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ニュルンベルク裁判

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ニュルンベルク裁判(―さいばん)は、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日 - 1946年10月1日)。最初の主な裁判 (Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT) と、それに続く12の裁判 (Nuremberg Military Tribunals, NMT)(こちらは1949年4月14日まで行われ、一般には「ニュルンベルク継続裁判」として、最初の主な裁判とは区別される)で構成された。

目次

概要

この裁判はナチス党の党大会が開催されていニュルンベルクで行われた。日本東京裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。

裁判官

判事は米国、イギリス、ソ連、フランスという連合国の主要国からそれぞれ2名ずつ選ばれた。

被告人

この裁判において裁かれるべき罪として次のものが挙げられた。

  1. 侵略戦争などの共謀への参加
  2. 侵略戦争などの計画、実行
  3. 戦争犯罪
  4. 非人道的犯罪

下表での数値は上記の4つの事項に対応する。

氏名 1 2 3 4 判決 付記
マルティン・ボルマン 起訴 不起訴 有罪 有罪 死刑 ナチ党官房長。裁判当時は行方不明のため、欠席裁判がおこなわれた(ベルリンの戦いで死亡したことが1973年に確認された)。
カール・デーニッツ 起訴 有罪 有罪 不起訴 禁固10年 Uボートによる通商破壊戦の企画実行者。1943年から海軍総司令官、海軍元帥。ヒトラーの後継大統領
ハンス・フランク 起訴 不起訴 有罪 有罪 死刑 ポーランド総督。
ヴィルヘルム・フリック 起訴 有罪 有罪 有罪 死刑 内務大臣→ボヘミア・モラヴィア保護領総督。
ハンス・フリッチェ 起訴 起訴 起訴 不起訴 無罪 宣伝省幹部(新聞局長→ラジオ放送局長)、人気のあったラジオニュースキャスター。
ヴァルター・フンク 起訴 有罪 有罪 有罪 終身刑 経済大臣・国立銀行総裁。1957年5月16日に病気により釈放。
ヘルマン・ゲーリング 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑 空軍総司令官、国家元帥、航空大臣。死刑執行前日に服毒自殺。
ルドルフ・ヘス 有罪 有罪 起訴 起訴 終身刑 ナチ党総統代理、無任所大臣。1941年イギリスへ和平交渉のために単独飛行、反逆罪に問われる。
アルフレート・ヨードル 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑 国防軍最高司令部作戦部長、上級大将。死後1953年、夫人の控訴に応じた西ドイツの裁判所はヨードル無罪を宣告したが、アメリカはこの判決の受け入れを拒否した。
エルンスト・カルテンブルンナー 起訴 不起訴 有罪 有罪 死刑 国家保安本部長官。秘密警察の最高責任者、戦後生き残った親衛隊の中で最高位(親衛隊大将)。
ヴィルヘルム・カイテル 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑 国防軍最高司令部総長、陸軍元帥。
グスタフ・クルップ 起訴 起訴 起訴 起訴 重工業企業家クルップ家の当主。体力的に裁判に耐えられず訴追されなかった。
ロベルト・ライ 起訴 起訴 起訴 起訴 ドイツ労働戦線指導者、無任所大臣。1945年10月25日、判決前に自殺。
コンスタンティン・フォン・ノイラート 有罪 有罪 有罪 有罪 禁固15年 第二次世界大戦開戦前の1938年までの
外務大臣ボヘミア・モラヴィア保護領総督。1954年11月6日に病気により釈放。
フランツ・フォン・パーペン 起訴 起訴 不起訴 不起訴 無罪 ワイマール共和国時代末期のドイツ首相→ヒトラー内閣の副首相→駐オーストリア大使→駐トルコ大使
エーリヒ・レーダー 起訴 有罪 起訴 不起訴 終身刑 ヒトラー政権の樹立に海軍として協力、1943年まで海軍総司令官。海軍元帥。1955年9月26日に病気により釈放。
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑 1938年から外務大臣、日独防共協定ならびに日独伊三国同盟の立役者。
アルフレート・ローゼンベルク 有罪 有罪 有罪 有罪 死刑 支配民族説の標榜者、『二十世紀の神話』の著者。ナチ党外交政策全国指導者。東方占領地域大臣。
フリッツ・ザウケル 起訴 起訴 有罪 有罪 死刑 労働力利用長官・チューリンゲン大管区指導者。軍需生産のためのヨーロッパ各国より強制連行・強制労働の総責任者
ヒャルマール・シャハト 起訴 起訴 不起訴 不起訴 無罪 国立銀行総裁→経済大臣
バルドゥール・フォン・シーラッハ 有罪 不起訴 不起訴 有罪 禁固20年 1940年までヒトラー・ユーゲント指導者(ナチ党青少年全国指導者)→ウィーン大管区指導者
アルトゥル・ザイス=インクヴァルト 起訴 有罪 有罪 有罪 死刑 オーストリア・ナチス指導者(独墺合邦の立役者)。オーストリア内相→同首相→独墺合邦後のオーストリア総督→ポーランド副総督→オランダ総督
アルベルト・シュペーア 不起訴 不起訴 有罪 有罪 禁固20年 ヒトラーお気に入りの建築家で総統官邸の設計者。1942年から軍需大臣。
ユリウス・シュトライヒャー 起訴 不起訴 不起訴 有罪 死刑 反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー』の発行者。1940年までフランコニア大管区指導者。

裁判への批判

この軍事法廷は「勝者の連合国によって敗者のドイツを裁く」という異例な形式の裁判で、「法廷は法を発見する場所」という、英米法的な「裁判」の考え方を基礎に進行された。そのため、日本ドイツの欧州大陸法的な常識(法の不遡及)からは「法廷による法の創造」が行われた違法な裁判との批判が当時から現在まで根強くある。ドイツの指導者を裁いたニュルンベルク裁判に対する批判は、日本ではあまり知られていない。しかしながら、ニュルンベルク裁判に対する批判は数多くあり[1] 、批判の中には以下の様な物がある。

ニュルンベルク裁判における全ての裁判官がアメリカ、イギリス、ソ連、フランスという戦勝国だけから出て居た為、これが戦勝国による軍事裁判であることを考慮したとしても、裁判の中立性を著しく欠いていた。例えば東京裁判と比べても、それが言える。[2]


ハーラン・フィスケ・ストーン判事(Harlan Fiske Stone、当時アメリカ最高裁・裁判長でジャクソン判事の上司)は、雑誌フォーチュンの記者とのインタビューで次のように答えている 。(ジャクソン判事 (Robert H. Jackson) はニュルンベルク裁判・アメリカ検事団長)

ニュルンベルク裁判は、戦勝国が敗戦国に正当性を押し付けた裁判でした。つまり、敗戦国が侵略戦争を行ったというわけです。しかし私は今でも残念に思いますが、ニュルンベルク裁判は法的には全く根拠を欠いた裁判でした。それは裁判ではなく、戦勝国の政治行動だったというのが、最も正しい言い方でしょう。
ニュルンベルク裁判はコモン・ロー〔不文法〕、あるいは憲法の装いの下で罪人を裁いたのであり、これが私を考え込ませています。私たちはある命題を支持してしまったようです。つまり、いかなる戦争においても、敗戦国の指導者は戦勝国によって処刑されねばならない、という命題です。

ニュルンベルク裁判の裁判官がすべてアメリカ、イギリス、ソ連、フランスという戦勝国だけから出ており、裁判の中立性を全く欠いていた事や検事側スタッフ(尋問官その他)のなかには、欧州からの亡命者が多く、その為に裁判は「復讐裁判」的な色彩を一層強くしたという指摘もある。ニュルンベルク裁判の判事を勤めたが、裁判の手続きを批判して辞任したアメリカ高裁のウェナストラム判事 (Charles F. Wennerstrum)[3]は、こう述べている。

今日知っているようなことを数ヶ月前に知っていたとすれば、ここ(ニュルンベルク)にやってきたりはしなかったであろう。明らかに、戦争の勝者は、戦争犯罪の最良の判事ではなかった。法廷は、そのメンバーを任命した国よりもあらゆる種類の人類を代表するように努めるべきであった。ここでは、戦争犯罪はアメリカ人、ロシア人、イギリス人、フランス人によって起訴され、裁かれた。彼らは、多くの時間と努力、誇張した表現を使って、連合国を免責し、第二次大戦の唯一の責任をドイツに負わせようとした。裁判の民族的な偏りについて私が述べたことは、検事側にも当てはまる。これらの裁判を設立する動機として宣言された高い理想は、実現されなかった。検事側は、復讐心、有罪判決を求める個人的な野心に影響されて、客観性を維持することを怠った。将来の戦争に歯止めをかけるためになるような先例を作り出す努力も怠った。ドイツは有罪ではなかった。ここでの全体的な雰囲気は不健康であった。法律家、書記、通訳、調査官はつい最近にアメリカ人となった人々(亡命したユダヤ系住民の事)が雇われていた。これらの人々の個人的な過去は、ヨーロッパへの偏見と憎悪に満ちていた。'裁判は、ドイツ人に自分たちの指導者の有罪を納得させるはずであったが、実際には、自分たちの指導者は凶暴な征服者との戦争に負けただけだと確信させたにすぎなかった。証拠の大半は、何トンもの捕獲資料から選別された資料であった。選別を行なったのは検事側であった。弁護側がアクセスできたのは、検事側がふさわしいとみなした資料だけであった。…また、アメリカ的正義感からすれば嫌悪すべきなのは、検事側が、2年半以上も拘禁され、弁護士の立会いもなく繰り返し尋問を受けた被告による自白に頼っていることである。控訴権もないことも正義が否定されているとの感を受ける。…ドイツ国民は裁判についての情報をもっと多く受けとるべきであり、ドイツ人被告には国連に控訴する権利を与えるべきである。

“Nazi Trial Judge Rips ‘Injustice,’” Chicago Tribune, Feb. 23,1948

免責された戦勝国の犯罪

ニュルンベルク裁判の大きな問題点はドイツ側の(戦勝国の憶測による犯罪も含む)「犯罪」を一方的に断罪したが、戦勝国側の「犯罪」を完全に免責するという基準を持っていた事である。[4] そもそも大戦の原因となったポーランドによるダンツィヒ領の占有問題、1939年9月3日のフランス、イギリスによるドイツへの一方的な宣戦布告は断罪されなかった。また、1939年9月ドイツによる西からのポーランドへの侵攻を侵略だとすれば、同じ時期に東からポーランドに侵攻したソ連も侵略国であり、1939年11月のフィンランドとソ連の冬戦争では、ソ連は侵略の罪状で国際連盟から追放されているにもかかわらず、ニュルンベルク裁判では、ドイツに対しては「平和に対する罪」で告発したが、ソ連の「平和に対する罪」は不問に付された。 連合軍によるドイツへの無差別爆撃(日本本土への爆弾投下量の10倍にも当たる150万トンもの爆弾がドイツ本土に投下され、少なくとも30万人の非戦闘員が犠牲になった。その中でも無防備と化していたドレスデンに対する無差別爆撃は特筆に価する)や、ソ連軍の侵攻によってドイツのソ連占領地区で起きた、ソ連軍兵士による想像を絶する強姦・暴行・殺人事件も裁判では不問とされた。

終戦前後のアメリカ軍によるドイツ人捕虜への虐待による大量死問題も闇に葬られた。ジェームズ・バクー (James Bacque) の『消えた百万人』では以下の様な指摘がある。

戦争終結直前の1945年4月以降、野ざらし、不衛生な環境、病気、飢餓がもとで、膨大な数のあらゆる年齢層の男たちに加えて、女子供までが、ドイツのフランスの収容所で死んだ。その数は、確実に80万を超えたし、90万以上であったこともほぼ確実であり、100万を越えた可能性すら十分にある。捕虜の生命を維持する手段を持ちながら、あえて座視した軍によってこの惨事は引き起こされた。救恤団体の救援の手は米軍によって阻まれた。

他に連合軍、ソ連の戦争犯罪には、戦時国際法に違反したレジスタンスパルチザン)活動の積極的な支援がある。[5]

ロンドン協定への批判

1945年8月8日、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝連合国はロンドン協定 (London Charter of the International Military Tribunal) を定めて、裁判の法的枠組みを設定した。しかし、近代刑法における原則である法の不遡及が守られず、被告の控訴は否認され、恣意的な裁判審理手続きを定めた裁判は、近代裁判とはかけ離れていた。

例えば、人道に対する罪とか平和に対する罪は、法廷が設置される以前には存在しておらず、間に合わせに作り出され、法的な基準に反して、遡及的に適用された。

第13条は法廷は独自の裁判審理手続きを定めると決定している。[6]
第18条は国際軍事法廷の本質を明確に現している。
「第18条 起訴事実に関係のない案件および陳述は、その種類のいかんを問わず、一切除外する[7] 弁護側に許されているのは、起訴状にある罪状についてのみ弁護活動ができるだけで、そもそもの戦争の原因となったドイツ経済を崩壊し、ドイツ領土を周辺国に割譲させ、ヒトラーを台頭させたヴェルサイユ条約に対する批判など、ドイツに有利であり、連合国に不利な弁護活動は禁止された。
第19条により証拠の採用基準がまったく存在しない。
「第19条 法廷は、迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し、かつ、適用し、法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものである。」[8]
第21条により連合国当局やソ連、共産国家の人民委員会が文書、報告書、記録で確定した全ての事は、顕著な事実と認められる。
「第21条 法廷は、「公知の事実」については、証明を求めることなく、これを法廷に事実と認める。法廷は、戦争犯罪捜査のため同盟諸国において設立された委員会の決議および文書を含む、連合諸国の公文書および報告書並びにいずれかの連合国の軍事法廷またはその他の法廷の記録や判決書をも、同様に法廷に顕著な事実と認める。[9]

この「公知の事実」にはカティンの森事件など、現在では捏造事件だと判明している事も含まれている。

第26条は控訴を全く認めていない[10]

アメリカ合衆国最高裁・裁判長ハーラン・フィスケ・ストーン判事 (Harlan Fiske Stone) は、ニュルンベルク裁判は連合国による集団リンチであると述べている。

検事ジャクソンは、ニュルンベルクで高度な集団リンチを行なっている。(high-grade lynching party in Nuremderg)彼がナチスに何をしているのかについては気にかけていないが、彼が法廷と審理をコモン・ローにしたがって運営しているという振りをしているのを見ることは耐え難い。

Alpheus T. Mason, Harlan Fiske Stone: Pillar of the Law, Viking, New York 1956, p.716.

冤罪や誇張

ニュルンベルク裁判では、ドイツ側の戦争犯罪が告発されたが、その中には現在冤罪であった事がはっきり判っているものもある。例えばカティンの森事件は、今日ではロシア政府も当時のソ連が虐殺を実行したと認めている事件であるが、ニュルンベルク裁判当時は、ソ連検事は虐殺の責任をドイツに押し付けた。この事件はソ連が崩壊するまでドイツによる仕業と信じられていた。

大戦中、ポーランドのイェドヴァブネ村で起こった虐殺事件(イェドヴァブネ事件)も、最近までずっとドイツ軍による虐殺と信じられていたが、現地調査により実際にはポーランド人の手によって虐殺事件が行なわれた事が判明している。

ダッハウ強制収容所などドイツ国内にあったとされていた大量殺害を行なうためのガス室を備えた絶滅収容所[11][12]や、戦争中に生産されたという人間石鹸もまた現在では否定されている。[13][14] [15] [16]

1945年1月27日、ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所に到達し、約7500名の収容者がソ連兵士によって解放された。ニュルンベルク裁判でソ連検事は、アウシュヴィッツで「400万人」が虐殺されたと告発した。ルドルフ・フェルディナント・ヘス(アウシュヴィッツ収容所の所長)も裁判で「250万人がガス室で殺され、そのほか50万人が飢えと病気で死亡した」と証言している。(ヘースは尋問の際にリンチを受けている)

しかし、現在ではこの人数は公式に否定されている。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、ソ連崩壊後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められた。世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。これらの数字については疑問視している研究家も居る。

ラウル・ヒルバーグRaul Hilberg, ユダヤ系の研究家)「約100万人」のユダヤ人が殺された。25万以上の非ユダヤ人が死亡した。(1985年)ユネスコの数字とほぼ同じ。

ジェラルド・ライトリンガー(Gerald Reitlinger)「80万 - 90万人」(1953年)

ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac)「63万人から71万人」(そのうち47万人から55万人がガス処刑されたユダヤ人であった。)(1994年)

フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer)「50万人」(そのうちガス処刑による犠牲者は35万人であった)(2003年)

アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz)教授らホロコースト修正主義者たちはもっと少ない数字を挙げている。アウシュヴィッツの死者の総数は「15万に達するが、そのうち約10万がユダヤ人であった。」大半のユダヤ人は殺されたのではなく、とくにチフスの疫病によって死んだのである。殺虫剤チクロンBはガス処刑にではなくチフスを媒介するシラミを駆除するために使用されたと主張している。このような議論は、欧州の国によっては法律で禁止されており、実際に逮捕者が出てるにも関わらず、ますます激化している。[17]

被告に対する暴行や弁護団への不法行為

アウシュヴィッツ議論や、カティンの森事件のような冤罪が起こった原因の一つとして挙げられるのは、ニュルンベルク裁判での証拠採用基準は近代の裁判基準から大きく逸脱しており、通常の裁判でならば、信頼できないものとして却下されるような伝聞証言が、犯罪を立証する証拠として採用され、弁護団には裁判資料を閲覧する機会、検事側の証人に対する反対尋問の機会がほとんど与えられず、その一方で弁護側の証人は様々な脅迫を受けて、出廷を妨げられたり、退廷させられたりしたからだという。もっと問題であるのは、被告が逮捕・尋問の過程で脅迫ひいては拷問を受け、自白を迫られていることである。ドイツ近代史の専門家であり、ミュンヘン大学教授でもあったヴェルナー・マーザー教授・博士 (Werner Maser) はこの問題点について、こう述べている。

弁護団の証人や援助者は、ときどき頃合いをみて、また執拗に脅迫を受けたりして、強引に出廷させてもらえなかったり、あるいは退廷させられたりすることも珍しくなく、さらには自分たちの声名を検閲されたり、押収されたりしたうえで、検察側の証人にされたりした。1956年5月になってやっと刑務所入りをしたオズワルド・ポール (Oswald Pohl) は、アメリカおよびイギリス役人から尋問を受ける際、椅子に縛りつけられ、意識を失うほど殴りつけられ、足を踏まれ、ついにワルター・フンク (Walther Funk) の有罪を証明するものを文書で出すと約束するまで虐待された。
これに反して検察側によって証人やその文書の申し立てを適切とみなされた時はいつも、それらは法廷では自由に使用することができた。しかし検察側の一定の証人たちが、ややもすると、弁護団側の反対尋問にもちこたえられそうもないと判断されると、検察側や法廷は単なる宣誓供述書で満足するのだった。この種の宣誓供述書は、裁判の経過中に、数千通も書かれたのであった。」

ヴェルナー・マーザー 著、西義之 訳『ニュルンベルク裁判』

脚注

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参考文献

  • ペーター・プシビルスキ 著\宮野悦義、稲野強 訳『裁かれざるナチス ニュルンベルク裁判とその後』(大月書店、1979年) ISBN 4-272-53005-4
  • ヴェルナー・マーザー 著\西義之 訳『ニュルンベルク裁判 ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』(阪急コミュニケーションズ、1979年) ISBN 4-484-00053-9
  • ジョゼフ・E・パーシコ 著\白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判』上、下(原書房、1996年、2003年新装版)
ISBN 4-562-03652-4、下 ISBN 4-562-03653-2
  • レオン・ゴールデンソーン 著\ロバート・ジェラトリー 編\小林等、高橋早苗、浅岡政子 訳『ニュルンベルク・インタビュー』上、下(河出書房新社、2005年)
ISBN 4-309-22440-7、下 ISBN 4-309-22441-5
  • ジェームズ・バグー 著\申橋昭 訳『消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所、死のキャンプへの道』(光人社、1995年新装版) ISBN 4-7698-0665-5

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ



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