明から農耕文明へと時代が移ります。
弥生文化ですね。
文化の移行は数百年単位で国内で行われました。
ですから同時期に、農耕と狩猟文明が両方存在していたことになります。
このころから犬の骨が完全体で出土する数が減少します。
つまり、食べられる犬が多くなったということですね。
1丁寧に埋葬された完全対の犬の骨
2弥生犬復元
3弥生時代の村、ジオラマ

弥生時代の犬のDNAは、縄文時期の犬のDNAと異なります。
この時期は、大陸から人が移り住んできた時期と重なります。
大陸では犬食文化は成立していたようですから、彼らが大陸の犬食の文化をも伝えたものとも想定することができます。
大陸系と伝えられていた氏族
古代の日本には、食用の犬を専門に飼育する犬飼部、犬養氏という氏族がいました。
また、信濃国筑摩郡辛犬(からいぬ)郷は、現在の長野県松本市の地だが、ここに辛犬甘(からのいぬかい)という渡来系の氏族がいたことも判明していいます。
この氏族は後に犬甘(いぬかい)氏という豪族に発展し、松本市に犬甘城を築きました。
文献上の初見は『日本書紀』安閑天皇二年八月(535)条の「詔して国々に犬養部を置く」ですが、六世紀初
頭に設置され、大化の改新ころにはすでに形骸化していたと思われます。
7世紀~
■古代の肉食禁止の法令
日本では『日本書紀』天武天皇5年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令で、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・ニホンsaru・ニワトリ)の肉食が禁止されました
庚寅,詔諸國曰,自今以後,制諸漁獵者,莫造檻穽,及施機槍等之類.亦四月朔以降,九月卅日以前,莫置比彌沙伎理・梁.且莫食牛馬犬saru鷄之宍.以外不在禁例.若有犯者罪之.
この法令の理由ですが、『涅槃経』の教えを参考にしたようです。
犬は夜吠えて番犬の役に立つ
鶏は暁を告げて人々を起こす
牛は田畑を耕すのに疲れる
馬は人を乗せて旅や戦いに働く
saruは人に類似しているので食べてはならない
しかし、この法令の肉食禁止は恒久的なものではありません。
農繁期に限定されている=農閑期は肉食を行ってもよい。
農繁期であっても五畜以外の動物の肉は食べてもよい。
という事だからです。
基本的に、農業の能率を向上させる為の法令であったと思われます。
その後も、肉食禁止令が出されましたが、いずれも一時的なものであり,肉食の禁止が徹底しなかったことでも推察されます。
ただし、仏教が普及、浸透するに従い、思想の影響から、公の場では肉食は歓迎、評価されない傾向が強まりました。肉食はタブーとなったので、文献などの数も減少しました。
しかし、肉食が「穢れ」であるとの思想は完全には定着しなかったことは、その後の日本人の犬食文化から考えて、間違いがないでしょう。
その後も犬食文化が存続した記録が残っています。
■「犬と穢れ」
河原は墓場として、日本人は使用していました。
昔の日本人には犬は死体を食べる動物としてのイメージが強かったようです。
墓場で、死体を食う犬
昭和の映画にも、「椿三十浪(黒澤明 監督)」では、導入シーンで野良犬が人間の手首を加えて走ってきます。犬は死者に近い動物というイメージを日本人は潜在意識の中で持ち続けていたのかもしれません。
中世の犬肉食
鎌倉・室町時代
■ゴミ捨て場から判明すること
広島県福山市の草戸千軒町遺跡からは、大量に犬食の痕跡が出土しました。以下は草戸千軒の発掘結果です。
広島歴史博物館、草戸千軒HP→http://www.mars.dti.ne.jp/~suzuki-y/
博物館、原寸サイズ建物模型

第三七次調査地区でみつかった鎌倉・室町時代の骨の破片類の内容
【犬】 307組 48.4%
【日本鹿】 37組 5.8%
【馬】 36組 5.7%
【牛】 26組 4.1%
【その他】 228組 36・0%
イヌの骨が一番多いです。
骨の内容の特徴
【多い】上腕骨・大腿骨・脛骨
【少ない】脊椎骨や、足先の手根骨・足骨・指骨
要するに肉のつく部分の骨に偏っています。
これは、縄紋貝塚の日本鹿(骨)や猪(骨)の偏りと共通しています。
足の骨を観察すると、胴体と足を切り離すときに付いた傷、前・後足を肘・膝の部分で二分するときの傷が残っており、直火で焼いた焦げも残っていました。骨付きのまま、あぶり焼きにした状況です。
骨の表面には、肉をそぎ取ったときの、小さな傷もありました。
こうした結果から、犬の肉は、骨付きでバーベキューにする場合と、骨から外して肉だけを調理した場合とがあったようです。
十三世紀のごみ穴からみつかった骨の場合、左前足四本、右前足三本というように、同じ部分の骨が、数多く出土しました。
自宅で一頭殺したというよりは、まとまって売りに出ていたものを購入した可能性が高いようです。
犬食は、この時期盛んだったことが分かります。

この町は栄えており、上のような店が複数あった事が判明している。
再現建物
■町の犬と人
上杉本「洛中洛外図屏風」には、犬を捕獲する男性の姿が描かれています。連係プレーで犬を捕獲しようとしています。一匹の白犬に左手を差しのべて呼び込む男と、その傍で左肩に竹籠付きの棒を担い藁帽子をかぶった男、それぞれ右手には輪の捕獲道具を持っています。犬を呼び寄せる男は、その道具を後ろ手に隠して今にも犬を捕らえようとしている姿です。
首に輪を引っかけて吊しあげ、それを籠に入れて持ち帰る「犬狩り」の姿は、中世における京都の町なかで展開した日常的な光景だったようです。
町の中にいたるところに犬はいた

国宝『一遍上人絵巻』作成年代は鎌倉時代
小屋の周りで犬が遊んでいる。
東京国立博物館犬追物図屏風
■文化行事と犬
鎌倉~室町時代の武士は「犬追物」で騎射の腕を磨いていた。
放たれた犬を騎乗の武士が蟇目(ひきめ)の矢で射る競技。
武家儀礼として、室町時代には 幕府や大名の下で盛んに行われた。
一例を挙げるが、高野川東岸の馬場を描いた絵がある。
後にも「犬の馬場」という場所という名前で言われていた。
記録係や犬を連れた河原者なども描かれており、幕府との関係も暗示されている。
そこで、一度の儀式で使用した犬は300匹程。
基本的に射殺してはならないが、和弓の殺傷力は強いので、死ぬ犬も少なくなかったし、生き残った犬がそのまま全て生かされたとは考えにくい。
狩りの後は係の物(河原者)が食用として処分した場合もあったという説が有力である。
また、犬追物で使用した犬に適用されるかどうかは不明ですが、この時代は、犬の肉を食べた後、残った毛皮を武具の一部に用いるということもあったようです。

戦国時代
鎌倉、室町時代後の、戦国時代も犬食いは行われていたと考えられます。
前にも述べましたが、仏教の普及以降は、基本的に、牛馬など四つ足動物の肉を食べることは忌避されていました。
しかし、戦国大名の掟(分国法)にも「犬食」を禁じた項目があります。
逆に言えば、食べていたということですね。
16世紀末に日本に滞在していたポルトガル宣教師のルイス・フロイスは、日本人が愛好する食肉の一つに野犬をあげています。
「日本人は野犬や鶴、大sa ru、猫、生の海草などを食べる」
「われわれは犬は食べないで、牛を食べる。彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」
当時の日本人は精力を付けるための薬食いとして犬を食べていたようです。
前編(終了)
後編は江戸時代です。
「日本の犬食の歴史」後編
「日本の犬食の歴史」前編の続編です。
このスレッドの前に、こちらをお読みください。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfood&nid=48991&st=writer_id&sw=0020
縄文時代以降、16世紀まで、脈々と続いてきた日本の犬食文化ですが、江戸時代に続きます。
江戸時代
江戸時代の犬食文化について。
江戸時代、というと、庶民は、魚と野菜と卵、肉は鶏肉のみ、米、雑穀しか食べていないイメージがありますが、ひきつづき、ほ乳類の肉も食べていました。
■綱吉公の生類哀れみの例
1685年徳川綱吉は「生類憐れみの令」という、動物保護令を出しました。1687年以降内容が極端化します。
別名「犬公方」徳川綱吉

儒教を熱心に学んだため、母親の言葉にそのまま従ったという説があるます。しかし、本当の目的は徳川家に反抗する武士の勢力を減らすことだという説もあります。
江戸時代になり、世の中が平穏になり、戦闘集団であった「武士」達はその存在意義を失うようになりました。行政手腕に長けた吏僚派の武士たちが力を持つようになっていきます。
武闘派の武士たちは、現状に不満を持ち反抗的な態度に出るようになり、粗野な言動をスタイルとして確立します。彼らは「かぶき者」と呼ばれました。彼らは戦国の野蛮さを殊更強調する為に 「犬食い」 をすることを常としていました。
幕府の狙いは、生類憐れみの令によって、かぶき者の象徴である「犬食い」を大罪として押さえこむことで、戦国の世が完全に終わったことを人々に、印象付けようとした・・・という理由です。
まぁ、85年前は、こういう状況です
↓
1600年に行われた関ヶ原合戦図
当時の日本は、世界一の鉄砲を数所する軍事大国です
江戸幕府が、徳川家以外の武士が武力を誇示することを警戒するのも無理はないかなと思います。
動機はどうあれ、この政策の保護対象は多種類の生き物に適用されたのですが、綱吉は戌年生まれであったので、犬は特に、手厚く保護されました。
元禄年間、各町村に犬毛付帳を作成させ、犬の毛色や品種の記載させました。また、四谷・喜多見・大久保(二万五千坪)・中野(一万六千坪)などに野犬を収容する犬小屋を作り、犬医者を設置しました。
集めた野良犬は郊外で飼育されましたが、飼育条件が悪かった(狭い場所で飼うので、喧嘩→伝染病感染→全滅する)ので、短期間で、病気になり、たくさん死んだそうです
これって、結果的に、保護なのか、虐待なのか~、、、、^^;
元禄十年(1697)には大久保・中野の両地に収容した犬は49,000匹近くにもなったといいます。
この法令により、江戸に10万頭もいた野良犬が減ったようです。野良犬の数が激減したので、犬食いも多少は減ったのではないかと思いますし、野良犬による害獣被害数も減少したようですね。
また、他の説としては、当時のキリシタン(キリスト教徒)は肉食を推進していた為、この令の発布によって動物殺生を発見させ、隠れキリシタン(キリスト教徒)の摘発を促進したという話もあります。
しかし、文化・文政(1804~1830)当時の世相を伝えるものに、”犬の糞と侍が怖くては、江戸に来られぬ”、”このごろお江戸に多いもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞”という記述がありますから、この時期になると野良犬が増加していることが分かります。
■江戸時代遺跡からの犬の骨が出土
岡山市教育委員が行った岡山城の発掘調査によると、二の丸から出土したほ乳類には、猪、豚、牛、野兎、狸、犬、狼、穴熊などです。
人の食用になった可能性が高い骨です。
その場所は家老屋敷、上流武士の居住区で、その屋敷内の住人の食料であったと考えられます。
家老クラスの屋敷内から、犬をはじめ、多くの獣骨が出土し、身分の高い彼らが肉食を楽しんでいたことがわかります。
★文献にみられる、武士の犬食い
『落穂集』
「町方に於いて、イヌと申すものは稀にて、見当り不レ申事に候。武家町家ともに、しもじもの給物には、イヌにまさりたるものは之なしとて、冬向に成候えば、見合次第打殺し、賞翫致すについての儀なり」
「町で犬を見ることは希である。武士町人が発見次第に打ち殺して食べてしまうからだ」という記述が残っています。
(犬肉ではありませんが「将軍と肉食」)
徳川将軍にも肉食を好む将軍が何人かいました。近江牛の味噌漬けが江戸に運ばれたという逸話は今でも滋賀県に残っている。それでも肉を煮た鍋などは、穢れたとして数日は天日干しにして清めたというから、肉食の味とは背徳の味であったに違いない。
15代将軍、徳川慶喜は豚肉が好物であることは将軍になる前から幕閣で広く知られていたが出世の妨げには全くならなかった事実があります。
■江戸の料理本の犬食
江戸時代最古の料理書『料理物語』によれば、
「いぬ、すい物、かひやき」として調理すべしとあります。
犬肉を貝類と一緒に焼くような調理法があったようです。
また『料理物語』では、跋文の後に食物の格付けが記されています。
獣類の中に「中食の分」として「狗肉」との記述が見られます。
江戸時代は多くの料理本が発行されていました。
ランク付けの対象となったいたことは、犬が一般的な食材であることを意味する

■江戸時代の肉食文化と庶民について
上の文献、出土品などから判明するのは、江戸時代も前時代と同様、肉食が(犬食を含め)行われていた事実です。
ただし、嗜好品ではなく「薬食い」という理由をつけて食べられていることがほとんどでした。
当時、多くの人間は肉食に眉をひそめ、実際に食しても不味いと感じる者が少なくなかったようであるが、好きな者は病気と偽ってまで買い求めた人もいたようです。
特に、江戸時代後期になると、肉食は市民権を得てきました。
1800~1820年頃になると、オランダ医学の輸入で、肉食が体によいことが知られたことなどから、「ももんじい屋」が現れます。
そこでは、猪、鹿、熊、狼、狐、狸、sa ru、カワウソ等が売られていたという。公的には肉食が認められていないのにもかかわらず、現在のように牛、豚、鳥を食べているよりも、ずっと多種の肉を食べていたことになりますね。
★やまくじら(猪料理)★ももんじや(犬肉も提供した)
また、江戸時代後期の肉食が受容されていく過程がよくわかる史料として、筑前秋月藩の武士が書き残した『望春随筆』があります。
「牛肉を喰う事、昔は稀」で、たまに「薬喰いなどという時は長崎に便を 求め」て塩漬け肉を買い、「少しの品も得がたき稀物として薬喰いにし」ていたとあります
文化期(1804~1817)には、地元の「穢多へかねて頼みおく時は、生肉を持来ることも」あったが、「値は最高値にして少しつつ用いる者」が多かったようなのですが、文政期(1818~1829)の初め頃から「此方より頼まぬといえども、むこうより肉を入らぬかと持参するように成り」、「価も猪鹿よりも下直」なので、冬場ならば10斤(約6キロ)以上買う人もいるようになったそうです
他の随筆類の記述などから考えても、文化・文政期に全国的に肉食の
風習が拡大していったのは間違いなく、犬も当然多く消費されたと思います
★江戸時代のペット事情
都会では99%が「猫」
残りの1%が「犬」でした。
★猫

愛玩犬として「狆(小型犬)」が主流。ただし、これは「犬」ではなく、別種の動物として扱われていました。
★狆
他に希少種として、大型西洋犬(栄養からの輸入品なので、大名クラスでないと飼えない)がいます。
田舎の労働力としての、狩猟犬や番犬は除く。
それ以外の雑種の犬たちは、特定の飼い主のいない野良犬として江戸市中に数多く住みついていました。
町全体で誰となく食べ物の残りをあげ面倒をみていたようです。
捕食対象となるだけでなく、住民が共同で飼っていた面もあります。
江戸の町並みを描いた浮世絵の中に、可愛らしい野良犬の姿をしばしば見ることができますが、人から恐れられる凶暴な犬も少なからずいたようです。
★特定の飼い主がいない犬
■江戸時代以降の犬食文化
明治時代の犬食い
大正時代の犬食い
明治維新以降、文明開化により西洋の肉食文化が持ち込まれ、日本もようやく肉食タブーから解放されました。

特に、牛肉については、政府が中心となって、日本の大学や軍学校の給食に導入するなどの推進運動が行われました。
しかし、同時に西欧の「愛玩動物」の概念も持ち込まれ、愛玩動物に該当する動物を食べる行為は嫌悪の対象となります。
日本では犬を愛玩する風潮が高まったようです。
急激に西洋文化を日本は吸収する
★明治時代の人々
★牛肉鍋


★「東京名所四十八景 京はし」明治4年 昇斎一景
銀座側から京橋を見た風景。
近所に、牛肉店「松田」 (画面には描かれていませんが玉寿しの隣) があったからだと思われる。

■ブームになった「忠義な犬」
また「忠犬ハチ公」という、主人に忠実な犬の実話が有名になりました。
飼い主が死んだ後も、駅に主人を迎えに行った犬の物語。
「可哀想に。ご主人が亡くなっても、ちゃんとお迎えに来てるんだ、忠義な犬だ」ということで騒ぎ始め、昭和7年には新聞にまで載り、昭和11年には小学校の修身の教科書に掲載され、昭和9年4月21日には、なんと銅像まで建ってしまいました。
この物語は日本中に広められて人々の感動を誘いました。
「犬は賢い」という概念を多くの人に与えるきっかけとなったと思います(^^;)
★忠犬ハチ公写真
★新聞記事
★銅像

このような事情から、「西洋風料理(洋食)と共に定着した豚肉料理、牛肉料理」「犬は家族の一員です」 犬=食用という概念が薄れていきました。
犬を食料と認識しないのであれば、犬食の需要が低下していきます。
事実、犬食は激減しました。
太平洋戦争以前の犬食いについては、江戸時代ほどの資料は残っていません。
「犬食は薬によい」程度の記述が文献にのこっている程度です。
そして、昭和初期頃には、犬食いについては、一部の地域以外は、ほとんど行われなくなります。
外来文化(西洋文化)の影響が原因です。
需要が無くなったこの時点で、長く続いた日本人の犬食文化は自発的に、自然と消滅したのです。
しかし、食卓から犬が消えた後、日本人は、再度、犬食いを行います。戦争が原因でした。
ですが、この「犬食行為」はすでに多くの日本人にとって「犬食文化」ではなくなっていました。
太平洋戦争中、戦後の犬食い
新聞記事によると、犬の毛皮を飛行服にするため1944年12月15日、軍需省と厚生省が蓄犬献納運動を推進する通達を出したとあります。
2カ月間に1万7000頭の供出を各警察署で受理、薬殺処理したという。
当時、どのくらいの数の犬が飼われていたのかはわかりません。
戦時中は、人間も飢えており、犬に与える食糧はありません。
町村役場や青年団などから、家々に犬の毛皮の供出が働きかけられました。犬を飼っている人は「非国民」扱いされ、犬を飼うことは許されない状況でした。
通達前に犬を処分した日本人も多かったようです。
親は、子どもたちが学校に行っている間に、かわいがっていた愛犬を供出するため、泣きながら連れて行きました。そうしたなか、人間が食べる配給食を分け与えて、隠れるようにして愛犬を飼い続けた人もいます。
また、戦中戦後の食糧危機で、犬を食べる行為が、日本各地で行われたようです。
しかし、確かにこれは、「犬食い」でありますが、食べる人の精神的負担があまりに大きい行為※です。ですから、近代化以前に行われた「犬食文化」と、区分して考えるべきでしょう。
※犬食文化の消滅については、地域差があるようです。
一部地方では江戸時代以前から戦後まで、犬食文化を続けていた地域もあるようです。その地域では(食用動物として犬を認識したという前提なら)犬料理を戦時中も戦後も犬食文化として楽しんでいたと思います。
また、犬を食べることに抵抗がない思想の人は、犬を食べることに抵抗がなかったと思います。
■犬肉と文化について
日本には需要が無くなり、絶えた文化が多くあります。
例えば、奈良時代に流行した食物にチーズやミルクがあります。
生活様式の変化によって、途絶えました。
今回説明した犬食もそのうちの一つです。縄文時代から途切れずに続いてきた文化でしたが、近代化の影響で自然と廃れました。
食文化に限らず、その他のあらゆる文化は、常に取捨選択されて、必要な物だけが残ってきたのです。需要が無くなれば、文化は絶えるのです。それが自然です。「文化は現在、生きている人間のために存在する」からです。
ちなみに、犬肉は無くなりましたが、その他の肉食は、続行中です。
明治維新以降、日本人が普段食べる肉の種類は極端に減ってしまいましたが、それも時代の変化です。
その代わり、世界各国の料理を取り入れることにより、料理方法が極端に増えました。
特に大戦以降は一般家庭の食事メニューを大きく変え、また、日本の外食産業が拡大する要因となりました。
戦後、韓国焼肉の影響を受けて、日本で作られるようになったyakinikuも、その一つです。
派生は確定していませんが、在日韓国人に関係があるようです。
ホルモン焼き(内臓を焼く料理)から、開始されたyakinikuは、徐々に使う肉の部位が増えました。
そして、調理方法が、どんどん、シンプルになりました。
(韓国の焼肉料理の一つ「カルビ」は、原形に近い姿で日本に定着しました。しかし、汁の多い焼肉は存在さえ知らない日本人が多いです)
韓国焼肉は、肉に味を付けるなど、複雑な工程を経て、焼肉を作ります。
そして、多種類の調理法と、多種類の名前があります。
逆にyakinikuは、どんな肉を使っても、肉を網で焼いて食べて、タレを付けるとyakinikuと呼ばれます。(yaki 焼き +niku 肉)
これは、どんな魚でも、生の物を切って、醤油で食べると「刺身sasimi」と呼ぶ感覚に近いですね。
「日本yakiniku」と「韓国焼肉」
この2つの食べ物は、肉を火で焼いて食べるという共通点はありますが、概念が違います。
その差が韓国人は、理解できるでしょうか?
「概念が違えば別の料理」これを韓国人は理解する必要があるでしょう。
yakinikuの派生時に、韓国が関与したことは否定しません。
しかし、yakinikuは、日本の肉食文化を背景に生まれた食物のひとつに過ぎないことも、また事実なのです。
■肉を食べる庶民
自分の肉は自分で焼いて食べる。
■日本の刺身料理
たれで味付けをする。
素材の味を好む。