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【国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56戦争の天才と謀略の天才の戦い60〜66東條内閣の和平努力】

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【東條内閣の和平努力】

 

60、組閣の大命、東條英機に下る

 

近衛は辞表を捧呈した後、木戸内大臣と後継首班について相談し、

 

 「政治的にみれば、海相よりは陸相の方が適任と思う。且つ陸相は、表面は日米交渉の継続に反対したことになって居るが、両三日来の話によっても分かるように、海軍の意向がはっきりせぬ以上は、一度御破算にして案を練り直すということも言っている位だから、陸相が大命を拝したからと云って直ちに戦争に突入することもないと考える」 

 

という理由を挙げて東條陸相を推薦した。昭和天皇から近衛内閣総辞職に伴う前後処置に就き御下問を受けた木戸は、翌十七日、重臣会議で皇族内閣に反対し、

 

1、東條は海軍に確信がなければ対米戦はできぬと云っているのだから、東條が新内閣を組織してもそれは対米戦を意味することにはならない。組閣下命の際、陛下から東條に御言葉を賜るなら、それも一つの難局打開策であろう。

2、東條は海軍が開戦に反対なら戦争はできぬという思慮深い考え方になってきている。

3、東條は特に勅命を厳格に遵守する。彼が九月六日御前会議決定の実行を主張したのもこのためである。それ故、もし陛下が九月六日御前会議決定を反古とされ新たな見地での再検討を下命されるなら東條は勅命に従って方針を変更するに違いない。

4、もし主戦派と思われている陸軍が国政を担当し、死力を尽くして対米改善に努力したなら米国の疑惑も解消するであろう。

 

等の理由を挙げ東條を奏薦した。昭和天皇は後継内閣組閣の大命を東條陸相に下され、木戸を通じて「九月六日の御前会議決定にとらわれることなく、内外の情勢を更に広く深く検討し慎重なる考究を加うることを要す」との御言葉を伝えられた(1)。

これが所謂「白紙還元の御諚」である。大命を受けた東條は、予期していなかっただけに茫然自失の体であったという。

 近衛と木戸は八月二日より後継首班について話し合っており、二人の東條奏薦は熟慮の結果と見られる。なぜ彼等は東條によって推薦された和平論者の陸軍大将、東久邇宮稔彦王を奏薦せず、近衛の辞表とは正反対の理由を挙げて東條を奏薦したのか?

 戦後の歴史学者は敗戦後に出された回顧録や証言に惑わされ明確な解答を出せないが、実は戦時中すでに、近衛の最高政治幕僚、尾崎秀実が、東條奏薦の理由を含め第二次世界大戦の真実を粉飾なく語っているのである。これについては後述する。

 大命降下後、東條は明治神宮、東郷神社、靖国神社を歴拝した。我が国の神々の御加護を得て白紙還元の御諚を実現し日米和平交渉を妥結しようと決意を固めたのであろう。彼は和平論者の東郷茂徳に外相として入閣するよう要請した。東郷は、

 

 「陸軍が支那駐兵について従来の様な強硬態度を続けるなら、外交交渉は不可能に決まっているから、外相は引き受けられぬ」

 

と断ると、東條は、

 

 「支那駐兵の問題を含め、日米交渉上の諸問題は再検討されるべきであり、陸軍も合理的基礎の上に協力する」

 

と確答し、東郷は外相就任を受諾した。さらに蔵相就任を要請された賀屋興宣は東條に個別会談を求めて、

 

 「貴下は日米開戦を決意しているのかどうか、内閣と統帥部との間に一致を欠くとの世評があるが、これでは日米和平交渉の成立も平和の維持も覚つかないが貴見いかに」

 

と尋ねると、東條は、

 

 「日米開戦を決意しているようなことは全くない。反対に、日米交渉に努力して何とか成立を期したいと思っている。また政府と統帥部の協調一致について十分努力するつもりである」

 

と明答し、賀屋に蔵相就任を受諾せしめ、さらに東條自身が陸相と内相を兼務することを決意した。これは「和平」と決する場合、陸軍内の統制を維持し、国内の混乱に対処する為の措置であった(2)。十七日朝日新聞朝刊の有題無題欄は、

 

 「国民の覚悟は出来ている。ひじきの塩漬で国難に処せんとする決意はすでに立っている。待つところは『進め』の大号令のみ」

 

と一般国民はおろか政府に対しても日米開戦を煽動しており、朝日新聞社に洗脳されて日米和平に反発する大衆の暴動が予想されたからである。

 

(1)【木戸幸一関係文書】四八一〜四九一頁、矢部【近衛文麿下】三九七〜四〇八頁。

(2)伊藤隆【東條内閣総理大臣機密記録】四七八頁。

 

 

 

61、東條内閣発足

 

斯くして昭和十六年十月十八日、東條内閣は、国内の鬼畜米英(討米)世論を敵に回してABCD対日包囲陣下の日米和平交渉を妥結しなければならない重大かつ困難な使命を背負って発足した。これが彼らに加えた重圧は、尋常の人間をたちまち押し潰し悶絶昏倒させるほど苛酷であったに違いない。東條内閣の苦悩たるや想像を絶するものがある。   

十月二十三日から連日に亘って大本営政府連絡会議が開かれ、三十一日、東條首相が、

 

第一案 新提案による交渉不成立の場合にも戦争を回避して臥薪嘗胆につくこと。

第二案 ただちに開戦を決意し、政戦略の諸施策をこの方針に集中すること。

第三案 戦争決意の下に作戦準備の完整に進む一方、外交施策を続行してこれが妥結に努むること。

 

から成る国策方針を連絡会議の出席者に内示し、十分予備検討の上で翌日の連絡会議にて意見を述べることを求めたところ、十一月一日の連絡会議において午前九時から十七時間にも及ぶ大激論が交わされることになった。  

 まず第一案が審議され、永野軍令部総長が第一案を「最下策」と断じ、

 

 「米国の戦備は日ごとに強化され、日本は日ごとにジリ貧になりつつある(海軍は一時間に四百トンの油を消費していた)。今日をおいては、日本がアメリカと戦う時機はなく、今日の機を逸すれば、開戦の機は米国の手に委ねられて、再び我に帰る日はない」

 

と主張すると、賀屋蔵相と東郷外相から質問を受けた。

 

賀屋「このまま戦争せずに推移し三年後に米艦隊が侵攻してきますか。」

永野「不明だ。五分五分だと思っていただく。」

賀屋「私は来ないと思う。」

東郷「私も米艦隊が攻撃に来るとは思わない。いま戦争する必要はないと思う。」

永野「来らざるを恃む勿れ、ということもある。先は不明、安心できぬ。三年たてば、南の防備が強くなる。敵艦も増える。」

賀屋「それじゃ、いつ戦争したら勝てるのか。」

永野「いま!戦機はあとには来ぬ。」

 

 当時、戦艦、空母、巡洋艦など主力艦の保有数では、我が帝国海軍はアメリカ太平洋艦隊を上回っており、これが永野総長の自信となって表れたのである。だが我が海軍が、開戦後にアメリカ海軍を撃破しても、アメリカの根拠地は我が軍の攻撃圏外にある以上、我が国は武力によってアメリカを屈服させることはできず、当然三年以内に戦争が終結する保証は無く、またアメリカ海軍は優勢な日本海軍との決戦を回避して艦隊保全主義を採り、戦力の充実を待って反撃して来るかも知れない。だから東郷外相は、

 

 「戦争は、九十九回勝っても最後の一戦に負けた者が敗者だ」

 

と言い、賀屋蔵相は不安を表明したが、第一案は否決されてしまい、第二案の即時決意案の検討に移った。だが第二案も参謀本部を除く全員の反対によって否決され、結局、第三案が論議されることになり外交期限が検討された。まず伊藤(整一)軍令部次長が口火を切り、

 

 「海軍としては十一月二十日まで外交をやって宜しい」   

 

と言うと、

 

塚田「陸軍としては十一月十三日までだ。」

東郷「十一月十三日はあまりひどい。海軍は十一月二十日といっているではないですか。」

塚田「作戦準備が作戦行動そのものです。飛行機や水上、水中艦船などは衝突を起します。だから、外交打ち切りの時期は、この作戦準備の中で、ほとんど作戦行動とみなすべき、活発な準備の前日まででなければいけません。これが十一月十三日です。」

永野「小衝突は局部的衝突で、戦争ではない。」

東條及東郷「外交と作戦と平行してやるのだから、外交が成功したら戦争発起をやめることをうけあってくれねば困る。」

塚田「それはだめです。十一月十三日までならよろしいが、それ以後は統帥を乱します。」

嶋田「(伊藤次長に向かい)発起の二昼夜くらい前までは、よいだろう。」

塚田「黙っていて下さい。そんなことはだめです。一体、外相の必要とする期日とは、何日ですか。」

 

 ここで二十分の休憩となり、陸軍参謀本部と海軍軍令部は外交期限を検討し、再開された連絡会議にて参謀本部は政府側に譲歩し、外交期限十一月三十日迄、とした。

 

東條「十二月一日はならぬか。一日でもいいから、長く外交をやらせることはできぬか。」

塚田「絶対にいけません。十一月三十日以上は、絶対いかん、いかんです。」

嶋田「塚田君。十一月三十日は何時までだ。夜十二時までは、いいだろう。」

塚田「夜十二時までは、宜しい。」

 

 交渉期限が十一月三十日(十二月一日午前零時)と決定され後、東郷外相は交渉条件として甲乙案を提示した。

 

「甲案」

1、日本は、通商無差別原則が全世界にも適用さるる条件の下に於いて、支那に於いてもその適用を承諾する。

2、三国同盟の関係は、自衛権の範囲を極端に拡大せざることを期待するとともに、日本政府は条約の適用を自主的に決定する。

3、日本国軍隊は、北支、蒙疆の一定地域及び海南島に一部の兵力を所要期間(註、二十五年見当)駐屯せしむべく、他は日支和平成立後二ヶ年以内に撤兵を完了す。また支那事変が解決しまたは公正なる極東平和確立するに於いては、日本軍隊は直ちに仏印より全部の兵力を撤去す。   

 

「乙案(甲案不成立の場合の代替案)」

1、日米両国の東南アジア及び南太平洋地域に対する武力的不進出。

2、蘭印物資獲得のための日米両国間の協力。

3、日米通商を資産凍結令以前に復活することおよび米国の対日石油供給。

 備考一、本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は北部仏印に移駐する。

   二、通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する規定を追加挿入する。

 

 

 杉山参謀総長と塚田次長は、南方問題に関する暫定協定が成立し、当面の衝突が回避されても、根本の支那問題が解決されない限り日米戦惹起は必至であり、その時は我が国の戦力が相対的に著しく低下しもはや勝算はない、との理由を挙げて、乙案に反対した。だが東郷外相は、刻下外交の要は日米戦を回避するにあり、南方問題と石油問題とを解決し得れば、支那問題他は漸次解決されてゆくと主張し、参謀本部が乙案を認めなければ辞職することを示唆した。結局、東條首相と武藤軍務局長に説得された参謀本部は、乙案に「4、米国は日支両国の和平努力を妨げないこと」を加えることを条件に政府側に譲歩し、斯くして新「帝国国策遂行要領」が決定され、二日午前一時半、連絡会議は終了した。 

 

 

帝国国策遂行要領 

 

一、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を全うし大東亜の新秩序を建設する為此の際対米英蘭戦争を決意し左記措置を採る。

1、武力発動の時機を十二月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す。

2、対米交渉は別紙要領(甲乙案)に依り之を行う。

3、独伊との提携強化を図る。

4、武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係を樹立する。

二、対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す。 

 

 二日午後五時、東條首相は、杉山、永野両総長と共に宮中に参内し、涙を流しながら昨日来の経過と国策遂行要領を内奏した。昭和天皇は、沈痛な面持で始終を聴き取られ、

 

 「事態が今日のようになれば、作戦準備をさらに進めることは已むを得ないとしても、なんとか極力日米交渉の打開を図ってもらいたい」

 

と仰せられた。

 四日陸相官邸にて、東條首相は、日本駐米大使、野村吉三郎を支援するため翌日渡米する特派大使、来栖三郎と懇談し、米国の両洋作戦準備未完成、世論未だ戦争を支持せず、ゴム・錫など軍需物資の不十分の三理由を挙げて、

 

 「今ならば、米国もみだりに戦争を望むまいと思われるから、成功三分、失敗七分と見てよかろう。困難は重々判っているが、くれぐれも妥結に努力を願いたい。ただ駐兵を譲ると、自分は靖国神社の方を向いて寝られないから、これだけは支那の実情を説いて承諾させてもらいたい」

 

と誠意を込めて激励した。

 翌五日、御前会議にて甲乙案と「帝国国策遂行要領」が最終決定され、東郷外相は詳細な外交経過を述べた後、

 

 「日米交渉は時間的にも著しく制約され、外交的施策の余地に乏しく、交渉妥結は焦眉の急を要しますので、極めて困難なる状況の下に折衝を致さねばならず、その円満成立を期待し得る程度の少なきは甚だ遺憾であります」

 

と悲観的予測を述べたが、東條首相は原枢密院議長に対して、

 

 「若干交渉成立の見込みはあると思う。米国にも多少の弱点はある。この案によって日本軍が展開位置につけば日本の決意も米国には判る。米国は元来日本が経済的に降伏するものと思っているのであろうが、いよいよ日本が決意したと認めれば、その時期こそ外交の手段を打つべき時と考えるものである」

 

と述べた。東條首相は、昭和天皇の聖慮に沿うべく和平交渉に一縷の希望を抱いていたのであった。    

 

 

 

62、激怒、安堵、絶望、喝采のハル・ノート

 

七日アメリカでは、野村大使がコーデル・ハル国務長官と会見し、日本の国情が六ヶ月の交渉にしびれを切らし、事態重大である旨を告げて甲案を提出した。ハルは、甲案を熟読し、支那撤兵について撤兵と駐兵の割合を尋ねた。野村大使は、「大部分撤兵、駐兵は一部分」であることを説明したが、ハルはそれ以上甲案に大きな関心を示さず、甲案による交渉は不成立に終わった。

 東郷外相は十日、アメリカ駐日大使グルーに甲案の趣旨を説明し、交渉の急速な妥結を強く要請し、更に十二日イギリス駐日大使クレーギーに日米和平交渉妥結への協力を要請した。クレーギーは早速本国に報告したが、本国からは、原則問題が妥結するまで交渉はアメリカに委ねてある旨を伝える回答が帰って来たのみであった。

 二十日、野村・来栖両大使は、甲案不成立に鑑み、乙案を提示した。翌日、来栖大使は三国同盟に対するアメリカ政府の不信を解く為、ハルと単独会見し、三国同盟には何の秘密条約も存在しないこと、米国の対独参戦についての解釈は日本が自主的に行い、他の締結国の解釈に拘束されるものではないことを説明した無署名の書面を提示し、これによって日米和平交渉が促進すると認めるなら、即座に署名して手交することを申し出た。 ハルはこの申し出に応じようとはしなかったが、フィリピンの軍備が整うまで日米開戦を引き延ばす意図を有しており、十七日にルーズベルトから手渡されたメモ、

 

 「日本がインドシナだけでなく満洲とソ連の国境や東南アジアにこれ以上、軍を派遣しないことを条件に石油禁輸の一部を解除する。もし米国がドイツに開戦することがあっても、日本は三国同盟を理由に参戦しない。代わりに米国は日本を支那に紹介する労をとる」

 

に基づき、九十日の停戦を骨子とした「ハル暫定案」を作成し、二十二日、英・蘭・豪・支の各代表に内示した。

 二十五日、ルーズベルト、ハル、そしてスチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク作戦部長は、大統領執務室で戦争評議会を開いた。彼等は、交渉妥結には悲観的な予想を持っていたが、日本に対する暫定案の提示では一致し、この日、ハルは、オーウェン・ラティモアの進言を受けて暫定案に反対する抗議文を大量に送りつけてきた中華民国(重慶政府)の駐米大使胡適を国務省に呼びつけ、

 

 「日本との対決回避の為に暫定案が必要という事実関係を全く理解できていない」

 

と厳しく警告したのであった。この時点では、日米首脳は共に当面の戦争回避を目指していたのであり、日米和平交渉が暫定的に妥結する可能性は高かったといえる。  

 ところが二十六日朝、ルーズベルトは一転してハル暫定案を放棄し、十七日にヘンリー・モーゲンソー財務長官を通じて大統領に渡されていたホワイト原案から対日宥和条項を削除した十項目を最後通牒として日本に提示することを決定してしまったのである。国務省職員ランドレス・ハリソンのメモは次の如く記している。

 

 「長官はその日、突然、大統領に呼ばれてホワイトハウスの緊急会議に出かけた。その後、えらい剣幕で帰ってきたが、『あそこの連中は何もわかっていない。プライドが高く、力もある民族に、最後通牒を与えてはいけない。日本が攻撃してくるのは当然じゃないか』などと、繰り返しつぶやいた。」

 

 さらにハルは、親支那反日論者として知られる国務省顧問のスタンレー・ホーンベックから、「上からの指示による決定であっても、いずれそれでよかったと考えるようになる」と慰められた時、次の如きメモを書き残した(1)。

 

 「この緊急の時に、どうせ日本は(暫定案を)受け入れないだろうなどというのは正しくないし、望ましくない。(日本を宥和するため)私が支那を売ったと非難するのはそもそもおかしい話だし、そんな悪宣伝が罷り通るようでは、剣突き合わせて対立している国が妥協するなんて不可能だ。」

 

 この日の午後五時、ハル国務長官は、野村・来栖両大使にホワイト・モーゲンソー案の修正案を「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」として提示した。それは我が国の乙案を「法と正義に基づく平和確保に寄与せず」と峻拒し、第一項で所謂四原則を掲げ、第二項で次の十項目を掲げていた。

 

一、 米国政府及び日本国政府は英国、中国、日本、オランダ、ソ連、タイ国及び米国の間に多辺的不可侵条約の締結に努むべし。

二、 両国政府は米、英、中、日、蘭、タイ政府間において各国政府が仏領印度支那の領土主権を尊重し且つ印度支那の領土保全に対する脅威発生するが如き場合、かかる脅威に対処するに必要且つ適当なりと看なされるべき措置を講ずるの目的を以て即時協議する旨誓約すべき協定の締結に努むべし。かかる協定は又協定締結国たる各国政府が印度支那との貿易もしくは経済関係における特恵的待遇を求め、または之を受けることなく且つ各締結国の為仏領印度支那との貿易通商における平等待遇を確保するが為、尽力すべき旨規定すべきものとす。

三、 日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。

四、 米国政府及び日本国政府は、臨時に重慶に置ける中華民国国民政府以外の中国におけるいかなる政府もしくは政権をも軍事的政治的経済的に支持することなし。

五、 両国政府は外国租界及び居留地内およびこれに関連せる諸権益をも含む中国にある一切の治外法権を放棄するものとす。両国政府は外国政府租界地及び居留地における諸権利に、一九〇一年義和団事件議定書による諸権利を含む中国における治外法権放棄につき英国政府および其の他の政府の同意を取り付けるべく努力するものとす。

六、 米国政府及び日本国政府は、両国による互恵的最恵国待遇及び通商障壁引き下げを基本とする米日間通商協定締結のための交渉に入るものとす。右通商障壁引き下げには生糸を自由品目に据え置くべき米国による約束を含むものとす。

七、 米国政府及び日本国政府は、各々米国にある日本資産及び日本にある米国資産に対する凍結措置を撤廃するものとす。

八、 両国政府は円ドル為替安定計画に付協定し、右目的の為の所要資金の分担は日米折半とするに同意するものとす。

九、 両国政府は、その何れか一方が第三国と締結しあるいかなる協定も、本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和樹立及び保持に矛盾するが如く解釈せざるべきに同意するものとす。

十、 両国政府は、他の諸政府をして本協定に定められある基本的な政治的及び経済的諸原則を遵守し且つ之を実際に適用せしむる為其の影響力を行使するものとす。

  

ハリーデクスターホワイトが作成した対日通牒試案中の「日本政府が提案すべきこと」の第一項「すべての陸海空軍及び警察力を中国(一九三一年の境界で)印度支那及びタイから撤収する」および第二項「国民政府以外の中国における政府への支援−軍事的、政治的、経済的−を中止する」が殆どそのままハルノートの第三項および第四項になっていた。来栖大使は、陸海空軍と警察の支那全面撤退と重慶政府以外不支持の両項は実行できず、アメリカが重慶(蒋介石)政権を見殺しにできないのと同様、日本は南京(汪兆銘)政権を見殺しにはできないことを述べ、更に重慶に対する日本の謝罪を要求するに等しいノートをこのまま本国政府に伝達するのは交渉妥結を祈願する者として深い疑念がある旨を述べた。

 ホワイト・モーゲンソー案の採択を知ったハリーホワイトは、暫定案を阻止するためのロビー活動を懇請していた太平洋問題調査会事務局長のエドーワード・カーターに、

 

 「もう大丈夫、満足できる結果になった」

 

と語ったという(2)。

 アメリカが解読したソ連暗号電文(VENONA)では「Jurist」「Lawyer」「Richard」という隠名を持っていたホワイトは、モーゲンソー財務長官の特別補佐官という自分の地位を利用する就職斡旋活動を通じてフランク・コー(アメリカ財務省官僚、国際通貨基金IMFの事務局長、ホワイトとともにスパイ疑惑を否定した後、一九五八年に共産中国へ移住。シルバーマスターグループに属し、隠名はPeak)などソ連の工作員たちをアメリカ政府内の高い地位へ昇進させ、ソ連のスパイ活動を助長しており、おそらくKGB(当時はソ連人民委員部NKVD)の最も貴重な宝であった(3)。

 

 二十七日、ハル・ノートに接した我が国政府軍部首脳は直ちに連絡会議を開いたが、出席者全員がアメリカ政府の強硬な態度に衝撃を受け、落胆し、和平交渉の前途に絶望した。東京裁判において東郷は、

 

 「ハル・ノートは日本に、支那・仏印からの撤兵を要求していた。さらに三国同盟を死文化する条項も含んでおり、日本が之を受諾すれば、三国同盟を日本から破棄する事になり、国際信義の問題となる。この問題を除外しても、日本がハル・ノートを受諾して撤兵し、警察官までも即時引揚げる事になれば、中・南支でも日本がそれまでした事はすべて水泡に帰し、日本の企業は全部遂行できない事になる。

 また、南京政府に対する日本の信義は地に墜ち、地方での排日・侮日感情は強くなり、日本人はこの地方から退去しなければならなくなる。

 さらにハル・ノートは満洲方面についても同じ事を要求しており、従って日本は満洲からも引揚げなければならなくなり、その政治的影響は自ずから朝鮮にも及び、日本は朝鮮からも引揚げなくてはならない事になる。換言すれば、日本の対外情勢は満洲事変前の状況よりも悪くなり、ハル・ノートは日本が日露戦争以前の状態になるような要求である。これがすなわち東亜における大国としての日本の自殺である。

 ハル・ノートは日本に対し全面的屈服か戦争か、を迫るものと解釈された。もしハル・ノートを受諾すれば、日本は東亜における大国の地位を保持できなくなるのみならず、三流国以下に転落してしまうのが、ハル・ノートを知る者全員の一致した意見であった。従って、日本は自衛上戦争する外ないとの意見に一致した」

 

と証言し、さらに東條は、キーナン検察官から「証人はハル・ノートを見た事があるか」と質問された際、「これはもう一生涯忘れません」と、ハル・ノートの内容を知った時の驚き、失望、怒りを一言の下に表した(4)。   

 だが陸軍中堅層の反応は、政府軍部首脳のハル・ノートに対する衝撃落胆と悲痛な決意とは、全く正反対であった。

 

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

十一月二十七日(昭和十六年)

 果然米武官より来電。

 米文書を以て回答す全く絶望的なりと。

 曰く

  1、四原則の無条件承認

  2、支那及び仏印よりの全面撤兵

   3、国民政府の否認

   4、三国同盟の空文化

 米の回答全く高圧的なり。而も意図極めて明確、九国条約の再確認是なり。

 対極東政策に何等変更を加うるの誠意全くなし。

 交渉は勿論決裂なり。

 之にて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり芽出度芽出度之れ天佑とも云うべし。

 之に依り国民の腹も堅まるべし。国論も一致し易かるべし。

十一月二十八日

 一、米の回答全文接受

  内容は満洲事変前への後退を徹底的に要求しあり其の言辞誠に至れり尽せりと云うべし。

 二、米の世界政策対極東政策何等変化なし現状維持世界観に依る世界制覇なり。

 三、今や戦争の一途あるのみ。

十一月二十九日 

 吾人は孫子の代迄戦い抜かんのみ。

十二月一日

 午後二時より四時に亘り御前会議開催。

 正に歴史的御前会議なり。

 真に世界歴史の大転換なり。 

 遂に対米英蘭開戦の御聖断下れり。

 皇国悠久の繁栄は茲に発足せんとす。

  百年戦争何ぞ辞せん。  

 

(1)【ルーズベルト秘録下】一九〇頁。

(2)【ルーズベルト秘録下】二八六頁。

(3) 【VENONA Decoding Soviet Espionage in America】一三八〜一四五頁「Harry Dexter White:A Most Highiy Placed Spy」、三六九頁。

(4)冨士【私の見た東京裁判】八十二〜八十四頁、一一三頁。

 

 

 

63、自衛のための自殺

 

昭和十六年十二月一日、御前会議は「もはや開戦やむなし」という出席者全員の賛成によって我が国の対米英蘭開戦を決定した。翌二日午後二時四十分、杉山元参謀総長は、サイゴンの寺内寿一南方軍総司令官に「大陸命第五六九号(鷹)発令あらせらる、日の出はやまがたとす、御稜威の下切に御成功を祈る」と打電し、同日午後五時半、山本五十六連合艦隊司令長官は、ハワイ作戦のため択捉島の単冠湾を出撃し(十一月二十六日)、太平洋を東航中の我が海軍空母機動部隊に「新高山登れ一二〇八」を打電し、遂に日米和平交渉は終止符を打たれた。

 

  連合軍最高司令官として無法な対日占領作戦を敢行したマッカーサーは、一九五一年五月一日アメリカ上院軍事外交委員会において次のような証言を行った(1)。

 

 「日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。

 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時より、働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。

 これほど巨大な労働能力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。

 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。

 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」

 

 マッカーサーが証言した如く東條内閣が対米英開戦を決断した目的は、確かに我が国の自存自衛であった。だが同時に、それは数学的合理主義と軍事的良識を一切欠いた民族的ハラキリ(自殺)であった。我が国は、最大最悪の思想的地理的軍事的脅威たるソ連を撃滅する好機をみすみす放棄し、北方の脅威を残したまま、支那事変の泥沼にはまり国力を消耗していたにも拘わらず、さらに強大な米英(陸軍は米英の総合国力を日本の約三十倍と見積もっていたという)に戦いを挑んだのである。最終的な勝敗は、戦前すでにほぼ決していたといってよい。

 奇しくも極東方面から増援を得たソ連軍と大寒波がモスクワに迫ったドイツ軍を撃退し始めた昭和十六年十二月八日、我が海軍空母機動部隊は真珠湾を空襲し、停泊中のアメリカ海軍戦艦五隻、巡洋艦一隻を撃沈(戦艦ネバダは自沈)、戦艦三隻、巡洋艦三隻を撃破するなど大戦果を挙げた。日米開戦の決定を病床で聞いた松岡洋右は涙を流して、

 

 「三国同盟は僕の一生の不覚だった。三国同盟はアメリカの参戦防止によって世界戦争の再起を予防し、世界の平和を回復し、国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと、死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」

 

と語ったという。かねて松岡が警告し予言した如く、日米開戦から三日後、忍耐を重ね、アメリカの参戦防止に努めてきたドイツ政府は、苦悩の末、三国同盟の信義に基づきアメリカに宣戦を布告、一九四一年夏以降、頻繁にドイツに戦闘挑発を仕掛けていたルーズベルトが欲していたアメリカの対ヨーロッパ参戦が実現した。スターリンの率いるソ連は、極東ソ連軍とアメリカの軍事支援を最大限に利用し、ソ連領内に侵入したドイツ軍を撃破し、余勢を駆って東欧を支配下に収めた。

そして全精魂を傾注した支那事変解決の努力も空しく、支那派遣軍から内閣総力戦研究所に転出した堀場一雄中佐が、我が国に支那事変の覆轍を踏ませない為に、所長の飯村穣陸軍中将の統監の下、各省庁および民間企業から選抜されてきた優秀な所員と共に昭和十六年七月末から九月初旬に亘り南方作戦を仮想演習し、

 

「南方戦争の本質は長期戦なり。而して国力は負担に堪えず。長期戦中ソ連必ず起つ。国家は之に対応するの方策なし」

 

と政府に警告していた通り(2)、ソ連はドイツに勝利した後、極東に兵力約百六十万、航空機約六千五百機、戦車約四千五百台を揃えて、昭和二十年八月八日、日ソ中立条約を容赦なく蹂躙して対日宣戦を布告、対支米英戦争によって戦力国力の殆どを喪失した我が国にとどめを刺し、同年九月二日、我が国はポツダム文書に調印し連合国に有条件降伏した。

 ソ連軍は、満洲樺太千島北朝鮮において、暴行強姦略奪破壊虐殺ありとあらゆる筆舌に尽くし難い大蛮行を為し、日本人居留民約二百二十万人のうち約二十二万人を大虐殺し、軍民合わせて五十万を超える日本人をシベリアの凍土に強制連行し(ソ連崩壊後KGBが公表した数は約六十四万人、最近では百万人を越えるという資料も出ている(3)。シベリアから帰還した日本人は約五十万…)、降伏した関東軍の武器弾薬物資を中国共産党に供給して彼等の支那大陸制覇を支援し、斯くしてソ連は極東アジアの大半をも支配下に収めてしまい、東欧から東亜にまたがる恐るべき巨大な全体主義国家、悪魔の帝国(米国大統領レーガン)に成長したのである。

 

(1)小堀【東京裁判日本の弁明】五六四〜五六五頁。

(2)堀場【支那事変戦争指導史】六四七頁。飯村穣の回想によると、東條英機陸相は熱心に連日のように南方作戦の机上演習を見学していたという

(3)アルハンゲリスキー【プリンス近衛殺人事件】一六二〜一八六頁。著者が発掘したクレムリンの内部文書によれば、一九四六年十二月当時、確認されたソ連領内の日本人被抑留者は、百五万二千四百六十七人であるという。

 

 

 

64、平和と自由に対する罪

 

 第二次世界大戦後、アメリカ人の大半は、「アメリカは日独伊のファシズムから自由デモクラシーを守る為に第二次世界大戦に参戦し勝利した」という歴史観を崩さず、アメリカに留学した日本国民の中にもこの史観を盲信する者がいる。だが日米開戦前、アメリカ人の中には、アメリカの参戦が却って自由デモクラシーの破壊を招来する危険性を指摘する賢明なジャーナリストおよび政治指導者がいた。

変転する支那大陸の情勢を克明に取材報道していた上海発行の月間英文雑誌「極東評論」The Far Eastern Revierの社長兼主筆のジョージ・ブロンソン・レーは、一九三五年ニューヨークおよびロンドンで出版した「満洲国出現の合理性」と題する彼の著書(原題はCase for Manchoukuo)の中で(1)、アメリカ政府のスチムソン・ドクトリン(不承認主義―支那の主権、独立、領土保全の原則、門戸開放政策に違反し、又アメリカ国民の条約上の権利を侵害する一切の事実上の状態の合法性を承認しないこと及び前記権利を侵害する日支両国の締結する一切の条約協定を承認しないこと、不戦条約に違反する手段により成立する一切の状態、条約協定を承認しないこと)によって、被圧迫民族は、奴隷の域から自らを解放する為、武力を用いて抵抗することも武力行使の結果として生ずる事態を利用することも許されず、

 

 「古来より人類を駆って圧迫に反抗せしめ又政府を転覆せしめた実際上の必要、政治上の考慮、民族自決の権利、正義、自由の諸原則は悉く蹂躙し去られた」

 

と嘆き、不承認主義を振りかざして満洲国建国を認めないアメリカ政府の反日外交に「自由の先駆たる名声を世界に博したアメリカが、掠奪や大規模の虐殺を恣にする支那軍閥が再び満洲国三千万の住民を奴隷の鉄鎖に縛らんとする運動を援助し教唆し奨励するものである」という痛烈な批判を加えた。

支那に在住すること三十二年の長きに及んだレーは、孫文や袁世凱の顧問を務め、支那の基幹鉄道建設の為に欧米の民間資本と借款の交渉を行い、政府系資本による独占を目論むアメリカ国務省に妨害されるなど類例のない豊富な経験と幅広い知識を有していた。

レーが支那大陸で目撃した現実は、統一の覇権を争う支那軍閥群による、ワシントン会議の軍縮精神を反映した九ヶ国条約付属第十号決議(支那の兵力および軍事費の削減)に違反する狂気の大軍拡(ワシントン会議開催時、支那の兵力は約百万と言われていたが、満洲事変前には、二百万を超え、不正規兵、武装匪賊等を含めれば、約五百万に達したのである)、これを遂行維持する為の吸血鬼の如き大虐政、そして数千万単位の民衆大虐殺であり、九ヶ国条約によって固定された支那大陸不分割主義は、本来独自の気候地理条件、言語、歴史、風俗、慣習を有する支那各省が適正な国家規模を持つ独立国となって地域に根ざした政治を行うことを阻害し、支那民衆を救い難い絶望の淵に沈めていることであった。

以上の観察に基づいて、レーは満洲国出現の是非をあらゆる論点から詳細に検討し、

 

「条約は国家の生命に危険となり、もしくは国家の独立と両立し難きに至るや否や無効となるのである。」(ホール)

 

「国家の存立発展がその国家の条約上の義務と如何にしても衝突を免れない場合には後者が譲歩せねばならない。なぜなら国家の自存生長による発展ならびに国家の必需物は各国の第一義的義務だからである。」(オッペンハイム)

 

など国際法の権威が説く「国家の自存権right of self-preservation優位の原則」、満洲の歴史(2)、中華民国に清帝退位協定を蹂躙され、迫害され、民国の代表を抱える国際連盟に見捨てられた満洲人の悲哀(3)、アメリカのキューバ干渉や独立革命を始め様々な独立運動の先例を引き、

 

「支那は国家に非ず、満洲国は支那の領土に非ず。日本が満洲国三千万民衆の独立権を承認し、日本自身の安全を保障し保護する強力なる自足の国家を建設するに援助を与え、満洲人にその正統の君主を復しその政府と同盟を結んで内外の敵に対することは侵略でもなければ侵入でもなく征服でもないことは国際社会において合法的と認められている他の先例と何等拓ぶ所はないのである。

満洲国出現は幸福の出現であり、満洲国の光は広大にして戦乱に喘ぐ支那の群衆に対して煌々と輝いている」

 

と結論づけた。レーのアジア・レポートは満洲国建国の正統性を完全に立証し、アメリカで悪名高き絶対的排日移民法が成立した一九二四年以降、日本政府に移民の新天地を捜し求める義務を課した人口の増加、九ヶ国条約締結から除外されていたソ連の軍事的膨張や共産主義勢力の浸透など様々な困難に直面し苦悩している日本の立場を擁護したのである。

 

さらにレーは、「支那の政治経済顧問や新聞記者の仮面を被った排日主義のアメリカ人による日米戦争を惹起させようとする運動は、ソビエト・ロシアの巧妙なる宣伝によって更に勢いを増している」と警鐘を鳴らし、日本が対支輸出品の生産および在支日本企業の経済活動の為に米国産の原材料、工作機械、部品等を購入するアメリカ最大の顧客であり、門戸開放政策の障害ではなく、却ってアメリカの対支貿易の赤字は日米貿易がアメリカにもたらす利益によって補填されていること等を貿易統計から説明し、「日本は米国の友人、米国商品の良き顧客にして販売人であり、真に日本を指導する者、健全にして保守的な実業家、銀行家、自由主義者、並びに大衆の大部分は依然として米国の理解と同情を求めている」と述べ、アメリカの排日主義者が宣伝する「日本脅威論」を完膚無きまでに論破したのである(4)。

 

東京裁判において被告弁護団副団長の清瀬一郎弁護人は、九ヶ国条約が成立した一九二二年から支那事変が勃発した一九三七年までの十五年間に、ワシントン会議が想定していなかった次の五つの異常な変化が起きたことを挙げ、国際法上の事情変更の原則を援用して、九ヶ国条約の失効を主張した(5)。

 

一、九ヶ国条約以後、中国は、国家の政策として抗日侮日政策を採用し、不法に日貨排斥を年中行事として続行するに至り、また反日感情が広く青年層に伝播するようにと公立学校の排日教科書を編纂したこと。

二、第三インターナショナル(コミンテルン)がこの時代に日本に対する新方略を定めて、中国共産党がかの指示に従い、かつ蒋介石政権もこれを容認したこと。

三、ワシントン会議で成立した中国軍隊削減に関する決議が、ひとり実行せられざるのみならず、かえって中国軍閥は以前に何倍する大兵を擁し、新武器を購入し、抗日戦の準備に汲々たる有様であったこと。

四、九ヶ国条約に参加しなかったソ連の国力が爾来非常に増進し、ソ連が三千マイルにわたるソ中両国の国境を通じて異常なる力を発揮してこれに迫ってきたこと。

五、九ヶ国条約の締結以来、世界の経済が経済的国際主義より国内保護主義への転換を示して来たこと。

 

ワシントン会議で成立した中国軍隊削減に関する決議が九ヶ国条約付属第十号決議である。事情変更の原則とは「ある条約成立の根拠となった根本的事情が本質的に変化した場合には、その条約は拘束力を失う」というものである。

被告弁護側の主張は、終了期限を規定していない九ヶ国条約は「現状の持続する限り」という黙契条件によって結ばれた条約と了解すべきであり、事態がすべて変化した以上、九ヶ国条約上の日本国の義務は終了したというものであった。東京裁判判事の中で唯一の国際法の専門家であったインド代表判事ラダビノッド・パル博士は、「これらの主張は甚だ有力なものであって、もしこの条約義務によって左右される問題が生じた場合には、これは明らかに慎重な考慮を必要とするものである」という見解を判決書に記している(5)。被告弁護側は、ワシントン体制の崩壊と満洲国の分離独立が中華民国自身の条約不履行によって引き起こされたことを証明する証拠資料として「満洲国出現の合理性」の摘訳を用意していたが、裁判所にその提出を拒絶されてしまった。  

もしジョージ・ブロンソン・レーの著書が法廷に提出され、証拠資料として採用されていれば、僅か一人の親日的なアメリカ人によって東京裁判の事実上の実施者である連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の目論見が覆されただけでなく、支那通ジャーナリストの足元にも及ばないアメリカ政府の低劣な予見能力が世界中に暴露されていたであろう。なぜならレーの洞察力は驚くべき予言を彼の著書に記していたからである。それは、もし強大なアメリカが平和主義者や国際主義者によって国際連盟や係累となる同盟に引きずり込まれ、門戸開放主義などアメリカが宣伝係を引き受けた本来ヨーロッパ発の様々な主義主張を支持させられれば、アメリカは、早晩、米英露対日本という西洋と東洋との世界戦争の渦中に巻き込まれるであろう、そして仮に日本が敗北し、東部アジア大陸から駆逐され、第一次世界大戦に敗れたドイツ同様に軍備の撤廃を強要される場合、アメリカは太平洋の主人となるが、ロシアはアジアの支配者となり、支那を経済的に植民地として艦隊を建造し必ず太平洋におけるアメリカの覇権に挑戦するに至り、現在アメリカの有する少なくとも二倍から三倍の艦隊を極東に常駐させる必要性が起こる、而して日米戦争が済んでから初めてアメリカは詭計に罹りその犠牲になったことを知るに至る、というアメリカに対する警告であった。

 

 日本の偉大なる予言者が石原莞爾ならば、アメリカの偉大なる予言者は、支那事変勃発前に第二次大戦後の世界情勢を完璧に見透したジョージ・ブロンソー・レーである。

 

レーが支那の事情に精通するジャーナリストとしてアメリカとイギリスの読者に伝えたかった深刻な国際情勢は、現在まさにアメリカ人が賢明にも現実を見据えて日本が差し延べている友好の手を握り日本と協力し通商上ならびに東洋に対する共同の目的の為に日本と結ぶか、それとも相変わらず日本を冷遇し、世界の世論を動かして日本に反対し、現在の方針を固執し日本と握手することを拒み、日本固有の地域内における日本の生存権に飽くまで干渉し、日本を自殺に追い込むか、という二者択一を迫られ、アメリカ文明が太平洋における平和と戦争の岐路に立っているということであった。

 

そしてレーは、もしアメリカの政策が後者であるならば、かかる主義原則に固執する感傷的非現実的な外交がもたらす結果―日米戦そして日本敗北後に訪れる米ロ対決―に直面する用意として、アメリカの執るべき唯一の安全保障は「軍備の充実」以外にない、と喝破し、「軍備を充実せよ、而して徒らに口舌を弄するなかれ」とアメリカ国民をたしなめ、現実を無視して徒らに主義原則を叫んだところでアメリカの国益にも平和にも何ら寄与しないことを訴えたのであった。

 

もしアメリカ政府がレーの勧告に従い、外交方針を反日から親日に転換し満洲国を承認していれば、日本国の国際連盟脱退以後、国際的孤立感に苛まれていた日本国民の親米感情は沸騰し、大衆世論に後押しされる日本の帝国議会は、帝国海軍がアメリカを仮想敵国として主導する国防計画(南進北守戦略、陸海軍予算対等主義)を許さず、政府の対米親善外交を促進していたであろう。結果として支那事変の勃発前に、海軍に猛反発された石原莞爾の国防国策大綱(昭和十一年六月三十日)第三項目が具体化され、日米同盟による強力な対ソ封じ込め戦略が実現する可能性は存在していたのである。昭和十六年十二月八日の日米開戦は、決して日米間の不可避な「経済の戦争」や「文明の衝突」ではなかった。

又ドイツがソ連に開戦した直後の一九四一年六月二十九日、フーバー元大統領は、

 

「スターリン支配下のロシアは、人類史上作られた最も血に飢えた独裁恐怖政治であるから、ソビエト・ロシアの参戦は、干渉主義者達の『合衆国はデモクラシーの原理と理念を守るために参戦すべきだ』という主張を崩すものである」

 

というロシアの実情と第二次ヨーロッパ大戦の現実を指摘し、アメリカは独ソ両国を互いに戦わせるべきであり、

 

「アメリカのソ連援助は共産主義を世界中にまき広げることになるだろう。だから、アメリカがヨーロッパ戦争に介入しなければ、アメリカの手で恒久的な世界平和がもたらされるときが訪れるであろう」

 

と予言し、デモクラシー防衛を大義名分とするアメリカの参戦に反対したのである。

だが「帝国主義国家相互間の戦争激発によるソ連および共産主義勢力の防衛と拡大」を画策する親ソ政府高官の助言者達に囲まれ、スターリンとソ連の虚像とを吹聴されていたルーズベルトは、「スターリンは共産主義者などでは全くなく、ただロシアの愛国者である」と公言し、フーバーらの主張に一切耳を貸さなかった(6)。

 

「我々の外交政策の第一の目的は、米国を戦争に参加させないことである。あなたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込まれることもない。」

 

これは、一九四〇年十一月、三期目の大統領選挙に臨んだルーズベルトの国民に対する選挙公約である。当時、アメリカ国民の約八十五%がアメリカの参戦に反対しており、彼等は、公然たる和平の約束と保証を信じ、拍手喝采を浴びせて、ルーズベルトを大統領に選出した。だがその後、彼が採用した外交方針は、公約を無視する、欺瞞に満ちた「戦争介入政策」であった。

ルーズベルトは、十二月二十九日、炉辺談話でアメリカを「デモクラシーの大兵器廠」にすることを宣言、戦時国際法の中立義務(海戦の場合に於ける中立国の権利義務に関する条約第六条)を無視して、武器貸与法(一九四一年三月十一日成立)に基づき、イギリスに対する軍需物資の無償供与を開始したのである。

さらにABCD対日包囲陣が完成した直後、一九四一年八月九日から十四日にかけて行われた大西洋会談では、ルーズベルトはイギリスのチャーチル首相と共に共同のメッセージをスターリンに送って対ソ軍事援助に関する米英ソの三国モスクワ会談開催(註、十月一日開催)を提議し、ソ連側は欣然としてこれを受諾したのである。ルーズベルトは、チャーチルに、

 

「余は宣戦しないかもしれないが、戦争はするかもしれない。もし、議会に宣戦するようにと要請すれば、彼らはそれについて三ヶ月も議論するかもしれない」

 

と打ち明け、八月二十五日、アメリカ大西洋艦隊に対し「独伊の敵性軍を攻撃撃破せよ」との秘密命令を発し、九月四日、大西洋上において、アメリカ海軍駆逐艦「グーリア」がドイツ潜水艦を先制攻撃したのである。 もしヒトラーが、アメリカの戦争挑発行為に乗ぜられないように、忍耐を重ねていなければ、アメリカは、日本の真珠湾攻撃の三ヶ月前に、公然と戦争に介入していたことは間違いない。

 米独日間の戦端を開いた張本人は、アドルフ・ヒトラーでもなければ東條英機でもない、フランクリン・ルーズベルトであり、日独両国は、一九四一年十二月に及んで、ハル・ノートを契機に、アメリカに対して反撃を開始したのである。

真珠湾攻撃の直後、エール大学の地政学の泰斗ニコラス・スパイクマン教授は、「世界政治におけるアメリカの戦略=アメリカと勢力均衡」と題する著書を出版し、「ドイツと日本を抹殺することは、ヨーロッパ大陸をソ連の支配にまかすことになるだろう」と日独の完全破壊に反対し、「ウラル山脈から北海までのソ連は、北海からウラルにひろがるドイツにくらべて、大きな改善とはなりえない」と警告し、日米間の早期講和の必要性を説き、さらにアメリカが日英仏独と連携し膨張するソ連に対する包囲同盟を結成することを提唱したのである。

だがルーズベルトは、これをも無視し、ソ連に対して、百十億ドルの借款の他、一九四一年十一月から武器貸与法に基づき、約二万機の飛行機、四十万台のトラックを始め、膨大な軍事物資を提供しただけでなく、一九四三年九月三日、ヨーロッパ、アフリカ、南米を廻る六ヶ月の旅行を終えたフランシス・スペルマン司教に対して、

 

 「スターリンは、フィンランド、バルト海諸国、ポーランドの東半分、そしてベッサラビアを確かに受け取るだろう。さらに東ポーランドの住民は、ロシア人となることを欲している。

 我々は、ロシアの驚くべき経済的成果を見落とすべきではない。財政は健全である。もちろんヨーロッパの国々が、ロシアに適応するためには大がかりな変容を経なければならないのは自然の成り行きである。ヨーロッパの人々(フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェー、ドイツ、イタリアを含む)は、十年、二十年先に、ロシア人とうまくやっていけるようになるという希望を持って、ロシアの支配をただ甘受しなければならない」

 

と述べ、驚くべきことにソ連にヨーロッパを提供することをすら計画していたという(7)。

我が国の敗戦後、昭和二十二年五月二日、石原莞爾は、極東国際軍事裁判酒田臨時法廷に証人として喚問された。冒頭に裁判長から「訊問の前に何かいうことはないか」と質問された石原は、

 

 「ある。不思議にたえないことがある。満洲事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満洲建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を戦犯として連行しないのは腑に落ちない」

 

と堂々発言し裁判の矛盾を鋭く指摘するなど、終始、判事検事を翻弄圧倒し、傍聴者に「天才的戦略家石原莞爾未だ衰えず」という深い感銘を与えたのであった。

その夜、石原は、法廷での彼の態度に感激したUP記者カリシャー、AP記者ホワイトとの会見に応じた。石原は、

 

 「ルーズベルトは、ソ連人と手を結べば世界平和が来ると思っていたのであろう、ソ連の真意を全然理解せずに闇雲にヤルタ会談秘密協定を結んだものだから、東欧、西欧、中共、国府、南北朝鮮のような不幸な対立となり、全世界の至る所で、共産主義者との間に民族的国家的なトラブルが起きているではないか」

 

と彼を皮肉り、連合軍によるドイツの完全破壊は米ソの直接対決を招来するというヒトラーの予言や、関東軍の消滅した満洲がソ連の南下を阻止できない現実を指摘し、世界赤化の防波堤とすべき日独を完全破壊し、ソ連を膨張させたルーズベルトとトルーマンを目先の利かない「政治家の落第生」と批判し、日本全軍を解体し、日本人の精神までも侮辱するマッカーサーらGHQの対日占領作戦を糾弾した。

だが同時に、石原は、支那事変を解決しないまま米英に対し開戦した日本の戦争指導を擁護せず、「日本の敗戦は神意である」と述べた(8)。石原は、最終戦争が東亜と欧米の両国家群の間に行われるであろうと予想した彼の見解は甚だしい自惚れであり、事実上明らかに誤りであったことを認めた上で、

 

「大東亜戦争の敗北によって夢を破られた我等は、ここに翻然として目覚め、最終戦争に対する必勝態勢の整備は武力によるべきにあらずして、最高文化の建設にあることを悟ったのである」

 

と断言した。石原によれば、日本の敗戦は、狭小なる国土に圧縮された日本に、「民族の総力を傾注して内容一変せる新国土を建設し、土地資源の侵略を必要としない国家を実現し、世界に先駆けて、戦争を必要とせざる文化を創造する」という聖業を課す「神意」であり、石原莞爾は、

 

 「かかる新日本の建設のみが、よく日本当面の諸問題を解決するのみならず、人類文化の最大転換期に際し、最も輝かしき貢献を為す所以である」

 

と述べ、都市解体、農工一体、そして「自然を征服し人類を衰亡へ導く近代の文化生活を改め、大自然に抱かれつつ最高の科学文明を駆使して自然と人為を完全に調和し、真に人類の生命を永遠ならしめる」簡素生活を三本柱とする日本再建策を著した。

地上の距離を極度に短縮する通信交通技術の飛躍的発展を利用して都市を解体し人口を完全に田園に分散することによって、都市の弊害(資源の浪費、環境の悪化、慢性病の蔓延、道義の退廃、文化の偏在、農村の荒廃)を解消し、国民皆農(国民がみな兼業農家となる)を実現して、農工業を融合発展させ、簡素生活を実現し、大自然の中で培われる直感と剛健な肉体―人頭獅身の生活―を蘇生し、科学・政治(五感)と信仰・宗教(直感)を一致させ、人類の新時代を切り開こうというのである。

第二次世界大戦後、多くの植民地が宗主国より独立し、ソ連崩壊後も新興独立国が続々と誕生し、世界は無数の主権国家に細分化してゆく傾向を強めており、最終戦争による世界統一恒久平和を予言した石原の世界最終戦論の大半は既に死んだ理論である。

しかし敗戦後に石原が提唱した日本再建策は、現代日本の抱える諸問題の処方箋となり得る、また人類次世代文明の模範となり得る、先見の明に満ち溢れた日本文明論であり、戦後半世紀以上の歳月を経ても色褪せるどころか、暗中の模索を繰り返す二十一世紀の日本の国民に救いの手を差し伸べるかのように、増々美しく慈悲深く光り輝き、我が国の進むべき路を照らし示してくれている。

石原をして戦争の天才たらしめた彼の偉大な軍事的才能は、我が国の敗戦によって戦争から解き放たれ、神武天皇が橿原奠都に当たり勅せられた「上は則ち乾霊の国を授けたまう徳に答え、下は則ち皇孫の正を養いたまうの心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて以て都を開き八紘を掩いて宇と為むこと亦可ならずや」という我が国肇国の理想たる八紘一宇―道義に基づく世界一家恒久平和―を実現する新文明の創造に傾注されて、敗残日本を照らす希望の燈明となったのである。

石原莞爾は病身を押して各地で講演を重ね、敗戦に打ちひしがれ悲嘆にくれる国民を激励した後、昭和二十四年八月十五日、生き仏と見まがう程に高貴な彼の最期の姿を見守る多くの同志によって唱えられた「南無妙法蓮華教」の声と共に、波乱に満ちた生涯を閉じ、従容として寂光の浄土へ還っていった(9)。

 それから約十ヶ月後の昭和二十五年六月二十五日、スターリンの支持を受け、満を持して韓国に対する侵攻を開始した北朝鮮軍の急進撃と、満洲から鴨緑江を越えて北朝鮮軍を支援する中共軍の大兵力とに直面するに及んで、ようやく連合軍最高司令官マッカーサーは、「日本永久弱体化」を図った彼自身の対日占領作戦を含めたアメリカの戦争指導全般の失敗を悟り、一九五一年五月三日の上院軍事外交委員会でラッセル委員長に対して、

 

「太平洋においてアメリカが過去百年間に犯した最大の政治的あやまちは共産主義者を中国において強大にさせたことである」

 

と懺悔したのである(10)。

また、米国陸軍大将アルバート・ウェデマイヤーは、一九五三年に出版した回顧録の中で、もしアメリカが第二次世界大戦に参戦していなかったならば、また少なくとも独ソ両国が疲れ果てるまで参戦を見合わせていたならば、ソ連が地球の半分近くの広大な地域に君臨するような事態にはならなかったであろう、と述べ、

 

「エルバ川から鴨緑江にまたがる、巨大な恐るべき共産国家は、アメリカが建国以来、経験したこともないはるかに強大で、さし迫った危険をアメリカに与えている。ソビエト帝国の出現は、主としてアメリカ自身がつくりだしたという事実は、まったく皮肉である。  

まず第一に、アメリカは一九三三年にソ連を承認し、これと外交関係を樹立することによって、この無法国家の成長を促した。ソ連の約束、紳士協約、外交交渉など、どれ一つとしてこれまで約束どおり実行されたことはない。

 ソ連は一九三三年以来、約束や条約に違反し続けてきたのであった。J・エドガー・フーバーがその著書『詐欺師』で述べているように、ソ連の犯したもっとも極悪な違背事項は、アメリカ建国の父祖たちがアメリカ国民に遵守するように警告した、あらゆる思想や理想に違反する破壊的な宣伝で、ソ連に比べてより純真な、アメリカ政府内、労働組合、教育界に、その赤化勢力を浸透させてきたことである。

 次に、もしもルーズベルト大統領が戦争の主目的として、敵の無条件降伏を主張していなかったならば、アメリカは共産ロシアに無条件的な援助を与えるにはおよばなかった。我々は大戦中、スターリンがドイツと単独講和を結びはしないかとおそれていた。

 スターリンがヒトラーに対し、ソ連と単独講和をするように勧誘することは、決してできない相談だった事実を、われわれはいま、実際に承知しており、また、この事実を第二次大戦中にも知っておくべきだった」

 

と後悔し、アメリカの対ソ外交の失敗を認めた(11)。

だが全ては余りにも遅い悔悟であった。すでに時代は米ソ冷戦へ突入し、世界各地で天文学的数字に上る多くの人々が、共産主義独裁体制によって、自由は無論、人間であれば誰もが持っているはずの最低限度生命財産を維持する権利(人権)すらも奪われ、虐殺されていったのだから…。

現実を見失った第二次世界大戦におけるアメリカ政府の戦争指導は、「戦争への不介入主義」を望んでいたアメリカの国民世論と、「自由デモクラシー」というアメリカの国是とを裏切り、取り返しのつかない人類史上もっとも悲惨な戦争の結末を生み出してしまったのである。

 

(1)ジョージ・ブロンソン・レー【満洲国出現の合理性】参照。第六章「門戸開放は無稽の談」第七章「支那の門戸を閉鎖するものは米国」は、アメリカ政府の門戸開放・機会均等主義と之に基づく反日外交が荒唐無稽で支離滅裂であったことを曝露している。

一九〇九年、アメリカ国務省は、官製の対支銀行団による独占融資を目論み、アメリカ独立を資金面から支援したハイム・サロモンの末裔「ウィリアム・サロモン」商会の対支投資計画を妨害し失敗に終わらせた。今日の日本で頻繁に起こる、官の民間に対する陰湿な不当圧力である。以後、アメリカ政府の法に依らざる行政指導によって、支那市場がアメリカの独立系金融業者に対して閉鎖され、彼等の融資を受けて支那統一事業に必要不可欠な運河鉄道建設等を進めようとした支那政府の経済政策が何度も妨害され、結果的に漁夫の利を得たアメリカ以外の国の資本が支那に参入し、融資を行い担保として諸権益を獲得していった。   

一九二一年から翌年にかけて開催されたワシントン会議上、アメリカ政府が我が国を始め(支那を除く)七ヶ国に、

 

一、支那の主権、独立、並びに其の領土的および行政的保全を尊重すること。

二、支那が自ら有力安固なる政府を確立維持する為最完全にして最障碍なき機会を之に供与すること。

三、支那の領土を通して一切の国民の商業および工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為各尽力すること。

四、友好国国民の権利を減殺すべき特別の権利又は特権を求むる為支那における情勢を利用すること及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控えること。(九ヶ国条約第一条、アメリカ全権ルートの四原則)

 

を押し付けた裏面の狙いは、辛亥革命勃発前後から約十年に亘り、アメリカ政府自身が支那の独立主権を侵害し、支那政府の安定強化、支那の自由発展と統一とを妨げ、支那人が銀盆に載せてアメリカに捧げてきた機会をアメリカ資本から奪い、外国資本の支那に対する参入と権益確保とを促進しアメリカ経済に損害を与えた事実を隠蔽し、その失敗の責任を外国に転嫁することにあったのである。そして「高尚なる理念外交」を好むアメリカ国民を欺いて彼等の追及を回避する為に、アメリカ政府が国際舞台で公演した一世一代の大詐術によって、以後、アメリカ外交は自縄自縛状態に陥り「自由な手」を失い、アメリカの進路を日本との対決へ誘導する大きな役割を果たしてしまった。

一例を挙げれば、一九二八年秋、日本が、満洲を視察した米国モルガン商会代表ラモントを通じて南満洲鉄道会社(満鉄)の社債三千万ドルをニューヨーク市場に発行しようとしたところ、上海在住の排日アメリカ人がアメリカ国務省宛てに「日本の社債発行による南満開発は支那の主権を侵害するものである」という偽電を発し、電報内容を支那の各新聞に曝露し、これにより煽動された支那の抗日世論の圧迫を受けた支那政府は「社債の発行は支那の主権に対する侵害でありその主権を尊重保持する厳粛なる条約、神聖なる約束に違反するものである」と日米に抗議することを余儀なくされ、アメリカの新聞社は支那の抗議を援護し、アメリカ政府は大いに困惑し、結局のところ、自国民に日本の在満権益に参入する機会を与え且つ満洲を「かすがい」とする協調関係に日米両国を導く萌芽となる、この社債発行を承認できなかったのである。

在支の(キリスト教系もしくは共産系)排日アメリカ人と在米の反日マスコミ、そしてアメリカ政府の「平和に対する罪」は重い。

(2) 万里の長城が示すように、支那の漢民族は満蒙を化外の地(野蛮人の住む土地)と蔑視しており、辛亥革命前、日本に留学中の康有為、梁啓超ら保皇党と孫文らの革命党が横浜で論争していた際、我が国の国民新聞が「革命党は清朝政府を倒すというが清朝政府は支那人ではないか、支那人にして自分の国の政府を倒すのはおかしい」と批判したところ、革命党の胡漢民は激怒し、数万語を費やして満洲は支那と異なり、満洲人による支那の漢民族支配が不当であることを力説したのである。【萱野長知孫文関係資料集】二〇三頁。

さらに一九二五年十月末、唐紹儀は、「満洲人の征服者は、支那満洲連合のおみやげとして満洲を持ってきた。漢人は清朝を倒したが、満洲は依然満洲人の正当なる相続物たるもので、宣統前帝は満洲に王権を回復することができる筈である。」とまで公言していたのである。ジョンストン【禁苑の黎明】六三四頁。

(3)一九三三年一月二十三日、満洲国のあらゆる団体および協会の責任ある役員が記名調印した満洲国独立に関する彼等の念願を証明する五百八十六通の文書が満洲国政府代表から国際連盟事務総長に対し正式かつ直接に手交されたが、国際連盟は満洲国の存在を承認していなかった為、事務総長は満洲国建国の正統性を証明するそれらの文書を総会に移牒できなかったのである。レー【満洲国出現の合理性】一三三〜一三四頁。

(4)戦前、帝国主義政策の不利益を説明し小日本主義を唱えた東洋経済新報社社長石橋湛山は、被告弁護側の為に東京裁判に提出した宣誓供述書「日本の工業化、侵略戦争の準備に非ず」の中で、一九三一〜四一年にかけての諸外国の対日経済圧迫の実態を数字を挙げて説明し、「日本の産業と国民生活は根底から脅かされたが、日本の産業界は尚日米関係の好転を信じて居た」と証言した。

アメリカの対日経済圧迫の一例を挙げれば、一九三五年日本綿布の対米輸出の増勢は、アメリカ綿業者の反発を惹起した為、日本は同年十二月に紳士協定にて輸出自制を実行した。しかしアメリカ業者はこれに満足せず、数量制限の実施を要求して止まず、アメリカ政府は一九三六年六月、平均四十二パーセントの関税引き上げを行った。一九三七年、アメリカ綿業使節団が来日し綿業協定を求め、日本はこれに応じ同年六月対米輸出綿布の数量制限を行ったが、アメリカに対して報復的防衛的方策を採り得なかった。

なぜなら戦前の日米経済構造は今日のそれとは反対であって、レーが指摘したように、日本は生産事業に必要不可欠な生産財をアメリカから輸入していたからであり、日本の産業界が利益を上げる為には、否が応でも日米関係の好転に期待せざるを得なかったのである。小堀【東京裁判日本の弁明】四三九〜四五八頁。

従って「日本の財閥が政府軍部と結託して侵略戦争を行った」という戦後の左翼の偏向史観は、経済の実態を知らない痴人の戯言にすぎない。

(5)小堀【東京裁判日本の弁明】一〇六〜一〇八頁。【パル判決書上】六八八〜六九〇頁。【パル判決書下】二九九〜三〇二頁。

(6)フィッシュ【日米開戦の悲劇】八十七、一一一頁。

(7)フィッシュ【日米開戦の悲劇】一六九〜一七四頁。

(8)横山【秘録石原莞爾】四十二〜五十八頁。

(9)石原莞爾平和思想研究会【石原莞爾戦後著作集、人類後史への出発】参照。

(10)小堀【東京裁判日本の弁明】五六二頁。

(11)ウェデマイヤー【第二次大戦に勝者なし上】一九一〜一九二頁。

 

 

 

65、慟哭

 

一九三八年五月二十日、ソ連のスターリンはコミンテルン執行委員会に次のメッセージを送ったという(1)。

 

 「大規模の直接的革命行動を再開することは、われわれが資本主義諸国家間の対立を激化させて、これを武力闘争に追い込むことに成功しないかぎり、不可能である。マルクス・エンゲルス・レーニンの教訓は、革命がこれら諸国間の全面戦争から自動的に産まれてくるものであることを教えている。我々の兄弟的諸共産党の主要な任務は、このような紛争が起こりやすいように仕向けることでなければならない」

 

日米開戦直後、あたかも尾崎謀略グループの意志を代表する形において書かれた蝋山政道の「世界大戦への米国の責任」と題した論文が『改造』昭和十七年一月号に記載されている。それは、アメリカ政府の対日強硬方針が日米、米独開戦を勃発させ、第二次世界大戦後、アメリカをも苦めることになる「帝国主義国家相互間の戦争激発によるソ連および共産主義勢力の防衛と拡大」を目的とするコミンテルンの世界戦略を遂に完全発動させるに至ったことを嘲笑しているようで真に興味深い。彼は言う、

 

 「元来無自覚な国家より恐ろしいものはない。而も単に無自覚ではなくて、ひたすら自国の優越を見て相手の実状をかえりみない驕慢に陥れる無自覚においてをや。そは真に人類の歴史に於いて比類なきものである。過去八月に亘る日米外交交渉に於ける米国の態度こそは、徹頭徹尾この無自覚な世界政策に災いせられ遂に日米の国交を破局に逢着させたものであるのみならず、而も最後まで日本の屈服を夢想していた形跡あるに至っては、我々はその評すべき言葉を知らない。然し乍らその反面に於いて我が国が最後まで外交手段によって解決すべく真摯なる努力を続けるに遺憾のなかったことは、既に大東亜戦争の大転換をみたる今日に於いても特筆大書に値いするものである。

米国は数次の交渉に於ける日本の真摯なる態度を通じて当然認識し得べかりし答の限度を悟らず驕慢にも日本の譲歩屈従を期待したのである。その結果として運命的なる愚かなる選択をしたのである」と…(2)。

 

 東條首相は、日米和平交渉妥結に失敗し対米英開戦を決定した後、昭和十六年十二月六日深夜から七日未明にかけて総理官邸の自室で皇居に向かい正座したまま嗚咽し果ては慟哭した、と伝えられている…。     

 

(1)【防衛庁戦史叢書支那事変陸軍作戦3】一八五頁、「ジョアン・ファブリー仏陸相論文」

(2)三田村【戦争と共産主義】一九二〜一九三頁。

戦後、アメリカ政府の反日外交を批判し、対ソ封じ込め政策を提唱したジョージ・ケナンは、膨張するソ連と対峙せざるを得なくなったアメリカの苦しみを「我々のアジアにおける過去の目的のすべてが一見達成されたかに見えるのは皮肉なことである。日本人は中国本土から退出し、満洲と朝鮮からも退出した。これらの地域から日本が退出した結果はまさに、賢明で現実的な人たちが長いこと警告してきた通りである。

今日我々は、日本人が韓満地域で半世紀にわたって直面し背負ってきた問題と責任を自ら背負い込むことになったわけである。他人が背負っている時には、我々が軽侮していた、この重荷に感じる我々の苦痛は、当然の罰である」と表現した。片岡鉄哉【さらば吉田茂】一四四〜一四五頁。

一九三二年一月七日、スチムソン・ドクトリンを発表し、満洲事変を厳しく批判したアメリカ政府は、事変を強行し満洲国を建国した石原莞爾の意図を理解するのに、約二十年の歳月を要したのである。

 

 

 

66、レーニンと明石元二郎

 

「共産主義者は、いかなる犠牲を辞さない覚悟がなければならない。あらゆる種類の詐術、手練手管及び策略を用いて非合法的方法を活用し、真実をごまかし且つ隠蔽しても差し支えない。

 共産党の戦略戦術は、できるだけ屈伸自在でなければならない。党は武装蜂起から最も反動的な労働組合及び議会への浸透にいたるまであらゆる闘争方法の利用を学ばねばならない。

 共産主義者は、大胆に恐れなく攻撃する一方、整然と退却すること、『悪魔とその祖母』とさえ妥協することをよくしなければならない。

 党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって不意に急速に闘争形態を変えることができなければならない。

 共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を至る所に作らねばならない。我々即時二重の性格をもつ措置を講ずる必要がある。党は合法的活動と非合法的活動を結びつけねばならない。」

 

  「ロシアの労働者階級ならびに勤労大衆の見地から言えば、ツアー君主制の敗北が望ましいことは一点の疑いも容れない。

 われわれ革命的マルクス主義者にとってはどちらが勝とうが大した違いはないのだ。いたる所で帝国主義戦争を内乱に転化するよう努力することが、われわれの仕事なのだ。 

 戦争は資本主義の不可避的な一部である。それは資本主義の正当な形態である。良心的な反戦論者のストライキや同じ種類の戦争反対は、あわれむべき、卑怯な、下らぬ夢にすぎない。闘争なくして武装したブルジョアを倒せると信ずるのは馬鹿の骨頂だ。『いかなる犠牲を払っても平和を』という感傷的な、偽善的なスローガンを倒せ。 

  戦争は資本主義のもとでも廃止できるという僧侶的な、小ブルジョア的な平和主義論ほど有害なものはない。資本主義のもとでは戦争は不可避である。資本主義が転覆され社会主義が世界で勝利を得た場合にのみ戦争の廃止が可能となる。」

 

「全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間にわたって我々の基本的原則となるべき規則がある。その規則とは、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これらの諸国を互いに噛み合わすことである。我々が全世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在我々は敵国に包囲されている。もし敵国を打倒することができないとすれば、敵国が相互に噛み合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして我々が資本主義諸国を打倒し得る程強固となり次第、直ちにその襟首をつかまねばならない。」

 

 以上は、一九一九年三月、世界各国の無産階級運動や多数の労働者農民を糾合し、革命手段により資本主義社会機構を打倒し世界共産主義革命を実現する為の参謀本部として、コミンテルンを創設したレーニンが唱えた革命的道徳体系である(1)。

レーニンおよび彼によって建国されたソ連が、病的なほど諜報謀略戦に力を注いだ原因は、明石工作の衝撃であろう。

日露戦争において、明石元二郎陸軍大佐はスウェーデンのストックホルムに拠点を置き、レーニンを始めロシア内部の革命勢力、ロシア帝国からの独立を目指していたポーランドやフィンランドの民族勢力、ロシア政府に迫害されていたユダヤ人等に接触、巨大な諜報謀略網を組織することに成功した。明石大佐は、我が国に貴重な軍事情報を通報しただけでなく、英独政府と緊密に提携しヨーロッパ世論を親日に転換させ、ロシア各地において、革命勢力の武装蜂起、黒海反乱の促進、バルト沿岸諸州の独立を煽動し、当時世界最大最強のロシア陸軍約十個軍団をロシア本国に拘束するなど大活躍しレーニンを感嘆させ、東洋の一小国に過ぎなかった我が国がロシア帝国に勝利することによって有色人種が白人に劣っていないことを証明し、完成間近に迫っていた白人による世界支配―世界のアパルトヘイト化―を阻止するという世界史に刻まれた奇蹟の原動力となった。

 レーニンが日露戦争の戦訓としてコミンテルンを創設し世界各国にその支部を張り巡らせ、レーニンの後継者であるスターリンがロシア帝国を打ち負かした日本を激しく憎悪怨恨し―その発露が日本の歴史を全否定するコミンテルン三十二年テーゼ(日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ)である(2)―尾崎やゾルゲを操り、日本を敗北へ導いたとすれば、

 

「明石元二郎よく国を守り、また国を滅ぼす。これが日露戦争からポツダム宣言まで四十年間の日本史であった」

 

と言えるかもしれない。

 また共産主義運動は、武装蜂起による権力奪取を主要な革命戦術としている為、熱心に軍事学を研究しており、我が国でも昭和初年、多数の軍事書がマルクス主義者によって左翼系出版社から刊行されたという(3)。レーニンの革命的道徳体系は、孫子の兵法「始形篇、兵は詭道なり」「九地篇、始めは処女の如くのちには脱兎の如し」「謀攻篇、上兵は謀を伐ち、その次は交を伐ち、次いで兵を伐つ」「用間篇」そのものである。従って第二次世界大戦におけるソ連の勝利は、孫子の勝利と言えよう。

 

(1)三田村【戦争と共産主義】四十三〜四十四頁。

(2) コミンテルン三十二テーゼは、日本を「半封建的封建的絶対主義的前資本主義的独占資本主義的軍事的強盗的帝国主義」と規定し、日本は帝国主義的強盗戦争を行っている、と断罪したのである。我が国の革新勢力は、今尚この三十二テーゼを盲信するが故に、ひたすら祖国の歴史に罵詈雑言を浴びせ、日本の戦争を帝国主義的侵略戦争と断罪する(彼等は時々「強盗」という用語をそのまま使う)のである。谷沢永一【悪魔の思想】参照。

(3)長谷川慶太郎【情報戦の敗北】一五〇頁。