裁判員制度は「現代の徴兵制度」なのだそうだ。突然「赤紙」(候補者通知)がきて、半ば強制的に「戦地」(法廷)に駆り出される。だが、兵役拒否は命がけだが、裁判員はかなり緩い「義務」に過ぎない。まずは、かみしもを脱いで「人を裁く」ということを考えてみたい。
5月の開始を前に、制度への反対・延期の声が強い。「素人に有罪、無罪だけでなく量刑まで判断させるのは無理がある」「取り調べの全面可視化など条件整備が不十分のまま始めれば、国民が冤罪(えんざい)に加担させられる」など、制度への根本的な批判も少なくない。
しかし、多くの国民は、そういう理屈で裁判員を迷惑な「義務」と考えているわけではあるまい。「法律の知識はないし、仕事を休んでまで行きたくない」が本音ではないか。裁判員制度の導入を決めた審議会などを私は4年近く取材したが、閉塞(へいそく)感の強かった刑事裁判に民意を反映させるこの制度は、新たな国民の「権利」のはずだった。
元最高裁判事の団藤重光氏は、英国の陪審制度を民衆の力で勝ち取った権利と指摘し、裁判員制度については「あくまで『官製』のものでしょ」(朝日新書「反骨のコツ」)と批判する。ならば歴史を顧みて、不人気を解消する妙案はないか。そう思いながら、1928(昭和3)年12月の東京日日新聞(現毎日新聞)を繰った。
この月、帝都・東京で最初の陪審裁判が開かれたのである。戦前・戦中の15年間、日本は陪審制度を実施した。大正デモクラシーの時代、自由民権運動の成果として実現した。
12月18日夕刊の社会面トップは「美人火の呪いを 東京の初陪審 法相以下も居並び」の見出しが躍り、法廷写真も載っている。
被告は21歳の主婦で、保険金目当てで自宅に放火した罪に問われた。12人の陪審員と2人の補充員は実名報道で職業も公開されている。こんにゃく屋、酒屋2人、歯科医、絵具商、機械商、無職2人、八王子在のお百姓2人、会社員とある。名前も職業も伏せられる裁判員制度とは大違いだ。
初日の審理で、被告は全面否認する。以降、夕・朝刊で連日の展開。主な見出しを拾ってみよう。「子を思う(被告の)親心に法廷皆すすり泣く 初陪審の劇的シーン」「陪審員証人の警官にお叱言(こごと) 専門的な質問お見事」「『彼女の涙は何を語る』と病める弁護士の熱弁」「『美人放火』を断定 検事陪審員に迫る」。そして12月22日の朝刊「帝都最初の陪審公判 遂(つい)に無罪の判決下る 感激の美人 光景劇的に大団円」に至る。当時は、陪審団の答申を受けて裁判長が判決を言い渡す仕組み。無罪の答申が受け入れられたのだ。
陪審員は5日間の缶詰め生活だったものの「幾分疲労の色が漂っているが、全力を注いだ熱と誠意の答申を容(い)れられた喜びはさすがに包みきれない」との記事がすべてを物語る。「初めは何が何やら分からなかったが、そのうちに事件の核心が分かってきた」「審理が面白くてノート3冊を請求して皆使った」などその声は充実感にあふれる。
おくせず全力で法廷に臨んだ80年前の日本人の姿に、私は感動を覚えた。裁判員裁判も、法廷での証拠調べが原則だ。陪審裁判に負けないスリリングな審議はできると思う。きっと得がたい経験になるはずだ。
ただし、死刑が想定される事件については、参加を含め慎重に考えてほしい。人の命を国家が奪うことにかかわるからだ。裁判官でさえ、死刑言い渡しに悩み苦しんできた。死刑廃止が世界の潮流の中、日本は死刑制度を存置する。裁判員制度を前に、本来、死刑や終身刑の議論を国会で深めるべきだった。裁判所が模擬裁判から死刑相当事件を外すのは、重大な問題から国民の目をそらすものと言うほかない。
死刑事件にかかわりたくなかったり、どうしてもやりたくない人が「選ばれない」自由はないのか。勧めるわけではないが、方策はある。裁判員を選ぶ際、質問手続きがあり、検察、弁護側双方が数十人の候補者から気に入らない4人ずつを忌避できる。「変な人」を排除するためのこの仕組みを利用して「被告は絶対やっていると思う」または「被告は絶対やっていないと思う」と言えば、ひどい先入観だとして弁護側、検察側いずれかが忌避するだろう。死刑など肝心の議論が置き去りにされている以上、「良心的裁判員拒否」があってもいい。嫌々裁かれては被告も可哀そうだ。
1923(大正12)年、陪審法公布の約半年後、関東大震災が起きた。それを乗り越え、予定通り陪審制度は始まった。4カ月後、裁判員制度もスタートするだろう。だが、よりよい制度への道はまだ半ばである。(東京社会部)
毎日新聞 2009年1月27日 0時14分(最終更新 1月27日 15時28分)