郷好文の“うふふ”マーケティング:ヌードクロッキーのエピソードを、作家であり非常勤講師でもある大野左紀子さんのブログで読んだ。かいつまむとこんな内容である。
ある日のデザイン専門学校での授業。1年生必修のヌードクロッキーがデッサンのテーマだ。女性のモデルさんが裸でポーズを取った。すると、しばらくして「気分が悪い」と退室する学生が何人も出たという。どうしてなのか? 緊張感からだろうか?
教官によるとそれだけではないという。アニメコースに入学する学生は、毎日のように女の子の絵を描いている。ヌードもたくさん描く。だからヌードに緊張したというだけでは説明がつかない。
教官は教えてくれた。アニメ作家志望の彼らには“理想的な女の子”が頭にインプットされている。画面からはみ出すほど長い脚や、ほっそりとした腰の女体。ところがナマの女体はそれとは違う。(鍛えているとはいえ)モデルには脂肪もあれば、シワもあるし、毛もある。三次元のモデルの肉体には、二次元アニメでは省かれがちなそういった“ノイズ”が過剰にある。そのため、ナマの肉体と理想的な女の子とのギャップに耐えきれず、気分を悪くして退室するというのだ。
そしてそればかりか、目の前の裸体とはまるで異なる“アニメの女の子”を、うつむいてスケッチブックに描く学生もいたという。
“ミテルだけ”が象徴すること
さまざまな議論が生まれるだろうエピソードである。アニメはPCでCGを描くもので、マーケットはリアルではなくバーチャルの姿態を求めているのだから、ナマ身のクロッキーがいるだろうかとか。アニメのキャラとはもはや人間観察から生まれず、フィギュアやPCのベジェ曲線から生まれるのかとか。もちろん“ナマの女への恐怖心”というオタク心理分析的なテーマもある。
ひと頃、『ミテルだけ』というDVDが話題になった。50人の女性たちが撮影するビデオカメラの方をじっと見ているだけ。その女性たちの目を1分間見つめるトレーニングによって、人見知りの羞恥心やナマの女性への恐怖心を減らすのが狙いだという。へえ、私なぞは、見つめて吟味して妄想して時々褒めるのが習慣なのに。
見つめるとは本来、“あなたに興味を持っていますよ”というサインなのである。なのに見つめるという行為だけを切り離して、バーチャルでトレーニングするというのはちょっと変だ。無遠慮に見つめる力が付いてしまうのはむしろ恐ろしい。
これはナマへの恐怖心、“ナマ女性対オタクの問題”という構図にとどまらない。“恐怖心を和らげるトレーニング”という切り口は今どきの人間心理をズバリ突いているのだ。ナマを怖がる心のまん延があちこちにあるからだ。
ナマではない世界観が広がる
例えば電子メール。私自身、相手と“話す”時、通話よりメールを選ぶようになってきた。携帯電話の利用アンケートを読んでも、“喋る派”よりも“打つ派”が圧倒的に多い。それを恐怖とまで言えないとしても、喋ることをわずらわしく感じることがある。会社やお店の予約もできるだけメールで済ましたい。出前や医者の予約もネットで済ます。まだ会ったことのない人でもメールは打てるが、いきなり会うのは失礼でもあり恐い。女性だと信じて相手にメールして、「実はネカマです」。あ、これは別の意味で恐怖だ。
会社でもナマが減っている。退職のあいさつを電子メールで済ますことは普通になってきた。辞める理由をあれこれ詮索されるのもイヤだし、今さらのアドバイスを聞かされてもね。上司が部下を電子メールで叱責する。メールなら打つ方も読む方も最低数メートルは離れているから、冷静になれる。いや、かえって逆上するか? でも会議室に呼び、1対1で諭すのと、どちらが効果的なのだろうか?
デジタル産業やオタク市場、マンガだけではない。家事ロボットやセルフレジのような機械化にも、飲食店の個食ブースも非婚現象にもその匂いを嗅ぎ取れる。ブログの炎上も、コールセンターへの言葉の暴力も、ナマだったらとてもできない。今、ディズニーランドが盛り上がるのは、近場でお手軽だからだけでなく、あそこでは非ナマ(非日常空間)とナマっぽいサービス(キャスト)がうまく混合しているからでもある。
ネット内の世界観だった“ナマからの逃避”が実生活にあふれてきた。ナマというノイズへの恐怖心を和らげる道具やビジネスが増えてきた。もはや「バーチャルな体験は不健康で、ナマの体験こそ素晴らしい」と単純化できない。どちらも私たちの生活リズムや消費心理に深く刻み込まれている。
ナマを観ながら自分好みの女を描く
アニメはファンタジーだから非ナマ女でいい。うーん、否定はしないが、“ナマの裸体”を直視しないで、本当の女が描けるのだろうか? 数々の美人画の巨匠、風間完氏は「美人画は人間を描くこと」だと言う。
「モデルにはいいところも悪いところもあるが、悪いところだってそんなに嫌いなわけじゃない。男と女は、うまさえ合えば欠点は赦しあえる。それが生きている人間のおもしろさだと思う」(アトリエ出版社『女性美の描き方』より)
自分好みの“いい女”を描こうとひたすら手を動かし続ける。「この女の額には何がつまっているんだろう」と思いながらコンテ(素描を描くクレヨン)を動かす。するとハプニングが起きて、画面に“いい女の表情”が突然出てくる。
自分好みのいい女を描く点では、風間画伯もアニメ志望学生も同じ。違うのはナマ(現実のモデル)と非ナマ(自分の好み)を一緒にさせようという努力だろう。アート分野だけでなく、ビジネス分野にも通じるのだが、私たちが生涯を通じてやることとは、自分と市場との折り合いをつけること。2つの世界のギャップを減らし、歩み寄らせることだ。そのためにはナマを直視する必要がある。
ただ画伯はこうも言う。「いい女の前でいいかっこしたいと思う気持ちがあると描けない。年をとって女への想いがある程度麻痺してから、ようやく美人画を描けるようになった」。うーん、ナマ身をファンタジーしちゃう私、まだまだ画伯にはなれないな。