「粉挽き臼の歴史「日本編」(前編)」
こんにちは。
日韓の皆さん(^^)
「粉ひき臼の歴史(世界編)」では、世界の石臼の進化と普及。そして、エジプトのパンを紹介しました。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfood&page=2&nid=47905
今回は「粉ひき臼の歴史(日本編)」をお送りします。
日本の粉ひき臼の歴史+日本粉料理の歴史を紹介しようと思います。
日本編は「前後編」となっています。
長い文章ですが、興味のある方はお付き合いくださいませ。
また、シリーズですので、このスレッドを読む前に、必ず「粉ひき臼の歴史(世界編)」を読むことをおすすめします。
「世界編」は、一部改訂、追記しています。一度読まれた方も目を通しておいてください。
粉を挽く女達(江戸中期)
【1】ロータリーカーン形式の石臼
(家庭用サイズ石臼は400年前から日本に普及)
【2】上下運動形式の臼と杵
(石器時代から原始的な臼は存在しました)
皆さんは、【1】の道具を見たことがあるでしょうか?
製粉の道具です。
円形をした石を二ツ重ねあわせたものは、「ロータリーカーン」という様式の石臼です。
日本を含む、世界中で普及しました。
上の石は上臼。
下の石は下臼。
上臼には石を回転させるための取っ手があります。
小麦やそばの実などを下うすへ落とす穴が開けてあります。
便利な道具なのですが、石臼はたいへん重い道具です。
臼を回し続けるのは重労働、日本では、粉ひきは女性の大事な仕事とされていました。石臼が嫁入り道具の一つだった地方もあります。
しかし、家庭サイズの臼を一般庶民が、日本全国で使用するようになったのは、400年程前からです。
では、ロータリーカーン石臼は、一般家庭にどのような経緯で普及したのでしょうか?
今から、日本石臼の歴史と、それにまつわる食文化を古代からたどっていこうと思います。
■最古の石臼の記述
日本書紀
「推古天皇の18年(610)、渡来僧(高句麗)2人が、“碾磑(tengai)”という石の臼を造ったのを始まりとする」
しかし、これがどのような臼であったのかは絵図や遺物がないので不明。
2000年11月、東大寺の旧境内から奈良時代の大型建築物跡が発掘された。これが、「碓殿」(製粉所)の遺跡である可能性があり、それと同時に石臼の破片が出土している。この石臼が、碾磑(tengai)と呼ばれるものでないかと推測されています。
奈良時代(710-794年)~平安時代(794-1185)の臼と粉料理
この時代に複数の石臼が大陸から伝えられたようです。
代表的な物は、九州・太宰府の観世音寺の巨大な遺物です。
観世音寺の遺物は寺の講堂前の広場に石垣で囲み「碾磑」と書かれた立札があります。
九州という立地から、高句麗から伝わった物であるという可能性が非常に高いようです。
では、どのような形だったのでしょう?【1】【2】【3】参照
※【4】【5】は別の場所の遺物
こんな形です
↓
【1】計測作業
【2】深い溝は、大粒の粉の粉砕用
【3】碾磑tengaiという立て札がある
【4】天平の石臼遺物
【5】計測図
非常に巨大ですね。
石臼
直径一メートル以上
重量は上下それぞれ約四〇〇キログラム(体積から推定)
直径1メール以上。重くて手動では動かせません。牛馬を使って製粉を行ったと思われます。
この石臼は小麦用ではなく、目立て(石臼の内側表面の筋)が非常に深いことから、大きな粒の粉の石臼であることが判明しています。
このような石臼はは、水を流しながら鉱石の粉を微粉砕する場合のものか、それとも水挽きの大豆(豆腐製造)用に使用されます。
この石臼は高句麗から来たという説が強いので、大豆の可能性が強いようです。(半島の豆腐も水挽きで作ります)。
この時代、高句麗人は日本に在住していました。
彼らは母国では、豆腐を食べていたので、その影響で、石臼が生じたのではないかと考えられています。
今から二百年ほど前の寛政十年(1798年)の『筑前国風土記』にはすでに現在位置にあることが記されており、「茶臼※」と注記してある(※抹茶用の小型石臼)。
「鬼の茶臼(巨人の茶臼の意味)」と俗称されていました。
これは、当時すでに正確な言い伝えが消滅していたことを何の目的でこの石臼が設計されたのか不明になっていた存在だったことを示しています。
このような石臼はいくつか存在します。
奈良の唐招提寺にも天平の石臼遺物らしい物体があります。
『唐招提寺』は、鑑真和上創建天平3年。
直径1メートル強の大石臼の片方がでて、後にもう片方が敷地内から発見された。
人力では回転できない巨大石臼である。
【4】【5】参照
牛などを利用する、大陸形式と同様であると想像され、奈良時代のものと推定される。しかし、調査してみると、この石臼は欠陥品であることが判明しました。製作当初から使用不能であったようです。
他に、臼が出土したのは、東大寺食堂遺跡がある。
石臼は、当時、巨大で高価な最新機械でした。
寺院などの公的機関に設置されていたようです。
ですから一般の人には普及しませんでした。
■日本小麦食と奈良時代政治指導者
【政府が小麦を作る事を指導した例】
(1)元正女帝(661-721)在位:707年7月17日 - 715年9月2日は、「麦を作ると、凶作時に飢えない」麦作を奨励しています。
(2)の約50後、大納言「吉備真備」が「大小麦の種を植えるべし」という公布を農民に出して麦作を督励しています。
吉備真備は、唐の留学経験者(留学期間752年- 754年)でした。
【1】遣唐使船復元図
【2】吉備真備・『前賢故実』
当時の最先端国家、唐(中国)では麦を植えており、その有用性(保存性、寒冷地でも育つこと)が証明されていましたし、小麦粉料理も盛んでした。
これらの事実から、日本も麦を植えようとしたのでしょう。
種麦がなくては、栽培できませんから、この時期の(遣唐使)留学生は、中国で大量の種麦を買付けて日本へ持ち帰ったと思われます。
留学生の帰国と共に、唐から小麦料理がいくつか伝来しており、記録にも残っています。文献には「ワンタン」などが含まれていますし、留学生達は唐の小麦料理を日常的に食べていました。
製粉しないと麦は食用不可能ですから、この時期、小麦推進派は、製粉作業を行い、小麦料理を行ったと思います。残念ながらどのような臼を使用して、小麦を精製していたかは不明です。(上に挙げた大豆用の大型の臼では製粉不可能です)
この時期の日本政治家達は小麦料理を作り、国民に浸透させようとした可能性が強いです。
通常なら、国を挙げて推進しているのですから、この時点で日本中に粉料理が普及しても不思議ではありませんでした。
しかし、日本政府の「小麦畑増大」「小麦粉料理普及」計画は、この時点では失敗したようです(これは同時に石臼の普及の失敗につながります)。
なぜそれが分かるかというと、「奈良時代以降の文献には、小麦生産がほとんど出現しない」+「遺跡から小麦用石臼が出土しない」という事実があるからです。
■小麦を日本人が好まなかった理由、石臼が普及しなかった理由は3つほどあるのではないかと、私は考えます。
【理由1】
収穫高比較(小麦:米)=(1:5)
当時の、小麦の収穫高は米と比較して、1/6~1/4くらいだと言われています。同じ面積で収穫高が極端に違うなら、多いほうを栽培するでしょう。
【理由2】
麦以外の穀物が多くとれたこと
麦以外の穀物(米、粟、蕎麦、大豆)は、臼と杵(上下運動臼)で、食品として加工が可能です。
【理由3】
日本人の米好き。味を好む、神聖な穀物であるというイメージを持つ+理由1も日本人が好む大きな要素でしょう。
小麦は寒冷地でも良く育ち、丈夫な植物です。
しかし、米と比較すると、収穫高が非常に低い作物です。国土が狭く、水に恵まれて温暖な日本では小麦を植えるよりも、米を植えた方が能率がよいのです。米も長期保存が可能な作物だからです。
また、日本人は「米」という穀物に非常に価値を置いています=民族的な食嗜好、宗教上の理由(神道)も関係するでしょう。
また、麦以外の穀物は、上下運動の臼で精製が可能でした。
総合すると、「小麦は、丈夫だが、収穫が少ない。+料理に使用するには非常に手間がかかる」という評価になります。
そのような理由から、(個人的な説ですが)小麦は奈良時代庶民に普及しなかったようです。
しかし、小麦生産、小麦粉料理は消滅したわけではありません。
小さい規模ですが、作られていました。
1つの例として、奈良時代に中国から「索餅(sakubei)」の名で伝わった麺料理があります。平安前期まで上流階級に愛好されていました。
平安時代中期の法典『延喜式』に記載されている「索餅」の作り方をみると、※小麦粉と米粉を混合して臼に入れ、塩湯で練り合わせたものです。
※製粉方法は書かれていない。残念(^^;)
平安時代に完成した『新撰字鏡』では,「索餅」に「牟義縄(muginawa)」の和名をあてています。
これは後のそうめん(soumen)のような手延べの麺と思われます。
muginawaの大きさは現在のうどん(udon)よりもやや太く、食べるときも汁などには付けず、菓子のようにそのまま食べました。
この小麦加工食品は、平城京や平安京(8世紀~12世紀)の市場では保存食品として広く売られていました。
京都にはそれを売る商店もありました。
販売が続いていたと言うことは、小麦を生産、加工販売ルートが確立していたことを意味しますね。
人気のあったsakubeiですが、もっと後の時代になると衰退します。
奈良時代から平安前期までに輸入された唐菓子各種
【1】「唐菓子図」中央の紐のような食品(A)が、「sakubei=muginawa」(8世紀)
【2】【3】団喜danki(B)平安時代から現代まで販売されている「清浄歓喜団(セイジョウカンキダン)」。密教系寺院の供え菓子として製造されていた為、原形に近い形で残っている。古代から現代までの間に、内容物(具)のアレンジはされている。一般人が作っているのに、1000年以上、基本的レシピが変化しなかった希有な例。(ごま油で揚げる菓子)
【4】(D)ひふとhihuto※この写真はDではなくyutouという菓子であるが、同型、同時代に伝わった菓子なので参照で紹介。 「ゆとうyutou」京都の京田辺市にある「月読神社」の供え菓子。この神饌は、米粉を熱湯で練って薄く延ばし、柚の葉を一枚はさみ二つ折に折って、重ねた周囲を手で押さえて油で揚げたものである。米粉の菓子である。(ごま油で揚げる菓子)
奈良時代、平安時代の時点では、小麦粉料理(菓子を含む)は、流通量が少ない、「上流階級の食べ物」でした。
ですから、庶民には縁がなかった物と想像できます。
問題は、奈良時代と同じく、平安時代の製粉が、どういう器具で精製していたかが謎な点です。小麦用のロータリーカーン石臼は、遺跡から全く出土しないことから考えて(石臼は原形が残りやすい遺物です)、薬研(薬用の製粉器具)や、上下運動石臼の可能性が高いと思います。
資料を捜しているので、判明したら、こちらに追加していきますね。
また、ご存じの方はお知らせくださるとありがたいです。
更に時代が下り、鎌倉時代(12世紀)小麦粉料理に改革が起こります。
奈良時代同様、大陸から、最新文化と、最新器機がもたらされたのです。
■鎌倉時代(1185年頃-1333年)~室町時代(1336年~1573年)
1191年(建久2)僧栄西によって大陸から持ち帰られた茶の木が、京都栂尾の明恵上人により、植樹に成功しました。
【1】栄西
【2】茶の木
※【3】茶磨sama(抹茶専用臼)小さなサイズです。武田信玄使用
【4】すりばち(現代の物です)
【5】粉挽き臼konahikiusu(現代の物です)
(穀類製粉臼)サイズは様々であったと思われる
また、この頃、留学していた僧によって、抹茶専用臼の「茶磨(sama)」と、「粉挽き臼(konahikiusu)」がもたらされました。「すりばち(suribati)」もこのころに伝来しました。
また、この時期、最新式の農具も発明されています。
※【3】の写真で確認できると思いますが、「茶磨(sama)」は、「粉挽き臼(konahikiusu)」同様、ロータリーカーン形式の臼です。
道具や材料だけではなく、大陸の最新文化、習慣喫茶文化も、留学生達が持ち帰りました。
喫茶文化には、「点心」があります。
「軽食、おやつを食べる習慣」です。その料理の中には小麦粉料理も含まれていました。
つまり、大陸の新しい文化+それを成立させる調理道具(chausu・konahikiusu・suribati)+食物材料(茶の木)が揃い、自足自給が可能になりました。
また、最新式の農具が、小麦を含む農作物の生産向上に役立ちました。
以上の要素が揃い、喫茶文化の「点心」から、粉食料理流行が日本で始まりました。粉料理の一種として、小麦粉料理・菓子も作られました。
総合的にこの時期、製菓術が急に発達したのです。
中国の喫茶習慣を学んで帰ってきたのは、僧達です。彼らを中心に当初は喫茶文化が上流階級に広まりました。
石臼の設置も、多くが、寺院にされていたことが判明しています。
■寺院と臼
京都の東福寺には、「大宋諸山図」という寺の設計図の最後に石臼を水車でまわす工場の図面があります。この寺は古くから小麦製粉や、麺業者の間では、宋代の中国から製粉術を伝えた開山・聖一国師(弁円)の威徳が讃えられています。
「水磨様simayo」と記された石臼式水力利用製粉工場の立面図。
a茶 b麺 cふるい d床下2,4m e石臼 f樋 g階段 h水車約1,8m i軸18㎝ j歯車
製粉工場の図面として日本で一番古いものです。
絵画ではなく、設計図の精密さ※で描かれています。
※中心線は現在の図面と同じく○・一ミリ程の正確な線で引かれている。
水路からの水が約1.8mの幅の広い水車によって駆動される水平回転軸で、二階まで貫通した垂直軸を回します。
二階には垂直軸の左右に二台の石臼があって、その上臼に取り付けられた歯車で回します。
石臼の近くには連結させたふるい分け機械を設置。
完全な製粉工場です。
この製粉工場が実際に建設されたのかどうかは不明です。
東福寺は度かさなる戦火で再建されているからです。
しかし、現存の寺の近くを流れる川は製粉工場を建設するのに絶好の場所です。
図面で注目するところは、石臼の一方にはa「茶」 もう一つには、b「麺」と書かれていることです。
抹茶と麺とは、当時、切り離せない物だったと、この図面から読み取ることが出来ます。
また、この大規模な設計図を見ても理解できるように、この時代の寺院は権力や富を有している組織的な集団です。
製粉材料の小麦、茶の確保は当然ですが、製粉技術の能力が高い人間が、職人として雇われるか、または寺のスタッフとして所属していたのでしょう。
■茶磨sama
また、この時期は、抹茶をつくる茶磨(sama)も普及した時期でした。
これは、抹茶専用の小型の石臼です。
喫茶習慣のある、上流階級だけが所持していた物です。
この時代は茶磨は輸入品でしたが、喫茶文化が上流階級で支持されると、国産品が日本人技術者により、製作されるようになりました。
samaは茶専用石臼ですが、それらの開発にに使用された技術は、日本での石臼製造技術全体に影響を及ぼしたと考えられています。
■新しい小麦粉料理、2種紹介
鎌倉時代の点心として、新しい製麺方法が同時期に伝来しました。
(1)
挽き臼(石臼)で挽かれた粒子の細かい小麦粉だけで作る麺です。麺条に植物油を塗って延ばして、乾燥させる全く新しい製麺法でした。
この製法は、奈良時代から存在した、索麺(sakumen)をアレンジするのに使用されました。ですから、A「索麺(sakumen)」と呼ばれていました。
しかし、一方で、奈良時代から存在する、米粉が混入された原形のままのB「索麺(sakumen)〔写真2〕」も作られ続けていました。
同じ名前の、違う食べ物がこの時期に存在したのです。
14世紀になると、別個の料理であると認識されたのか、A「索麺(sakumen)」の名前が変化し、「素麺(soumen)そうめん【写真1】」となりました。Aは人気が高く、贈答用品などに広く用いられました。
一方、米粉が混入された原形のままの索餅sakubeiは、新しい麺類「そうめん」に長く続いた人気を奪われました。その後は貴族階級の祝膳の菓子のような形でかろうじて残っていきます。
(2)
小麦粉だけの生地を使用。油は不使用。麺棒と包丁で作る麺料理。中国の切麺と同じ製法です。
この製法は、奈良時代から存在した、「こんとん(konton)」をアレンジするのに使用されました。
原形の「こんとん」は今の餃子のようなものですが、この生地を切って麺状にしたのです。
「切り麺」の出現です。
これが後に「うどん【2】」と呼ばれることになる食品です。
室町時代に(2)は完成型となりますが、それには調理道具である「まな板」の進化が大きく関係します。詳しくは書きませんが、その時期に木の表面を平坦にする木工技術【3】が日本に浸透しました。平坦な「まな板」は麺を成形するのに役立ったのです。
【1】sakubei A(そうめん)
【2】sakubei B(唐菓子)
【3】唐菓子+中国の新製麺技術=(うどん)
【4】室町時代に発展した木材加工技術は、調理道具にも大きな影響を与えた
■室町庶民の粉料理
上で、そうめんとうどんについても述べましたが、室町時代(1336年~1573年)には、鎌倉時代に伝来した小麦粉料理が発展した時期です。
また、この時期には、各地の寺院、領主などの製粉施設(石臼所持施設)を所持する組織が中心となり、素麺などが大量生産大量販売されています。
経済活動が活発になってきた社会基盤があります。
昔に比べて、大量生産されるようになった小麦料理ですが、基本的に庶民の食べ物ではありませんでした。
しかし、室町末期になると、庶民のための小麦料理が露天で販売されます。
行商の饅頭売りの登場です。
種類は、塩味の小豆あんを入れた“饅頭”、砂糖で味つけした小豆あん入りの“砂糖饅頭”、野菜の煮たものなどがあんとして入った“菜饅頭”などでした。
皮は小麦粉を甘酒で練ったものを用い発酵させ蒸したものでした。
今日の酒饅頭のようなものだったようでこの時代には「饅頭屋」も出現しており、庶民が楽しむ食品になっているようです。
経済活動が活発になってきた時代ですから、商人達はどこからか、小麦粉や砂糖を仕入れて、饅頭を作り販売したのでしょう。
室町時代中期時代には、琉球から砂糖が輸入されていました。
一般人が小麦粉と砂糖を手に入れるルートが確実に存在したということになりますね。
当時の職人の姿を描いた『七十一番職人歌合絵』の中には箱に入れた饅頭を売り歩く女性の絵があります。其処には,
売り尽くすたいたう(大唐)餅やまんぢう(饅頭)の 声ほのかなる夕月夜かな
と書き添えていて,饅頭売りの声が夕月夜の下,仄かに聞こえて来るとあります。
さて、以上の事実から、室町末期(16世紀ごろ)は、庶民向けの小麦粉料理「饅頭」が、国内に流通していたことは事実です。
製粉された粉を練って加熱した食べ物=饅頭ですが、室町末期の時点では小麦粉料理「饅頭」は、高級品ではなくなってきたようです。
しかし、「食べただけ」です。
この時点ではまだ、「石臼」は庶民家庭の物ではないようです。
遺物出土・文献がないからです。
つまり、粉を買う事は可能でも、「自宅で製粉→粉料理を作る」ことは不可能だったようです。
この後は、「室町時代」→「戦国時代」→「江戸時代」に年代が移ります。
結果から言いますが、江戸時代に「庶民用家庭用石臼」は急激に普及しています。
つまりこういう事です(^^)
「室町時代」(家庭用の石臼・無し)
↓
「戦国時代」(????)
↓
「江戸時代」(家庭用の石臼・有り)
「戦国時代に何かがあった」と、想像できますね。
戦国時代の何が原因で、庶民に石臼が広がったのでしょうか?
実に意外な「原因」がありました。
室町末期から戦国時代終了まで日本全土で続いた戦争です。
石臼は軍事用品として使用されたことにより、結果的に、日本の家庭に全国的に普及したのです。
次回(後編)は、そのことを詳しく説明していく予定です。
(番外)南蛮菓子と南蛮料理(16世紀の外来料理)
■南蛮菓子と砂糖の関係
室町時代~戦国時代終了まで、日本は「大航海時代」となります。
西洋文化を積極的に取り入れて、日本の文化輸出もしていました。
南蛮文化と共に、南蛮菓子が西洋から入ってきます。
政治的には点心時代の終末に重なっていますが、点心時代までの菓子と本質的には、対照的立場にあります。
また後世の菓子への影響もひじょうに大きいです。
南蛮菓子は、点心菓子と時代は重なりますが、一つのカテゴリーと考える方が妥当ですね。
南蛮とは当時の日本人が西欧人に対していった呼称です。
ですから、南蛮菓子といえば、その西欧人が日本に伝えた菓子の意味でした。
元亀年間(1570~73)からポルトガル人が長崎港に来ました。
この時彼らから、輸入された菓子を挙げます
ハルテ、ケジアト、カステラ、タルト、カーネル、クウク、ボーロ、コンペイト、アルヘル、カルメル、オベリアス、バースリ、ヒリオス、オブダウス、ビスカウト、パン
多種多様でしたが、日本人の嗜好に合致せず消えたものもあります。
現在に伝わっているものは以下の通り
当時の西洋人と、現在に残る南蛮菓子
aカステラ、bボーロ、cコンペイト、dアルヘイト、eカルメラ、fビスカウト、gパン。

それらは一般に「南蛮菓子」といわれたが、今日の「西洋菓子」です。
明治時代より300年早く、菓子文化が輸入されたことになります。
これらの菓子の最大の特徴は「砂糖」を大量に使用することです。
室町時代中期時代には、琉球から砂糖が輸入されていました。また、西洋人達は、大量の砂糖を日本に持ち込みました。この、砂糖の大量輸入がなくては、南蛮菓子は日本に定着しなかったでしょう。
無糖時代と有糖時代との間に明白な一線を画した出来事です。
この時代以前は、砂糖は使わず、植物性の甘味料や飴で甘味をつけていたものが、この時代から砂糖に変わったのです。
砂糖ですが、戦国時代終了後、江戸時代初期に九州で生産可能となりました。しばらくして鎖国が始まりましたから、国内生産にぎりぎり間に合ったことになりますね。
■天ぷら
【1】現代の天ぷら
【2】江戸時代屋台復元物 天ぷら屋
【3】天ぷらを買い食いする人々
【4】天ぷらを食べる女
「天ぷら」tenpuraも、「南蛮菓子」同時期に日本に伝来しました。
語源は、諸説ありますが、ポルトガル語で「四季の斎日」を意味する「テンポラ」であるという説が、一番有力でないかと伝えられています。
この斎日期間中ポルトガルでは肉食が禁じられており、魚に小麦粉の衣をつけた料理を食べます。
室町後期には南蛮料理のなかに「テンフラリ」という天ぷらの原型のような料理が現れます。鯛に小麦粉をまぶし豚の油で揚げたものに、雁、白鳥、雉、小鳥の肉のたたきあんかけだったと言います。「てんぷら」という呼び名は江戸時代の文献に初めて登場します。
江戸の「天ぷら」は「海産物」を揚げた物です。
(野菜のフライは「精進揚げ」と言われて区分されていました)
日本では珍しい「豚の油」を多く使用する「天ぷら」は、伝来当初は、高級料理だったでしょう。
大衆化した江戸時代には植物油を使用しています。油の生産量が増えるので、大衆食であることが可能となり、屋台で売られるようになったことを意味します。
■花林糖
唐菓子(揚げた小麦菓子)を起源とする説と、南蛮菓子「コスクラン」を起源とする説がある。庶民に普及したのは江戸時代になってからのようです。
(調理行程)小麦を練って成形する→油で揚げる→砂糖衣をつける
砂糖、油を大量に使う菓子なので、一般庶民が楽しむようになったのは、流通、油と砂糖の生産量の関係から、江戸時代になってからです。
江戸時代には、屋台や店で販売されました。
さて、皆さんにお願いです。
このスレッドは前後編の前編です。
当然ですが、後編の内容を尋ねるのは、ご遠慮ください。
そして、このスレッドの本文に反論がある方もいるかもしれません。
その場合は、「反論者本人」が、証拠となる「日本の資料」を提出して、論理的に意見を述べてください。
自分で資料は捜してください。
自分の論拠を私に要求しないようにしてくださいね。
先に記述しておきますが、この文章は歴史資料などを参考にしています。歴史的解釈は数種あるというのが常識ですから、「答えが出そうにない問題」については「ご自分で判断して」遠慮願いたいと思います。
議論の途中、そのような理由で私から一方的に打ち切らせていただくことがあると思いますが、承知の上で、意見を書き込んでください。
感情論、中傷誹謗、スレッドと関係ない意見は無視しますのでご了承ください。
また、このスレッドは起源スレッドです。
「日本料理の多くは、外国が起源のものである」
「日本料理は、外国文化に影響を受けて種類を増やし、独自文化を展開しながら発展しつづけた」
「原因があるから、過程があって、結果が出る」
という主旨です。
「議論」ではない、「感想」「雑談」はお気軽にどうぞ。