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『週刊がん もっといい日』編集部(株式会社日本医療情報出版)
TEL.03-5688-7816
FAX.03-5688-7803




週刊がん もっといい日
2009年Vo.145
2月13日更新


NPO法人日本臨床食物機能研究会
2月15日に「がん治療における低容量放射線治療の実際と食物機能の臨床応用」テーマに『身体にやさしい治療セミナー』開催

難病の子どもたちのための診療所付自然体験施設
建設へ日本チェーンドラッグストア協会が店頭で募金活動中!
http://www.gekkan-gan.co.jp/images/bokin.pdf

Vol.145号の目次 『週刊がん もっといい日』編集部 山本武道からのメッセージ

@連載
生きるための緩和ケア最前線―痛みからの解放
第11回目 『緩和ケアと地域医療の取り組み』
欧米型の「外に出る緩和ケアチーム」を組織し
病院と在宅を効果的に融合させる取り組みを展開
取材協力:医療法人友愛会南部病院麻酔科医長 笹良剛史医師

Aここにこの人
「がんを克服するという強い気持ちがなければ
病と戦うことはできません。病と向き合い、
目標を持ち、つき進む勇気と結果を実証したい」
腎臓がんを克服し、これからもがんと戦い続ける
プロレスラーの小橋建太さん(41歳)


Cクローズ・アップ
Medical Research Information Center (MRIC) メルマガから
サリドマイド承認までの道のりと新たな課題
日本骨髄腫患者の会副代表 サリドマイド担当 上甲 恭子


Dセミナー・イベントのお知らせ

連載
生きるための緩和ケア最前線―痛みからの解放
医療ジャーナリスト・長田昭二
『もう治療法がない≠ニ言われた再発進行がんの
未承認抗がん剤という選択肢』
<未承認抗がん剤:取材プロジェクトチーム>
『週刊がん もっといい日』のピロリ菌の早期発見・早期除菌による
胃がん予防キャンペーン(詳細は、ここをクリックしてください)
乳がん闘病中の内山 遥(うちやま はるか)が
レポートする連載『がん患者さんのための「免疫とがん」講座』
09年2月6日更新内容 全記事はこちら

がんの予防、治療、再発防止に役立つ
がん情報サイト「週刊がん もっといい日」
毎週金曜日の更新です!

がん情報サイト「週刊がん もっといい日」は、がんの予防、治療、再発防止に役立つ情報を、毎週1回、次の四つのテーマでお届けしております。更新は、毎週金曜日です。
■ 「がん闘病記」・・・患者さんに闘病体験を語っていただきます。
■ 「ここにこの人」・・・話題の人を紹介します。
■ 「がんの治療最前線」・・・がん治療にかかわる最新情報を提供します。
■ 「統合医療最前線」・・・統合医療にかかわる情報をします。
 
また、同時にがんにかかわるニュースをメールマガジンで提供しております。ただしメールマガジンのニュースをご覧いただくためには、次の手続きが必要になります。

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*登録方法は、本ページ上部のアイコン「もっといい日ニュース」をクリックして、必要事項を記入のうえご送信ください。毎週、ニュースを配信いたします。



3年前に腎臓がんを克服したプロレスラーの小橋建太選手が
両ひじの手術・リハビリを終えて3月1日にリングに復帰します。
応援してください!

3年前に腎臓がんに侵され腹腔手術を受けたプロレスラーの小橋建太選手(プロレスリング・ノア所属)に、都内でお会いしました。20歳のときにプロレスの門を叩き、苦労しながらのデビュー。入門から腎臓がん、ヒジやヒザの怪我に悩まされながらのプロレス人生・・・。
リングでは、すさまじいほどの炎となって対戦相手に立ち向かう小橋選手とは裏腹に、インタビューで時折、見せる笑顔。がんとの闘病生活を耳にするほど、小橋選手の人柄がひしひしと伝わってくる。インタビューを終えたとき、なんともいえない、すがすがしい気持ちになりました。
インタビューの全文は、http://www.gekkan-gan.co.jp の「ここにこの人」欄をご覧ください。以下は、小橋選手から、皆さまへのメッセージです。
「人生は一度きり。何があっても、必ず立ち直る。絶対に良くなるんだという強い心を持つことが一番大切。がんと宣告された日、そのときのショックは、いいようのない辛い日々の始まりでした。だからといって、そのままの気持ち引きずらずに、とにかく頑張るというポジティブな心を持って欲しい。がんは、年齢に関係なく、誰にでも起こりえる。スポーツ選手も、芸能界で活躍する人たちにも・・・。特別な疾患ではなくなっています。やればできるのです。自分は、この先、何年、リングに立てられるか分かりませんが、あのプロレスの選手だって、がんのために腎臓を一つとっても元気で試合ができるんだと思っていただければうれしい。これからも、自分の生き方や考え方が一人でも多くの、がんと闘う患者さんや家族の方々に伝えていくのが自分の使命・・・」
 さて今週もまた、皆さまにとって「もっといい日」でありますように・・・。

『週刊がん もっといい日』編集部 山本武道

「生存率20%以下のがんから奇跡の生還」を果たした
ランス・アームストロングさん(自転車レースの最高峰、
ツールド・フランスで前人未到の7連覇)から、
がんと闘う皆さまへのメッセージです

↑クリックしますと全文掲載されます。

世界各国の乳がんを患った女性たちに向けた
テニスプレーヤーのアンドレ・アガシ選手の母親、
ベティ・アガシさんのメッセージ

↑クリックしますと全文掲載されます。

「もっといい日」図書室からのお願い!
がんの治療法(手術療法、化学療法、放射線療法、免疫療法、補完・代替療法など),食事療法、闘病記等々、がんに関する推せん書籍を、ご紹介ください。

皆さまが、最近読まれた書籍で、患者さんや家族の方々に、ぜひ読んでいただきたい書籍を、「もっといい日」図書室まで、下記の要領でお知らせください。

<お知らせいただく項目>

(1) 書籍名(2)著者と筆者の所属先及び連絡先(住所、電話番号)(3)発行出版社(住所、電話番号、メールがあればアドレス)(4)価格(5)簡単な紹介文(400字以内)(6)あなたさまの氏名、住所、連絡先(仮名も可)

送付先E-mail:yamamoto-iihi@gekkan-gan.co.jp


がん関連書籍を紹介した『もっといい日 図書室』をご利用ください

がんに関する書籍が、相次いで出版社から刊行されていますが、「うっかりして買い忘れた」「知人から聞いた」「確か新聞や雑誌で紹介されていた」等々、入手できなかったというケースは少なくありません。
 そこで『週刊がん もっといい日』編集部では、がん関連書籍の発行先、著者の連絡先がわかる、『もっといい日 図書室』を開設いたしました。
 リストには、書籍名、発行元(出版社名・連絡先)、著者(著者の専門部位・所属先・連絡先)を掲載しておりますが、ただし著者の所属先及び連絡先が変更になる場合もありますので、ご了承ください。今後、がん関連の書籍リストは、随時、追加していきます。
『もっといい日 図書室』の閲覧は、トップページ上部の「もっといい日 図書室」をクリックしてください。




☆☆☆「週刊がん もっといい日」VOL.145☆☆☆

笹良剛史医師
連載

生きるための緩和ケア最前線
―痛みからの解放

第11回目
欧米型の「外に出る緩和ケアチーム」を組織し
病院と在宅を効果的に融合させる取り組みを展開


取材協力:医療法人友愛会南部病院麻酔科医長
笹良剛史医師


<プロフィール>
1963年大分県生まれ。88年琉球大学医学部卒業。その後同大医学部麻酔科に入局し、同附属病院、関東逓信病院(現・NTT東日本関東病院)、離島勤務、米・カリフォルニア大学サンディエゴ校留学等を経て、2007年より現職。

 沖縄本島南部の糸満市にある南部病院は、病床数238の中規模民間病院。以前は「県立南部病院」だったが、経営不振から同じく沖縄南部の中核病院である豊見城中央病院を運営する医療法人友愛会に運営が移譲されて現体制となった。現在同院のペインクリニック医長を務める笹良剛史医師は、沖縄県における緩和ケアのパイオニア的存在だ。その笹良医師に、沖縄県南部における緩和ケアの実情、特に在宅を絡めた地域医療としての取り組みについて話を聞いた。

二つの病院と地域の開業医が
機能に合った分業で
患者をサポート


 笹良医師の勤務する南部病院が、県から現在の医療法人友愛会に経営が映ったのは2006年のこと。笹良医師はこの経営移譲の直後に、大学から転籍してきた。
「今でもそうなのですが、当時沖縄で認可されたホスピス病床を持っているのは3施設で、その病床数は合計しても60ほどに過ぎない。しかも、いずれも県の中部に集中しており、南部地域はまったくの手つかずの状態だったんです。そこで、緩和ケア病床は持たないまでも、地域と連携を組むことで、南部地域の緩和ケア水準を向上できるのではないかと考えたんです」。
医療法人友愛会南部病院

 大学卒業後は母校の麻酔科に入局し、ペインクリニックを中心に実績を積んできた。アメリカに渡って脊髄障害の痛みのメカニズムを研究し、帰国したところで大学に県内初の緩和ケアチームが設立されることになり、その責任者に任命される。
「それ以前から草の根的な取り組みとして緩和ケアについての勉強会を開いてはいました。でも県内にこの分野の先駆者がいなかったため、まったくの手探り、いわば“自己流”でしたよ」と笑う笹良医師。しかし、ほぼ時を同じくして日本全体に緩和ケアが産声を挙げたことから、その流れにも乗って笹良医師らの取り組みは着実に実を結び始めた。
 冒頭にも触れた大学から現在の病院への転籍は、そうした取り組みが功を奏して県内での緩和ケアの芽が育ち始めたところでのこと。笹良医師はこれを機に「欧米型の地域緩和ケアチームの構築」を目標に据える。
「病院の緩和ケアチームが、必要に応じて外に出て行くことで、入院、通院、在宅の3つの緩和ケアを有機的に結び付けようというものです。地域特性として老老介護が多く、独居老人も少なくない。また老人保健施設などもがん患者に対しては門戸が狭める傾向が強い中、まずは緩和ケアチームが積極的に外に出ていくことが重要だと考えたんです」。
 南部病院を擁する医療法人友愛会の中核施設である豊見城中央病院は、県南部を代表する急性期病院。ここで手術や化学療法などを行い、緩和ケアが必要な場合は在宅への移行準備を兼ねて南部病院が受け皿となる。その後在宅に移ってからは、開業医と連携を取りつつ南部病院から緩和ケアチームが往診し、入院の必要が生じた時は豊見城中央と南部の二つの病院が受け入れる――という体制が組まれた。
「この地域の開業医の多くが豊見城中央病院の出身ということもあり、円滑なスタートが切れたと思います」と笹良医師。今はまだ一法人の中での稼働だが、徐々に連携の輪を広げていく考えだ。


WHO方式+PCAで疼痛管理
心療内科的介入で独自性を発揮

 自己流で始めた笹良医師の緩和ケアだが、その疼痛管理の内容、特に薬の選び方などは、基本的にWHOラダーに沿ったものだ。
「最初は経口モルヒネ製剤、あるいはオキシコンチン製剤を使い、薬の量が増えてきたり、食欲がなくなってきたときにはパッチタイプのフェンタニルに切り替えます。多くの場合はこれで安定しますが、中には骨転移などによる突発痛を起こし、しかもレスキューがのめないケースがある。そんな時にはPCA(患者コントロール機能付き)継続皮下注入ポンプを使います。これは患者自身が調節できるので、病院にいるうちから使って馴れてもらうことで、在宅移行後も不自由はないようです」。
 一方、笹良医師は麻酔科を専門にする半面、大学時代から心療内科にも興味を持ち、特にがん患者に対するスピリチュアルな支援についても勉強をしてきた。これは現在の診療においても大いに役立っているという。
「がんの緩和ケアにおけるスピリチュアルケアというと、どうしても宗教的なアプローチが強くなりがちですが、沖縄のこのあたり(南部地域)は、祖先崇拝の傾向が強いくらいで、取り立てて死生観を強く持っている人は少ない。そもそも、スピリチュアルケアそのものが系統的な学問体系が始まったばかり。特に私の場合は独自のスタイルになっているのかもしれませんね」。


老老介護に不可欠なレスパイトケア
地域に根差した緩和ケアの仕組みを構築

 もうひとつ、笹良医師が進める欧米型緩和ケアチームの取り組みの特徴として挙げられるのが「レスパイトケア」、つまり“介護者のリフレッシュ休暇”の充実だ。
 取材の最後に笹良医師が、その取り組みの象徴的な事例を、紹介してくれた。
 咽頭がんの手術を受けた80歳代半ばの男性。同年齢の夫人との二人暮らしの、典型的な老老介護だ。緩和ケアを笹良医師が受け持つことになった。
 これから始まる緩和ケアの内容を一通り話した上で何か希望があるかと尋ねたら、筆談で「安楽死」と答えたという。その時点で、完全にあきらめの思考に支配されていたのだ。
経管栄養などは一切拒むなど治療には非協力的な態度を崩さず、次第に体力も低下する中で年末を迎える。患者本人から「正月だけは家に帰りたい」というリクエストが出た。正直言って年明けまでもつかどうかも怪しい状況。笹良医師は少なからぬ不安を感じながらも、一時帰宅を認めた。
「ちょうど退院の日は沖縄らしい快晴で暖かかったんです。するとおじいちゃんが、『のどが渇いたから点滴をしてほしい』という。珍しいこともあるものだと点滴をしたんですが、それまで経管栄養もほとんど拒否していたところに点滴を入れたものだから、急に栄養状態がよくなって元気になっちゃった(笑)。結局そのまま半年間、在宅で過ごしましたよ」。
 この半年の間、患者は自身の検査と妻の休息を目的に、3回にわたって短期入院をする。しかしその入院の際も、最初の入院時と違ってとても穏やかな表情で過ごしていたという。
 「若い看護師に世話をしてもらうのがうれしいようで、『ここは極楽だ』なんて笑ってました。在宅と病院を効果的に使い分けることで、地獄が極楽に変わる。レスパイトケアをうまく組み込むことができれば、老老介護も可能かな……って、最近はちょっと自信がついてきました」。
 笹良医師の話を聞いていると、地域における緩和ケアの取り組みは、医学的(科学的)なアプローチもさることながら、それ以上に医師の人柄や患者への思いが、より重要なウエートを持っていることがよくわかる。その意味で、沖縄の気候と同じように明るく暖かい笹良医師の笑顔に癒される、この地域の患者は幸せだ。



笹良医師の患者が旗振り役となり、院内に患者組織が誕生した。週に一度の「お茶会」を開き、ここでは患者同士が「患者だからこそ」の悩みや相談事を話し合う。この集まりには臨床心理士が参加するが、笹良医師はあえて顔を出さない。「医者が入ると質問大会になってしまう。それよりも、患者同士の交流を楽しんでほしいので……」と笹良医師。緩和ケアにおける医師の立ち位置を、常に意識しているのだ


医療法人友愛会南部病院
沖縄県糸満市真栄里870
電話098‐994‐0501


ホームページ
http://www.yuuai.or.jp/nanbu/

取材・文◎医療ジャーナリスト・長田昭二
1965年東京生まれ。日本大学農獣医学部を卒業後、出版社勤務を経て2000年よりフリー。新聞、雑誌を中心に医療記事を執筆。著書に「病院選びに迷うとき 名医と出会うコツ」(NHK出版・生活人新書)他。日本医学ジャーナリスト協会会員。



闘病生活を語る小橋建太選手
ここにこの人


「がんを克服するという強い気持ちがなければ
病と戦うことはできません。病と向き合い、
目標を持ち、つき進む勇気と結果を実証したい」



腎臓がんを克服し、これからもがんと戦い続ける
プロレスラーの小橋建太さん(41歳)



右腎臓に4〜5cmの腫瘍が見つかった2006年6月、
悪性と分かり「がん」と宣告された

腎臓がんの切除など、幾度も体にメスを入れながら、その都度、不死鳥のごとく蘇ってきた人気プロレスラーの小橋建太さん(41歳)が、ヒジの怪我から3月1日、プロレスリング・ノアの東京・日本武道館で復帰します。
小橋さんの右腎臓に4〜5cmの腫瘍が見つかったのは2006年6月でした。1か月後に5時間半にわたる腹腔手術で右腎臓摘出に成功。しかし病理検査での結果は、がん。
「健康診断で見つかりました。エコー検査で腫瘍があるといわれ、造影剤を飲んでCTで再度検査した結果を聞きに行き、クロかシロかどちらです?はっきり教えてくださいと、尋ねたところ、いとも簡単に、“はい悪性です”。こんなに簡単に、がんの告知をするものなのかと思いました」

20歳で夢にまで見たプロレスの門を叩き1988年2月にレスラーとしてデビュー

小橋さんが、幼い頃から夢だったプロレスラーをめざし、大企業のサラリーマン生活に別れを告げたのは1987年6月。20歳のときに全日本プロレの門を叩き、ジャイアント馬場選手の付け人をしながら、8か月後の1988年2月、小橋さんは、自分の夢を実現させついにデビューした。
闘う小橋選手(写真提供:プロレスリング・ノア)

初のベルト、アジアタック王座、世界最強タッグ決定リーグ戦で初優勝、夢にまで見た第24代世界タッグ王者となってから史上初の三連覇。1996年、第19代三冠ヘビー級王者とプロレス大賞の最優秀選手賞(MVP)を獲得。
全日本プロレスから新団体のノアに移籍した後は、再起不能とまで言われたひざの手術とリハビリ、その復帰戦で左ひざ前十字靭帯不完全断裂で再び欠場したものの2002年7月の復帰戦を皮切りに小橋さんは、2003年3月にGHCヘビー級王座を獲得。2年にわたり13度の防衛に成功しました。そして2006年6月、2度目のGHCタッグ王者に。絶頂期だった、その25日後、小橋さんは、医師からまったく予期しなかった、「がん」の宣告を受けたのでした。

死ぬことよりもプロレスができなくなる
ことのほうが辛かった日々

「ショックでした。自分たちの世代で、がんになるなんて信じられず、すぐに死んでしまうかの心境でしたが、自分の場合は、死ぬことよりも、プロレスができなくなることのほうが、とても辛かった。自分にとって、プロレスができないことは死に等しかった・・・」
 がんの宣告を受けたときの小橋さんは、プロレスの門を叩いた20歳からのことが映像になって走馬灯のように浮かんでは消え、消えては浮かぶ日々・・・。宣告を受けたとき、試合出場が決まっていたため、強行出場をしようと、いろいろな病院で聞きましたが、いずれも「ノー」といわれ続いたある日、一人の医師と出合った小橋さん。



いつしかリングに上がる日を待ち
腎臓がん摘出手術に踏み切る

「試合出場はありえない。今、手術をすれば君の命は助かる。けれどもこのまま放置すれば腫瘍は、どんどん大きくなってしまう。人間、生きてる限り何でもできる。今は、まず生きることにしましょう」
 いつしかリングに上がる日を待ち腎臓摘出手術に踏み切った小橋さんは、術後、リハビリしやすいように腹腔手術を受けました。
「自分はプロレスに戻れますか?って聞いたら、主治医はあきれて笑っていました。食事は、これまでとは180°違う腎臓食。早く体をつくるために必要な、プロテイン(たんぱく質)は腎臓に負担をかける。腎臓に良いのは油や脂肪分。しかも腎臓に負担をかけないプロテインはないかなど医師やサプリメントの専門家と話し合った結果、ありませんでした。眼の前が真っ黒になりました。手術後の第二ステップを踏み出したくてもできない。体重を増やす食事も、腎臓に負担をかけるとのことで、精神的に追い詰められた日々。まるで底なし沼にはまった状態が続きました」
 小橋さんは、フアンの声援という後押しと限られた食生活でリハビリ、練習を続けました。


2007年12月、546日ぶりに奇跡の生還を果たし
リングに復帰・・・

 2007年12月2日。小橋さんは腎臓がんを克服して実に546日ぶり、リングに奇跡の復帰。リングサイドには、小橋さんの母親も京都から駆けつけ、多くのフアンたちとともに小橋選手を声援した。結局、小橋選手は、この日の試合には負けました。が、その年の年間最高試合賞とカムバック賞を受賞しています。
「何事も、頑張ろうという気持ちがなければ何の結果も出ない。そして、病を克服するという目標を持つことです。今、自分は41歳。人生は長い。山あり谷あり、苦労もあるけれども、良いこともある。がんを克服するという強い気持ちがなければ病と戦うことはできません。自分自身が、がんを体験して始めてわかったことです。とにかくスタートすること。そのためにも病と向き合い、目標を持ち、つき進む勇気と結果を実証したい」


母親に大腸がんがみつかり手術に立会い、
さらに右ひじの故障で欠場


 満員の日本武道館で復帰を果たしリングに立った小橋選手。しかし物語は、これで終わらなかった。つめかけたフアンの渦のなかで、最愛の息子の復帰と活躍を見守ってくれた母親は、京都に戻り数日してから体調を崩し緊急入院。
「兄から連絡があり入院したとのことでした。なんで緊急・・・もしやと胸騒ぎがしました。やがて母親が大腸がんであることを兄が医師から告げられ、私に連絡が来ました。母親も。当初はがんと知らされなかったけれども、きちんとがんの告知を受けました」
 今度は、小橋選手の手術を見守ってくれた母親の手術の立会い。「母親よりも先に、自分が体験したがんの手術。摘出されたがん組織を見せられましたが、母も同じ気持ちで息子の切除されたがんを見ていたのだと思うと、何か、こう胸がしめつけられようになったことを覚えています」
そして小橋選手は、2008年2月26日にデビュー20周年。しかし、その年の9月にまたもや病魔。がんではなく右ひじの故障で欠場。

がん患者さんと家族へ小橋選手からのメッセージ

 小橋選手は、左右の両ひざに6度のメスを入れ、左ひざ靭帯断裂、がんに侵された右腎臓の摘出手術、右ひじの故障・・・何度も何度も病魔に襲われながらも、小橋選手は負けなかった。「生き残るんだ」「リングに立つまで死ねない」―そんな言葉を言い続けながら小橋選手は試練に立ち向かい、ことごとく克服してきました。
「人生は一度きり。何があっても、必ず立ち直る。絶対に良くなるんだという強い心を持つことが一番大切。がんと宣告された日、そのときのショックは、いいようのない辛い日々の始まりでした。だからといって、そのままの気持ち引きずらずに、とにかく頑張るというポジティブな心を持って欲しい。がんは、年齢に関係なく、誰にでも起こりえる。スポーツ選手も、芸能界で活躍する人たちにも・・・。特別な疾患ではなくなっています。やればできるのです。自分は、この先、何年、リングに立てられるか分かりませんが、あのプロレスの選手だって、がんのために腎臓を一つとっても元気で試合ができるんだと思っていただければうれしい。これからも、自分の生き方や考え方が一人でも多くの、がんと闘う患者さんや家族の方々に伝えていくのが自分の使命・・・」
 2009年6月になると、がんが発症してから3年になる小橋さんは、両ヒジの手術から3月1日(日)17時から日本武道館で開催されるノアのリングで復帰します。素晴らしい肉体美を誇り、普段は笑顔が素晴らしい小橋選手ですが、リング場では怪物になる。
「師であるジャイアント馬場さんから、こう言われた。“プロレスラーはリングでは怪物に、リングを降りたら紳士であれ”と」

(写真提供:プロレスリング・ノア)


■編集部からのお知らせ■

<プロレスリング・ノア関東地区大会日程>
◇3月1日(日)17時から:東京・日本武道館
◇3月15日(日)15時から:東京・ディファ有明
◇4月11日(日)18時30分から:東京・後楽園ホール
◇4月25日(土)18時30分から:東京・後楽園ホール
◇5月6日(水・振)17時から:東京・日本武道館

<問合せ先>TEL:03-3527-5311(月~金の10時〜18時)

<公式HP>www.noah.co.jp



今週のニュース

●厚労省、2月26日に第9回がん対策推進協議会
●2月28日に『静岡がん会議2008』
●6月に、岩手で安保徹教授の講演会『健康の大切さ』
●抗インフルエンザウイルス薬「リレンザ」今季の追加供給決める
●安全性、有効性で韓国のゲランティ製薬がKFDAの個別認定を取得


<登録方法>
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サリドマイド承認までの道のりと新たな課題
日本骨髄腫患者の会副代表 サリドマイド担当 上甲 恭子 


サリドマイドは、1960年代初め重大な薬害によって医療現場から姿を消した。1990年代になり、抗炎症作用、免疫調整作用を有し、らい結節性紅斑をはじめ様々な疾患に有効であることがわかり、1998年米国血液学会にて難治性骨髄腫に対する有効性が報告されて以降次々と臨床試験が行われた。
その後、2003年オーストラリアを最初に米国、韓国等相次いで承認された。本邦では、2008年10月、世界18番目に多発性骨髄腫の治療薬として承認を得たが、それまでの10年間、医師による個人輸入という緊急避難的措置で難治性多発性骨髄腫に対して治療が行われた。

 多発性骨髄腫患者にとってサリドマイドは、決して病気を完治してくれる夢の薬ではない。サリドマイド単剤では30%、デキサメタゾンとの併用で40〜50%、化学療法との併用では50〜60%の奏効率が報告されているが、いずれ効果が薄れ抵抗性となる。そうであっても、化学療法抵抗性の骨髄腫患者にとって、経口剤で外来通院治療が可能なサリドマイドは、QOL高く病気をコントロールしてくれる「希望をつなぐ薬」である。

 そのサリドマイドが承認されるまでの約10年間のこと、そして承認後新たに生まれた課題のことを当会の会報誌「がんばりまっしょい9号」に掲載した記事によってご紹介したい。なお、会報誌はサリドマイドの安全管理システムを特集したもので、全国の血液内科の先生方、薬剤師の先生方に煩雑な手順が解り易くまとまっているとご好評をいただいている。サリドマイドに関わるすべての方々に一度手にとっていただきたいと願っている。

<日本骨髄腫患者の会「会報誌がんばりまっしょい9号 TERMS特集より」患者
さんと家族の方々へ>


●サリドマイドと骨髄腫患者の会のこと

 サリドマイドは、骨髄腫患者の会にとって特別な薬です。日本で最初にサリドマイド治療を受けた骨髄腫患者は当会の創設者堀之内朗さんで、化学療法の効果が薄れ、残された治療法が無かった時、アメリカの情報を元に主治医がブラジルからサリドマイドを輸入して治療し奏効しました。平成10年のことです。
 堀之内さんは、化学療法に抵抗性の他の患者さんのためにもサリドマイド治療の道を開こうと、平成12年から骨髄腫を治療する医師を対象にサリドマイドの輸入代行のサポートを始め、輸入代行業者がサリドマイドを扱い始めるまでの三年間続けました。
 それ以降、現在に至るまで、サリドマイド治療に関する相談窓口を設け、治療できる病院のこと、個人輸入のこと、薬代のこと、転院のこと、様々な相談や問い合わせに応え続け、相談内容を記録した「サリドマイド相談ノート」は5冊になりました。

 同時に、サリドマイド治療が必要なすべての患者さんに治療を可能にするには、承認薬になることと信じ、早期承認を求める活動を続けてきました。これほど深くひとつの薬剤の承認に関わりをもった経験は私たちには初めてでした。


●サリドマイドとTERMSのこと

 平成17年に藤本製薬がサリドマイドの希少疾病用医薬品指定を得、治験を経て平成18年承認申請をだされました。「サリドマイドを承認申請してくれる会社がある」と知った日、拍手をして喜びました。

 承認申請と同時に、サリドマイドを安全に使用するためのシステム「TERMS」(Thalidomide Education and Risk Management System: TERMS)の構築がスタートしました。私は骨髄腫患者の代表としてその検討に参加し、あらゆる年齢層、性別の、日本中の全ての患者さんの気持ちを代弁するつもりで取り組みました。



●TERMSのこと すべての患者さんへ

 TERMSの目的は、サリドマイド禍を二度と起こさないことです。妊娠中の女性がサリドマイドを服用したら、それがたとえ1カプセルであったとしても、お腹の赤ちゃんに重大な障害または死産や流産を引き起こす可能性があります。
また、男性がサリドマイドを服用したら、精子、精液中にサリドマイドが移行している
可能性があります。サリドマイドを服用する患者さんには、胎児をサリドマイドに曝さないよう細心の注意をしていただかなくてはいけません。

 一方、骨髄腫の患者さんの約8割に、レントゲン検査で骨に異常が確認されます。また診断時の平均年齢は65歳です。度重なる抗がん剤治療によって、月経が無い方もいらっしゃいます。そのような患者さん方にとって、「妊娠」という言葉が日常的でないことは明らかです。そうであっても、サリドマイドを服用するすべての患者さんに、「TERMSとは何か」、「なぜTERMSが必要なのか」を理解していただき、安全管理のための約束を守っていただかなければなりません。
患者さんの周辺には、患者さんのご家族やお世話をして下さるヘルパーさんがいらっしゃることもあるでしょう。患者さんご自身と共に、周囲の方々も十分な注意をお願いします。

 TERMSを元に正しい知識をもち、何をしないといけないか、何をしてはいけないかを確認し、協力して約束を守る。そのために、どうか家族や近しい人とTERMSについて話し合う機会をもってください。そうすることがサリドマイド禍を起こさないために最も大切なことではないかと思います。この特集が、その一助となれば幸いです。


●承認薬サリドマイド−おわびと今後のこと−

 平成20年10月16日サリドマイドは承認されました。そして、多くの課題が残りました。TERMSには改善する余地がまだたくさんあります。処方できる病院は、サリドマイドを必要とする全ての患者さんをカバーするには難しい範囲に限られました。薬価は患者さんが想像していたよりずっと高額になりました(100mgカプセル1個 6570円 国民健康保険三割負担の場合1カプセル1971円)。

 サリドマイド治療を必要とするすべての患者さんが苦労なく治療を受けられるために承認を求め、ベストを尽くしてきたつもりですが、至らない結果となってしまい申し訳ありませんでした。

 しかし、未承認であるがゆえにサリドマイド治療を受けられなかった患者さんが日本中にたくさんいらっしゃいました。「サリドマイドを必要とするすべての骨髄腫患者さんにサリドマイドを届けるためには、サリドマイドは一日も早く承認されなければいけない」という信念に、今も揺らぎはありません。     

 今後は、第三者評価の委員としてTERMSの改善に取り組みます。あわせて、経済的な負担に関しては、何らかの負担軽減策を講じていただけるよう関係の方々とよく相談しつつ行政に働きかけ、できるだけ早く改善されるようにしたいと考えています。 


●骨髄腫の患者さんのために

 さいごに、「骨髄腫の患者さんのために」と、懸命に働き、サリドマイドを承認薬にしてくださった全ての関係者の方々にお礼を申し上げます。特に、患者のことを信じてTERMSをまとめあげてくださった厚生労働省医薬食品局 森 和彦安全対策課長のことは生涯忘れません。ありがとうございました。

 骨髄腫患者の会は、サリドマイド治療が必要な日本中のすべての患者さんに治療機会が得られるよう、承認されてよかったとサリドマイドに関わるすべての方が真に思う日が一日も早くくるよう、今後より一層努力します。ご協力をお願いいたします。 

日本骨髄腫患者の会:webサイト http://www.myeloma.gr.jp/ 






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09年2月6日更新内容 全記事はこちら

☆☆☆「週刊がん もっといい日」VOL.144☆☆☆

クローズ・アップ

Medical Research Information Center (MRIC) メルマガから

『ドラッグ・ラッグの解消法についての提案』
元順天堂・元東京女子医大教授 押味和夫


『週刊がん もっといい日』編集部には、さまざまな情報を寄せられてくる。その一つがMedical Research Information Center (MRIC) メルマガです。これまでにも、医療分野で活躍されている医師、看護師などが投稿された論文を紹介してきました。今回は、元順天堂・元東京女子医大教授 押味和夫氏が執筆された『ドラッグ・ラッグの解消法についての提案』です。


『ドラッグ・ラッグの解消法についての提案』
元順天堂・元東京女子医大教授 押味和夫

 造血器腫瘍に対する抗がん剤を始め、薬の開発スピードはますます速くなってきている。2005年真性赤血球増加症などの骨髄増殖性腫瘍でJAK2 遺伝子異常が発見されたが、2008年末までにJAK2 遺伝子がコードするチロシンキナーゼを標的とする薬が、海外で6種類、臨床試験に入っている。これは驚くほどの開発の速さと思う。
今後、分子標的療法を中心とする薬の開発速度はますます加速され、このままだと、海外で使えても国内では使えない薬がさらに増えることが予想される。
 従来、わが国では、米国などの諸外国ですでに市販されている薬を使う場合も、治験(臨床試験)を行い、その後に承認・販売している。
あらためて治験を行う理由は、思うに、日本人での薬物代謝および安全性を確認するためであろう。しかしながら、少なくとも造血器腫瘍の領域で、治験により大幅な投与量の変更が行われたという薬は知らない。少数例の治験で明らかになる日本人特有の副作用については筆者の記憶にはない(ボルテゾミブによる肺障害は主に個人輸入で使用した患者で明らかになった)。
数年にわたる治験およびその結果の解析を待つ間に、薬を使いたくても使えない患者は、あきらめるか個人輸入で高価な薬を買うしかない。患者・家族のみならず医療スタッフにとっても、これは誠に残念なことだ。日本人での安全性の確認は、日本血液学会が中心になって、製薬会社が市販後調査を行うのをしっかり監視する権限のある機構を作ることで可能と思う。
 米国の場合、明らかに優れた抗がん剤なら数十人から100−200人規模の第2相臨床試験の後に認可されるが、ほとんどの場合第3相試験を経て認可される。第3相試験では数百人から千人規模での治験が行われる。認可には、人種ごとのデータは要求していない。アフリカ系・アジア系アメリカ人が治験患者のうち何%を占めようがかまわない(ただし、医師主導試験で何%が望ましいというのを見たことがあるが)。
この数百人のなかにはアジア系患者が含まれることも多いはずだ。そこで、出来るだけ詳しくこれらの患者の情報を集めることはできないだろうか。この情報は、日本人での安全性を予知する参考になるものと思う。
 多くの薬の代謝に関与しているのは、肝細胞にあるチトクロームP450(C
YP)とよばれる酵素で、57の機能遺伝子がコードしている。そのうち主にC
YP1,2, 3ファミリーのなかの1A2, 3A4, 2D6, 2C9, 2C19が薬の代謝に関与している。
日本人で、どのCYPに遺伝子変異が多いかはほぼ明らかにされている。ただしフェノタイプまで十分明らかにされているとは言い難いが。開発初期段階で、その薬がどのCYPで代謝されるかは明らかにされるので、薬が代謝されるCYPの変異の頻度が人種によって大きく異なるときには、製薬会社はそういう薬は初めから開発しないか、十分予測した上で臨床試験に臨んでいる。
したがって、CYPの違いに基づく深刻な副作用の出現は考えにくいと思うし、日本人であらためて薬物代謝をみる必要はないように思う。ただし、これは専門家の意見を参考にすべきとは思うが。もしどうしても薬物代謝の検討が必要なら、日本血液学会の指導の下、市販後調査時に行えばいいのではないだろうか。
 以上の理由から、少なくとも造血器腫瘍に対する抗がん剤の場合は、米国で承認された薬剤を国内で治験する必要はないものと思う。治験をしなというリスクと、すぐに使えるというベネフィットを比較すると、後者の方がはるかに大きいように思う。

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