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2008-04-05

和光大学YASUKUNIプリンスホテル、コケコッコーの政治と不正義のアウトソーシングについて

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 このブログを以前から読んでくださっている方はお気づきのように、反自由党はid:mojimojiさんと敵対関係にあります。もちろん革命が成功したら思想改造キャンプで対応させていただくつもりです。けれども↓のid:inumashさんへの反論記事でmojimojiさんがとてもいいことを書かれたので、グランドプリンスキャンプ高輪のVIPルームを用意させていただくことを先ほど党幹部会で決定しました。

inumash氏へ、「観客席なんかありません」


 (前略)

 問題が「みんなの」問題であるなら、「みんなの」問題に対して誰かが何かをやることを期待したり、やらないことに失望したりするお前は一体何者だ、ということになる。この、問題に対して外部に立っているつもりの「期待/失望する人」とは、つまりは、政治的にノンアクティブな自称「普通の人」、自称「市井の人」だろう。そして、「政治的にノンアクティブである」=「ノンポリである」とは、「現実を変えるために、自分自身は行動しない」という一点において保守であり、かつ、保守であることを自覚しない/したくない欺瞞的保守である。

 ・・・・・・で、inumash氏の論理の何が問題か。それは「広告代理店的」アプローチによって、ないはずの「観客席」を捏造するのだ。用意された「観客席」には、あらゆる問題を切断処理して心理的安寧を確保したい有象無象がなだれ込んで来る。この点において、inumash氏の論理は、「運動論として」ダメなのだ。バカなのかお人よしなのか、それともinumash氏自身が「観客席」にしがみつきたい人なのか、いずれかは知らないが。──同時に、inumash氏の記事に激しく同意している人たちにも言っておく。「観客席」に座っているつもりでいたい、という気持ちは分からないではないが、しかし、ないものはない。残念ながら、あなたも立派な当事者だ。


http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080404/p1


 ここに問題の核心があります。今日の政治言説は、まさにこの「想定された観客席」を巡って争っています。プリンスホテルによる日教組への会場使用拒否も、『靖国』の上映中止も、都知事選における弱小候補やその支持者への恫喝も、学歴差別も部落差別も、死刑反対派が終身刑の創設を提案するという倒錯も、「護憲派」による自衛隊活用論も、み〜んなそう。相手を直接否定するのでも自分を直接肯定するのでもなく、「想定された観客」が否定や肯定の根拠となります。責任のアウトソーシング、あるいはKY正義がここにあります。これについて、約一年前にmixiに↓の文章を書きました(一部修正)。


 2004年に、和光大学が麻原彰晃さんのお子さんの入学を取り消すというスゴイ事件があった。このことを振り返りながら今について考えている和光大学教員の文章を読んだ。

 まずは当時の和光大学学長の言い訳を思い出しておこう。

本学は当該合格者が入学した場合、当人が学内外で特異な存在となり、内外の不安や好奇な目にさらされることを防ぐ自信を持たない。その結果、本人に責任がなくとも、学内の平穏な教育環境を乱す可能性が大きい。

本学は小さいながら開学以来30 数年、学生一人一人を大切にすることを教育の原点と考え、教職員と学生ともども努力を重ねてきた。今回の事態に対し、本学の存在意義にまで立ち返り慎重に対処方を検討してきたが、本人の本学における自由な学習を護りきれないと同時に、在学生の学習環境を維持し切れないと考えざるを得ず、現時点では入学不許可という苦渋の選択をすることになった


http://kito.cocolog-nifty.com/topnews/2004/03/post.html


この決断に先立って、和光大学の当該学部教授会は学長に任せるという決定をしていた。その場の議長を務めた篠原睦治が自己批判をしている。

わたしは、長い間、障害を持つ者も持たない者も「地域の学校」で、一緒に遊ぶ、学ぶということを願って、障害を持つ子どもたちと彼らの親たちの願いにつながってきました。そんななかで、「障害児」が断られる際に、「お子さんは特異な存在とみなされて好奇な目にさらされるので可哀想」、「本人の学習環境を守れない」、「平穏な教育環境を乱すおそれがある」、「他の子どもたちの学習環境を破壊する」などと言われてきました。まずは、当該の者に同情する形をとりながら、やがて、当該の者は他の者に邪魔であると本音を吐いていくのですが、実は、今回の文書が、そのような言葉、論理とあまりにも近似しているので、慄然としました。*1


 こういう理屈による差別の正当化、っていうか、差別を正当化せずに実行していく理屈というのは他にもよくある。

 私は○○さんはいい人だと思う。でもあなたが○○さんと結婚したら、世間の人はどう思うかな。そんなことになったら、あなたにも○○さんにも不幸なことだし、なにより生まれるかもしれない子どもが最大の被害者だよ(「手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別」)。

 とか。

 市民ホールの使用に際して思想チェックはありません。しかし日教組が集会をやると右翼が寄ってきて街の平穏が乱されます。そうすると言論の自由が守れないかもしれないし、一般市民の平和に対する脅威となるのでやっぱし日教組には貸せません。

 とか。

 こういうのがやっかいなのは、いくら事実や真実や正義をつきつけても、全く「暖簾(のれん)に腕押し」になってしまうことだ。本人はなんの罪も犯してないのに入学を取り消すなんてひどいとか、障害者を排除するのは差別だとか、出身地と愛は関係ないとか言っても、そういうことはぜ〜んぶ既に踏まえられている(ことになっている)。だから、ストレートに正論を主張しても、「青い人が現場の苦労も知らないで理想論を振りかざしている」ということになってしまいかねない。

 ジジェクという哲学者が年末の一発芸人のような頻度でリサイクルし続けている小話に、「ニワトリの無知」というのがある。

 あるところに、自分が米粒だと信じ込んでいる男がいる。彼は今にもニワトリに食べられてしまうのではないかという恐怖に怯えている。精神科医の治療により、彼は完全に治癒し、退院する。ところが男はすぐに医者の所に逃げ帰ってくる。「ニワトリに襲われる」と叫んでいる。

 医者いわく、「あなたはもう完治したじゃないですか。あなたは自分が米粒じゃなくて人間だということはわかっているでしょ」。

 男が答えて、「もちろん俺は人間だ。俺はわかっているよ。だがニワトリはそれをわかっているだろうか?」。←オチ

 ジジェクは東欧出身である。彼によれば、旧東側の全体主義社会もこの小話のように維持されていたのだそうだ。多くの人は、共産党なんか信じていなかった。本当に信頼できる身内同士では、独裁者の悪口ばっか言い合っていた。ところが一たび公の場に出ると、誰もがまるで共産党のことを信じている「かのように」振舞っていた。そうしないと制裁を受けるからだ。秩序はそうして維持されていた。むしろ本気で独裁者を信奉しているような人がパージされやすかった。そういう人は融通がきかないので、オモテとウラを使い分ける共産党支配にとってはむしろ扱いにくいからだ。


 教育基本法を変えるとかいう(「変えた」んだっけ?)問題について、反対派の意見をいくつか読んだ。もちろん僕は偏見を持って斜め読みしただけど、「あなた/わたしは米粒ではなくて人間です」っていうタイプの文章が多かったような気がする。

 しかし和光大学の件からもわかるように、そういう真実とか正義を示すだけでは、ニワトリの「存在」は消えない。和光大学の本当の実力者はどう思ってるか知らないが、教員の多くはあきらかにこんなことはおかしいと思ってただろう。少なくとも上記の篠原はそうだ。彼らは米粒ではなく、人間であった。彼らはそのことを知っていた。しかし彼らは不安だった。「ニワトリ」はそれを知っているだろうかと。「ニワトリ」が彼女を「特異な存在」にしてしまうのではないかと。「ニワトリ」が「平穏」を乱すのではないかと。「ニワトリ」によって「自由」が侵されるのではないかと。

 だから和光大学は、それが教育基本法を踏みにじるものであるということも、被害者に「当惑や苦痛を与える」ということも、「社会の批判のありうる」ということも、み〜んなわかっていた。だからいくら批判しようとも、「想定の範囲内」ということになる。

 このように、日本社会で最も良心的と思われるような人々からして、そもそも教育基本法を守っていない。ではなんで今さらそれを変えることに反対するんだろうか?  今が良いってわけじゃない。けど、基本法を変えるともっと悪くなっちゃうんだ、っていうのが想定問答集的な回答だろう。まあそうかもしれない。

 しかし元々あってないようなものをめぐって大騒ぎすることには、もう一つ意味があったと思う。

 法律が改正前と改正後でどう変わるのかということは、僕には読んでもピンと来ない。しかしまあ、反対派の意見を聞くと、たしかにちょっと悪くなってるかもね、っていう部分もあるかもしれない。これからは、これまでやっていたようなことが、ストレートに合法的に行われるようになるだろう。これまでもやってたんだけど、ちょっとアクロバティックな法解釈が必要になることがあった。これからはそういう手間が省ける。

 しかしサヨクはこれに反対である。もうこれだけで世界が終わってしまうかのような勢いで反対している人もいる(なのに反対がないかのように新聞に書いてたりするのは困ったことだ)。こういった人々にとって、改正前の基本法は自分自身の夢の代弁のようなところがあった。だからこそ、受験料を払って試験に合格した人の入学を突然取り消すというようなことをするのは「苦渋の選択」であった。

 しかし「世間」というのは得たいが知れない。篠原は、被害者の入学を認めると「風評被害」があるかもしれないと(誰かが「恐れた」と)思ったが、逆に入学を拒否することによってかえってイメージが悪化する可能性もあると考えたそうだ。 和光大学はKYS(空気読み過ぎ)だったのかもしれない。

 教育関係者は、自分自身の基準に照らしても「悪」に手を染めている。彼らにとってしかし教育基本法は正義の象徴であった。実践においては「ニワトリ」を口実として不正義に振る舞いつつ、しかし自分は正義に身を捧げているのだという欺瞞を可能にしていたのが旧教育基本法である。教育基本法は、自民党とサヨク教育者の歴史的妥協によって維持されてきた。昔カナマルと社会党の議員が賭けマージャンをやりながら国会の乱闘シーンの打ち合わせをやってたみたいなものだ。

 教育基本法の精神を実践する者はそもそも存在しなかった。改正反対派が守ろうとしていたのは法律ではなく、このような役割分担によって維持されてきた外観である。その意味で、彼らの運動は成功だったと言える。彼らはこれからも教育現場において自分は米粒ではないと知りながら米粒であるかのように振る舞うことだろう。彼らは「ニワトリ」の被害者なのだ。

 さてここまで相当意地悪い悪口を書いてきたが、当然ながらこういうことは自己批判として(も)言わないとみっともない。守るべき「みっと」は最初からないかもしれないが。

 もちろん、僕にとっての「ニワトリ」とはこの欺瞞的サヨクたちである。「米粒ではなく人間であることがわかっていながらニワトリを言い訳にして米粒であるかのように振舞う」ことをジジェクの猿真似で批判してきた。しかしじゃああなたは人間として行動するんですかと言われると困ってしまう。

 自ら欺瞞に居直っているのだとしたら、いったい僕は他人の欺瞞を暴いて何をしようというのだろう?


 「和光大学教員有志」も基本法改正に反対の声明を出した。篠原によれば、これに際して現代人間学部の最首悟学部長(当時)は教授会に3年前の入学拒否事件に改めて向き合うことを提案したそうだ。篠原いわく、

この提案をめぐっては、いろいろな意見が出た。「大学・学部の教育・研究に関わる事項を審議する教授会にふさわしい議題なのか」「教育基本法「改正」問題と「三女」入学取消し問題は分けて議論するべきではないか」「二つの問題をくっつけてしまうことで、「三女」入学取消し問題が霧散してしまわないか」など。

 しかし、[最首]学部長は引かなかった。実は、学部長は、来春で定年退職を迎える。学部長は、今春就任する前から「三女入学取消し」問題では、折々に、学内外に、そして、自他に、厳しく問いかけていた。この提案は、定年を直前にした学部長としての思いを込めた置き土産のようにも思われてきた。ぼくも、まもなくその立場に立つことができた。こうして、採決の結果、この提案に賛成する者は過半数に達した[。]*2


 3年前[4年前]の事件については今さら何を言っても無駄だし、今なら何でも言えるだろう。しかし最首悟のこの提案は、人間が米粒ではなく人間として振舞うために踏み出さなければならない最初の一歩を踏み出すための一歩を示しているのかもしれないと思う。

 問題は、私が米粒ではなくて人間であるということを自覚するということではない。私は人間であって米粒ではない。私はそれを知っている。ところがそれを知らないニワトリに私は脅かされている――そういうカラクリを暴いてみても、それ自体がまた「ニワトリ」になってしまう。「メタル・ニワトリ」だ。そこで、なぜそういう存在しないニワトリに恐怖するのかということについて、経済的・心理的に分析したりすることになる。でもそれがまた「ニワトリ・キング」となってしまう。

 だから、「ニワトリの無知」の小咄から何かを学ぶのであれば、それはどこにもニワトリはいないから心配するなということであってはならない。そうではなくて、ニワトリに飲み込まれそうになってても、自分が米粒であるとしか思えなくても、あたかも人間であるかのように行動せよということである。

 そして東欧の民主化は、まさに『裸の王様』のラストシーンのように進行した。

 独裁者チャウシェシュクが最後の演説に立った時、広場に集まった群衆の中に彼を支持する者はほとんどいなかった。チャウシェシュク自身、もちろんそれはわかっていた。なのに彼がなぜのうのうと群集の前に自ら登場するような選択をしたのかというと、それまでもずっとそうだったからだ。これまでと同じように、誰も信じないような演説が行われ、誰も信じていないのに誰もが信じている「かのように」拍手喝采が行われるはずだった。

 ところがどこからともなくブーイングが始まる。あっという間に広がっていく。気がつくと隣に立っている奴までもがやっている。もう誰も止めることはできない。独裁者は演説の中断を余儀なくされる。

 人々は、この時はじめて「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人がしなくなった瞬間である。

 チャウシェシュクの最後の演説を阻止する声を最初に挙げた人は、まさに巨大なニワトリの足元にいた。最初の一人だけではない。集会をひっくり返したくらいでは革命が成功するとは限らないし、一国を転覆しても独裁者のボスみたいなのがやってきて元の木阿弥になってしまうこともあるから、チャウシェシュクの礼賛集会を糾弾集会にした人々には、いつニワトリに飲み込まれないという保証はなかったはずだ。

 現に東欧ではそれまでに何度も民主化運動が鎮圧されてきたのだ。「プラハの春」は一過性のものでしかなかったが、89年革命は革命たるべき条件が整っていたと言えるかもしれない。しかしそれは今になってから言えることであって、もし条件が整備されているという確信が持てるまで待ってたら、きっといまだに待っているのである。

 チャウシェシュクを打倒した人々は、米粒ではなくて人間であった。ニワトリはいなかった。彼らは米粒から人間にジョブチェンジしたわけではなく、最初から人間だった。しかしニワトリは元々いなかったと言えるのは、彼らがあたかもニワトリがいないかのように行動したからだ。従って人間の自由とは、人間が本来の姿を取り戻すことではなく、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことである。


シリーズ:自由と強制と(無)責任の政治学

『「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット』(前編後編

『「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」——グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について』

『テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」』

『反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する――はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論』

*1:「「改正」教基法の成立直前の職場から」『社会臨床雑誌』15巻1号, p. 67.

*2:p. 68.