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「『金曜日』新編集委員就任について」で、中島岳志の『金曜日』編集委員就任は、『金曜日』社長の佐高信らが、佐藤優を『金曜日』で使っていくためであろう、と述べた。 佐藤や佐高らは、佐藤を『金曜日』が重用することへの読者からの批判を、どうやら非常に恐れているようなのである。まず、おさらいしておこう。 佐藤の単行本『世界認識のための情報術』(金曜日、2008年7月刊)は、『金曜日』が佐藤を使い続けるために出版したと言ってよいだろう。「<佐藤優現象>と侵食される「言論・表現の自由」でも書いたが、『金曜日』編集部で、佐藤と昵懇の伊田浩之は、『金曜日』2008年6月27日号の編集後記で、以下のように述べている。 「本誌連載「飛耳長目」をまとめた佐藤優さんの新刊『世界認識のための情報術』を7月中旬、発売します。佐藤さんは、この本のために400字詰め原稿用紙100枚超を書き下ろしました。本誌購読者などで佐藤さんの言説に違和感を持たれている方がいれば、その方にこそ書き下ろし部分を読んでいただきたいと思います。」 同書で佐藤は、「私は『週刊金曜日』と真剣につきあっているつもりである。なぜなら、このような形態で、読者との双方向性を担保する媒体が、存在し、発展していくことが、閉塞した現下の日本からファシズムが生まれることを防ぎ、真の意味で、日本の国家体制を強化することに貢献すると考えるからだ」(40頁)といった具合に、自分の『金曜日』に対する「率直な思い」について語っている(佐藤と「ファシズム」については後に触れる) 何度も私は書いているが、佐藤が『金曜日』やリベラル・左派ジャーナリズムに書こうとするのは佐藤の勝手である。佐藤ではなく、『金曜日』やリベラル・左派ジャーナリズムこそが、佐藤をなぜ自分たちが使うのか、また、リベラル・左派が佐藤を重用することが、佐藤が右派メディアを中心に展開している排外主義的・国家主義的主張に対する、一般読者の警戒感や、リベラル・左派の抵抗感を弱める役割を果たしていないと本気で考えているのか、答えるべきだろう。そして、『金曜日』を含めたリベラル・左派は、この疑問に対して管見の範囲では一切答えていないのである。 さて、これまでは前置きである。佐藤や佐高らが、佐藤を『金曜日』が重用することへの読者からの批判を恐れているらしいと考える根拠として、今回取り上げたいのは、『世界認識のための情報術』内のある注釈である。 同書は、単行本の元となった連載記事の1回分の文章の後に、注釈が加えられている。この注釈の書き手が、佐藤か編集部かは不明だが、同書には書き手が明示されていないため、文責は佐藤が負う、と考えてよいだろう。 さて、以上の予備知識をもとに、同書中の「防人の歌」なる表題の文章を見てみよう。ここで佐藤は、連載の前の回(「六者協議と山崎氏訪朝をどう評価するか」(『金曜日』2007年1月19日号。単行本では、「山崎氏訪朝」)に対して、『金曜日』読者が投書欄で批判したことを受けて、その投書を取り上げている。 佐藤はここで、「「こと朝鮮について、佐藤の世界観なり情報に誠実、新鮮、鋭敏、千里眼といった要素をおれは感取できない」との杉山氏(注・投書の投稿者)の評価は、真摯に受けとめる。仮にこの評価が『週刊金曜日』の読者の圧倒的大多数と編集部の見解ならば、読者を不快にするために執筆を続ける意味はないので、筆者はいつでも連載を打ち切る用意がある」(127頁)と、例によって、単なる一批判(しかも、読者からの)を自身の連載中止の話にまで拡大させる大見得を切る(後日の投書欄で「佐藤さんには連載をやめてほしくない」といった趣旨の投書を『金曜日』編集部が載せて、この件は収束する)のであるが、それはとりあえず置いておこう。 佐藤批判のこの投書は、佐藤の、対北朝鮮「戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」という一節を批判している。これに対して、佐藤は以下のように答えている。 「筆者は国権論者であるので、基本的に国家主権は尊重するべきで、大国による小国への人道干渉は原則として避けるべきと考える。しかし、06年10月9日の北朝鮮による核実験によって「ゲームのルール」は根本的に変化した。/北朝鮮の核攻撃の標的に日本と韓国がなっていることは明白である。さらに北朝鮮の核技術、弾道ミサイル技術がイランに流出すると第三次世界大戦を引き起こし、世界規模での熱核戦争が生じる可能性を排除できない。/これは筆者の主観的な見立てではなくインテリジェンス専門家の間では共通の見方だ。主観的願望により客観情勢が変わるというのは「念力主義」だ。核実験を行ない、生物・化学兵器と弾道ミサイルを保有し、「戦争も辞さない」と公言している北朝鮮を国際社会が「戦争カード」によって牽制するというのは外交ゲームとしては当然のことだ。これらの議論もすべて国家という主語の中に内包されている。」(128~129頁) いかにも「国権論者」らしい主張である。ここでの佐藤の主張を読む限り、問題になっていた佐藤の発言「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」という一節は、日本の北朝鮮への武力行使を念頭に置いている、と考えてよいだろう。 ところが、単行本では、「戦争もありうべし」という、投書から再引用された自身の一節に、佐藤は以下のような注釈を施しているのである。 「戦争もありうべし――「あり」+可能性を示す動詞「う」+推量の助動詞「べし」で、かみくだくと「戦争も起こりえるだろう」の意味。(後略)」(130頁。強調は引用者、以下同じ) ……何から突っ込んでよいのやら。品詞分解を見たのは大学受験の古文の時以来である。普通に本を読んでいて遭遇したのは初めてだ。 もし「戦争も起こりえるだろう」という意味ならば、上で引用した「筆者は国権論者であるので」云々の文章は意味不明になってしまう。北朝鮮に「戦争カード」によって牽制する国際社会の中には、北朝鮮の核攻撃の標的になっていると佐藤が言う、日本と韓国が含まれることは明らかであろう。「戦争もありうべし」という言葉が、対北朝鮮武力行使の決意を示すものではなく、「戦争も起こりえるだろう」という意味ならば、ここでの日本の役割は何か?北朝鮮政府にそうした「推量」を伝える役割か?そうした状況で、「戦争も起こりえるだろう」ことくらいは、日本政府が伝えるまでもなく、北朝鮮政府もわかると思うのだが。 とりあえず、佐藤が注釈で主張するように、「戦争もありうべし」は「戦争も起こりえるだろう」という意味だった、ということにしよう。そうすると、次の、「<佐藤優現象>批判」でも引用した一節はどうなるのだろうか。 「1938年のミュンヘン会談でイギリス、フランスから妥協を取り付けチェコスロバキアからズデーテン地方を獲得したナチス・ドイツと同じような「成果」を現在、北朝鮮が獲得している。 /このような状況に「ケシカラン」と反発しても事態は改善しない。狭義の外交力、すなわち政治家、外交官の情報(インテリジェンス)感覚や交渉力を強化し、新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる。これは良いとか悪いとかいう問題でなく、国際政治の構造が転換したことによるものだ。その現実を読者に理解してほしいのである。」(「フジサンケイビジネスアイ 佐藤優の地球を斬る」「新帝国主義の選択肢」) 「自国民が拉致された場合、武力を行使してでも奪還を図るイスラエルの姿勢から日本が学ぶべきことは多い。北朝鮮による日本人拉致問題の解決のためにイスラエルと共闘していくことが重要だ。」(「彼我の拉致問題」『地球を斬る』角川学芸出版、2007年6月、116~117頁。「彼我の拉致問題」の初出は「フジサンケイビジネスアイ 佐藤優の地球を斬る」) これらも「戦争も起こりえるだろう」の意味なのだろうか?「フジサンケイビジネスアイ」の読者で、ここでの佐藤の主張を、対北朝鮮武力行使の可能性を「帝国主義の選択肢」として日本が担保しておくことの必要性の強調ととらない人間は、ほぼ皆無だろう。 上記の、品詞分解まで持ち出してくる例から、佐藤(や『金曜日』編集部)の、『金曜日』読者の批判を防ごうという必死さが伝わってくるだろう。ところが、注釈どおりに「戦争も起こりえるだろう」としてしまうと、上で見たように、今度は佐藤の右派メディアでの主張と整合性が取れなくなってしまう。佐藤が左右メディアで、主張の使い分けをしているということが露呈してしまうのである。 この注釈について、笑える点はまだある。 この『世界認識のための情報術』のあとがきで佐藤は、収録した文章のうち、「標準的な『週刊金曜日』の読者」からの「批判を覚悟して書いた論考」をいくつか挙げているが、その中に、上記の「防人の歌」と、「山崎氏訪朝」も含めている。 だが、「戦争もありうべし」という一節を、注釈で佐藤が主張するように、「戦争も起こりえるだろう」という意味で書いたのであったならば、『金曜日』読者からの「批判を覚悟」する必要はないではないか。佐藤は、品詞分解までした注釈を加えたことを忘れていたか、先にこのあとがきを書いてしまい後から訂正するのを忘れていたか、のどちらかであるように思われる。 佐藤や佐高らは、佐藤を『金曜日』が重用することへの批判に恐ろしく敏感になっているようである。佐高らは、佐藤を使い続け、論壇における<佐藤優現象>を継続させるために、中島岳志の新編集委員就任だけではなく、今後もさまざまなキャンペーンを張ってくると思われる。 2 「1」で、佐藤が『世界認識のための情報術』では、「閉塞した現下の日本からファシズムが生まれることを防ぎ」たいと主張していることを示した。佐藤は、2008年12月19日付の「毎日新聞」夕刊のインタビューでも、「媒体によって何となく雰囲気が違うように見えるのですが……」という、記者(遠藤拓)の控え目な質問に対して、「僕は右と左の両側から、日本がファシズムに陥る可能性を阻止しようと思って体を張っているつもりなんだ」と答えている。なお、記者は、上記の質問をしたところ、「佐藤優さん(48)の逆鱗に触れてしまったらし」く、佐藤から「あなたはプロフェッショナルな記者で、こっちだって命かけてやっている。根拠もないのに、印象論で来るのは極めて不まじめじゃないか。どう思います?」と「激しい口調でたたみかけられ、思わずたじろいだ」らしい。 だが、「東京アウトローズ web速報版」によれば、「日本は国家機能を強化することを余儀なくされる。ここで選択を誤ると、ファシズムがやってくる」と断りつつも、佐藤は以下のように語っているらしい(立読みして確認した限りでは、原典との大きな違いはないようである)。 「1920年代前半、イタリアでベニト・ムッソリーニが展開したファシズムには魅力がある。初期ファシズムは、共産主義革命を排し、資本主義体制を基本的に維持するなかで、国民を動員し、束ねて、貧困問題を解決し、社会的格差の縮小につとめた。(中略)イタリア型ファシズムには、高度の知的操作によって国家機能を強化し、その結果、資本主義の弊害を除去する可能性を示す。また、国民の能動性を高め、人間の社会的連帯を重視する。(中略)いずれにせよ、ファシズムが日本においても、政治の現実的な選択肢に入りはじめたと私は見ている」(佐藤優・田原総一朗『第三次世界大戦 右巻 世界大戦でこうなる』「まえがき」) http://outlaws.air-nifty.com/news/2009/01/post-78bc-1.html 佐藤は右翼雑誌『月刊日本』においても、「甦れ、ファシズム!」という表題の対談連載を、このところ続けており、ファシズムに関して同様の主張を行なっている。ファシズムには同意しないと見せながら、「現実的な選択肢」としてのファシズムの「魅力」を大っぴらに語っている。以前にも書いたが、日本の戦前の一部の右翼や社会大衆党は、「反ファッショ」を掲げながら国家社会主義にのめり込んでいったのであって、恐らくそのことに自覚的な佐藤と、佐藤を持ち上げる『金曜日』その他の左派の動きは、戦前の事例の再現のように見える。 佐藤が左右の媒体で使い分けをやっていることは、「<佐藤優現象>批判」や私のブログ記事や、「1」で示した「戦争もありうべし」に関する件を見るだけでも明らかだろう。佐藤は、記者に対して使い分けを否定しておきながら、使い分けを否定する根拠とした反ファシズムの主張に関してすら、使い分けを行なっているようである。 東京アウトローズは、上の記事で、佐藤について的確に、以下のように指摘している。 「日本の新たなるファシズムは、国民がファシズムとして認識し得ないソフトな〝微笑みのファシズム〟であろう。すでに、いまの日本社会を見渡せば、その土壌は醸成されつつあると言わねばならない。国家による愚民化政策がその一つで、国民は支配・管理・監視されている意識すら持ち得なくなる。 このような来るべき〝微笑みのファシズム〟のイデオローグとして最適な存在こそ佐藤優なのだ。同書(注・上記の田原との対談本)の中で、佐藤は「私はキリスト教の信者だけれど、マルクス主義の信者じゃありませんからね」と開き直っている。たしかに、佐藤がマルクスをどう読もうと勝手である。 しかし、佐藤を使っている『世界』『週刊金曜日』などの左派系雑誌は、佐藤の本質を知るべきである。反資本主義的な要素も含む「初期ファシズム」の信奉者たる佐藤にとっては、こうした左派系雑誌に登場することは何ら矛盾する行為ではないのだ。週刊金曜日が力を入れている「反貧困運動」に対する佐藤の〝共感〟とは、ファシストとしての共感なのである。」 また、日刊ベリタの「「品格ある帝国主義日本」を説く佐藤優氏 右派論客に混じり「昭和維新再考」シンポジウム」という記事によれば、佐藤はこの右翼系のシンポジウムで、「右が左を包み込む」と話したようである。これこそ私が<佐藤優現象>としてまさに指摘してきたものであり、佐藤は驚くべき率直さでそのことを認めているようである。「右」に「包み込」まれつつある、リベラル・左派はここまで舐められているのである。 「右が左を包み込む」とは、まさに(ソフト)ファシズムである。だが、佐藤がファシスト的であるのは、主張それ自体の親和性もさることながら、ナチスの元幹部であったヘルマン・ラウシュニングがナチスに見いだしたような(ヘルマン・ラウシュニング『ニヒリズムの革命』筑摩書房、菊森英夫・三島憲一訳、1972年、原書1938年)、メンタリティと行動様式の点においてであるように思われる。 ラウシュニングは言う。 「まさに(注・ナチスにとって)中心的、根本的原則とも見なさるべきは、「市民階級の愚昧と臆病さに対してはなにをしても大丈夫だ」というものである。(中略)その際はっきり言えるのは、この市民の愚昧と臆病さに対する賭けがともかく決して誤った賭けではなかったということである。(中略)「典型的に市民的な態度とは、くり言を言いながらも敢えて抵抗することもなく、一歩一歩退却してゆくことによって、そのつど残っている部署をいくらかでも確保できるのではないかと考える態度である。」」(57頁) 「ナチスの成功の秘密は、あらゆる見せかけの偉大さのもつ弱みを見抜き、こういう見せかけの偉大さに対してはおよそなにをしても大丈夫だということを見抜いていたことである。」(58頁) 佐藤の、左右での主張の使い分けや「言論封殺」の数々の事例、言ったことを言っていないと言い張る姿勢(例えば「小林よしのりと佐藤優の「戦争」について」の「追記」参照)、ファシズム擁護等のあけすけさ(東京アウトローズも、上記の記事で、佐藤のファシズム擁護について「驚くほど明け透けに書いている」と述べている)といった、言動・行動の背景には、「市民階級の愚昧と臆病さに対してはなにをしても大丈夫だ」という状況認識があると思われる。 佐藤は恐らく、リベラル・左派の編集者、ジャーナリスト、学者といった人々が、方向感覚を失っており、内的倫理を崩壊させており、改憲(または安全保障基本法成立)後の「論壇」への適応を考えており、何らかの権威や利権をちらつかせて愛想を振りまけば、簡単に獲得できることを正確に見抜いている。また、教養が豊富であったり学術的に権威とされたりする人々や出版社が、その内実は空っぽであり、単に「見せかけの偉大さ」に過ぎないことも恐らく正確に認識している。こうした正確な認識に基づいた上での「市民階級の愚昧と臆病さに対してはなにをしても大丈夫だ」という押し出しぶりが、佐藤の強みであると思われる。 恐らく佐藤は、日本の「国体」もキリスト教もマルクス主義も何一つ信じていないだろう。多分、佐藤にあるのは、ラウシュニングがナチスに関して指摘したように、徹底したニヒリズムと権力衝動だけである。 <佐藤優現象>に眉をひそめているリベラル・左派は多いだろうが、それを公的に批判せずに沈黙し、佐藤優と結託するリベラル・左派にもまだ可能性があるのではないか、と期待するのは、「くり言を言いながらも敢えて抵抗することもなく、一歩一歩退却してゆくことによって、そのつど残っている部署をいくらかでも確保できるのではないかと考える態度」そのものなのではないか。「佐藤優のイスラエル擁護を問題にしないリベラル・左派の気持ち悪さ」で書いたように、佐藤に嫌悪感を抱かずに結託する時点で、もう終わっているのである。私は『金曜日』その他の佐藤優と結託するジャーナリズムに何ら期待していないが、期待している人は、それだけ一層、佐藤と結託していることを批判していくべきだと思う。
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