2009-02-13
罪と赦すことについて。
あらためて思うのだが、あなたがようやく到達した戦慄とともに感じた罪悪感が、ぼくがずっと言っていた「あなたの酷いこと」だった。やっとその話ができたか、とぼくは安堵した。出せなかった下書きのメールにそのことを書いていた。
申し訳ないのだけれど、ぼくは長いあいだ罪の意識に苛まれながらあなたを愛してきて、あなたの危うさにはらはらしていたのであり、いまになってやっと戦慄したことに気が抜けた。エッジを渡るような危うさを受け止めて、あなたを愛してきたのである。その重さはあなたにはわからない。
そもそも、あなたは汚れた「乾いた大地をひた歩く」などを復活して書かなければ、こんなことにはならなかったはずだ。恨みはきちんとぼくに言えばいい。それなのに、ぼくに見られるのを待って幼稚な“毒“白をネットの全体にばら撒き続けた挙句に、ぼくがそのことに気づいた途端、今度はふと相方に読まれる恐れに慄いて、自分のやってきたことをなかったことにしようと慌てている。
責任逃れもはなはだしい。さらにそれを第三者への気遣いのように奇麗ごとで繕っている。見苦しかった。あなたは結局のところまだ批判の声を弱めなかったけれど、言及していることはすべて、ぼくというより自分に向けて言うべきことじゃないのかな。自省すべきだ。ぼくは最後の文章を読んで、ぼくが愛したひとは、こんなに愚かなひとだったのか・・・と脱力した。自分の犯した責任を第三者への偽善で転嫁するようなひとだったのか、と。
失礼かもしれないけれど、あなたから最初のメールをもらってしばらく、ぼくはずっと距離を置いていたよね。ブログを別の場所に引っ越しても、すぐに伝えなかった。それは盲目的な恋に堕ちてしまうような危険を感じたからだった。節度を保とうと思っていた。
それでも恋に堕ちることはある。このときいちど足を踏み込んだ恋は、ぜったいになかったことにはしない。なぜなら自分に対する欺瞞でもあり相手にも失礼であり、さらに踏み躙ってきたひとにも酷い。あなたが言うように、そんな恋であれば最初からしなければいい。それがぼくの考えていた覚悟だった。
これからのわたしは、寂しいからと言って誰かに縋ること、めちゃくちゃに惚れたからといって周りを見渡すことなく突っ走ることを人生から追い出そうと思っています。
信じられないかもしれないが、ぼくは基本的にはそのスタンスを前提としている。だから恋愛経験も豊富ではない。けれどもあなたを愛した日々を否定しない。真剣だったし、どんなに罪を被ろうとも引き返すことができなかった。必要のない恋愛には堕ちない、寂しさから誰かを求めたのではない、というのはそういうことだ。不倫という言葉で片付けてほしくなかったのも。
ぼくはあなたと家族を分離して考えてきた。汚いといわれるかもしれない。しかし、あなたから何を言われようとも、極力家族の話は避けて自分の相方の話はしなかったと思う。最後のほうには揺らいでしまったこともあったけれど、ブログでそのテーマを扱うこともなくした。薄汚い保身や誤魔化しだと読んだかもしれない。けれどもそれがぼくの考える分別だった。
予測できない惹かれ方で堕ちてしまったあなたへの愛と、守らなければならない家族への愛をきちんと分けること。真剣であるということは、どちらかを選択するということだけではないと思う。遊びではなく、真剣だからこそ、どちらも成立させるようとする生き方もあるんじゃないかな。もちろん成立できないようになったらダメだけれどね。
いつもあなたはだらしなく混同していた。分かつこと、分別がなかった。
そうして挑発するだけ挑発して、煽るだけ煽って被害を蒙るとひとのせいにする。被害者意識のなかに逃げ込む。
いまならわかってもらえると思うのだが、相方にぼくの話をするのは、とんでもない酷いことなんだよ。あなたは嬉しそうに、デートでぼくの話をして盛り上がったということを、不倫相手であるぼくにも報告してくれたけれど、冷めた気持ちでそれを聞いていた。それこそ一途に愛している相方をどれだけ傷付けたことか。誠実に愛しているふたりに対する裏切りだと思う。
そうして、あなたが彼に“抱かれてあげよう”とした日。
ぼくはいまでもあのメールを辛くて読めないので覚えている範囲で語るけれど、あなたは、長いあいだ彼に我慢をさせていて寂しそうだから抱かれてあげた、というようなニュアンスで書いていた。愛情はない、とも。
ぼくがあのときに何度も確認したことを覚えているだろうか。彼を愛しているよね?と。
しかしあなたは答えた。自嘲気味に嗤ってさえいた。愛してはいない、でも感じていたのだと思う、と。
嫉妬で彼に対する愛情を聞いたのではなかった。むしろ彼を愛していると答えてくれたなら安堵した。自分の罪が軽くなるからかもしれない。汚い保身かもしれないね。それでもいい。ぼくはあなたに彼を愛しつづけていてほしかった。もし、あのとき愛している、と答えたら、ふたりの関係は少し変わったような気がする。しかし、あの日からさらに周囲が見えなくなってしまった。何かが壊れたことを覚えている。
理解できないかもしれないけれど、聞いてほしい。
それでも誰かを赦すことができるのが大人だと思う。誤魔化すことでもなければ、不当に正当化することでもない。赦すというのはそういうことだ。
引越しのときにぼくの相方が昔の彼女のセーターをみつけた話をブログに書いた。彼女はひとこともぼくを責めなかった。そしてぼくは約束通りその過去の残留物を捨てた。
わたしが彼に愛していただいたようにあなたを愛せるかと言うと、愛せない。あなたもまたそうではないでしょうか。自分が彼女にしていることをやり返されて、その人を愛せますか?
ぼくは愛せる。ただし、彼女が本気で愛したひとであれば。寂しさや遊びで誰でもいいから恋人を求めたのではなければ。そのことが原因でどんなに酷い喧嘩や諍いがあったとしても、一度赦したら一切それからの人生で触れないと思う。最期までいっしょにいるだろう。きちんと向き合えば、真剣に生きたのであれば、どんなことも肯定できるし赦すことができる。
間違っているかもしれない。でも、いまぼくが考えていることを書いておきます。
ネットに刻み込むために。
もしあなたがAを選択し、お互いに和解できたときは、すべてのエントリを削除し、二度とあなたに関する追及はしないつもりでいた。ぼくらは手を握り合い、赦しながら生きていくことができる。謝罪と償いがあれば過去は清算できる。互いのことを尊重し、愛情があるのなら。そうしてきちんと終わりにする。
しかし、あなたは周囲に対する罪を述べるとともに、いままであったことを無効にしようとした。確かに罪のないひとりを守ろうとしたかもしれない。けれどもそのことは、さらにぼくの気持ちを踏み躙ることだった。潔いとは思えなかった。結局、自分の自立をエゴイスティックに優先して、過去のあれこれや責任を葬り去ろうとした逃げだ。
あなたには覚悟がなかったのだ。覚悟があれば傷付けたひとたちの痛みさえもを引き受けて、さらに真剣に愛した過去を肯定できる。結局のところ、あなたは未来に引き篭もり、現実から逃げている。そうしてブログを消せば罪から逃れられると考えている。
あなたはもうぼくとは無関係だ。無関係の間に何も協調はない。愛ではなかった、あなたを愛してはいなかったと嘯き、過去とぼくを愚弄するあなたに歩み寄る余地はない。
ふたりの罪をネットに刻んでおこうと思います。決して忘れることがないように。忘れられることがないように。
2009-02-12
アーカイブ3
Thank you for let me be myself! 乾いた大地をひた歩く
2009-02-12
お答えします
しかしその前に、すこし書いておきます。
たとえば戦争で片腕を切り落とされながら反撃して相手を刺し殺そうとしているときに、「お願いがあります」と言われて聞き取れるだろうか。
聞き取ろうとして意識を緩めた瞬間に、ぐさりと刺されるかもしれない。刺すか刺されるかの緊迫した状態ではお願いどころではない。けれども、もし双方に少しでも愛情があったとしたら、やいばを振り回す手を止めるかもしれない。
いまはどうなのだろう。あなたの気持ちが知りたい。
ぼくの答えは、返答のどちらかによって決まっている。少しでも良好な関係を取り戻したいならA(だからといってぼくからは頻繁には連絡しないつもりだが。いままでのように)、もはや無関係でさようなら、きっちりと終わりにしましょうというのであればBだ。
この文が指す意味がよくわかりません。というよりは、この文章だけでわたしはあなたの意図を正確に把握することができません。
少しでも良好な関係を取り戻したい
ここだけ読めば「続けるか終わらせるか」と読める。しかしながら、あなたは多分もう私と恋愛関係に戻る気はなさそうだ、というのがあなたのそのブログ(というよりは公開痴話喧嘩でしょうか。余所様から見たらただのイチャついてるカップルかもしれません)を読んだわたしの感想です。つまり「良好な関係」とはかならずしも恋愛関係を指すわけではない。では何かと言われるとそれは読み取れませんでした。
さらに。
もはや無関係でさようなら、きっちりと終わりにしましょう
これは明らかに「今後一切の関わりを断ちましょう」「別々の世界で暮らしましょう」というように読めるのですが、その前の
もし双方に少しでも愛情があったとしたら、やいばを振り回す手を止めるかもしれない。
これが利いてくる。「無関係でさようなら」と言われながらもわたしが不安なのは、Bを選ぶことによってわたしは何をされてしまうのだろう、ということです。
今までわたしたちはどれほど愚かな諍いを続けてきたことでしょう。ちょっとした言葉のすれ違いに過ぎないことに二人とも馬鹿みたいにムキになって、結局なんだか小難しい言葉だけが虚空を舞い散り、話が一向に本質に近付かない。そんな経緯もあることですし、AであろうがBであろうがフラットに読むことはできません。
ですから、わたしが何を答えようともあなたの意図からは外れている可能性がある、ということを念頭に置いて読んでいただきたいと思います。
暗い気持ちをネットの海に投げ続けて、わたしは今、人を傷付けることだけはやめようと思っています。というのは、わたしたちがいままで受けてきた仕打ちも、その結果今現在の寂しい生活があることも、辛く苦しい気持ちも、すべて自分自身がしてきたことだから。わたしたちは自分の幸せのために、そのような気持ちをまったく罪のない人々に丸投げして、かれらのまっすぐな気持ちを踏み躙って虐げてその上にあぐらを掻いて笑っていたのです。
そのことに気付いたとき、背筋に戦慄が走りました。どうして今まで気付かなかったのだろうかと心から後悔しました。そして、気付いた瞬間にこのブログは消すべきだった。不用意にあなたを傷つけるべきではなかった。それも後悔しています。
結局、わたしもまたあなたと話がしたかった。わかってほしかったのだと思います。ただ、そんなことは身勝手だ、自己愛だ、ということもよくわかりました。わたしたちは互いに逃げている逃げていると罵り合っているけれど、それ以前に互いにもっと真剣に向き合うべきこと、もっとも大切な、傍で笑ってくれている人に向き合うことから逃げてきた。その成れの果てでクネクネやってるだけなんですよ。違いますか?
罪深いわたしたちがどれだけ傷つけ合おうと罵り合おうとまったくどうでもいい話です。罪のない人が傷付くことの残酷さとは比べられません。たしかに今更そんなことを言えた立場ではないことはわかっています。しかし、だからといって開き直り続けていても仕方ないのではないでしょうか。
過去を悔やむことをあなたは怒るかもしれない。わたしだって後悔は嫌いでした。だからずっと後悔だけはしないで生きてきた。けれども今、わたしは悔やみます。なぜなら、わたしにとって過去を真剣だったと誇りにすることは、過去の自分を正当化して安心したいという安易な考えに過ぎないということに気付いたからです。汚い自分も自分であると認めることではありません。汚い自分は綺麗な自分であると言い換えて、相も変わらず逃げているだけなのです。
そうして気付きました。どれほど愚かなことを積み重ねてきたのだろうかと。
多くの口喧嘩だって愛から生まれるものではない。自分に都合がいいように相手が動けばわたしたちはそれで満足なわけです。そのことは、あなたのそのブログを読んでいて思いました。ああこの人わたしが不幸せになっても自分が満足すればそれでいいんだな、と。そしてわたしもまた同じです。わたしはあなたのブログを壊したりネット上で名指しで批判をしたことはなくいつも直接言ってましたが、そういう言い訳はもう通用しないでしょう。わたしたちはどこまでも共犯だ。
わたしたちはたしかに真剣に愛し合っていました。本人同士の間では心底真剣なつもりでした。あなたに対するあの気持ちは、いまでも初恋だったと思っています。でもね、気付いたんです。人を犠牲にしたところに、愛などないのです。どれほど高尚な愛を夢語ろうが、わたしたちが踏み躙った人々の愛の深さには勝てない。わたしが彼に愛していただいたようにあなたを愛せるかと言うと、愛せない。あなたもまたそうではないでしょうか。自分が彼女にしていることをやり返されて、その人を愛せますか?
たとえば女にとって、綺麗な花束より、官能的な言葉より、汚れた下着を自分で洗ってもらうことのほうがどれだけ愛情深く感じられることか。相手の気持ちを慮っていると言えるのか。毎日汚れた下着を自分で洗ってもらえさえすれば、記念日の花束など要らないのですよ。愛しているなどとわざわざ言っていただかなくても、相手の深い愛を疑ったりはしない。「記念日はこまめにしておいたほうがいいと思うから、はい花束」とか言われたら花束もらっても嬉しくないです。花束なんてかっこつけて自己満足ですね楽しそうですねよかったですね、と思います。
男性であればこれが、仕事への労いだとか感謝の気持ちを表明してもらうことになるのかもしれません。多分、いちいちありがとうとか愛しているとか言われなくても、「お疲れ様」の一言が自然に出てくる相手なら、愛情を疑ったりしないでしょう。逆に言えば仕事への労いがなければ、どれほど感謝していると言われたところでその言葉は意味を成さないでしょう。「今日テレビで労いだけはしとけよって言ってたからそうすることにした、お疲れ様」とか言われたら腹が立ちませんか?はいはい良い妻ごっこですか楽しそうですねよかったですね、ですよね?
汚れた下着を洗わされ続けること、労いの言葉をかける気持ちも伝えてもらえないことがどれほど屈辱的なことか。愛情のないことか。そんな相手の気持ちを黙殺して、わたしたちは恋だの愛だのとほざいていたのです。
恋愛の本質は麻薬のような多幸感ではない。相手が何を考え、何をすれば喜ぶかを“正確に”把握して行動に移し続けることではないかと考えます。わたしたちには、それがなかったんじゃないかな。
始めから添い遂げる気のない恋愛などすべて遊びだ。わたしたちは始めから愛し合ってなどいなかった。勘違いしていただけなんだ。そんな当たり前のことを、今は強く認識しなおしています。そして、そんな身勝手さからたくさんの人々の気持ちを踏み躙って黙殺してきたことの罪を悔いています。
あなたがわたしを恨む気持ちはよくわかる。わたしだってそうでした。結果的にはわたしのリアルだけがぶっ壊されて、あなたは買ったばかりの大きな一軒家に住みやさしい奥様と可愛い子供たちに囲まれて赤ちゃん言葉をヘラヘラと喋ってるのかと思うとハラワタが煮えくり返りそうな気持ちでした。しかし、わたしもまた加害者なのだから、もうあなたを恨むことはありません。対話は不可能だし、わかっていただこうとも思わない。どうして壊されたほうの自分が家庭持ちのあなたにこれほど責められるのか、とすこしは思いますがそれでも恨みません。身から出た錆ですね。
もう二度と同じ過ちは繰り返したくない。これからのわたしは、寂しいからと言って誰かに縋ること、めちゃくちゃに惚れたからといって周りを見渡すことなく突っ走ることを人生から追い出そうと思っています。だから、しばらく独りです。まずは独りで生きていけるだけの生活力と精神を身につけ、他人様に迷惑をかけずに生きられるようになる。そうなったときにはじめて、恋愛のことを考える資格ができるのではないかと思います。まあ、その「しばらく」が何年になるのか何十年になるのかはわからないですけどね。ブログタイトルはそのような意味を込めてつけました。
わたしたちの会話のすべては不毛だと思っています。もう恋愛だろうがネットの付き合いだろうが、金輪際あなたとは関わりたくありません。そんなわけで、遅ればせながら、答えはBです。
やっと対話になった。
返信と回答ありがとう。ぼくもまた憎しみでおかしくなっていたと思います。文章のおかしさはその通りだと思う。伝わらなければ答えようがない。
ようやくすっきりした気分になってきました。というよりも、あなたの書き込みさえなければ、こんなブログも書きませんでした。いいですか? あなたがこれを書かせた。そうして、ぼくもまた現実に生きていて、下着を洗うひとの大切さぐらい十分に理解しています。いまは、そのひとの隣りで眠っていて、あなたと過ごした時間で失ったものを修復しつつある。
その上でさらに言いたいのですが、花束を贈ることの大切さも理解している。人生には汚くて辛いこともある、というのは当たりまえの前提でしかない。愚痴なんて放っておいても出てくる。排泄物のようなものです。そんなリアルを前提として、リアルを越えたもの、比喩として記念日の花束のようなものが必要になる。そのことをぼくは実践しています。水面下でもがく汚さは露出していないとしても。というのは、汚さは周囲を不快にすることもあるからね。このブログもそうかもしれないのだけれど。
きっと、あなたにはみえていないことがたくさんある。当然でしょう。それだけの時間を生きてきたのだから。個々が泥沼を生きながら掴みとってきた生き方の尊厳について、軽々しく批判するべきではないとぼくは思います。それはぼくも自戒している。あなたの生き方を批判するつもりはありません。あなたの生き方を尊重する。
ただ、あなたと違うのは、寂しさを埋めるために相手を求めたのではなかった、ということでしょう。ぼくは、しあわせでした。家族にちいさな不満はあったとしても、それすら自分の人生として抱きしめることができていた。必要のない恋愛をすることはなかったし、紳士としての節度も保っていた。あなたに会うことで自分を失ったけれど後悔していません。あなたのように過去に唾を吐いたりはしない。きれいごとだと言われようとも。
1ヶ月ばかりあなたと会話せずにいて、まっとうな幸せをあらためて掴めそうな時期にいました。リハビリの期間だったかもしれません。ここにもメインのブログにも書いていないのだけれど、何度も自省しました。きっとあなたもそうだったのだろう。長いひとりきりの時間を過ごして、これならきれいにさよならを告げられるかもしれない、いままでの一切を謝罪できるかもしれない、というぐらいに立ち直りかけていました。
そのときに知ったのがあなたのブログでした。酷かった。しかしネットはそういう部分もあるだろうなと許容しました。そして、あなたの心の穢さにきちんと向き合った。憎しみとはこういうものだったのか、狂気とはこういうものかと。
わかろうとする気持ちはいまでも変わっていません。
しかしながら、ぼくもあなたにもう関わりたくなかったんですよ。何度そう思ったことか。あなたから離れたかった。相方との関係をぶち壊してしまったすまない気持ちが、引き止めていたのかもしれません。随分苦しめただろうし、謝罪していないことを追及されていたから。そうして、あなたを責めるのではなく、ほんとうに罪悪感を抱いていたことを、そしてその気持ちを正確に伝えることができなかったことを後悔しています。
残念ですね、ほんとうに。
さて。もう少し書きたいことがあるのですが、あなたと違って明日の仕事のために睡眠をとっておかなければならないので、途中ですが中断します。急ぎました。文章のおかしいところはご容赦を。
ぼくは眠りますよ。安堵して、ぐっすりと。
だからあなたも眠ってください。今日の書き込みはここまで。もうグーグルリーダーが光ることはありません。おやすみ。
快晴の朝に。
おはよう。すっきりとした目覚めです。朝日がまっすぐに差し込んでくる。
消してしまったね。せっかく第三者に「かわいた大地をひた歩く」の成れの果てを消し去って、あなたがネットの暗い海にはき続けてきた汚物を帳消しにするチャンスだったのに。そうやって、あなたはいつも辛さから逃げてきた。しんどいことだったかもしれない。ぼくもまた辛かった。もう少し付き合ってほしかったけれどいいでしょう。説明できていなかったことを語ることにします。自分のためでもある。このブログを作ったのは、あなたとの対話だけではない。自分の考えを深く掘り下げるためだったのだから。
とはいえ、グーグルリーダーについて。
ひたすら怖い。グーグルリーダーが光るたびにぞっとする。きっと今日は眠れない。あなたもきっとこんな気持ちだったのだろうね。あなたの攻撃とわたしの攻撃には雲泥の差がある、とはいえ。
失礼だけれど少々おかしかった。笑ってはいけないね。
自分に責任があるのではないかな。リーダーを読みにいかなければいい、それだけのことです。
ぼくはリーダーを自動更新させないようにして、自分が確認したいときにチェックします。自分の意思で読みにいく。というのは、集中してエントリを書くなどしたいときに、気が散ることがあるので。自律して確認している。
たぶん依存や自制にも関わることかもしれない。タバコやお酒もそうだけれど、ついつい手が出てしまう、逃れられないという状況はあるでしょう。しかし、自分の意思で喫んだり呑むことができれば、呪縛からは自由になる。恋愛もそうかもしれない。反省するところではあります。
ついでに、残念ながら「あなたもきっとこんな気持ちだったのだろうね。」ということはなかった。というのは、あなたの「乾いた大地をひた歩く」の存在に気付いたのが、このブログを再開した2月3日だったからです。その後の更新は、ほとんどなかったと思う。だから、穏やかに過去を眺めていました。
AとBの選択については、少し長くなるので帰宅してからにしましょう。やはり選択するのはBだと思いました。だから、ぼくの対応も間違いではなかった。理由はまた後で。
最後のエントリから。
少し冷静になりました。昨日、そして今日の朝にも、ぼくのなかにはまだ憎しみや恨みが残っていたようです。だから感情に濁りがありました。けれども、いま理性と正しい気持ちが戻りつつあります。AとBの命題については保留にして、あなたが書いてくれたことの本質について語らせてください。
想像ですがあなたは、やっぱりわかってくれなかった、と思ってブログを消したのでしょう。しかし、その短絡的な姿勢はもう少しだけ我慢してほしかった。待ってほしかった。もう少しお話しませんか。まずは少しずつ、ぼくの考えを読んでください。
+++++
あなたの言葉を拾っておいてよかったと思います。最後の文章を一日よく読み直しました。ものすごくよくわかります。共感した。絶賛するのもおかしいけれど、そうだよ!それを言いたかったんだよ!と思いました。ぼくが感じていたこと、あなたにわかってほしかったことを正確に射抜いているとともに、ぼくの感じていた罪悪感もよく表していました。憎しみで目が曇っていたけれど、ぱあっと晴れるような気がしました。
言わなかった、言うのを控えていたのだけれど、書きますね。
否定的であったり嫌味ではなく聞いてください。あなたは、いまとなってはひとりきりで罪悪感を感じていればよいと思います。自立のための準備をしていればいい。別れてしまった彼氏を踏み躙った罪の意識があったとしても、二度と傷付けることはない。あのブログの存在さえ知られなければ、ネットとあなたの記憶の闇のなかに葬り去ることができる。誰も傷付けない。
でも、ぼくはどうだと思いますか?
ぼくは自分の相方と子供たちと、いまでもいっしょに暮らしているのですよ。あなたが考えているほどぼくは非情であったり、鈍感な人間ではありません。少なくともそうではないように生きていきたいと考えています。罪によって織られた針の筵の上で生活しているようなものです。それこそ無間地獄です。終わりはない。子供じみた恋愛の報いをぼくもまた受けているのだと感じています。一生続くのでしょう。でも、後悔はない。引き受ける覚悟です。
たとえば、ぼくの息子が入院して、点滴の管でつながれ、半分濁った目で毎日泣きながら入院しているとき。家族たちは必死で安否を気遣い、病院で夜を過ごしていました。そうしてぼくもまた、忙しい仕事を終えて、全速力で自転車をこいで病院へ直行していました。
でも、そんなときにぼくは何をしていたでしょう。あなたに会って、あなたを抱いていた。自分の快楽だけを求めていた。誰にも気付かれずに。必死になっている家族全員を裏切って。
人間の道を見失っていました(実際に、あなたと何度も道に迷ってしまったね)。なんて卑劣な人間だ、と思ったら、胸がひしゃげるようだった。アタマのなかが真っ白になって何も考えられなくなった。確かにあなたと会っているときは楽しかった。二度も会うことができて、しあわせでした。しかし帰宅して、ぼくは自分の酷さに落ち込みました。あなたのことも考えなきゃと思ったのですが、そんな余裕もなく、さらに落ち込んでいった。それがあなたの言う空白だったかもしれません。ぼくにはもう、カルトでもなんでもすがれるものにすがることができればよかった。
ぼくだけではなく、あなたもそうだったのかもしれないですね。父親のこと、親戚との諍いなどがあったと思います。ただ、あなたは逃げないできちんと向き合った。その点はぼくとは違うかもしれない。
ぼくもあなたも現実で、罪を背負って生き続けている。そのことに気付いていなかったわけじゃないんですよ。ぼくはかなり冷静にそのことを考えていました。
こころの裏切りをモノで補うのはどうかと思いますが、その対価が必要ではないか。そうしてそれが、家であると考えました。だから決断しました。家を買おうと。
自由は奪われるでしょう。お金を運ぶだけの存在にもなる。けれども不誠実さを償うには何かが必要です。であれば、ぼくはその責任を負おう。家を買うことは、ぼくにとってはまったくしあわせではなかった。本音では家なんてほしくなかった。しかし裏切りの代償です。高い代償になってしまったけれどね。
罪は消えません。けれども償うことは可能だろうし、受け止めることもできる。そして、安易に忘れるのではなく背負いつつ一歩違った形で踏み出していくことができるのではないか。そんなことをとりとめもなく考えています。
+++++
まずはここまでにしておきます。けれどもぼくは、そしてあなたも、罪だけにとらわれていてはいけないと思う。周囲を踏みにじった恋愛の罪を乗り越えて、これからあなたとどのように付き合っていきたかったか、ぼくがあなたに犯した罪をどのように償いたかったか、ということも説明させてください。それがよいかどうかはともかくとして。
ひとを憎むのも、恋愛について考えるのも大変だ。大変だけれど、あなたが思うよりも少しだけ、ぼくは真面目に考えていると思います。そんなところもわかってください。酷いところもたくさんある。常軌を逸しているかもしれない。でも、それほど下劣でもないんですよ、実は。
自制と汚れものを洗うこと。
周囲を薙ぎ倒すような強い愛情もあると思うけれど、ほんとうに大切なのは淡々として生活のなかで持続していく愛情かもしれない。
愛情というのは寄り掛かるものではないね。親しきなかにも節度は必要です。それが結局、汚いものを他人に押し付けないで自分で処理する、ということなんだと思う。確かに汚さばかりを突きつけられたら不愉快だ。
たとえば女にとって、綺麗な花束より、官能的な言葉より、汚れた下着を自分で洗ってもらうことのほうがどれだけ愛情深く感じられることか。相手の気持ちを慮っていると言えるのか。毎日汚れた下着を自分で洗ってもらえさえすれば、記念日の花束など要らないのですよ。愛しているなどとわざわざ言っていただかなくても、相手の深い愛を疑ったりはしない。「記念日はこまめにしておいたほうがいいと思うから、はい花束」とか言われたら花束もらっても嬉しくないです。花束なんてかっこつけて自己満足ですね楽しそうですねよかったですね、と思います。
労いの言葉を決してかけていなかったわけではなかったつもりだけれど、伝わらなかったのだと思います。
汚れた下着を洗わされ続けること、労いの言葉をかける気持ちも伝えてもらえないことがどれほど屈辱的なことか。愛情のないことか。そんな相手の気持ちを黙殺して、わたしたちは恋だの愛だのとほざいていたのです。
汚れ物を洗うこと。それは、過去の汚さを洗い流すことと言い換えられる。清算するともいえる。一回きりでは終わらない。何度も続けてこそ意義があります。そもそもぼくは洗いものを受け取ることさえしなかったのかもしれないし、お互いに汚いものを押し付けるだけ押し付けていたような気もする。
そういう意味でぼくは怠惰だったね。自分自身の洗いものを処理できないばかりか、あなたの洗いものを引き受けとらずに、付き返していたのだろう。洗ってやったよ、という態度でもいけないのだろう。
ただ、ぼくはあなたの言葉にどこか寒々しいものを感じました。それについては触れないでおきます。
2009-02-11
乗り越えよう。
憎しみの嵐が吹いた。そしてまだ割り切れたわけではない。あなたの卑怯な仕打ちを忘れないし、また復活させるかもしれない。揺らいでいる。なぜなら、不信感があるからだ。けれども乗り越えよう。
乾いた大地をひた歩くひとへ
結局あなたは、ぼくに対する謝罪もなければ愛情もない。ぼくは殺伐とした気持ちであなたの見苦しい弁明を読んだ。
発言に責任を持て、とあなたはぼくを批判したことがあった。そうやってぼくを追い詰めた。違うだろうか。あなたは責任を持ってブログタイトルに「乾いた大地をひた歩く」を使い、ぼくに酷い毒を吐き続けてきたのではなかったか。あなたはことばに責任を持っていなかったのか。
第三者ではないだろう、あなたの元相方がこのタイトルを知ったら傷付くのではないか。悲しみとは何だろう。あなたは何を悲しんでいたのか。悲しみがあるとすれば、自分の不遇を自己愛として悲しんだのだろう。ぼくを悲しむことはなかった。
ぼくを傷付けるという目的を果たしたから、エントリを消したのだろう。そうして今度は、元相方のことを気にしている。勝手なひとだね。
そう、あなたはぼくよりも元相方を大切にしていた。いつもいつでも。まあ当然だろう。ぼくなんかは遊びに過ぎなかったのだから。ちっぽけな自分の存在などは、束の間の退屈を埋めるための存在に過ぎなかった。忘れ去り、いずれは消し去るための玩具にすぎなかった。
あなたが告げた愛情は、嘘と偽りに塗り固められたものばかりではなかったか。というのも、あなたは必ず相方の話からブログをはじめる。いまのブログにおいても、ふたりで行ったパスタ屋からはじめられている。いつでも相方に読まれることを想定しているのではないか。途中から、どうでもいいぼくの話が増えてきたとはいえ。そうしてぼくについての言述は一切消去した。理由はわからない。しかし、元相方が訪問したときの保身だっただろう。もう消してしまったから無関係だ、と。
ミニブログで泣きやすい相方の話をしていたときもそうだった。それなのに、ぼくのためにミニブログをはじめた、としゃあしゃあと語っているのを聞いて、ぼくは冷め切った気持ちで、ほんとかよ、と白けたのだ。彼氏の話からはじめてどこがぼくのためだったろう。あなたはいつも保身からはじめていた。
あなたはずっと自分のことしか考えていなかった。自分の快楽しか求めていなかった。ぼくのことすら考えていなかっただろう。さまざまなことを思い出す。あなたはぼくと話をしながら相方とも話をしていた。ぼくと逢瀬をしていながら、相方に弁明のメールを打っていた。ぼくにはみせつけるように親しげに、あてつけてきたよね。いまもそうだ。元相方を大事にしたいから、過去ブログのタイトルは出さないでほしいと勝手に言っている。そうやって煽っている。あなたと付き合っていた長い時間、どれだけ耐えていたかわからないだろう。あなたは、なぜ耐えられないのか、嫉妬は稚拙な感情ではないのか、とぼくを批判さえした。
嫌がることを強制すれば不快になる。たとえば、アナルに指を突っ込まれたら嫌だろう。ぼくは、ぼくと会っているときには相方の話をしないでほしいと懇願しつづけてきた。それでもあなたは、わたしはこういうひとなの、気にならないからあなたもすればいいじゃん、と言って理解してくれなかった。そうやって、あなたはアナルに指を突っ込み続けてきたのだ。ぼくが嫌がっているにも関わらず。
あなたはブログで薄汚いものをぼくに見せつけ、永遠にぼくを苦しめるつもりだったのだろう?であればブログは消すな。あなたはブログですらも傲慢に見下している。そうして都合が悪くなればまた、自分に都合のよいように片付けるのだろう。
ぼくは逃げない。あなたが逃げないと誓ったからだ。ぼくの冷め切ったこころをあたためることができたなら考えよう。しかし、まだぼくは納得できない。
あなたの愛情は、もう冷め切ってしまったのだろう。であれば、ぼくを説得することはできない。あなたに愛情が残っていれば、ぼくもこの冷え切ったこころからあなたへの想いを再燃させて、あなたが辛くないように考えることもできるのだが、無理だよね。
あなたはまだ自分がどれだけ酷いことをしてきたか、きちんとわかっていない。いつもそうだ。ぼくだけではなく、常に周囲の人間を裏切り、傷付けてきた。その幼稚さを指摘しても、わかろうとはしなかった。自省がなかった。
あなたはぼくを愛していたのか。憎しみから生まれるものが、世界をどう変えていくか、そんなこともわからなかったのか。これがあなたの憎しみから生まれた終末だ。あなたがそう望んだからぼくもこうなった。
いいか。あなたは自分で「ぼくに対する怒り」つまりぼくのせいだと書いておきながら、過去ブログのタイトルを消してほしいという勝手なお願いをすることで、ぼくをさらに深い闇のなかへ落とし込み、傷付けている。どこまで、ぼくを愚弄すればいいのだ。いま、ぼくのなかに怒りが止まらない。
あなたの文章を読んで、ぼくに対してすまないと思う気持ちは微塵も感じられなかった。愛情とその謝罪のこころがあれば、ぼくも考えたかもしれない。しかし、あなたはまたぼくを裏切った。
人間だから、あたたかいこころはある。しかし、いまのぼくのこころは冷め切っている。あなたのせいで氷のように固く、閉ざされてしまった。ぼくは罵られ、きつい批判をされながらも、あなたへの愛情を消さないように、なんとかあたたかいこころを持ち続けようとしてきた。しかし、あなたがこうさせたのだ。ぼくを変えてしまった。
・・・言っても無駄だね。あなたには一生ぼくの気持ちはわからないだろう。そうしてわかろうとする努力を断ったのだ。ぼくが辛くても頑張って続けようとしていたときに。
説明するのも疲れてきた。どうでもいいよね。あなたがそう言ったのだった。
ブログとリアルは。
分離できるものではない。書いているひとの背景には現実が広がっているし、読み手の背景にも現実が広がっている。増田などに夢中になっているから、匿名性の罠にはまるのだろうが、それこそ自己責任を軽んじている。
あなたは個人を特定してエントリを書いてきた。ぼくにわかるように。ブックマークでも感情を煽るような言葉を幼稚にも展開してきた。リンクがあろうとなかろうと、その事実は消せない。そうして他者の幸せのためという大義のもとに、自分に非があるにも関わらず、都合の悪いエントリを消去し、タイトルまでも変えたのだ。あなたにとっては下衆であり虫けら同然のぼくを傷付けるだけ傷付けて謝罪も無く、目的は達成したあとで責任を逃れて、はぐらかそうとするために。それが保身ではなくて何だというのだろう。
もし罪の意識が少しでも残っているのであれば、消去したエントリを復活してほしい。あなたは自分の発言に責任を負うべきだ。そうすればぼくも考えるだろう。
しかし、あなたに踏みにじられた傷はこれからも癒えない。
揺れている。
混沌とした思いのなかで、もう少し考えてみよう。話すことができればいいのに。一方的に行き場のない思考を加熱させるのは危険だ。尋ねたいことはたくさんある。伝えにくいこともあるだろう。話し合うことで気持ちも変わるかもしれない。とはいえ、もうそのラインは閉ざされてしまった。
考えてみると無関係なのだから、こだわる必要もないのかもしれない。
そういうことか。
ぼくに関する記述を全部削除したのは、旧ブログのタイトルで検索してやってきたひとたちが、隠されていた事実に気付くことを恐れたからだろう。削除したエントリは復活できないね。しかし、これはやはり保身だと思う。酷いことを書いておきながら、他者を傷付ける責任から逃れたいという保身だ。きっと、傷付けることに心を痛めているわけではない。傷付けることによって生じる責任から逃げたいだけだ。
自己防衛だったり、保身だったり。やれやれ。
あなたは逃げないといいながら、いつでも逃げている。リアルから逃げてネットであれば何を言ってもいいと思ったのか。その逃走がリアルに影響を及ぼさないと考えていたのか。
罪のないひとを傷付けるのが辛いなんて、偽善的な言葉はやめていいんじゃないかな。あなたらしくない。そのことによって自分が傷付くのが嫌なだけだろう。しかし、誰でも自分が大事だ。
少し落ち着いてきたよ。しかし、どうするかは自分で決める。
戦争のなかで。
ふたりには長い口論があった。原因はぼくに問題があることもわかっていた。しかし、泥沼のような状態にありながら、ぼくはあなたが考えていたことを理解することを諦めなかったし、強いことばで反論したことはあっても話し合いたかった。きちんと話を聞いて落ち着いたところで、謝罪すべきことは謝罪しようと考えていた。そのための準備をしていた。
誠実さとは何だったのか知りたい、とあなたは書いていたね。あのとき、というよりもその前のメールで告げていたはずだ。少し距離を置くこと、それがぼくの考えた誠実さだった。しかし、あなたは失ったものの代償に我慢がならなかったのだろう。だから新しいブログで批判を書き続けていた。いつかぼくに突きつけようとして。
愛情がなくなった、無関心だ、と書いていたから、まさかぼくに対する暗い感情を1ヶ月ものあいだネットの全体に向けて書き綴っていたとは想像もつかなかった。ブックマーク(これもきちんと読んだ)でも、あてつけているのは凄いと思った。大学の授業に集中して、卒業に向けて頑張っているのだと想像していたのだ。そんなわけで、ときどき無邪気にエールを送ったし、ぼくもまたネットから離れて自分の世界を掘り下げようとしていたのだった。
ぼくは甘かったのかもしれない。いつか和解できると信じていた。それは再び関係を元に戻すことではなかった。けれども深く惹かれあったひとなので、きちんと想いが処理できると思っていた。
蓄積された暗い感情を受け止めようと努力したのだが、1ヶ月分の怨念のようなもの?が昨夜に突然ぼくを襲ってきた。それはほんとうに襲ってきたといっていい。意識がとんだ。怨念というものは凄いと思った。満月のせいだったかもしれない。人間がぶっ壊れるような感覚だった。狂気だ。
たとえば戦争で片腕を切り落とされながら反撃して相手を刺し殺そうとしているときに、「お願いがあります」と言われて聞き取れるだろうか。
聞き取ろうとして意識を緩めた瞬間に、ぐさりと刺されるかもしれない。刺すか刺されるかの緊迫した状態ではお願いどころではない。けれども、もし双方に少しでも愛情があったとしたら、やいばを振り回す手を止めるかもしれない。
いまはどうなのだろう。あなたの気持ちが知りたい。
ぼくの答えは、返答のどちらかによって決まっている。少しでも良好な関係を取り戻したいなら「A」(だからといってぼくからは頻繁には連絡しないつもりだが。いままでのように)、もはや無関係でさようなら、きっちりと終わりにしましょうというのであれば「B」だ。
乗り越えようと思う。どちらであれ。Aか、Bか、答えてください。もし読んでいるのなら。
試すのはやめた。
あなたを試して、合格、不合格というのは悪趣味すぎる。ぼくの考えを言おう。きっと答えるつもりもないだろうから。
自分から終わりにしましょうと告げたにも関わらず、あなたはブログで批判を続けていた。直接、ぼくに不満を言うのならわかる。しかし、できなかったのだろう。たぶん煽ることになる。メールのやりとりは危険だったかもしれない。
ぼくはもう1通だけメールを送ると約束していた。けれども送るのを躊躇った。というのは、1通目に送ったメールの返事を読んで、これは冷静な話は無理だな、と思った。というのは、あなたからの返事は誤解が解けたかどうかより、感情的な批判と恨みの話ばかりだったからだ。
そのことばも受け止めようと思っていたし、もっと聞きたいと考えていた。しかし、理解を閉ざしてしまったのは、あなただ。
さようならを告げて終わったと割り切ったのなら、恨みつらみを言うことはなかったんじゃないかな。すっぱり意識を変えればいい。あなたはぼくからメールを貰うと揺らぐと書いていた。だから送らないでおこうと思った。時期は伝えなかったけれど落ち着いたときに送ろうと思っていた。しかし、自分の気持ちを聞いてほしかったのであれば、時間を置いたあとで直接話しましょう、といえばよかったのに。ぼくは、どんな形であれ続けたいと告げていたのだから。
どんなに酷いことがあっても、人間は赦すことができる。人間関係を持続させる上で大事なことであり、相互的な信頼があってはじめてできることだ。
しかし、無関係の他人どうしではできない。もし他人が攻撃を仕掛けてくるようであれば、防御するなり戦うなりしなければならない。自分を傷付ける敵を赦せるほど余裕はない。そこまで人間はできちゃいない。
あなたのお願いを叶えられるとすれば、ふたりに相互的な信頼があってこそのことだ。しかし、信頼を失った相手に対して、お願いを受け入れる余裕はない。もはや関係ないからだ。関係ない人間に憐憫はかけられない。
いいやつでいようとしたけれど、壊れた。やさしいはずのこころが冷え切った。そもそもあなたが下衆だ、情けないといっていた人間だ。期待しないでほしい。
過去をなかったことにはできないし、あなたに対する罪悪感に苛まれているとき、さらに突きつけられた酷い文章は、ぼくには赦せる範囲ではなかった。赦そうと何度も努力した。けれどもそのことばから立ち直ることがいまはできないでいる。
だから、あなたのお願いはのめない。拒否する。
申し訳ないけれど、あなたは自業自得だと自分でも述べているし、甘んじて受けることも書いている。なので「乾いた大地をひた歩く」は消さずに残しておきたい。
けれども時間が解決してくれることもある。時間の流れのなかで憎しみや恨みも薄れていくかもしれないし、あなたのこれからの態度や書いたものを読んで、頑ななこころも変わっていくかもしれない。そのときにはきれいにエントリは消去するだろう。二度と酷いことは書かない。
ほんとうはこんな気持ちになる前に、あなたからなにか一言ほしかったのだけれどね。しかし、もはやコミュニケーションするつもりもないのだろう。だいたい、きちんと話すつもりがあれば、ぼくにみつけてもらうために影でこそこそブログを書くような陰険なことはしないはずだから。
恨まれて仕方ないと思う。でも、あんなブログのエントリさえ書かなければ、もう少し我慢すれば、あなたは解放されるはずだったのに。
メインのブログからは気付かなかったかもしれないけれど、1月は自分にとっても苦しい時期だった。自分がしてきたことの罪の意識を高めていたし、遠い場所で頑張るあなたを応援していたし、春が来るのを楽しみにしていた。
残念としか言いようがない。
ちなみに。皮肉なことだけれど、ぼくはあなたの「乾いた大地をひた歩く」というブログタイトルからそこを見つけたんじゃなかったんだよ。prrooiだった。アナグラムだろうと思っていたのだけれど、意味があるのかな、と好奇心が起きたのだ。
余計な好奇心が、面倒なことにつながることもあるんだね。
2009-02-10
夜中にぼくは。
かつてぼくには心底惚れた女性ブロガーがいた。ぼくのブログの黒川伊保子さんの本の感想にコメントをくれたことがきっかけだったが、どんなことを書いているのだろうと彼女のブログを読みにいってみると、好きな洋楽を中心に詳細な記事を書いていた。完璧な文章だった。
自分も洋楽は好きだけれど、ここまで徹底的に書くことはできない。インディーズのアーティストに対する情報が詳しい。というのも英語ができるひとなので、海外のサイトから直接情報を入手していた。レベルの高い音楽仲間が交流し、一部では有名だったようだ。
あとは、絵画とか建築とか。レヴィ・ストロースなど思想に関する記事もあったような気がする。洗練されたインテリジェンスに溢れた文章に打ちのめされた。抑制された気品の高さにまいった。
いまでもときどき影から覗きに行く。やはり大好きな音楽についての文章を書いているのがうれしい。けれどもぼくには、かつてのように強い感情は生じない。こころの水面を掻き乱すような想いはない。
いまぼくは思う。あの狂ったように焦がれた気持ちは何だったのか、と。ぼくは二度しか彼女に会ったことがない。そうして思うのだが、ぼくは彼女をほんとうに愛していたのだろうか。ブロガーとして彼女が書く文章に焦がれていたのではないか、と。
けれども、あなたは違う。あなたの文章を読みたくない、と書いてしまったが、ぼくが伝えたいニュアンスには合っていない。だから間違いかもしれない(と、書くとあなたは、言っていることを挿げ替えようとしているといつものように批判するかもしれないが)。読みたくないわけではないし、むしろ読みたいのだが、つまりはこういうことだ。
あなたとは“話がしたかった”。
対話したかったのである。一方的に書かれた完成度の高い記事を読む、ということではない。やりとりをしたかったのだ。
チャットで、メールで、そして直筆の手紙で、あるいは電話で。1対1で語り合いたかった。何時間でも話をしていたかった。身体を重ねることでも伝えたり受け取ったり対話を求めていた。だから会いたかった。あなたに会いたいと思った。焦がれるほど会いたかった。というのはどんなにレスポンスがよくても、ネットではリアルタイムとはいえない。考える瞬間のタイムラグが発生する。その距離がもどかしい。近づけない。
ブロガーとしてではなかった。現実を生きるひとりの女性として、ぼくはあなたを求めていた。ブログを一方的に読むのではなく、読むことによって絶えずコメントをしていたかった。だからぼくは膨大なテキストを書いたのだと思う。そして、あなたからの膨大なテキストを読んだのだ。楽しかった。いくらでも書けたし、いくらでも読めた。
メルヴィルと漱石を論じたエントリ、ものすごく興味深かった。ぼくはこのエントリが大好きだ。気に入っている。コメント欄を開けているのに誰とも対話したくないなどと嘯いて、斜に構えてネットで引き篭もったポーズをするエントリよりも数倍よかった。狂気について、あるいはシラフでいることの強さについて、もっと話が聞きたい。これはどういうことなの?と教えて欲しいし、自分も文体の乾きについて考えてみたい。漱石が世界をどのようにして見ようとしていたかについて考えて、わかったことを語りたい。きっと創造的な対話ができそうな気がする。
深夜に疲れて帰宅して台所のテーブルにコンビ二弁当をひろげ、携帯電話でチェックすると、あなたはいつもぼくに話しかけてくれた。今日もお仕事おつかれさま、と。あのさりげないひとことで、どれだけ救われたか。ことばで救うなどということを命題として掲げたぼくが、何度も何度もあなたに救われていた。レトリックも気取りもないたった一行のテキストで。あのことばに敵うことばはない。
リアルタイムのあなたを知りたかった。あなたが感じていることを伝えてほしかった。いまこの本読んでるよ、このピアノトリオを聴いてる、こんなことで嫌気がさしてる、こんなことで辛いよ、雪が降ってしあわせ、などなど。ブログではなくてもいい。ブログであってもいい。ただ一方的に閲覧者として読みたいのではない。現実に生きるひとりの人間として話をしたい。ぼくもまた声をかけてあげたかった。面白そうだね、それなんてアルバム?、よしよし大丈夫だよ、いっしょに雪を眺めたいね・・・。
ほんとうのことを言おう。
憎しみと怨みを学ぶ。
狂気なのだろうか。これがあなたの言っていた狂気なのか。満月の帰り道を歩きながら、ぼくのなかで何かが弾けた。とめどなく暗い感情が溢れた。
いいひとだった。かつてのぼくはすべてを赦し、分別のあるいいひとであろうとした。けれども、あなたはぼくの幸せを壊さないと誓ったにも関わらず、暗い批判を知らない場所で書き続けていた。酷くないか。反省もしていないだろう。そのことを知って、ぼくのこころのなかで何かが壊れた。しかもあなたは何もなかったようにすべてを削除して、まったく新しいタイトルできれいなままブログを続けようとしている。あんなに酷い言葉を突きつけて、さんざんぼくを傷付けたにも関わらず。
あなたがぼくに関する記述を削除したのは、自己防衛のためだろう。たとえば、ぼくが自殺をしたとする。そうすればあなたの常軌を失った文章が問題になる。だから削除したのであって、誓ってぼくに対するやさしさや配慮ではなかった。しゃあしゃあと新しいデザインで、何もなかったかのようにすまして保身を図るあなたが憎い。ほんとうに憎い。自分の未来しか考えていないあなたを怨む。未来をぐちゃぐちゃにしてやりたい。
いまぼくは憎しみと恨みを学ぶ。震える手でやっとのことで、自制している。あなたが教えてくれた。ひとを憎むこと。怨むこと。ぼくはこころも身体からも血を流しながら、やっとのことでそのことを学んだ。いままでのぼくは清く純粋でありすぎた。ありがとう、憎しみを教えてくれて。
あなたのことばが憎い。真剣に愛したぼくを嗤った不誠実さを呪っている。
人間らしくなってきたよな、ぼくもやっと。あなたのおかげだ。あなたが暗さを教えてくれた。救われない気持ちを教えてくれた。
アーカイブ1
Thank you for let me be myself! 乾いた大地をひた歩く 2009-02-01
経過
わたしがこのブログを書き始めたのにはいくつかの理由と目的があった。
まずはこのブログを見つけていただくこと。わかりやすいようにしたのはそのためだ。
それから、かれがわたしにしたように、見たくもないほど薄汚れたものを見続けていただくこと。
その延長線上で、わたしの恨みがどれほどかということを知っていただくこと。
そして最終的には、棄てられること。寄ってこられても迷惑だからだ。
しかし何よりも、もっとも大事なことは、わたしが味わったあの恐ろしく混沌とした何かを知り
決して忘れることなく、保ち続けること。取り込むこと。だった。
だが今はそのようなすべてがとてもむなしく感じる。
緊張状態は長くは続かない。憎む気持ちもなくなった。
わたしが何を失おうと、かれがどのように薄汚く保身に回ろうと
もっとも怠惰で穢れた存在としてわたしの目の前にあらわれても
どれほどの嘘が、思い出すたびにあざやかになってゆこうとも
そのことによりわたしの自尊心が傷つけられることはなくなった。
かれとわたしには、関係がないからだ。
そのことに気付いたのが数日前だった。
ああ、もうかれがどれほど最低な人間であっても
わたしには関係ないのだな、恥ずかしくないのだなと感じて
なんだか幸せになった。
どうして誰もが自分を責めるのだろうと悩んでいるだろうか。
もっと酷いことをしている人もいるのに、と。
しかしきっと原因を突き止めることはできないだろう。
そのことも、わたしにはもはや関係がない。
すべてが、どうでもよくなった。
人を憎むのもひと苦労である。
1月が行った。
先月中にカタがつくかと信じていたのだけれど、つかなかった。
というより、もしかしたらもう終わっているのかもしれない。
どっちでもいい。
アーカイブ2
Thank you for LET me be myself! 乾いた大地をひた歩く 2009-02-04
乗り越える
ふと、覗いてみた。難儀な時代だと思う。覗こうと思えば簡単に覗けるので。
実際のところは当人にしかわからないことだけれど、すくなくともわたしからみたら幸福そう、というより、なんかおめでたい感じは伝わってきた。心からよかったと思った。
上手く言葉にできないなにかにわたしは囚われていたようで、その何かがずっとわたしをかれに「関係させていた」ような気がする。それが何であるかは正確に書きとめておくことができないけれども、現在進行形の愛情と呼べる代物ではなかったのだろう。それゆえに、もう自分には「関係がない」のだと気付いたことが、思いのほか心を軽くしてくれた。
そんな過程を経たとき、幸せだった思い出が走馬灯のように溢れかえった。そんなに美人でもないわたしを何度もかわいいと褒めてくれた。コンプレックスまみれの身体を綺麗だと言ってくれた。今更そんなことを男の度量だと言うつもりはさらさらないにしても、もはやありがたいとさえ思った。いつだったか数日前、そんなことを思い出しながら密やかに泣いた。
その翌日、夢を見た。とても愛しいだれかに、ねえ時間ってどんどん過ぎてゆくんだね、いろんなひとの人生があって、いろんなひとが感じて考えたことをきっとわたしたちも感じて考えているんだね、時間ってすごいね、歴史ってすごいね……みたいなことを一方的にマシンガントークしながら感極まってわんわん号泣している夢だった。寝覚めが非常に良かった。悪夢以外の夢はいつぶりだったろうか。
泣いてすっきりしたからと言って愛情が戻ってくるわけでは決してない。むしろ影から覗いたかれの姿は相変わらず酷いものだったし、共感するどころか嫌悪感しかなかった。しかしながら、そこに憎しみがない。もはや嫌悪でしかないのだ。非常に嬉しいことだと思う。
一時かれの見苦しい姿を目の当たりにしたことで心底落ち込み、恐怖すら感じたことがあった。的確に表現するのが難しいほどわたしのなかでは根深い問題なのだけれど、見苦しい姿とは、自分の行動に対して自覚がないような状態を指す。そんな姿を見てわたしは、「かれ」という人間のなかにどこかぽっかりと空白があり、その空白を目の当たりにしてしまった、見てはいけないものを見てしまったという感覚に陥った。震えるほど恐ろしい体験だった。
同様の恐怖感はかれ以外の人間……いや、個人に感じたのはかれ1人だけれど、ある種の総体にも感じる。たとえば、百貨店で服や靴やバッグを吟味する同じ顔をした女達。ネットで言うと、さもしいライフハックや根拠のゆるいポジティブシンキングに群がるブックマーカーを見たとき、だろうか。『日本語が亡びるとき』が図書館ですら手に入らなくなっているという事態を耳にしたときもすごく怖かった。もちろん1人ひとりにはそれぞれの思いがあって行動していることだろうから、単にわたしが総体としてそう感じるだけのことである。
上手く表現ができないので喩えが悪いけれど、その恐怖感のようなものはわたしが虫嫌いであることに繋がるような感覚がある。わたしがなぜ虫が嫌いなのかというと、とにかく脆いからだ。どんなに可愛らしい蝶でも間違って羽を触ってしまうともう飛べなくなる。バッタは少し強く持ってしまうと潰れて死んでしまう。そのようにして飛べなくなった蝶や、無残に潰れてしまったバッタを見たときのような恐怖感をかれの中に見た。
一部の識者(指揮者?)を除いては、どこの世界でも正しい判断などなされていないと思う。正しい判断を下し、自ら思考するためには実は長い準備期間が要る。表面的な「知」(もうこんな陳腐な言葉もかっこわらいにしたいぐらいだ)などで埋めようとしても埋まらないことなど、本当は気付いているのではないか。気付いているのに気付かない振りをする。気付かない振りをして忘れようとする。そして忘れる。自分の非を認めないし、いつまで経っても自省しない。そしてふたたび、何かのカルトのようなものに依存する。そんなかれの姿がわたしには「空白」であり「虫」であり、恐怖だった。
酷いことを言っているとは思うけれど彼は怖かった。もう笑うしかなかったこともあった。そんなことは生まれて初めてのことだった。初めて感じる得体の知れない恐怖から、少しの笑いだけがわたしを救ってくれた。ユーモアというものはなんと優しいものだろうかと思った。しかしそんなことも、いまはもう薄れつつある。かれがどうあれ、辛さを感じることなく生きてゆけるなら、それを責める気はないし正そうとも思わない。ただ、自分はそのような、なんだかわからない「もの」にはなりたくない、とにかく関わりたくないとだけ思う。
そんなところで少し同情のような気持ちが沸いたけれど、わたしが同情したところでどうなることでもない。
いろいろな愛があるけれど、強い愛情から強い憎しみを経て、憎しみが薄れた頃には愛情も消えている、このような恋愛もあるのだなと思った。かれはわたしの人生から出て行った。異常なまでに惹かれあい、心の底から愛した人だったのでしばらく辛かった。世の中の人々は失恋をどうやって乗り越えているのか知りたいと思うけれど、とんと想像がつかなかった。しかし、やってみるとわかる。こうやって乗り越えていくんだな人は。
今はただ、かれに幸福でいて欲しいと思う。といっても、正直に書くとそんなに綺麗な感情ではない。ただあちら側が幸せであればわたしに害が及ぶ可能性が少しでも減るだろうという自己防衛的打算と、他国の貧困を憂うように、自分の労力さえ使わなくて済むのであれば悪口は言わないというごく普通の人間の心理であるに過ぎない。さすがに自分の人生をぶっ壊した下衆に祈る甲斐性などないが、「関係のない」他人であれば幸せを祈ることもできるのだ。
もう起こそうとしたりはしない。眠っていればいい。夢を見ていればいい。それが本人にとって幸せなことなのだろうと思うし、関係がないのだから放っておいてもわたしが害を被ることはない。苦しみから逃げる人を責めることはできないが、追いもしない。そのまま、幸せに暮らして欲しい。
しかしわたしは忘れない。かれから学んだこと――良いことも悪いことも――決して忘れない。きっと良い肥料になる。それどころかもしかすると、自分はこんなに情けない人間だから嫌ってくれと身を挺してメッセージを送ってくれているのかもしれないとすら感じる。そうであれば、かれはヒーローに違いない。
わたしは現実を生きる。わたしは、逃げない。
2009-02-09
しっかりしろ自分。
会議で新規開拓のための戦略を熱弁し、面接で志望者に事業のこれからを語り、3時に遅い昼食をとって、カタチのみえない企画を形にするために打ち合わせをする。傍目には、しゃきっとしたビジネスマンだろう。けれども、こころのなかでは、あなたの罵声が止まらない。下衆だとか、情けないやつだとか。ぺちゃんこに塞いだ気持ちに耐えながら、蔑みの言葉がエンドレスで続いている。俯いて、仕事を投げ出してしまいそうな弱さを叱咤する。しっかりしろ自分。
過去に吐いた汚いことばは消去して、まっさらな白いデザインに変えて、新しいタイトルやブックマークのコメントであてつけて、苦しむぼくを嘲笑えばいい。さぞかし気持ちいいだろう。
けれども、いちど発したことばは消えたりはしない。キャッシュに残ったあなたのことばを拾い集めて、ぼくは何度も読み直している。楔のように自分の胸に打ち付けて、こころから血を流し続ける。愛情の枯れたあなたの乾いた大地を、ぼくの血でしっとりと潤せばいい。自分の恨みが達成したよろこびに酔えばいい。もはや無関係な虫けらのように脆いぼくが苦しむ姿は楽しいだろう。幸せなんてこころにもないことを願うな。いまぼくが置かれた状況が、あなたの望んでいたことなのだから。
正気を失いかけた眩暈のなかで、それでもぼくは必死で堪えながら想う。
彼女の痛みは、この程度のものだったのか。まだ、とばぐちに過ぎないのではないか。もっともっと辛くて暗い日々を過ごさせてしまったのではないか。謝罪に至るまでには、まだ苦しみが足りないのではないか。自分の犯した罪はこれで軽減されるのか、消えることがあるのか。
いくらでも痛みを受け止めよう。逃げずに、誤魔化さずに。そうして乗り越えよう。痛みに顔を歪めながらも微笑むために。
彼女を愛している。二度と会えなかったとしても、ぼくの気持ちに揺らぎはない。
2009-02-08
深く、丁寧に、ゆっくりと時間をかけて。
未熟な時期の愛は挿入をもって終わる。体液を放出して自分の満足が得られたならそれでいい。しかし、成熟した愛はそこからはじまる。愛する誰かを征服することが目的ではない。
触れずに、抱きしめないで、焦らして、我慢ができないぐらいに愛情を高めていきたい。いちばん感じやすいところを回避して、何度も耳元でささやいて、こころの熱さがしっとりと身体を火照らすまで全身に指を這わせたい。
あなたのなかで、深く、丁寧に、ゆっくりと時間をかけて、愛を持続させていく。やさしく、激しく、規則的に、不規則に。あなたの高まりが、世のなかの憎しみや蔑みを忘れてしまうぐらいに。感じて欲しい。かつてない高まりで、ぼくの名前を呼んで、強く離さないで背中に爪を立てて欲しい。愛し合った瞬間を永遠に忘れないように、あなたに刻み込みたい。
溢れるだろう。こころも、そして身体も。すべてを受け止めて、混じりあう。あなたはぼくに隷属し、けれども自由だ。ぼくも自由であり、けれども生涯あなたに仕える。安心とやすらぎに抱かれて、微笑みをもって世界をみつめるだろう。自分の考えに勇気をもって、正しきものを正しさとして語るだろう。距離を保ち、節度をもって、ぼくは二度と未来を壊さない。壊した過去をしっかりと抱きしめて、あなたへの強い愛に変える。
自由に生きること。自信をもつこと。あなたがあなたであることがぼくを微笑ませる。たくさんのしあわせな時期があり、同時に、たくさんの諍いの時間があった。歴史のなかに収束していく刹那をぼくはいたずらに追いかけたりしない。100年の年月のなかへ、100年は数億年の時代のなかへ。打ち寄せる波が書かれた文字を消してしまっても、ぼくらの愛は唯一のものだと信じよう。他のなにかに変えがたいものであることを証明しよう。
あなたは忘れない。そうして忘れないことを忘れる。いくつもの試練は時間のながれのなかで変容し、淡く、大気中に拡散した粒子のように包み込む。ぼくもまた忘れない。やがて、忘れないことを忘れる。それでもあなたはずっとここにいて、あなたをぼくは抱きしめていたい。
不安を忘れて、ぼくの腕のなかで眠れ。あなたの髪を撫でて、ぼくは愛を守る。奪うのではなく与えつづける存在として、深く、丁寧に、ゆっくりと時間をかけて、あなたを強く抱きしめていたい。
倦怠感。
満たされない気持ちのために、後ろめたい何かばかりに向かってしまって倦怠感に襲われている。ひとりじゃだめだな。こころは別の場所にあってもいいよ。あなたがここにいてほしいよ。
明るい日差しのなかで抱き合った日を思い出す。ただ、あのときにこころが離れかけていたことは気づいていた。だから動揺していた。せつなかった。
懐かしさというより、いまでも現実のようにあの時間がここにあるのが不思議だ。部屋のレースのカーテンから差し込む日差しを眺めていると、いまでもぼくはあの場所にいる。少しアタマがおかしくなってしまったんじゃないかと思う。
愛するものを手放しなさい。
引越しのために本を片付けているときにみつけた。
いまは文庫にもなっているようだ。
やさしい内容のため1日で読んでしまったのだが、感動した記憶があった。どこに感動したんだろうと思って指を差し込んだ場所に、次のような引用文があった。「独占欲ってなんですか――読者との往復メール」という部分だ。
彼氏にふられた読者Aさんのメールに、山田ズーニーが返答する。読者Aさんは「とんでもない闇」に放り込まれ、独占欲とはなにかということを尋ねる。その返答が次のことばになる(P.65)。
なんの、答えにもならないのですが、私は、執着心で苦しくてしかたがないとき、友だちがくれた、ある本の一節を読むようにしています。
その友だちは、クリスチャンなのですが、宗教を持たない私の心にも、この言葉はしみました。答えに代えて、書いておきます。
これは愛とはいえません。
愛するものを手放しなさい。
もし、そのひとが戻ってこなければ、
初めからあなたのものではなかったのです。
しかし、戻ってくれば初めからあなたのものだったのです。」
読者Aさんは長い手紙を彼に対して書こうとする。100枚の便箋を使って、最後に彼女が書いた手紙は次の3行だった。
「あなたがあなたらしく生きる道を
私が塞いでいるのであれば
それは私自身がそれを許さない」
ことばは饒舌である必要はない。最終的に到達することばは、要約され、想いが凝縮されること。
弁明ではなく。
辛い話から逃げていたわけではなかった。きちんと聞きたいと思っていた。けれども、自分のなかに批判が生まれたり、でもそういうあなたは・・・のように話を挿げ替えてしまうとき、つながったラインを閉ざしてしまう。だからゆっくり距離を置いて話をしようと思っていた。お互いを煽るような状況だったのは確かだろう。そんなときに大事な話はできない。あなたの辛さや考えていたことを聞き、すべてを受け止めるためには、こころの準備がいる。そうでなければまた、表層的にはぐらかせてしまうのだから。
たぶん急ぎすぎたのだと思う。自責の念と同時に、他人を責める気持ちも同時に存在する。信じられないかもしれないけれど、自分もまた多くのものを失い、苦しみ辛い時間を過ごしていたのだ。その状況下で、内容のない明るいエントリを書くことによって、ぼくは救われていた。ネットで酷いことを書くのと変わりはない。一日のうちの数時間、能天気な空っぽのブログを書くことが、ぼくを救う唯一の時間だったのだ。
それとは別にこの場所で、彼女を想うポジティブな気持ちを書きとめることで、責めるネガティブな感情を解消しようとしていたのだが、表面的にみればそれは不誠実に読める。しかし、そのことばの背後にはやりきれない現実があった。被害者意識はぼくにもあった。いったんすべて吐き出さなければ、終わらないような気もしていた。だから相方のことに触れたのであって、根深く執着していたわけではない。思っていたことをすべて伝えたなら、もう二度と触れないと考えていた。
それはきっとぼくだけではない。あなたもそうだったのだと思う。
しかしながら。
試験が終われば、あなたも解放されるだろう。関係をやり直したりする打算なしに、応援している。どういう状況になっているのか知る手段もないが、試験がうまくいくように。卒業式で晴れ晴れしい笑顔をみせてくれる日を待っている。これ以上、未来を壊してしまったら、自分もやりきれない。
だからほんとうは、静かに何も告げずにいたかった。しばらく距離を置いて、あなたが集中していることを邪魔したくなかった。しかし、ネットは難儀だ、と書いていたけれど、その通りだね。気になれば覗くことができてしまうのだから。
がんばって。もう少しで終わる。苦しみは永遠に続かない。辛さもきっと和らぐだろう。未来が待っている。はるはすぐそこまで来ている。
2009-02-07
空虚という過剰。
ぎゅうぎゅう詰めに悩み事を処理しようとすると人間はどうなるか。
わかったことがある。アタマが空っぽになるのだ。
明日までに急ぎで処理しなければならない仕事のこと、仕事の未来のこと、仕事のなかで生じる陰険なやりとり、毒のあることば、能力を超えた課題、会社の複雑な人間関係、ポジションのあれこれ、物理的な引越し先の家のこと、自分の相方のこと、家族のこと、髄膜炎で入院した家族の一員のこれからのこと、お金のこと、入院のために来てくれる相方の親のこと、うまくいかない人間関係、食事のこと、食事を切り詰めて会いに行くための旅費をためること、自分の親のこと、親から聞かされる親戚のアルツハイマーのおばのこと、ブログのこと、音楽のこと、趣味のこと、映画のこと、同時に並行して読んでいる本のこと、血を垂れ流しながら生きている自分の健康のこと。
そして、いちばん大切な誰かのこと。
うまくいっているときはいい。でも、嘘を責められ、不誠実であることをなじられ、過去に遡って過ちを追及され、復讐され、蔑まれ、あてつけられ、ののしられ。それらはすべてぼくがしてきたことである。だから抑止できない。やめてくれ!と言っても否は自分にある。確かにそうだ。けれども、ぜんぜんまいっていないわけじゃなかったんだよ。嗤われようが、信じられなくてもいい。すまない気持ちは十分に感じていた。痛いほどにあった。ただ、そのことを告げるタイミングを失っていた。批判は止まらない。ぎゅうぎゅう詰めの思考のそのなかへ、さらに言葉が詰め込まれていく
おまえはタフだな、ブログも書いて音楽も作って仕事も頑張って彼女もいる、絶倫じゃね?と友人に言われたのだが、そんなことはなかった。オーバーフローだったのだ。メーターは振り切れていた。壊れていた。壊れていることにさえ気づかないぐらい感覚が麻痺していた。
ごめん、話す力がない、という弁明を数時間かけてメールやブログに書き込んでいた日々。気が付くと、1行だけ打った携帯電話の画面を眺めて1時間ぐらい経過していた夜。それがふつうだと思っていた。しかし、いまならわかる。異常者の一歩手前だったのだ。
そうしてわかる。そんなに頑張らなくてもよかったのだ。疲れて苛立った書き込みをするぐらいであれば、静かに沈黙して、やさしい言葉をかけることができるぐらいまで待ち、落ち着いたあとで話をすればよかった。それが自分を大切にすることでもあり、ふたりの関係を大切にすることにもなる。もちろん相手も大切にしている。そうすればよかった。
本気で誰かと付き合おうと思うと体力も精神力も必要になる。時期も悪かった。いろんなことが同時に次から次へと自分を翻弄する時期だった。気が休む暇がなかった。今度は何だ?と呆れるぐらいに難問がやってきた。やっと楽しい時間が過ごせると思ったら入院事件があったりもして。
深夜の日付変更線あたりに帰宅して、コンビニ弁当をひとりで食べるようなハードワークがつづいても、全然平気だった自分である。それがいますっかり力が衰えてしまった。積み重なった疲労が癒えることがない。
でも、後悔はしない。こころの寂しさを埋めるために誰かを求めようとは思わないが、本気で何かに関わることは人間をとてつもなく成長させてくれる。細胞の組成が変わってしまったようなよろこびをくれる時間。そんな時間のためであれば諦めない。
やっと余裕ができた。いろいろなことを考えている。
空っぽなまま、ぼくは生きていく。夢なんて一度もみたことがなかった。夢のようなことを書くのは、一度も夢なんて信じたことがないからだ。あなたとは違う生き方かもしれない。けれどもぼくもまた現実を生きている。
それでもいま、すがすがしい気持ちでいる。あなたがブログを復活してくれたからかもしれない。
思考がクリアだ。淀みが、ない。
要するに・・・よく寝たからかもしれない。
よかった。
うとうとと心地よくまどろんで起きてみると、彼女のブログで乗り越えるエントリが消えている。よかった。あの言葉をぶら下げたままでは、あなたのためにならない。そして、ぼくも思考を進めることができない。
ぼくもまた、あなたのブログは読まないから安心してほしい。いずれ書くけれど、想い続けることと書かれたものを読みたいと思うことは違う。正直に書いてしまうと、あなたを愛していたとしても、書いたものは読みたくないと感じていた。しかしながら排除もしない。書かれたものは、とてもあなたらしいと思う。暗さや憎しみに満ちているところは、あなたの本質が表現されている。ぼくはそれを批判したり、たしなめたりはしない。許容できる。
しかし、きちんと告げるのを随分ためらっていたのだけれど、そういう意味では、ぼくが心底惚れたブロガーの女性と、あなたは違う。確かにあなたをきちんと見ていなかった。ぼくはかつて出会った理想の女性ブロガーの卓越した姿勢を、あなたに重ね合わせていたのかもしれない。あなたにはそれがない。でも、いまの姿こそが現実に生きるあなたであり、そんなあなたが好きだった。センセイや節分の話などにも、ちょっとだけ和んだ。あなたには別の何かのイメージを負わせたり混在させてしまっていたね。申し訳ないことです。
それにしても寒い。あったかい布団に潜ろう。土曜日のイベントが待っているので、もう少しだけ眠ろう。
救済よりも、受け止めること。
ことばで誰かを救済できるなんて本気で信じていたわけじゃない。しかし、なぜそんなことを考えはじめたのだろうと根源的なことを思い出していて、気が付いた。
ぼくは、あなたを救いたかったのだった。
社会全般のみえない誰かなんて、どうでもよかった。メインのブログで、毎晩遅くまで眠れずに、ときに足の痛みや不整脈や体調不調を訴え、楽しいこともあるけれど暗い思考の堂々巡りをさせているあなたを、なんとかして救いたいと思ったのだ。ちょっとでもこころが軽くなるように気の効いたことばを告げたり、あなたが喜ぶのであれば、なんでもしようと思っていた。そのために音楽もプレゼントしていた。
自分の才能で救えるなんて思っちゃいない。奢っている。傲慢なことだけれどね。でも、何かせずにはいられなかった。
しかし救うどころか辛い気持ちに突き落としているだろう。ぼくのことばはあなたを苦しめている。それが善意から発したものであっても、そうではなくても。そしてあなたを苦しめることで、ぼくもまた苦しんでいる。
気が付いた。救うことなどできない。できないのだけれど、あなたを受け入れること。それが大事ではなかったか。そのことができていなかったのではなかったか。
あなたの辛さを受け止めてあげること。そのままのあなたを、それでいいんだよ、と認めてあげること。あなたが考えていることをすべて批判や解決などの横槍を入れずに静かに聞くこと。聞いて理解し、自省したり自戒して、謝るべきことに対してはきちんと謝罪すること。態度をあらためること。その場を繕うことばで回避しないこと。わかってもいないのに、聞いてもいないのに、表層的な何かを語ろうとしないこと。時間をかけないで、社会のどこでもある既成のことばを借りてきて答えないこと。自分のことばなんかじゃないのに、引用で語ろうとしないこと。
あなたが注目しているお気に入りのブロガーたちのことばを、妥協ではなく、そういう考え方もあるね、でもこうも考えられないだろうか、と話し合い、あなたが書いたものを読んで、よければいいと、わからなければわからないと、不快であれば不快だと、よくなければよくないと、素直な感想を告げること。それでよかったのではないか。
黒川伊保子さんの本に書いてあったことを思い出した。あげてしまった本だったかもしれない。
いまの若い女の子たちのことばは乱れている。しかしその現象だけに着目して、日本語の乱れとして憂い、正そうとするのは、辛い現実をもっと辛くすることに過ぎない。というのは、若い女の子たちは、酷いことばを使うことによって、行き場のない想いから救われている。毒を吐くことによって辛さを解消しているのだ。その救済の場所を奪うことは、彼女たちが苦しみから解き放たれるための手段をなくすことに等しい。酷いことばを使わなければならない背景を理解し、そのために何かを考えることが大事なのだ、と。
あなたが窮屈だったのは、毒を吐ける場所をぼくが奪ってしまったからではないだろうか。ぼくが受け止めてあげなかったからだ。同様に、ぼくもまた窮屈だった。行き場のない思いをどんどん溜め込んでいたから。
後悔している。もう読んではいないかもしれないけれど、もっと考えていきたい。
やっぱり違う、不合格、と言うかもしれない。そんなの欺瞞だよ、だからあなたは偽善者なんだよ、もういいよ、と溜息をついて非難するかもしれない。まったく、とんちんかんな方向へ思考を展開させてしまうかもしれない。それでもいい。遠い場所で、距離を置いて考えつづける。
そういう愛情のかたちがあってもよいのではないかと思う。
クールダウン。
明け方から書いたものを少し修正。浮わついた気持ちを抑える。真剣に考える。たぶんまだ表層でしか考えられていない。もっと深みに入る必要がある。
当事者であることは大事だが、対象化が必要。これはすべての創造性にもいえることかもしれない。あった事実をそのまま記述する場合は、リアリティには優れるけれど、べたべたな事実の繰り返しでしかない。過去のことをうまく語ることができるとすれば、過去がきちんと対象化されているときだ。
この試みに真剣に取り組む。いまはまだ自己愛の範疇から抜け出せていないと感じた。ぼくが目指すところは、ここではない。
2009-02-06
2009-02-05
春がくれば。
オフィスのエレベーターで同僚の女性と一緒になり、寒いねえと言ったら「でも日曜日にはあたたかくなるみたい。春らしくなるらしいですよ」と返事をされて和んだ。「冬が長いですよね」と溜息をつくので、でも冬が長ければ春は・・・と言ってことばに詰まった。春がくれば?どうなんだろう。わからない。
内臓から血が止まらない。腹部の鈍い痛みを抱えながら仕事をしている。女性でもないのに毎日血を流しながら仕事に向かう。血液検査で毎年、鉄分が減少するのも当然だ。これだけ血を流しているのだから。
数年前から腎臓結石なのか何なのか、背中に激痛が走り、年に一度は救急車のお世話になっていた。最近では救急車に乗ることもなくなって、ごついサスペンションの感覚も懐かしい。とはいえ、目に見えない場所で症状が悪化しているのではないかと思うと、少しばかり不安になる。
薔薇の名前にちなんだ東京のホテルで、遠い南の場所から空を飛んでやってきた彼女とはじめて会ったときにも、地下鉄のなかで鈍い痛みを感じた。緊張のせいか、背中が痛くなる予兆のようなものがあった。いつものやつだ。ホテルに着いて彼女が階上の部屋に行って、相方とか家に電話やメールを送っているあいだ、ぼくはホテルのロビーのエレベーターの奥にあるトイレに入って、ひとりで丸くなって苦しんでいた。
なおれー、なおれー、大事な日なんだから痛くなるなー・・・と、こころのなかで何度も繰り返した。というか、実際に声に出して呟いていた。脂汗が何度も額に浮かんで、ぼくはハンカチでそれを拭った。
しばらくすると痛みがなくなってきたので、ロビーに戻って、深くソファに腰掛け、拳骨を背中に差し込んで痛みがおさまるのを待った。マクドナルドの社長の本を読んでいたのだけれど、内容はちっとも覚えていない。それどころじゃなかった。彼女が顔を出したときには、痛み20%ぐらいにおさまっていたので、ほっとした。でも痛みのあまりに駅の改札を間違えたような気もする。
同情や心配をしてほしくない。そういう意味で語るのではない。健康管理も自己責任のひとつだから、きちんと医者に行かないぼくが悪い。
けれども、みえているものだけが現実ではない。そうして、ブログなどに書かれているものだけが現実ではない。どんなに明るいことが書かれていたとしても、ぼくの生活が明るいとは限らない。書かれているもの、みえているものは氷山の一角だ。あるいは月の裏側のようなものが確かに存在する。
月の裏側をぼくは知らない。けれども太陽が当たらずに地球からは観測もされずに、暗いまま日の当たらない月の裏側も確かに存在する。明るいことを書いていても、こころでは泣いていることもある。そういうことは不誠実なのかもしれないが、やりたくなくてもそうなってしまうことがある。
隠していたわけではない。知ってほしいとも思わなかった。彼女がしあわせな時間を過ごしてくれたなら、ぼくはどんな我慢でもしようと思った。その日は特別な日だった。下見までしていた。羽田に向かうこころの踊る気持ちをぼくは覚えている。会いたい気持ちしかなかった。世界はいちばんシンプルで、不安も猜疑心もなかった。
愚痴で本音を語ればいいというかもしれないけれど、愚痴を素直に語れるひとは、結局のところ強者だ。語りたくても語れないひともいる。愚痴に関していえば、弱音を吐けない人間は弱者だ。愚痴は安心する、語ればいいじゃん、というのは強者の思考であり、いや、そういっても・・・という人間も存在する。
頑張れといっても頑張れない人間がいるのと同じことだ。愚痴を聞いてほしいのだけれど、いざとなるとなぜかこころを開いて語れない、頬がこわばってしまう不器用な人間だっている。決して、寡黙であることを男の美学にしているわけではない。語りたいけれど語れないのだ。
ブログという場所で、ネガティブな愚痴を奔放に語れるのは、しあわせなひとたちである。ほんとうに救わなければならないのは、そういう弱い内面を告白することもできずに、リアルで俯くひとたちではないだろうか。行き場のないことばをもてあまして、発言する声を失っているひとではないだろうか。
薔薇の庭園という名前のホテルで、キャンドルをはさんでしあわせな食事をした彼女は、いまはもう遠い存在になってしまった。彼女が、ぼくの不誠実さと恨みを責めてきびしい批判をしたメールを、ぼくは携帯電話の画面メモに保存して、一日に何度も読み直している。棘のようなことばが、ぼくを完璧に痛めつける。そうして罪の意識に傷付き、愚かな自分の行為を呪い、戻すことのできない時間を悔やんでいる。無間地獄のように、救われない闇のなかで。
毎日血を流しているのは、身体だけではない。ぼくのこころもまた、血を流している。あの日からずっと。止まることなく。
重ねて繰り返すが、同情や心配は不要だ。むしろ自分の未来をぶっ壊したぼくという人間が、苦しみのあまりにのたうち、背中を丸めて顔を歪めているところを想像して嗤え。その快感に心を軽くしてもらえたなら、それほどぼくにとって幸せなことはない。
それでも、この血を流す自分のこころと身体に宿る感情は、どうやら愛なのである。すっかり変容を遂げてしまったけれど、ぼくはまだ彼女のことを愛している。
終わらせないと決めたからかもしれない。あるいは往生際が悪いだけかもしれない。試験がうまく終わることを祈り、寒さに震えていないだろうか、体調がおかしくなっていないだろうか、きちんと眠っているだろうかと心配している。
春が、くるといいね。
あなたが幸福になれるのであれば、季節はもっと早く変わればいい。
2009-02-04
完璧なセーターのある風景。
年末に引越しをした。結構大変だった。新居と旧居にわかれて、携帯電話を無線代わりに搬入と搬出の手配をしていたのだけれど、旧居のほうの片付けは相方に任せて、自分は新居の荷物の誘導を担当した。すると、相方から電話が。
「あのう・・・」なんだか言いにくそうである。
「どうした?」と訊いてみると、ぼそぼそと告げた。
「手編みのセーターが出てきたんですけど、これは捨ててもよろしいのでしょうか・・・」
一瞬、何のことかわからなかった。けれども思い出した。自室に積み上げた荷物の奥深いところに、学生時代の彼女からもらった手編みのセーターを隠しておいたのだった。ずっと捨てられなかった。開けちゃったのか、あれ。冷汗が出た。しかし気を取り直して言った。「・・・いいよ、捨てちゃってください」
動揺から落ち着きを取り戻しながら、鮮明に思い出した。テニスのサークルで知り合った4つ年下の彼女だった。父親は大学教授で、年に2度はヨーロッパに旅行をしていた。ドイツ語を学んでいて、ミヒャエル・エンデが好きだった。絵も描いていて、美術部に所属していたかもしれない。そんな彼女がクリスマスにくれたセーターだった。着るのが躊躇われるぐらい、ものすごく明るい黄色の。
いろんな記憶がよみがえる。雪が降った日、大学の近くの区立図書館ができるはずの空き地で、立ち入り禁止の柵のなかに入って、ふたりで雪だるまを作って逃げた。
クリスマス・イヴの日に彼女をぼくの部屋に呼んで、そこで初めて彼女を抱いた。ぎこちなく彼女のなかへ身体を沈めた。思い出していた。キャンドルを灯してケーキを食べながら話したこと。きょうはおとうさんの誕生日なの。ぽつんと零したことばに、後ろめたいような済まないような気持ちを感じて、彼女をぎゅっと抱きしめたのだった。
ぼくに抱かれたあとで、彼女はみるみる美しくなっていった。ぼくが彼女を変えたのか、彼女が内側から変わっていったのか。彼氏であるぼくが動揺するほどきれいになった。別人のようだった。大学の図書館で待ち合わせたぼくは、佇む彼女の姿をみて少しだけ足がすくんだことを覚えている。
真剣に愛さない恋愛はひとつもない。いつでもぼくは好きになったひとを全力で愛している。けれども真剣だからこそ、辛い別れをいくつも経験した。楽しかった日々とともに、辛さもまた思い出す・・・。
引越しの翌日、旧居の掃除に出かけた。がらんと何もなくなった部屋の中央に、ポリエチレンの袋に入って黄色いセーターがあった。どこもほつれていなければ、黴さえもなかった。100%完璧なままのセーターだ。彼女が編んでくれた時間が、そのまま捨てられていた。窓から差し込む明るい日差しに守られながら。
斜めの日差しに埃が舞う部屋のなかで、ポリ袋の口をぎゅっと結ぶ。すると記憶の明るさが少しだけ翳ったような気がした。
蛇の足と書いて。
引越しが終わって顔を合わせても、相方はひとこともその件について触れなかった。そして自分も当然のように弁明しなかった。関心がないのかもしれない。あるいは、冷め切った関係かもしれない。しかし、執拗に問い詰められなくてよかった。済んでしまった遠い過去を追及されても不毛でしかない。それはもう終わってしまったことなのだ。遠い、おとぎ話のように遠い過去に。
新居に変わるとき、相方とは大きな喧嘩をした。崩壊の一歩手前だった。ぼくにはいっしょに人生をやり直してもいいかもしれないという女性がいて、もう少しですべてを話してしまうところだった。けれども話せない打算的な自分に対して、酷い自己嫌悪と絶望感と自暴自棄に陥った。廃人になるところだった。
この人生の選択が妥当かどうか。きっと誰にもわからない。誰にもわからないことは、ぼくにわかるわけがない。
敬虔に、永遠のように。
鳥たちが求愛のために囀るように、愛情を歌に託すのは生命にあらかじめプログラムされた機能なのかもしれない。
数多くのラヴソングがアーティストによって作られ歌われてきた。しかし、きみが好きだとか、愛しているとか、直接的なベタなことばよりも、少し婉曲に、あるいは高尚な愛をうたった曲のほうがいい。
そう、ジョン・レノンのように。
繰り返される、愛とは・・・ということば。愛は現実であり現実が愛。それは触れることであり、辿り着くもの。尋ねるもの。フィル・スペクターによるシンプルなピアノの伴奏とジョンのギター。愛のない凶弾という暴力に倒れた彼の歌声がせつない。
敬虔な祈りのように。そして永遠に続く時間のように。繰り返されるリフレインが耳に残る。こんな風に静かに誰かを愛し続けていたかった。憎しみや蔑みから遠く離れた場所で。
2009-02-03
さて、というわけで。
睡眠は大事だ。ここ数日、しっかりと眠っている。たぶん土曜日あたりからずっと。深夜に起きることもない。夢をみることもない。犬のように眠って、すがすがしい朝を迎える。昨夜は仕事でくたびれて早く寝すぎてしまった。なので早朝に起きて書いている。書くのは楽しい。何時間でも書ける。
別の場所で書いているものもあるのだけれど、とても窮屈になってしまった。もともと窮屈なことを書こうとしたわけではなかった。しかし、何年も書き続けているといろんなお叱りを受けることもあり、余計な指摘をいただくこともあり、また読んでいるひとのことを考えなければならず、自由に書けなくなってしまった。
それはそれでいいんだけれどね。あちらでのスタイルに不満があるわけではない。仕事に制限があるように、ブロガーにも制限がある。制限のなかで最大限できることを成し遂げるのがプロだ。また、ブロガー=実際の自分ということは有り得ないし、ブロガーである自分なんて一日のうちのたった数時間である。それが実際のおまえだと思ってもらったら困る。ほかにならなければならない役柄もいっぱいあるし、自分の時間もある。だからかまわないと思っている。
けれども、もっと自由に書きたいことを書きたいと思いはじめた。もともと自分は、丁寧なことばを使って書くようなやつではない。当然、いいやつでもない。批判したければすればいい。それが自分だ。
自分であることを大切にしたい。なので書きたいように書く。
愛について書こうと思う。
ここはそういう場所にしたい。といっても、愛なんてこっぱずかしい。なのできっと愛以外のことも語るかもしれない。天気とか、何を食べたとか、オンラインの場で起きたあれこれとか、無作為に。それではふつうの日記か。まあいいか。
とにかく気取らずに書く。本音で。そのうち愚痴もきっと垂れる。