日本の鯨文化(1) 詩と歌・石碑
捕鯨が盛んであった地方である、山口県の鯨文化を紹介します。
通鯨唄(労働、祝い歌)
市指定無形民俗文化財「通鯨唄」
☆祝え目出度(大唄一番)
祝え目出度の 若松様よ 枝も栄える 葉もしげる 竹になりたや 薬師の竹に 通栄える しるしの竹よ 納屋のろくろに 網くりかけて 大せみ巻くのに ひまもない三国一じゃ綱に 今年は大漁しょ ヨカホエ
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通浦(山口県の日本海側)の民謡鯨唄は、約四百年ほど前から、通鯨組の人々が伝えてきた歌です。
大漁を祝った時に歌ったり、大漁を祈って歌われました。
労働歌であり、祝い歌です。
当時の祝宴では、一座の長老が、「鯨唄」を歌って開始されることが、慣習でした。
当時の鯨組は、長州藩の水軍の役割も果たしていました。
訓練された統制のもとに規律を重んじ、礼儀を尊び、勇敢であることが美徳とされていました。
しかし、その反面、哺乳動物である鯨に対する哀れみと、報恩感謝の心を持っていたようです。
事実、この唄には、鯨に対する感謝と敬意が含まれています。
めでたい席で歌う「祝い歌」は、手を叩いて歌われます。
しかし、「鯨唄」に限っては、鯨に対する恩恵と感謝の気持ちを表すために、歌うときにも手を叩かず「揉み手」で行います。
鯨の死を心から悼んでいることが、そのような配慮の原因です。
また、この地方には鯨の墓もあります(墓は全国各地にあるので、珍しくはありません)
この唄は、一般庶民の情のシンボルとして、また郷土の民謡として、末長く愛唱され、唄い継がれてきました。
鯨組の無くなった今は「鯨唄保存会」によって継承されています。
また地元通小学校、中学校の総合学習で生徒が学んでいます。
通小学校発表会

鯨の詩と、地蔵
金子みすゞ(作者)
鯨法会は春のくれ、
海に飛魚採れるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき。
村の漁夫が羽織着て、
浜のお寺へいそぐとき、
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと泣いている。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。

(意味)
鯨の法事※は春の夕方に行われる。
※死者への弔いの儀式
海に飛び魚が捕れるころだ。
浜に近い、寺の鐘が鳴る。
音が水面を通過する。
村の漁師は羽織を着て(正装)、浜の寺へと急ぐ。
沖では鯨の子供が1人、鐘の音を聞きながら、「死んだ父母が懐かしく、恋しい」と、泣いている。
海の水面を、鐘の音は、どこまで響き渡るのだろうか。
明治36年(1903年)、山口県長門市仙崎生まれ、郡立大津高女卒業、20歳のころ下関に移り住み、童謡を書き始める。雑誌「童謡」などに投稿、西条八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と激賞される。一躍当時の童謡詩人たちの羨望の的となるが、昭和5年(1930年)、26歳の若さで自らの命を絶ち、幻の童謡詩人と言われた。
漁師達は、法事を行うことにより、鯨の霊を慰めようとしていますね。
「人間の糧として、犠牲になった生き物=鯨」に感謝と敬意を示していたことが感じられると思います。

金子みすゞも、山口県出身ですが、彼女の鯨に関する詩は他にもあります。
「鯨捕り」という詩です。
作者が生まれた年は「古式捕鯨」は終わっていました。
しかし「鯨捕り」の詩は非常にリアルに書かれています。
詩の一節に「いまは鯨はもう寄らぬ、浦は貧乏になりました。」という文章があります。
そして、丁度、金子さんが生まれる前の時期に、このような地蔵が作成されています。
文久三年(1863)早川家13代早川源治右エ門が鯨や魚類の霊を弔うために、向岸寺歴代住職の墓地に石地蔵を建立しました。
像容は合掌印を結ぶ坐像。
像高は74センチ。
高さ80センチの台座。
(台座に刻まれた言葉)
台座の正面には「鯨鯢魚鱗群霊」
右側面には「願主 早川源治右エ門」
左側面には「文久三癸亥六月廿二」
おそらく、急に鯨が捕れなくなったしまった為に、作成されたものと思われます。
その数十年前の、弘化3年(1846)は、通浦で一番鯨が捕れていたのです。
弘化3年11月29日には、鯨5頭、半年で24頭捕獲しました。当時、鯨一頭は、銀10貫、江戸風に170両、今の日本円で3400万円の価値でした。それから、わずか20年ほどで鯨が減ってしまうのですから、急激な変化です。
これには、原因がありました。
通り浦で、鯨が大漁であった、1846年にアメリカは鯨銃を発明し、西洋各国は争って日本海近海に鯨油を求めて徹底的に鯨を乱獲を開始しました。
1853年には、アメリカ東インド洋艦隊司令官ペリーが浦賀に来航し、アメリカ捕鯨船の遭難救助、食料や薪炭の補給などを幕府に求めています。
また、ペリーが日本に開国を迫ったのは、捕鯨の基地の確保も重要事項だったのです。
●ペリー

●鯨油や鯨の一部分のみを利用し、大部分は投棄した
しかし、当時は情報伝達網が発達していない時代です。
地蔵が作られた、1863年、通浦に充分伝わってなかったのでしょう。
早川家13代の早川源治右エ門は、鯨が来ない理由が自分たちに責任があるのではないかと考えたのか、「鯨鯢魚鱗群霊」と、鯨の魂を慰める文字を彫っています。
おそらく、再び、過去のように鯨が多く沿岸を訪れて、捕鯨が出来るように祈り、この地蔵を建立したのでしょう。
彼らが生きている時代には、鯨の隆盛復活は不可能でした。
しかし、伝統文化として捕鯨は、この地に根付き、今なお鯨の祭りが開かれています。