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2008-05-23

あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞

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ケーキを売ればいいのに 三宅秀道さん

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127

また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。


これ、「トリアージの判断をしなければいけないお医者さんたちもつらいだろうな」というのではないんですよ。そうでありつつ、でもひとりでも多くの人を助けようとしたら、そこで考えなければいけないんだろうな、それを「戦略性」とでもいうのでしょうか?と聞いてきた男子学生には、僕は巧くコンセプトが伝わった、その通り!と褒めたい感じですが、「可哀想じゃないですか致命傷の人を見捨てるなんて」。でもそういう非常事態では、特に医療資源は有限だからこそ、適切に配分しなければならないという考えなんだよ、とくどく説明した。


「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」と書いてきたお嬢さんもいた。そりゃあ、この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまうというのは当たり前だよこれじゃ。この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。いや、こちらはできるだけ冷静に、穏和に説明したつもりなんだけどなあ。


もちろん、これから少しずつでももうちょっと考えを深めさせていきたいと思いますが、なぜこうなるのだろうかわからない。社会問題を感情的に批判していれば解決するとでも思っているのだろうか。誰か悪意の人がいて、それを取り締まるべき人がまた心がけが悪く責任を果たしていない、だからそれに文句をいえば社会は良くなる、みたいな社会観が根底にある気がする。


 そんな選別をしたら捨てられる側はたまったものじゃないですか。

 ここには何重もの詐術があります。

 

 人の命は算術的な比較が可能であるというゴマカシ。そのような足し算割り算は、いつも権力者が独占するそろばんで行われます。


 「もう助かりそうにない患者」と助かりそうな患者を判別できるというゴマカシ。そのような診断は、おうおうにして自己成就的なものです。医者に「助かりそうにない」と判断されて見捨てられた患者は助からない場合が多い。そうなったら、はたして医者の予言が当たったのでしょうか?


 「全体や組織から見た最適」というゴマカシ。これは、先日取り上げた小田亮さんのコメント対応においても見られました。

正義と倫理のあいだについて  ※欄

http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/comment?date=20080430#c


ここで小田さんは、大学教育を受けていない者や受けても成果が得られなかった者への蔑視を露わにした上で、大学人の自由は特別扱いで認められるべきだと説きます。そしてそのような自由は一般人には必要ないことを付け加えます。またそのような不平等なアレンジメントが、実は社会全体の利益になるのだと強弁します。これを、ネオリベ用語でトリクルダウン・イフェクトと呼びます。


 しかし「全体」自体が敵対性によって構成されているのです。「全体や組織から見た最適」の名の下に個が切り捨てられるとしたら、それは常に敵対するある特定の位置からなされます。


 三宅秀道さんは、その特定の位置を自由に選択しています。ところがトリアージというなじみのないカタカナ語を振りかざすことによって、あたかもそれが政治的な選択ではなく、万能のプロセスの自動的な適用であるかのように振る舞っているのです。これを自己欺瞞と言います。


 学生たちは、その自己欺瞞を批判しました。それを三宅さんは、「感情的」であると決めつけて否定します。他人が「感情的」だといって騒ぐとしたら、その人自身が感情的である第一の症状です。三宅さんの文章にはいらだちがあふれています。他者の感情の被害者を装うことによって、自分の感情にだけは正当性があるように振る舞うゴマカシがここにあります。

fuku33fuku33 2008/05/23 19:19 なにか、こちらが悪の権化の詐術師であるかのような書かれように正直違和感を覚えるのですが。
自分はまず、学生たちに実際に福知山線脱線事故や中越地震の時に災害医療関係者たちによって行われたトリアージという行為について説明して、資源の有限性の制約のもとでは、限られた医療資源をどのように配分するか、もちろん無限ならばそういうことに悩まなくて済むのだけれども、有限であるからこそ、「どのように配分すれば効果的か」「そもそも効果的とはこの場合どのようであるべきか」「効果的であるとはどのような目的に照らしてのことか」という見地から、遺憾ながらも、被災した人たちを選抜しなければならない事態も実際に起きることがある、という点を受講者たちに意識させ、そこから合目的性という概念についても考えを及ばせたいと思ったのです。
そしてもちろん、トリアージにおける判断にミスがあり得るとか、事後的検証もなされるべき(そして実際に福知山事故の検証レポートについても触れましたが)である、ということも知らせつつ、なおかつ、そこでの判断次第では「助けられた人も助けられない可能性」や「助けるまでもない人を助けた可能性」について、とっさの価値判断をしつつも行動するには、「この組織は何のために活動し、何を優先するべきか」という判断基準が、なにかしら設定されていなくては現場が苦労する、というようなことも言って、「そこにマネジメントという行為を意識する契機」を見出してもらいたいという狙いがありました。そして多くの学生はそれを意識したようですが、「そんな選別するなんてかわいそう」という情緒的反応にとどまり、そもそもが「目の前に来た人をただ看護する」行為が助けられる人を助けられないことにつながる可能性もある、ということに思いを致すところまでなかなかいかない受講者もいたようでした。
もちろん、その「選抜しなければならない可能性も非常の時にはありえる」という価値観も、ひとつの政治的選択であると思いますし、「全体や組織からの価値判断」が正しいなどとは思いません。ただ、個人のその時その場所の判断より合理的な判断がありえるということをまず概念として伝えないと、組織として行動しそれに目的があるということについて考える上でも非常に前提から不自由なのです。それを価値判断として学生に押し付けようというつもりは毛頭ないのですが、そもそも「なにかの目的を達成しようとするときに有限の資源を適切に配分する価値判断が必要だという価値観もあり得る」ということ、それを諾とするか否とするかはともかく、まずそうした概念を理解させようという時に、ただ「資源が有限だから助けられない人もいるなんてそんな残酷なことに触れるなんて」という反応は、遺憾ながら感情的そして感傷的に過ぎないかと思います。それを自己欺瞞といい、それへの批判といい、感情的である「第一の症状」、「ゴマカシ」というのは、あなたの単なる憶測です。

通りすがり通りすがり 2008/05/23 20:30 > 「もう助かりそうにない患者」と助かりそうな患者を判別できるというゴマカシ。
仮に判別できないとして、あなたはどうしたいのでしょうか?

全ての患者に等しく治療時間を割いたとして、医者が治療に使える時間を仮に1日8時間とすると(労働基準法的に妥当な時間ですよね?)、1日に患者が8人であれば1時間ずつ治療できますが、480人ならば1分しか治療できません。
これでは誰にも十分な治療ができず、何もしないのと同じ事でしょう。

治療する患者をくじで公正に選んだとしても、見捨てられた患者はかわいそうです。

治療するために必要な医者を十分に確保すればいいのですが、人材が有限であったり、予算が有限であったりして、無限に医者を確保できる状況というのはまずありえないでしょう。


結局、正確に判別できないとしても、有効な治療を行うには判別せざるを得ないと思いますが、あなたに何か代案があれば医療に革命をおこした人物として名を残せるのではないでしょうか。

な 2008/05/23 21:58 あなたは日本に住んでるから、こんな限界状況に立ち会わなくて済んでる人間です。ぬるい日本の現実からシビアな外の現実を批判するのは議論の進め方からしても卑怯なやり方に思えます。
たとえばインドに行ってみてください。100?ごとに10人の物乞いを相手することになりますが、全員にお金あげますか。
ホッテントリ経由でこんなくだらない記事を読まされたのでコメント残しました。読んだ時間返せといいませんが、もっといい記事かいてください。

font-dafont-da 2008/05/23 22:30 横槍すいません。

>たとえばインドに行ってみてください。100?ごとに10人の物乞いを相手することになりますが、全員にお金あげますか。

物乞いを選別する前に、ホッテントリから読む記事を選別したほうがいいのでは?

少し誤解があるような少し誤解があるような 2008/05/23 22:39 「全体を助けられるのに、助けない」ならごまかしでしょう。けれどこれは「全体を助けられない場合にどうするか」の最適な行動についてのお話。
もちろんそれを「切り捨てられる」「かわいそう」という感情が生まれるのは自然なこと。でもそれって、何もしてない人が言うことでもない。
逆に現場でそうした最適行動をしないために結果的に助けられない人が大勢出ることのほうが不幸。

oredocooredoco 2008/05/23 23:02 「全体や組織から見た最適」というから聞こえはいいけど、実際には、「全体や組織から見た暴力」なんです。

okami3okami3 2008/05/23 23:17 切り捨てられる各人にとっては自分にリソースを割かれるか/割かれないかなので、福祉的なことを頼む人には、たとえリソース割けないにしても全体的な最適分配語るよりかわいそうなり申し訳ないと行ってくれる人に介護されたいと思いました。

matebumatebu 2008/05/24 00:30 ここで言っているのは経済学の基本原則の話でしょう? 経済学では、資源には希少性があり、それを個人や企業や公共団体がインセンティブによって動いて獲得しようとし、それを獲得するためにはトレードオフがあり、市場原理や公共の介入などなどによって最適もしくは均衡配分される。それをミクロ的にまたはマクロ的にモデル化し均衡目標にいたらしめるパラメータを特定し変化させる政策を検討するのが経済学です。もちろんそのモデルづくりにはいろいろな思想もからんでくるのでしょうが、元のスレッドでの学生に対する講義ではまず経済学/経営学をなぜ学ぶかということを教えている段階なので、単純に感情的な意見はここでは語る段階ではないということがいいたかったのだと思います。

イオイオ 2008/05/24 01:27 ふと、思い出しました。
北杜夫のエッセイの話。
第二次大戦後、日本で一千万の餓死者が出るって、予想した栄養学者がいたそうな。
生きるために必要なカロリーと、存在する食料の絶対量を計算したら、間違いない試算だったんだって。
まあ、ある程度の餓死者は出ましたが(例『火垂るの墓』)、一千万は死ななかった。

最適化行動しなくて良かった。
横やりでゴメンネ。

≪有限性≫と≪希少性≫は、異なる概念じゃないでしょうか?
≪経済学/経営学をなぜ学ぶかということを教えている段階≫で、治療行為(人間にとって「生死」という限界状況)を持ち出すことは、やはり妥当なものではなかったのではないでしょうか。

私には、その教育行為は、いささか「感情的」なものにみえます。

ps
私は、通りすがりさんの≪治療する患者をくじで公正に選≫ぶというのは悪くない気がします。

もうすぐ墜落することが決定的な飛行機に、120人の乗客(含むパイロット)がいるとします。
なのにパラシュート(資源)は、100個しかない。

このような≪限界状況≫で、答えが見つからぬまま、120人全員が死ぬという最悪を避けるための方法として、『くじ引き』で、100人が生き残るというのは、案外、筋の良い方法だと思います。

inuinu 2008/05/24 02:19 トリアージは災害医療の基本です。人の手が2つしかない以上、誰かを助けている間は誰かを見捨てることになるのは当たり前。設備も時間もない非常時なら尚更です。せめて1人でも多く助けたいと思うなら必ず必要になるシステムを、ゴマカシとか自己欺瞞などといって批判するのは如何なものか。全員が好き勝手に目についた人間を治療し始めたら、人手も資源も足りなくて結局全員助かりませんでした、というのが実際起こり得るのだという事は理解してください。

SS 2008/05/24 02:30 経営を語るのに、トリアージなんて持ち出す時点で、幼稚で雑ということでしょ。

トリアージは、日常的な医療にける正常なあり方では全くありません。トリアージの「合理性」なるものを支えているのは、あくまで緊急事態という例外的状況でしかありません。そういった極めて例外的状況の例でもって、社会資源の有限性を語り、医療・福祉の限界を語り、経営の合理性を語ろうとする粗雑さを、詐術と言っても別に間違いではないでしょう。

そもそも現代の、医療や福祉の前提となっているのは、トリアージの対極にある生存権の保障です。全ての国民に「健康で文化的な最低限度の生活」が生存権として保障されているのが今の社会であり、福祉・医療ではそれこそが所与の前提として合理性の基準になります。

そのような中で、まずもってトリアージという非常に特殊例外的な状況でもって経営を語ろうとすることこそ、非合理的と言うしかないでしょうね。



>このような≪限界状況≫で、答えが見つからぬまま、120人全員が死ぬという最悪を避けるための方法として、『くじ引き』で、100人が生き残るというのは、案外、筋の良い方法だと思います。<


このような場合、どんな方法でも筋の良さなんかありません。くじ引きでも殺し合いでも、自己の命のために他人の命を犠牲にする点で、大差がある訳ではありません。だからこそ、パラシュートの奪い合いで殺し合っても、生き残った人は、違法性が阻却されるのですよ。

toledtoled 2008/05/24 08:36 >fuku33さん

あなたの最大の問題点は、「全体」や「組織」に対するナイーブな信仰です。

これは経営学の初歩なのですが、もしまだわかっていないなら、一定期間、中小企業で労働者として働く経験をしてみてください。
経営者は、給与カットや労働強化や人員削減を迫ってくるでしょう。
その際の彼らの決まり文句は、「こうしなければ会社がつぶれる」というものです。
「会社がつぶれたらみんなが困る。君だって困る。非常事態なんだ。だから会社のために受け入れてくれ。そうすることが君自身のためでもある」というわけです。こうして、彼らは「マネジメントという行為を意識する契機」を与えてくれるでしょう。

けれども、「全体」は敵対性によって構成されています。「全体」に同一化することは、その中で特定の位置を政治的に選択することに他なりません。「全体や組織から見た最適」は特定の政治的位置においてのみありうるのであって、切り捨てられる側がそれに屈服すべきいわれはありません。

あなたの授業は、恫喝です。災害のような「非常事態」を想定しつつ、「最悪」(全員が死ぬなど)が嫌だったら「マネジメント」を受け入れよと説く。

しかもあなたが滑稽なのは、学生たちを「感情的」と決めつけ、自分が知的に優位にあると思いこんでいることです。違います。あなたの教室において露見したのは階級対立です。ブルジョワジーのまやかしをしゃべる教師に対して、学生が造反したのです。あなたと学生たちは政治的に敵対しています。正しいことを教えてやってるのに学生がわかってくれないと未だに嘆いているとしたら、おめでたいことです。

toledtoled 2008/05/24 09:06 >通りすがりさん 2008/05/23 20:30

全員が助かればそれにこしたことはありません。しかし僕がfuku33さんのたとえ話を批判しているのは、全員が助からないことではなくて、恣意的な選別をしているのに、「組織」「全体」というまやかしによってあたかもそれが機械的なプロセスであるかのように偽装されていることです。

誰が、どういう基準で「選別」をするのか。一方的な「選別」に対して誰が異議を申し立てるのか。そうした問について考えるべきです。

>なさん 2008/05/23 21:58
>ホッテントリ経由でこんなくだらない記事を読まされたのでコメント残しました。読んだ時間返せといいませんが、もっといい記事かいてください。

でも、それをわざわざコメントしてくれる程度には「な」さんと心が通じ合えたのだと思うと嬉しいです。「なっちゃん」って呼んでいいかな?

>font-daさん
こんにちは。今後ともよろしくお願いします。

>少し誤解があるようなさん 2008/05/23 22:39
その点は誤解してないです。僕は「最適」という中立に偽装された概念のイデオロギー性を指摘しているのです。

>oredocoさん
>「全体や組織から見た最適」というから聞こえはいいけど、実際には、「全体や組織から見た暴力」なんです。
そうそう。

>okami3さん 2008/05/23 23:17
気持ちとしては僕も同じですが、今の時点からそれを言ってしまってはおしまいです。これは階級闘争です。fuku33さんのような勢力を今のうちから打倒しておきましょう。

>matebu
深入りする前に、今、語るべきことは語っておくべきです。

>イオさん
僕は「くじ引き」を信用しません。絶対に誰かが操作するはずです。

>inuさん 2008/05/24 02:19
実際にゴマカシで自己欺瞞なのだからゴマカシで自己欺瞞と言う他ありません。

>Sさん 2008/05/24 02:30
例外状態が常態化していますね。例外状態による恫喝がやっかいなのは、正面から批判しても「それは既に織り込み済み。けど非常事態だからしょうがないんだよ」と言われてしまうことですね。

七誌七誌 2008/05/24 09:09 >災害のような「非常事態」を想定しつつ、「最悪」(全員が死ぬなど)が嫌だったら「マネジメント」を受け入れよと説く。

>資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって

元エントリーをきちんと読んでいますか?

青島湾青島湾 2008/05/24 11:20 >しかし僕がfuku33さんのたとえ話を批判しているのは、全員が助からないことではなくて、恣意的な選別をしているのに、「組織」「全体」というまやかしによってあたかもそれが機械的なプロセスであるかのように偽装されていることです。誰が、どういう基準で「選別」をするのか。一方的な「選別」に対して誰が異議を申し立てるのか。そうした問について考えるべきです。

>「全体」は敵対性によって構成されています。「全体」に同一化することは、その中で特定の位置を政治的に選択することに他なりません。

>「最適」という中立に偽装された概念のイデオロギー性を指摘


fuku33さんを批判してる人たちはみんなだいたいこれを言ってるのですが、理解できない人がけっこういるので少々ビックリしました。

fuku33さん本人は批判を理解してるみたいなので(他所のコメント欄での書き込みはだいぶ元記事から後退・修正してたり、いろいろすっ飛ばしすぎ(「葛藤」なさすぎ)と指摘された部分を補足してるように)、なおさら滑稽です。mujinさんが言うように、壮絶な「周回遅れ」。

「線引き」一般を否定しているのではなく、「線引き」に伴う政治性や欺瞞に無頓着(ナイーブ)すぎ、「その線引き」の妥当性を疑い問いつづけろ(ホロコーストとか)、<女子>学生の異議申し立ての切り捨て方こそナイーブすぎ、という話なのに、「線引きを全否定するのか!!!」と噴き上がられても・・・ねえ・・・。

青島湾青島湾 2008/05/24 11:33 上のコメントした後で下の文章を発見しました。

救ったこととか見殺しにしたこととかあるのかな
http://childdoc.exblog.jp/7140736

なっちゃんなっちゃん 2008/05/24 11:54 ありがとうゆうくん、俺も愛してるよ。
でも、医療でのトリアージのことを批判したいのか、経営学と経営現場の批判・トリアージを比喩にしたことの批判をしたいのか、混同してます。それとも、わざと混同させてます?
中小企業の喩えは「限界状況に偽装した状況」なので別問題ですよ。前半読むと医療トリアージへの批判にしか読めないですが、どっちを問題にしてるのですか?これって議論に逃げ道作るレトリックにみえますです。

医療の話でなら、たとえばゆうくんが医者だとして、
医者は自分ひとりなのにベッドは満杯、しかも5分おきに患者が運ばれてくる。
さてどうする?
どういう方針で対応するか、まずこれについて意見を聞かないと話が始まらないです。

inuinu 2008/05/24 12:53 確かに論点が微妙なんですが、とりあえず医療現場についての意見です。
経営学としてトリアージの概念の是非を考えるのは結構なんですが、医療行為としてのトリアージ自体を否定するのは平和ボケと言わざるを得ません。ゴマカシとか自己欺瞞であるのは当たり前、何にしたってそうでしょうに。見捨てるとか全体対個といった考えに固着せず、もう少し「現場」のことも考えてください。まあ元記事でトリアージを例にとったのがそもそも間違いな気がしますが。

通りすがり通りすがり 2008/05/24 13:36 > 恣意的な選別をしているのに、「組織」「全体」というまやかしによってあたかもそれが機械的なプロセスであるかのように偽装されていることです。

法律などのルールが決まっているものであれば、ルールどおりに解決されなければなりませんが、今回の例では医者や医者のクライアント(患者を診ることを頼んだ人であって、患者自身ではありません)に判断が任されている以上、判断を行う人が恣意的であってもかまいません。

判断を任されている人による恣意的な選別が「悪」であると決め付けている理由は何でしょうか?

ApemanApeman 2008/05/24 16:24 >判断を行う人が恣意的であってもかまいません。

fuku33氏はそんなこと主張してませんよ。

SS 2008/05/24 17:07 >例外状態が常態化していますね。例外状態による恫喝がやっかいなのは、正面から批判しても「それは既に織り込み済み。けど非常事態だからしょうがないんだよ」と言われてしまうことですね。<
(toledさん 2008/05/24 09:06)

結局、911時のブッシュ政権や今のビルマ等を見るまでもなく、独裁的政権ほど戒厳令や非常事態宣言が好きであることからわかるように、異常事態とするというのはデュープロセスから自由になりやすいですから、力のある者に好都合な事が多い訳です。

日本の場合、異常なまでに変化に保守的ですが、その反面、維新という言葉がとても好きであるように、異常事態・非常事態という話にかなり寛容な文化でもあるように思います。特に戦後の「平和ボケ」の中で、異常事態というものへのアレルギーが薄れた上に、オウム事件や911等で、「異常事態」であるかどうかを疑うこと自体が減ったように思います。直近では、橋下徹による「異常事態宣言」などもそうですし、小泉ブームもそのようなものだったように思います。

まぁ織り込み済みと言われようが、地道に一つ一つきちんと異議申し立てをしていく以外ないということになるのでしょうね。


>fuku33さん あなたの最大の問題点は、「全体」や「組織」に対するナイーブな信仰です。<
(toledさん 2008/05/24 08:36 )

同感です。

通りすがり通りすがり 2008/05/24 18:07 > Apemanさん
恣意的でもよいというのはおかしかったです。
判断をする責任者は何らかの価値基準で判断を行うはずで、toledとは違う考え方で判断を行うことがあると言うことです。

その最適配分するという判断を、toledさんが「恣意的」と決め付けていることがそもそもおかしいですね。

しまうましまうま 2008/05/24 18:13 >判断をする責任者は何らかの価値基準で判断を行うはずで、toledとは違う考え方で判断を行うことがある

それがまさに「恣意的」ということなのですが。語るに落ちてますな。

SS 2008/05/24 18:34 通りすがりさん


トリアージの現場では、インフォームドコンセントもないし、カルテを丁寧に書いている時間もない。つまり、いくら基準があっても、その基準に則っているかを含め、患者を含めた他者による客観的な検証が非常に限定的な状況です。医療過誤があっても事実上問う手段はあまりありませんし、そもそも制度の趣旨からすれば、医療過誤が問われること自体、避けられるべきことになります。要するに、原則として免責を受けている完全な自由裁量の世界であり、まさにそれは恣意的な状況といえるでしょう。


つまり恣意的に患者を見殺しにしていいとするのがトリアージの意味する冷徹な現実なのです。


勿論これは本来的な医療倫理に完全に反するものです。つまり野戦病院・大規模災害のような極めて例外的な非常事態において認められることでしかありません。


そんな例外的なものを、一般的に語ろうとすることこそ、あまりにナイーブで幼稚で愚かと言う以外ありません。

通りすがり通りすがり 2008/05/24 19:33 日本語が通じていないようですので注釈しますと、恣意的とは、その時々の思いつきで物事を判断するさまです。
何らかのルールに従って判断する場合、そのルールがその時々の思いつきで変わらない限り恣意的とはいえないでしょう。


また、私がレスしているのは
>  「もう助かりそうにない患者」と助かりそうな患者を判別できるというゴマカシ。
について、判断できないとしてもしなければ仕方ないという内容であり、トリアージの善悪を問うているものではありません。
それ以外にどのような方法があるのかと言うことです。

さんぽいぬさんぽいぬ 2008/05/24 20:38 「判断できないとしてもしなければ仕方ない」ような状況で恣意的に行われる判断を「合理的」などと言ってしまうことが「ゴマカシ」であり「詐術」であり「自己欺瞞」であると言ってるのではないですか。

イオイオ 2008/05/24 20:51 ≪このような場合、どんな方法でも筋の良さなんかありません。くじ引きでも殺し合いでも、自己の命のために他人の命を犠牲にする点で、大差がある訳ではありません。だからこそ、パラシュートの奪い合いで殺し合っても、生き残った人は、違法性が阻却されるのですよ。 ≫
Sさん、なるほど。≪違法性が阻却されるのですよ≫というのは知りませんでした。
私が考えたのは、
?ハードに殺し合いをする。
?知的に話し合いをする。(まあ。選択的に)
?くじ(通りすがりさんによるサジェスチョン)
の三つで、殺し合いに筋の良さを感じなかったのは、きっちり100人がパラシュートで脱出するのは難しいのではと思ったからです。ふと気づいたら、30の死体が機内に転がっていたりしそうで。

≪つまり恣意的に患者を見殺しにしていいとするのがトリアージの意味する冷徹な現実なのです。


「恣意的」という言葉のつかみ方ですが、『気ままな心 自分勝手な考え』という私の電子辞書によるならば、fuku33さん的な「全体の利益」の観点による選択というのともまた違っている考え方ということになるのでしょうか。

toledtoled 2008/05/25 11:02 >七誌 さん2008/05/24 09:09
>元エントリーをきちんと読んでいますか?

読みました。

>青島湾さん 2008/05/24 11:20
修正とかまでは把握してないです。

>なっちゃん 2008/05/24 11:54
あっ、なっちゃんだ。混同も何も、fuku33さんの最初の話からして、経営学への前振りとしてトリアージを出してるわけです。

>inuさん 2008/05/24 12:53
ゴマカシとか自己欺瞞であるのは当たり前、なのであれば、ゴマカシで自己欺瞞と書いてもいいんじゃないでしょうか。

>通りすがりさん 2008/05/24 13:36
>判断を任されている人による恣意的な選別が「悪」であると決め付けている理由は何でしょうか?
決めつけてないです。ただ、殺される人からすれば「悪」でしょうね。

>Apemanさん 2008/05/24 16:24
こんにちは。

>通りすがりさん 2008/05/24 19:33
>日本語が通じていないようですので注釈しますと、恣意的とは、その時々の思いつきで物事を判断するさまです。
>何らかのルールに従って判断する場合、そのルールがその時々の思いつきで変わらない限り恣意的とはいえないでしょう。
っていうかそのルール自体が恣意的だという話です。

>イオサン 2008/05/24 20:51
「全体の利益」について勝手気ままな考えを持っているのです。

 なっちゃん なっちゃん 2008/05/25 12:16 ではオレがくだらないと思ったのはこのエントリがまぎらわしいことが原因ですかね。
前半読み返してみてください。どう思います?
オレとゆうくんの仲なんだから一言ごめんと言ってくればすむ話なんだけど。

まあ上の話は無視してもかまわないけど最後にこれだけは教えて。
オレが比喩でだした医療でのトリアージについて
ゆう君ならどうするかきちんと意見を聞いておきたいんだけど
これだけはスルーせずに話きかせて下さい

通りすがり通りすがり 2008/05/25 12:36 想像力が欠如したゆとりが書いているブログですね。
わかります

SS 2008/05/25 19:47 イオさん、お子さんとかおられます?私に子がいたら、私はまずなんとしても生き残ろうとするんじゃないかと思います。映画『タイタニック』で描かれた人々のように紳士的に振る舞える自信は私にはありません。つまり、くじでも話し合いでも、まずは自分が残るということではじめて意味を持つように思います。よって、籤や話し合いで殺し合いが防げるかと言えば、それはたぶんに幻想であって、30以上の死体が転がる可能性は、どの場合にも存在するということだと思います。


というか、どっちにしても、死体は転がる訳で、それが墜落前か墜落後かというだけのことでしかありませんが。


それにしても、「籤や話し合いに従う」という規範が、なぜ当然のごとく成立すると思われているのかが、興味深いです。


>「恣意的」という言葉のつかみ方ですが、『気ままな心 自分勝手な考え』という私の電子辞書によるならば、fuku33さん的な「全体の利益」の観点による選択というのともまた違っている考え方ということになるのでしょうか。<(イオさん)


トリアージの際には、判定者には、事実上、自由裁量と免責が与えられます。これを恣意的と表現することにそれほど違いはないというのが私の理解です。さらに、この免責と自由裁量は、間違いなく全体の利益という観点から与えられるものだと思います。


>何らかのルールに従って判断する場合、そのルールがその時々の思いつきで変わらない限り恣意的とはいえないでしょう。<(通りすがりさん)


ルールの適用が自由裁量であり、ルールに従っているかも免責によって全くノーチェックである以上、それは恣意的と表現しても特に違いがでる訳ではありません。

通りすがり通りすがり 2008/05/26 12:38 toledさん、Sさん

では、ルール自体が恣意的であるとすれば、恣意的でなくすには個々人の気構えとかの問題ではなく、ルール事態を改善する必要があります。
いくら、各医者が恣意的ではない判断を行っているつもりでも、証明することができませんよね?
現在の基準でトリアージが必要と考えられる状況で、恣意的ではない判断を行ったと証明するには、どのような方法が考えられますか?

inuinu 2008/05/26 17:20 こうなるとどんな行為もルールも恣意的でしょう。「全体」側の判断だけがそうであるようにあげつらい、他者の感情の被害者を装うことによって、自分の感情にだけは正当性があるように振る舞うゴマカシがここにあります。

イオイオ 2008/05/26 17:54 子供はいません。
それはそれ、最年長が八歳の年子の双子五組、計十人の子供とともに飛行機に乗り合わせた場合、くじ、話し合いが家族にとって有利な結果を生むように思いませんか。
子供がいる場合、『殺し合い』を選択するのは、得策ではないでしょう。
真っ先に標的になりそうな気がします。

≪それはたぶんに幻想であって、30以上の死体が転がる可能性は、どの場合にも存在するということだと思います。≫

それはそうだと思いますが、くじは筋がいい、と書いたのは、どの場合にも存在する可能性のなかで、見込みとしてはありかなと思ったからです。
将棋は、必ず片方が負けて終わりますが、敗者の指し手の中にも『筋の良い』と言われる指し手はあるわけです。

≪それにしても、「籤や話し合いに従う」という規範が、なぜ当然のごとく成立すると思われているのかが、興味深いです。≫

言われてみればそうなのですが、またこうも考えました。
「現に世界はそのように(「籤や話し合いに従う」ように)存在していないか?」
Sさんは、ゴミの日以外にゴミを出したことがありますか? 私は真面目なのでそういうことを(めったに)しません。
ゴミの日の「曜日」はたぶん、くじや話し合いで決められているのだと思いますが、それに従っているわけですね。
ゴミ捨て同様、私やほかの多くの人が、「人殺し」をしないのも、「従っている」からではないでしょうか。
つまり、現にこの世界では、規範が成立している。

借金を抱えて自殺する人が、死ぬ前に、『パチンコ屋』や『現金輸送車』をなぜ襲撃しないのか、むしろそちらのほうが、不思議で興味深いことだと思います。

ある意味で、911のテロは『全体の利益』という、≪力のある者に好都合≫なアイデアが、逆の結果を生みうる、ということが、力のあるアメリカ人を驚かせたのではないでしょうか?
自分全体、会社全体、国家全体、世界全体、宇宙全体……どこまでで、全体を区切るかは、それこそ恣意的なものだから、ある宗教的な区切りで『全体』を構成して、それに殉じる人間がいたことは、国家全体と世界全体がごっちゃにして、『全体の利益』を無条件に語りうると思っていたアメリカの指導層?には打撃だったのではないでしょうか。
全体の利益を考えて、自爆する人間というのは、『権力中枢系全体利益主義者』の盲点だったのではないでしょうか。

トラックバックをいくつか、辿ってみたら、自発呼吸の有無など、いくつかのポイント(ルール)は明確化されているという話もありました。
とすれば、恣意的というのとはちょっと違うと思うのですが。

恣意的と言ってしまえば、例えば、男性の医者が、「綺麗な女性」から順に治療していく、といった印象を受けます。

宇宙宇宙 2008/05/28 00:11 想像して見なさい、患者千人と医者が十人しかいない状況を。医者の補給は、蜀の山道のせいで不可能だと仮定します。千人の患者の中に超重傷者が居て、ここにいる医者10人を全て動員すれば助かる可能性が5%程あると仮定します。無論、その患者の処置中、残る999人は全て放置されます。999人の中には、医者が一人でちょっと処置をすれば死なずに済む可能性が高い患者が大勢居るでしょうね。肺炎とかそうですね。被災地ではありがちな下痢なども、そうです。点滴さえすれば助かるでしょうが、医者が点滴をしなければ死にます。おっと、看護師が点滴をすれば良いと言う詭弁はこの際やめて下さいよ。
さて、イオさん達は、この999人を見殺しにする事をどう思いますか?1人を助けるために、助かるかもしれない残り999人を全て見捨てることについて、どの様な罪の意識を感じますか?感じませんか?
では、確率的に高いほうを想像してください。イオさんは、1000人に一人しか当たらない宝くじに当たったことがありますか?むしろ残り999人側になる可能性が高いですよね。で、重傷者のために「全て」医者が出払って、自分が全く相手にされずに単純な肺炎で死んでしまう側になる事を想像して下さい。逃げちゃダメですよ、逃げちゃダメだ。どうですか、腹が立つでしょう?
これが、トリアージの本質なんです。

zspherezsphere 2008/05/28 00:38 はじめまして。
僭越ながらうちのブログからトラバなどさせていただきまして、そちらでも少し書いたのですが。

toledさんが救助する側の立場だったとして、救う者と救わない者との選別なんてできない、と思うのは感じ方としては間違ってないと思うのです。
ただ、問題を単純化しすぎている気がしています。
あなたが、自分の資金で薬を買い、自分の技術だけで患者を癒し、自腹ですべて出来るなら、それはあなただけの善意です。たとえ救える可能性が低くても目の前の患者を見捨てられないと、それでかまわないと思います。
しかし大抵の場合、そうした災害救助で使われる薬は元を辿れば国民の税金であったり、募金であったりしますよね? つまり、あなただけの善意ではない。あなたは、多くの善意の代表者でなければならない。
そして多くの募金者は、救えないかもしれないけれど目の前で苦しんでいる被災者一人ひとりの息吹を知りません。ですから彼らはこう願うしかないのですよ、「一人でも多くの被災者が救われるように」って。

このように、トリアージが求められる場には、必ず背後に組織の事情が関わっています。そりゃあ、現場で救う者救わぬ者を選別しなきゃならない救助員は苦しい立場です、慙愧の念にたえない、けれどだからって「組織の理屈なんか全部捨てちゃえ」っていう主張だけで、すべてが片付くとは思えない。
だって、自給自足していた縄文時代ならいざしらず、現代の我々が何かしらの組織にまったく関わらずにいられますか? それに、組織ってやつだって、大元をたどれば、必要だから作られたものじゃないですか。
そのジレンマにまで思いを馳せなければ、トリアージの問題について本当に真摯に考えたとは言えないんじゃないかと、私は思うのですが。
……以上。ご無礼、長文失礼しました

イオイオ 2008/05/28 02:02 宇宙さんのコメント
≪これが、トリアージの本質なんです。≫

までの部分は、いわばトリアージ抜きならこうだと言う、トリアエズの仮定ですよね。

≪ここにいる医者10人を全て動員すれば助かる可能性が5%程あると仮定します。≫

私がほかの方のトラックバックをいくつか読んでみた限り、むしろこのような「仮定」が行なえない状況下での多くの人を救う方法理論として、トリアージが問題化されているようです。

それはそれ、
宇宙さんのたとえであらためて思ったのですが、
例えば、日本の重い病気の子供がカンパを集めて治療を受けたりということは時々聞きますね。
たぶんそのとき集まったお金があれば、アフリカの子供の命はたくさん救えるはずでしょう。
これは宇宙さんのたとえのバリエーションとして有効でしょう?

この状況は、逆(脱?抜き?)トリアージ的であると同時に、トリアージ的であるようにも思います。
人命救助に最適化されてない資金の使い方という意味では逆トリアージですが(トリアージという言葉に触れた経済学者は、それで経済学の基礎を語るより、全医療行為にトリアージ的視点がいきわたらない現実の経済構造の欠陥を探っていただきたい)現実に日本を含めた先進諸国に中心的に医療行為が集中しているということから考えられるのは、我々(嗚呼)、先進諸国の子供が生き残るのは(子供を生き残すのは)『全体の利益』の観点から正当化されているように思えるからです。これはトリアージ的ではないでしょうか。
(あるしゅ、2歳の時点で少額で救えるアフリカの命には、5歳8歳10歳と次々ハードル(生命の危機)が襲いかかる可能性が高いから、二歳の時点で多少高額でも、そのあとの生存率(20歳時生存率なんて数字が飛び交いそうな予感)を考えて、先進国の子供を助けるのは人命救助に最適化されているかもしれませんが。暗い妄想)

思えばトリアージのベースとなる「すべてを救えない時どうするか」という問いは、災害時などの超緊急事態での問いですが、すべてを救う気もないこの世界で(を)どうするか?と変形すれば、なかなか魅力的な問いになる気もします。

ps
≪欺瞞的≫ということで言えば、全員の命を救いたいのだが、それが出来ないとき、という問いの立て方かもしれませんね。思えば、最初からそんな気がないんだもの。平常時において。
どうでもいいけど、災害時の避難住宅に、もともとホームレスだった人は入れるのでしょうか。

つねのさん、テラ豚どんほど盛り上がらなくて残念です。
ずばり、「元ねた」のパンチ不足が原因だと思われます。

≪そしてそして最後に、小田っちのブログに群がっているコメンテーター諸君よ。小田ちゃんは、雑魚だ。対象を誤っている。君が最も共感し、心酔しそうになるような大学人を選べ。そして彼を撃て。その時に初めて一匹の雑魚ではなく、「構造」が揺れる。≫

やはり、今回は『対象を誤って』しまったのではないでしょうか。
真の左翼革命戦士への成長を影ながら応援しております。

ps2
前の方が謝っておいでですので、一応私も、長文で失礼しました。

zspherezsphere 2008/05/28 03:12 たびたびすみません、もう一つついでに。
toledさんは記事本分の中で、
>「全体や組織から見た最適」の名の下に個が切り捨てられる
ことを批判されているのですが。
たとえば、一分一秒を争う状況で、自分から等距離に怪我の状況や年齢・性別等の違う二人の被災者がいた場合に、「どちらを先に助けるのか」という基準が設定されていないと、組織として一貫した行動が取れないという事も考えられます。
人間の感性なんて千差万別、思いも寄らない価値観を持つ人もいます。たとえば、どちらも重体の90歳の老人と、20代の(美人の)女性がいたとして。たまたまその場にいた救助隊員が、「若い女性の方がかわいそうだ」と思って先に若い方から助けようとした時。
もしくは、重体の被災者と軽傷の少年がいて、けれどたまたま救助隊員にとって「その少年が死んだ自分の息子に似てるんだ」とか言い始めて先にそちらを助けようとしたとか。
まあ馬鹿なたとえですが、もしそのような事態が発生した場合に、toledさんの見解だと、その救助隊員を止める論理は存在しますか? それとも、それならそれで良い、とお考えでしょうか。
的をはずした質問かもしれませんが、気になったので書かせていただきました。失礼します。

toledtoled 2008/05/28 20:04 みなさん! コメントありがとうございます。ちょっと今余裕がなくてレスできません。ごめんなさい。近いうちに皆さんからいただいたコメントから考えたことを活かしたエントリーを書くつもりです。

へうたむへうたむ 2008/05/29 03:22 つねの先生、こんにちは。
[私の左脳:]ふ〜む、いろいろ考えさせられる問題であるな。[私の右脳:]うっわ、オモロイッ! オモロ過ぎるッ!! toledちゃんがガチンコや〜(^o^)//!!
 あ、失礼... 笹持って大繁盛コメント、トラックバックされている他サイト、と、何かわずかずつカテゴリーエラーみたいなものが混入しているような。ここではSさんのコメントと、イオさんの1つめのコメント(のps以下を除く)に感じるものあり。
 三宅氏が資源の最適配分をトリアージを喩えに引いて説いたことに対して、常野さんはそこに‘詐術’が潜んでいる、と言ったら、「トリアージの必要性を理解できんとは!」のコメント殺到。中でSさんは、「経営を語るのに、トリアージなんて持ち出す時点で、幼稚で雑」と。数多のズレ・コメントは措くとしても、Sさんの視点には納得、ながら…常野さんは「いや、三宅氏は正しい比喩を用いている、だから経営学なんて詐術だ!」とまで言おうとしている、のか??
 ― 元記事、常野さんと同じく三宅論を難ずるhokusyu氏の記事、その両方を切って棄てているrepon氏の記事、などあっちこっち見て回りました。こういうの、面白がって読むんですが、最後は何だかなー、な感深し。こういうところの論争の言説って、何かこう、<波動←→粒子>の関係でいうと、もうカッチンコチンに‘粒子’化しているような感じです。思い出すと、あ、ガッコー行ってた時の感じだ! 常野さんは、こういうところに身を曝して適応の訓練をされているのかなー^^;。長文+(面白がったわりに)非礼ですみません…。
 ‘配分’されなかった人たちに合掌。「合掌」ってたいせつだと思います。お手々の節と節を合せると…いろんな情報が流れわたります。

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