2008-04-22
メンヘルCatch-22――光市母子殺害事件、不当判決についての雑感
光母子殺害、元少年に死刑判決 広島高裁差し戻し控訴審 2008年04月22日13時22分
http://www.asahi.com/national/update/0422/OSK200804220010.html
たとえば、どの求人広告にも「経験者のみ応募可」と指定があったとしよう。この場合、経験なしでは就職できない一方で、仕事がなければ経験を得ることができないことになる。
こんなふうに、選択に開かれているようでありながら結局は「ニワトリとタマゴ」のような悪循環によって袋小路にはまってしまうような規則や慣行のことを英語ではCatch-22という。そういう題名の映画(元は小説)にちなんだ表現である。
僕は映画の一部を何年か前にテレビで観ただけなんだけど、けっこう面白かった。第二次大戦中の話で、主人公は米軍の爆撃部隊に所属している。で、あまりにも無謀な突撃空襲を命じられた彼は、なんとかその任務から逃れようとする。頭がおかしくなったら免除されるはずだと彼は考えるんだけど、診断を求められた医者は彼にCatch-22という軍規を説明する。それによれば、実在の危険を前にして身の安全を考えるのは、理性的な思考をしている証拠である。もし狂っているのであれば爆撃任務を免除される。ただ申請すればいいだけだ。しかし免除を申請するということは正気であることを示しているので、作戦に参加しなければならない……。
ここでは精神病(主に統合失調症)がネタになっている。しかし皮肉なのは、現実のメンヘラー自身がしばしばこのCatch-22的な状況に直面するということだ。
たとえば医者とのコミュニケーションや作業所などへの適応といった場面においてである。患者は医者の前で社会人としてのマナーを守らなければならない。しかしそもそも社会常識に忠実でないから病気ということになるのである。医者は病人を相手にするのが仕事なわけだから、患者が非常識な行動をとろうとも、権威に刃向うような発言があろうとも、動ずることがあってはならない。不快であったとしても、それをオモテに出してはならない。
っていうのが教科書的なタテマエだけれども、これは実際には難しいようだ。まあ、小学校の先生が小学生相手にマジギレするのと同じだね。
たとえば僕は、喫茶店で本を読んでいる時に周りの人がしゃべっててもあんまり気にならない。しかし図書館で座談会を開催してる方々がいるとイライラする。つまり実際の被害は同じでも(「被害」がなくても)、僕のように「くそまじめの精神」を持っていると、規範に違反してるということにこそムカつくわけだ。
医者の前で非常識に振舞うというのはこれと似たところがあると思う。医者はエライ人なんであって、患者は常に一定の敬意を示し続けるべきである。これ 「常考」。
だから医者は患者のマナー違反を前にして、ただ非常識に寛容であるだけでなく、常識的であるべきシチュエーションで非常識であるという二重の非常識に対して寛容であるという難しいワザを要求される。しかし医者も人の子なので、そういうことができないこともあるのだ。
というわけで、病人が病的な行動をとったがゆえにクリニックや作業所から出入り禁止をくらうという笑うに笑えないというか、泣きながら笑えるというか、ただ泣きぬれてたわむる相手のカニさえいないハメになっちゃうことがある。
病人には病人が歩むべき道が用意されている。そういうもの自体を否定する考え方もある。だがそもそも、そういう決められた道を歩くというのも並大抵のことではなかったりする。たとえば一般向けの医学書には、精神病になったらこんな制度があるとかこういう場所があるとかこうすべきだとかああしてはいけないとか書いてある。けれども、それが良いことなのかどうかはともかくとして、その通りにできないような人だからこそ病気という診断がありうるのであって……という、これはまさにCatch-22である。あれ、違うかな? まあ厳密には違うかもしれないけどなんか似てるとこがある。ような気がする。
Wikipediaによると、『キャッチ22』の著者が示す解決策は、逃亡することが不可能であるような状況から逃亡するということなんだそうである。
なんか難しくてよくわからない。
けども自由とはそういうことであると思う。そして僕が[シリーズ:自由と強制と(無)責任の政治学]において考えようとしているのはまさにそのことだ。
「荒唐無稽」。「不自然」。「非人間的」。
今回の判決に含まれる楢崎康英裁判長の言葉だ。これまでにもマスコミや一部のブログで繰り返し目にしてきた表現。その空気をうまく汲み取った判決なのかもしれない。
だが、まさに荒唐無稽であるがゆえにメンヘルなのではないか? 「人間」というカテゴリーから排泄された外部がメンヘラーなのではないか? あるいは逆に、メンヘルという「外部」を設定することによってはじめて成立するのが「人間」なのではないか? そしてもし裁判官やマスコミがすんなりと納得できるような「動機」なり経緯なりが用意されたとしたら、それもまた彼の「責任能力」を証明するものと見なされるのではないか?
我々は学校で駅でデパートで町中で、メンヘルをメンヘルとして扱っている。メンヘラーはその社会で生きている。そのことを我々は知っているはずだ。我々がふだんメンヘラーにどんな仕打ちをしているか知っているはずだ。そして最後の最後の瞬間にだけ、気前よく「責任能力」を認定してやろうというのだ。
「人間」たちよ。「平和」を脅かされる「被害者」たちよ。諸君は、我々は、卑怯だ。
- 出版社/メーカー: パラマウント ジャパン
- 発売日: 2006/07/03
- メディア: DVD
「メンヘル」という言葉はとかく誤解を受けやすい言葉であり、差別に直結する言葉です。
今回の光市の母子殺害事件を文章の初頭に挙げられているのですが、この判決と「メンヘラー」との関係が今ひとつつかめません。
というか、「メンヘラー」と、被告人のジレンマとは何の関連もないのではないでしょうか?
「メンヘラー」という言葉は、catch22というジレンマを表すためだけの言葉であって、この文章の主題が「メンヘル」ではなく、光市の事件と被告人のジレンマである、と言う認識でよろしいでしょうか。
それですと、タイトルに「メンヘル」という言葉が入るのはいかがかと思います。
ご一考いただければ幸いです。
モスバーガーには、ハンバーグもバンもケチャップもタマネギその他も含まれています。全部合わせてモスバーガーです。
さて、今回の裁判の争点の一つは被告の法的「責任能力」の有無でした。そしてそれと切り離せないキーワードが「メンヘル」であり、その証明の困難を表す言葉がCatch-22です。
「メンヘル」というと、世間的には統合失調症もうつ病も躁病も境界性人格障害もありとあらゆる精神疾患が含まれる上、「それ以上のもの」が含まれてしまいます。それは、「普通じゃない」という排除の視点です。
「メンヘル」という言葉と犯罪を安易に結びつけるのは大変危険だと私は認識しています。軽度のうつ病の方が、あのような異常犯罪を起こす猟奇殺人者と同じカテゴリーに入れられてしまうことは、どうしても私には納得できません。
上記の主張に変更はないのですが、続きはブログに書くことにします。
お騒がせしました。
コメントです。いろいろ思う所がたくさんあったのですが、かなり
精神力を使うので書ききれそうにないです。なので、一つだけ。
>病人には病人が歩むべき道が用意されている。
これはtoledさんの考え方ですか?
それとも何か、出典元はあるのでしょうか。
この一文に、とても傷つきました。
数年ぶりに、悲しくて、ショックで、泣きそうになりました。
コメントです。いろいろ思う所がたくさんあったのですが、かなり
精神力を使うので書ききれそうにないです。なので、一つだけ。
>病人には病人が歩むべき道が用意されている。
これはtoledさんの考え方ですか?
それとも何か、出典元はあるのでしょうか。
この一文に、とても傷つきました。
数年ぶりに、悲しくて、ショックで、泣きそうになりました。
申し訳ございません。
>病人には病人が歩むべき道が用意されている。
これは後の文脈からしても肯定的に捉えていい言葉だと思う。
病気を「治す」ことで健常者になるのではなく、病気である私を受けいれて生きる覚悟をすること、それを「病人の歩むべき道」と言っているのでは?(もっとも私自身精神科に通院する身なので、こういう指摘が耳に痛い気持ちもありますが。)
とにかく、差別であろうとなんであろうといちど我が身に引き受けて、そこから周囲の認識自体を変えさせるくらいのな動きをすることができなければいけないんだけど、そこは「メンヘラ」という弱みが邪魔をするんだな…
どうもこんにちは。
うつ病の患者・家族向けの本をご覧になったことがありますか?
多くの場合、「発病→受診→服薬開始・認知療法etc.→回復」という「モデル」ストーリーが用意されています。「病人には病人が歩むべき道が用意されている」と書いたのはそのことです。
しかし、実際にこのようにうまくいくケースばかりではありません。薬が効かないこともあるし、医者との関係がこじれてしまうこともある。何年も、あるいは一生、病気と共に生きていくのかもしれない。
つまり僕が言いたかったのは、啓発書や製薬会社のパンフレットで描かれる通りに行かないこともある。ということです。
ところが、世間は、そのような「病人の歩むべき道」からも逸脱するような病人に冷たい。それはとても悲しいことだと僕は思ってます。
私の認識が間違っている事に気付きました。
>病人には病人が歩むべき道が用意されている
これを私は「病人は死ぬまで病人らしくしていれば良い。病人は死ぬまで苦しめ」と
解釈してしまいました。
なぜこののように解釈したのか。
それは「自分の病気はもう治らない。一生付いてまわるものだ」という考えが根底にあったためです。
ですので、toledさんのレスでちょっとびっくりしてしまいました。
>「発病→受診→服薬開始・認知療法etc.→回復」という「モデル」ストーリーが用意されています。
この最後の「回復」という可能性自体を、既に自分が放棄してしまっていたので、そのストーリーに気付けませんでした(もちろん、厳密には「回復」したいと思っていますし、「回復」を全て放棄したわけではありません)。
症状の「緩和」はあっても、「回復」という状態を想像できなくなっている事に、今回気付かされました。
確かに書籍などでは「モデル」ストーリーが用意されていますよなぁと思いました。
エントリ自体の本筋に触れず、その中の一文だけを拡大解釈(しかも誤認識)してしまい、すみませんでした。
KYさん
コメントありがとうございます。
>これは後の文脈からしても肯定的に捉えていい言葉だと思う。
仰る通りでしたね。
>病気を「治す」ことで健常者になるのではなく、病気である私を受けいれて生きる覚悟をすること、それを「病人の歩むべき道」と言っているのでは?
この考えが自分の中でネガティブと混ざり合い、「回復」という考えに至りませんでした。
何というか、ネガティブもほどほどにしとけ、と自分に言い聞かせようと思います。
人でも殺すしか方法が無いな。人を殺した人間が精神の病理を理由に刑罰を免れ、医療措置としての強制入院を言い渡される事を世論の大多数は許容し難いだろう。」などと考えた事があった。
それが今回の話題とかぶっているかな?と思ってこの書き込みをした。