ブログ紹介:「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」 [2009-01-30 00:00 by kollwitz2000]
『金曜日』新編集委員就任について [2009-01-30 00:00 by kollwitz2000] メモ3 [2009-01-28 00:00 by kollwitz2000] メモ2 [2009-01-26 00:00 by kollwitz2000] 「読者より:右翼に(進んで)併呑される人々」 [2009-01-23 00:00 by kollwitz2000] 護憲派ポピュリストおよび「護憲派のポピュリズム化」について [2009-01-20 00:00 by kollwitz2000] 「佐藤優の議員団買春接待報道と<佐藤優現象>のからくり」 [2009-01-18 00:00 by kollwitz2000] 日本軍「慰安婦」(性奴隷制)問題のいま――緊急・公開学習会の案内 [2009-01-16 00:00 by kollwitz2000] 佐藤優のイスラエル擁護に嫌悪感を抱かないリベラル・左派の気持ち悪さ [2009-01-13 00:00 by kollwitz2000] 「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」という、在日朝鮮人がやっているブログがある。
「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」 http://kscykscy.exblog.jp/ 毎回、非常に参考になる記事ばかりなので、注目している。ちょうど、「資料庫」にアップした、「読者より:右翼に(進んで)併呑される人々」にリンクを貼られたこともあり、これを機会に紹介しておきたい。 それにしても、そのブログの最新記事で教えられたのだが、白洲次郎が在日朝鮮人全員強制送還論者だったとは知らなかった。護憲派はこんな人物を祭り上げているわけである。 『金曜日』の新編集委員に中島岳志、田中優子、宇都宮健児が就任した。
中島の就任は、佐藤優を『金曜日』で使い続けるためだと思われる。中島は、小林よしのりに最も目をつけらえている人物の一人であろう。大雑把に言えば、『金曜日』社長の佐高信は、要するに、中島・佐藤・『金曜日』連合軍対小林、という構図を作り出すことで、佐藤は自分たちの味方だ、と『金曜日』読者に印象付けたいのだと思われる。現に、『創』の最新号(2009年2月号)では、連載を持っている佐高と佐藤が、揃って小林攻撃を行なっている。 中島・佐藤とも小林との論争においては圧倒的に劣勢なので、こうした対立構図は彼らにとって渡りに船だろう。割を食うのは『金曜日』だけである。佐高(ら)は、『金曜日』を私物化している。 それはさておき、田中優子についてはあまり関心がなかったのだが、下の文章を読んで驚いた。 「これだけグローバル化した世界ですから、一企業のため、一国のためという考え方では、将来結局共倒れです。国境は人間が作ったもので、実際には空も空気もつながっているのですから、「うちの国だけきれいに」は物理的に不可能です。にもかかわらず、国際的にも未だに京都議定書のような混迷した有り様です。そうして考えていくと、逆に、結局は自国で完結させられるようにした方がやりやすいと結論づけられはしませんか?遠くからモノを運んでくるという行為そのものが環境に多大な負荷を与えます。ありとあらゆるものを輸出入しながら経済を回すことから脱却して、自給自足、地産地消を成立させ、国ごとにしっかりとした環境対策を組めば、多くの問題が解決されるはずです。 ではなぜそれができないのでしょう。そこで前述した植民地政策に話がつながるわけです。日本が自給自足を試みると、モノが高くなるから駄目だと言う人がいますが、日本と中国の関係を見ても、利益の出どころが人件費の差額だという状態です。他の国を貧しくさせることでできた落差を利用して、より安価なモノができているのですから、その値段がむしろ異常なのです。この点は消費者側も何としても認識する必要があります。江戸時代がそうであったように、地産地消でモノの値段を適正化し、それに関わるサービスなどで雇用を生み出していくのが、持続可能な経済のあり方だと思います。」 http://www.dff.jp/specialist/009.html 「江戸時代がそうであったように、地産地消でモノの値段を適正化」するというのも皆目見当がつかないのだが、それはさておき、これ、典型的なアウタルキーの思想じゃないですか。『買ってはいけない』系のファナティシズムが行き着けば、こういう感じになるのだ、と思われる。9・11陰謀論に続いて、『金曜日』はまた大変な難物を抱えたようである。 田中は反グローバリゼーションの文脈でこうした主張を行っていると思われるが(これでは反グローバリゼーションというよりも反市場経済であるが)、そもそも、これだけ日本の多国籍企業が海外展開して発展途上国で搾取している中で、そのことを問題にせず、発展途上国の運動と同じように反グローバリゼーションが唱えられるとすること自体がおかしいのである。イラク戦争に加担しながら「平和国家」を唱えるようなものだ。 自国の多国籍企業の海外展開を放置したまま唱えられる、先進国での反グローバリゼーション運動は、必然的に排外主義になる。田中の主張は、現実的にはほとんど意味を持たないが、現在のリベラル・左派に見られる、外国人労働者の流入への反対論(例えば萱野稔人)や、中国産製品の排斥といった排外主義を、気分的に下支えする機能を果たすだろう。 仮に田中が江戸時代的な自給自足経済に復古することで生活水準の低下を容認するという姿勢を打ち出すならば、思想的には意義があると思うが、恐らく田中の主張は、従来通りの先進国の国民としての(田中に関して言えば、恐らく貴族的な)生活水準を維持させることは大前提だろう(そのためには多国籍企業の海外展開と海外派兵が不可欠である)。これは、萱野のような、生活水準の低下の脅威を訴えて外国人労働者の流入への反対を説く主張と同質の反グローバリゼーション論である。 私は、保守系ブログ「HALTANの日記」でこの田中の発言を知ったのだが、HALTAN氏は田中の発言を酷評する一方、同じ記事で、最首悟がスピリチュアルにハマっている件を取り上げている。私は田中の主張にも、スピリチュアルに近いものを感じる。http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20090129 ところで、佐藤は最近、「テロとクーデター」への期待が蔓延していると盛んに書いており、また、小林を「ファシズム」のイデオローグとして、ファシズムと対抗することを呼びかけている。 佐藤がクーデターやファシズムの危険性を叫び、そうした発言を左派メディアが載せるのは、「佐藤さんとともに戦おう」ということで、佐藤が左派メディアで書く場所を確保するためであることは見やすい道理だろう。だいたい、クーデターをなぜアメリカが許すのか。佐藤や左派メディアは、マッチポンプを演じているわけである。 下のサイトが的確に指摘しているように、佐藤こそが「ソフト・ファシズムのイデオローグ」である。 http://outlaws.air-nifty.com/news/2009/01/post-f255.html 「マガジン9条」でのインタビューでの発言を読む限り、田中は、今の『金曜日』の憲法9条と「愛国」主義の擁護という路線に極めて適合的であるように見える。特に、「私が言っていることは、かなり民族主義的ですよ。右翼の方々と意見が合いそうに思うんですけどね」という発言などまさにそうだ。 また、田中はここで、「戦前はむしろ、日本が自分たちの考えで何をするか考えていた分、今よりも偉かったのではないかとさえ思えてきますね。結局は軍部が台頭して、あの戦争という大失敗に突入してしまいましたけど」とも書いている。朝鮮の植民地支配自体は容認している、ということである。 現在の田中は、佐藤のようにあからさまな排外主義を振りかざしていないが、田中の主張である江戸時代賛美やアウタルキーの思想自体は、9・11陰謀論がそうであるように、ファシズム的なものに親和的である。 田中の『金曜日』編集委員就任は、『金曜日』が確実に「ソフト・ファシズム」の路線を進んでいることを示していると思う。逆に言えば、憲法9条と「愛国」主義の擁護は、排外主義やファシズム的なものと十分に共存可能である、ということでもある。 月刊誌の『中央ジャーナル』203号(2008年11月25日発行)で、「佐藤優が岩波書店社員を恫喝」なるタイトルの記事が掲載されている。同誌は、得体の知れない右派系の会員制雑誌である。
「佐藤優が岩波書店社員を恫喝」 http://chuohjournal.jp/2008/11/post_2017.html この記事(定期購読しているわけではないが、入手した)には、佐藤は、「出版社への佐藤批判封じをエスカレートさせ、同志社大学時代の狡猾な学生活動家の一端を垣間見せている」と書かれており、私に関する『週刊新潮』の記事についても、佐藤が「なじみの『週刊新潮』記者を使い、コメントを装って「岩波にも責任がある」と恫喝」したと書かれている。 同記事には、事実誤認も見られるが、右派系の雑誌でも右翼を自称する佐藤についてこの程度は書いているのであるから、『金曜日』あたりにこの件や、佐藤と岩波書店上層部との関係(例えば、「岩波書店代表取締役社長・山口昭男氏と佐藤優」参照)等について取材して記事にしてほしい。何せ、『金曜日』は、ホームページのトップ(佐高信の動画の画面上)で、「週刊誌の中でも一番タブーがない タブーを打破する週刊誌」と宣言しているのだから。 http://www.kinyobi.co.jp/ それにしても、私はこの宣言を初めて見たとき、呆気にとられてしまった。『金曜日』はホームページの訪問者から、じゃあ『金曜日』の「佐藤優タブー」はどうなのか、というツッコミを待っているのかもしれない。 なお、佐藤自身も、「「週刊金曜日」という雑誌があります。これに私も書いていますが、書いても連載しても大変なのです「佐藤の野郎はけしからん、あいつは右翼だ」とか「あいつは国家主義者だ」といって批判の手紙ばかりくるのです。ですから、3回に1回ぐらいは反論を書いたりとか、いろいろなことをしなければいけないのです」と、佐藤の重用に関する『金曜日』編集部への批判の声が多いことを証言している。 http://www.kokubou.jp/books-105-2.html 藤永茂氏のブログを久しぶりに見たら、精力的に更新されていて驚いた(新著も出版されるらしい)。確か御歳、82である。まだ少ししか読めていないが、最近の記事である「ストーリーはもう沢山だ(1)~(4)」を読んだだけで、これまで氏のブログをちゃんと見ていなかったことを深く後悔させられた。
ところで藤永氏は藤原帰一の発言に驚いておられる。 「ストーリーはもう沢山だ(4)」 http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2008/12/post_ab13.html 藤原の発言が、藤永氏が指摘するように、「基本的な事実誤認」の「ストーリー」であることは明らかだが、個人的にショックだったのは、自分が藤原の発言をここで一読したとき、全然驚かなかったことである。多分、藤永氏に言われなければ、「ああ、また言ってる」で通り過ぎていただろう。今の論壇には、藤永氏が言うところの「ストーリー」以外の言説はほとんど見られないとすら言えるが、「ストーリー」の蔓延の最大の問題は、人を「ストーリー」に対して不感症にさせることなのかもしれない。恐らく<佐藤優現象>は、こうした基盤の上に成り立っている。 戦後日本文化史の若い研究者の方からいただいたメールが大変面白かったので、加筆いただいて、「資料庫」に掲載させていただいた。是非ご一読ください。新しい「論壇」を作ろうという、出版産業周辺のくだらない動きへの、優れた批判である。いろいろ啓発されたが、特に注の部分(特に注1・注6)が面白い。
「読者より:右翼に(進んで)併呑される人々」 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-9.html なお、言及されている「東浩紀の言論」についての私の文章は、下のものである。 「東浩紀の嫌韓流容認論」 http://watashinim.exblog.jp/8879908/ 当ブログは、読者の皆様からのご投稿を歓迎いたします! 年末に何気なく「愛川欽也 パックインジャーナル」(朝日ニュースター)を見たら、「ソマリア沖海賊対策に自衛隊派遣」をテーマとした討論をやっていた。
http://asahi-newstar.com/program/packin/onair/081224-007597.html 司会の愛川(キンキン)は護憲派らしい(例えば、このインタビュー参照)。愛川はこの日、<派遣に反対したら、政府が憲法解釈を変更して、集団的自衛権の行使を容認する新法が制定されかねないから、現行でも派遣可能とすべきだ>といった趣旨の主張をしていた。めちゃくちゃな法感覚に笑ってしまったが、別にこれは愛川だけがおかしいのではなく、現在の護憲派ジャーナリズムの大多数の関係者、発言者は、本来はこういった主張になるはずである。「対テロ戦争」自体への批判的認識はほとんど持っていないのだから。現に、『金曜日』編集委員の落合恵子もその場にいたが、ほとんど沈黙を守っていた。愛川は、別に護憲派ジャーナリズムとのしがらみを持っていないから、率直に語っているだけだ。 それにしても、私は愛川のこの主張の、うまく言いがたい奇妙なぬるさに、強い既視感を覚えた。以前、どこかで愛川の発言について読み、似たようなぬるさを感じたはずなのだ。だが、私は愛川に取り立てて興味もなく、政治的な発言もあまり目にしたこともない。どこで読んだのだったかという、恐ろしくどうでもいいことが気になりながら、新年を迎えたのだった。 年が明けても、なぜかこのことが気にかかっていたのだが、ようやく最近、ついに思い出したのである。以下の文章だ。 <スタートから1年で、「キンキンのとことん好奇心」(注・テレビ朝日)が最終回を迎えた。 負けての撤退であることは明白だが、しかし一応、番組上は穏便に、「キンキン、1年間ご苦労様」と拍手でねぎらう形にはなっていた。しかし拍手の音は妙にまばらだ。 (中略) さて、「とことん好奇心」はフィナーレを何で飾ったかというと「涙のリクエスト ベスト30」という企画である。好評を博した名物コーナーらしい。要するにハガキとFAXで募ったリクエストによるナツメロベスト30なわけだが、いきなり30位が中村メイコ「田舎のバスで」29位白根一男「はたちの詩集」である。別に1位が「いい日旅立ち」であるようなありがちなナツメロのランキングとズレていたっていいのであるが、30位「田舎のバスで」(いなかーのバスはオンボロ車(ぐるま)ー、という歌らしい)というのは、ちょっとすごい。全く別の世界観すら感じる。世界観は大げさにしても、どうやらこれまで回を重ねてきたこのコーナーで、過去にスタジオに出演してくれた歌手の曲が多くの票を集めるというからくりがある模様。中村メイコは常連ゲストだし(でも「田舎のバスで」を歌うことは拒否しつづけているらしい)、白根一男も(も、とは言っても私はこの人知らないです)何度か出ているのだろう。 (中略) でもキンキンはこの企画で最終回を迎えたことに、いたくご満悦だ。「古い歌謡曲には歌詞世界がありドラマがありいろんな事を教えられもする」という今更陳腐な御高説をぶち、「後世に残し伝えていく義務がある」と使命感に燃えている。これは「TVフランス座」(キンキン司会の月イチ深夜番組。テレビには乗らない芸人さんを紹介。玉乗り一筋50年の老芸人とか)と同じである。「TVフランス座」ってのも辛い番組である。「もうこれは文化です」って言われても。文化だからって全部残さなきゃいけないってわけでもないだろう。ふるいから落とされる文化だってあるはずだ。いや落とすべきものだってある。二代目浅草駒太夫のおいらんストリップってさあ。悪いとは言わないけどさあ、キンキン、自分の懐古の情を全て「文化」とか「伝統」にしちゃうんだもの。「なつかしい」だけじゃいかんと思ってるんだろうな。それもいかんことはいかんけど。でもキンキン変だぞ。あんたは文化選定委員か。 (1996・4・11)> (ナンシー関「愛川欽也よ、アンタは文化選定委員か」『テレビ消灯時間』文春文庫、1999年。強調は引用者) ナンシーは、愛川や『金曜日』に代表されるようなぬるい護憲派――護憲派ポピュリスト(の主張)に私が感じる気持ち悪さを、端的に代弁してくれている。多分、マスコミでよく見かけるこうしたぬるい護憲派の人たちは、憲法9条さえ残してくれれば、恐らく後はどうでもよいのである。彼ら・彼女らは、憲法9条を「もうこれは文化です」として、「自分の懐古の情を全て「文化」とか「伝統」にし」てしまっているだけだ。護憲を唱えているのは、個人的なこれまでの行き掛かりや、社会的にはどうでもよい「懐古の情」にすぎないと思われる。 ぬるい護憲派ジャーナリズムでは、佐藤優と結託する、佐高信、香山リカ、森達也、斎藤貴男、魚住昭といったかわりばえのしない顔ぶれがいつも並び、お互いに褒めあっているが、これなど、ナンシーが愛川の番組について指摘した、「過去にスタジオに出演してくれた歌手の曲が多くの票を集めるというからくり」そのものだろう。そして、「中村メイコ」「白根一男」に対応するのが、『金曜日』での連載執筆陣である、「永六輔」、「矢崎泰久」、「中山千夏」ではないか。「佐高信」も含めていいかもしれない。佐高は以前、『金曜日』にはユーモアの感覚が欠けているから、自分は小沢一郎のことを「フリチンスキー」と呼ぶ、といった文章を書いていた。確かに「全く別の世界観」(「まばらな拍手」)ではある。 愛川や現在の護憲派ジャーナリズムのような、被害体験を強調する護憲論、めちゃくちゃな法感覚は、<明文改憲よりも、集団的自衛権の行使を容認する解釈改憲の方がまし>という主張に行き着かざるを得ないだろう。そのことは、『金曜日』が、内閣法制局の集団的自衛権解釈変更(現行憲法下でも集団的自衛権を保持しており、行使可能であるとする)、周辺事態法の「周辺地域」に台湾海峡が含まれることの明言、「非核三原則」を緩和して朝鮮半島有事の際には「持ち込み可」とすることを肯定する、佐藤優を重用することが、端的に示唆している。 「伝統」「文化」としての憲法9条を擁護しようとする認識がより意識的(確信犯的)になれば、「護憲論の2つの立場」や「リベラル・左派からの私の論文への批判について(2)」で既に論じたが、現在の朝日新聞のような、「国益」の観点から憲法9条をナショナル・アイデンティティとして打ち出す、という主張になる(注1)。 これは、論理的には集団的自衛権の行使を容認する解釈改憲に行き着くが、明文改憲よりも、アジア諸国をはじめとした世界の諸人民からすれば、危険極まりない、迷惑極まりないものである。この場合、<平和国家・日本>という自意識のもとで、明文改憲と同じ海外での軍事活動が展開されるわけであるから。明文改憲の場合よりも、抑制意識が働かないどころか、優越感すら持った形で軍事活動が行われるわけであるから、より悪質である。イスラエルが、<中東唯一の民主国家>という自意識と優越感のもとで、蛮行を繰り返しているのと構図的には同じだ。 護憲派ジャーナリズムは、<大衆に主張を広げよう>という意図のもと、自らのポピュリズム化を進めているが(「<佐藤優現象>批判」の注「24」「49」参照)、かえって主張は説得力を失い、結局読者は従来の護憲派の読者層に落ち着いているように見える。 また、ナンシーが愛川から感じている「文化選定委員」的な態度は、これまで私が指摘してきた、リベラル・左派の愚民観(「<佐藤優現象>批判」参照)、エリート意識(「リベラル・左派からの私の論文への批判について(4)」参照)と対応している(注2)。こうした態度も、大衆からの反発を買う(買っている)だろう。 こうした状況は危険である。なぜならば、「普通の国」化を拒否しようとする護憲運動が、「護憲派のポピュリズム化」に染まってしまえば、運動としての活力、説得力を失ってしまうし、大多数の大衆からすれば、「護憲派のポピュリズム化」によって、憲法9条は「二代目浅草駒太夫のおいらんストリップ」と同じものに見えるようになるだろうからである。そうなれば、「ふるいから落とされる文化だってあるはずだ。いや落とすべきものだってある」とされて終わりである。 こうなってしまえば、体制側からすれば、憲法9条は別に残しておいても脅威にならない、むしろ残しておいて集団的自衛権の解釈を変更した方がよい、ということになるだろう。いや、もうなっているのかもしれない。年末年始と、爆笑問題がテレビに出ずっぱりだったが、爆笑問題の太田が昔と変わりなくテレビに出続けているというのは、体制側にとって、ぬるい護憲論が脅威ではないことを示唆している。 安倍政権時と異なり、現在の政治的争点は憲法9条の明文改憲か否かではなくて、「普通の国」としての日本の軍事大国化か否かである。民主党のように、憲法9条を(とりあえず)維持して安全保障基本法方式で「普通の国」化を進める、という道の方が今後、実現の可能性が高い。以前に書いたように、憲法9条が日本の過去清算の問題と関連付けられて問題化され、「普通の国」の下でおこぼれにあずかること(『ロスジェネ』とかはこっちだ)を肯定しない「下層」階級を引き込まない限り、この「普通の国」論に護憲派が対抗することは難しいと思われる。 (注1)朝日ニュースターでは、『金曜日』常連執筆陣が「レギュラー出演者」「ゲスト」である、「痛快!おんな組」なる番組もやっている(私は観たことがないが)。 http://asahi-newstar.com/program/onnagumi/detail/ 今の朝日新聞が、「国益」中心主義のリベラルに再編されていることは言うまでもない。朝日新聞とポピュリズム化された護憲派との結びつきは、後者と<佐藤優現象>に強い親和性が見られるという現実を考える上で、示唆的である。 (注2)典型例として、ここでは佐高の発言を挙げよう。 「佐高 ・・・六〇年代のことですが、吉本隆明が丸山真男を批判したことがあって、それに対して丸山は一切答えなかった。吉本隆明は当時の彼なりのラジカルな問題意識を込めて丸山真男を批判したとは思うんだけど、丸山としては、自分は右の側から叩かれながら一生懸命にやっているのに、なんで左から叩くんだという思いがあったんじゃないかな。当時の吉本は反体制のスターだったわけですが、喝采を浴びる人は、敵よりもむしろ味方の陣営にいる人を叩いてのし上って行くところがある。これは日本の左派のいやな流儀だと思うんですよ。 雨宮 そうですね。それをやられたらたまらないですね。 佐高 私なんかは丸山真男には及びもつかないけれども、左派からもいろいろ批判されるから、何かを生みだすような論争だったら別だけど、ためにする非難や罵倒にはあまり答えないようにしている。「それをやっちゃおしまいよ」という気がするんです。」(雨宮処凛・佐高信『貧困と愛国』毎日新聞社、2008年3月30日、31頁) この発言は、時期的に言って私の批判も(こそ?)念頭に置いていると思われるのだが、それはさておき、一つだけ明らかなのは、売名行為のために「叩いてのし上って行く」対象として、よりによって佐高を選ぶ人間が存在するとは、まず考えられないということである。恐らく佐高自身を除いて。 字数オーバーでこちらではアップできなかったので、別サイトの「資料庫」にアップした。ご参照いただきたい。
「佐藤優の議員団買春接待報道と<佐藤優現象>のからくり」 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-8.html もう明日になってしまったが、お伝えしておく(案内文の一部に、段落替え、読点追加を行なった)。以前にも紹介したが、国民基金側の宣伝が相変わらず活発な中、国民基金を批判し、植民地支配責任と日本軍「慰安婦」問題を切り離さずに、「慰安婦」問題に取組む「日韓の女性と歴史を考える会」の活動は、大変重要である。
国民基金といえば、その中心的人物である和田春樹は、佐藤優と完全に結託している。佐藤も、国民基金について、和田を海外に派遣するなどして、日本の「宣伝戦」の手段として活用するよう主張している。 http://blog.goo.ne.jp/taraoaks624/e/c70ced524aaed6e812e574598d0ee4e0 佐藤は、月刊誌『ZAITEN』で、日誌形式の「佐藤優の「獄外日記」なる連載を持っているが、その2008年8月号に、以下のような記述がある。 「(注・2008年)4月23日(水)/晴れ/学士会館の中華レストラン「紅楼夢」で和田春樹東京大学名誉教授と意見交換。金光翔氏(岩波書店社員)の『インパクション』誌に掲載された「<佐藤優現象>批判」なる論文について。『インパクション』誌の編集方針に小生に対する特段の偏見はないという認識で一致。」(強調は引用者) また、下のリンク先でも、佐藤は、和田との「20年近いお付き合い」について語っている。 http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/200806110006o.nwc 前回の「佐藤優のイスラエル擁護に嫌悪感を抱かないリベラル・左派の気持ち悪さ」で書いたように、この和田と佐藤の結託にこそ、国民基金の本質が現れている、と見るべきである。 ------------------------------------------------------- 日本軍「慰安婦」(性奴隷制)問題のいまー緊急・公開学習会 ●主催 「日韓の女性と歴史を考える会」 2009年1月17日(土) 開 催 2009年は、日本軍「慰安婦」問題が、社会的・政治的に争点化されてから19年目の年になります。昨今は、被害女性の訃報が相次いでもたらされています。一刻も早い解決がなされなければなりません。 2007年から昨年にかけて、解決を日本政府や国会、日本社会に促す国際社会の決議や勧告が次々と出されています。また注目すべき動きとして、昨2008年は、兵庫県宝塚市議会、東京都清瀬市議会・北海道札幌市議会で、日本政府・国会に対して、真相究明・被害者の尊厳回復、賠償責任の履行、歴史教育などに真摯に取り組むことを内容とする意見書が採択されました。これらは歓迎すべき動きです。 しかし、一方で前航空幕僚長の田母神俊雄氏の論文問題の決着に見られるように、「侵略国家・戦争とは濡れ衣だ」と言いたい放題、言わせたあげく、敢えて懲戒免職を行わず一件落着させる政権与党と、それを許容するメディアがあります。 十数年前、国連人権委員会や同人権小委員会等を舞台に繰り広げられた「慰安婦」問題解決の国際連帯運動は、昨今の「国際決議」運動に継承されているとみるべきです。が、他方その反動として、田母神論文に顕著に示されている、日本は悪くないのになぜ告発されるのだという「被害者意識」を増幅させ、排外主義へと誘導させ、日本「国民」の心性を「愛国」への回路へと導き出す、不気味な動きも仕組まれているといえます。 十数年前の「新しい歴史教科書をつくる会」の猛烈な反「慰安婦」キャンペーンと、それ以降の日本社会の急速な「右傾化」を「苦い教訓」として、今年こそ「慰安婦」問題の解決を目指しましょう。当会は、次のような内容で緊急・公開学習会を開催します。会員以外の方もどうかご参加ください。 日時 2009年1月17日(土) 午後6:30~8:45 場所 東京ボランティア・市民活動センター会議室 A 東京都新宿区神楽河岸1-1 セントラルプラザ10階 電話03-3235-1171 JR飯田橋駅(西口) 営団地下鉄飯田橋駅(B2b出口)徒歩3分 http://www.tvac.or.jp/page/tvac_access.html 参加費 資料代 500円(当会会員は無料) 報告 「立法解決運動の現状」 高城たか(立法解決を求める会) お話 「国際決議」と日本社会の課題 鈴木裕子(女性史研究家) *このあと質疑応答をいたします 主催 「日韓の女性と歴史を考える会」(代表 鈴木裕子) 【連絡先】03-3882-8576(宮崎) nikkanjosei@mbn.nifty.com 1
イスラエルの蛮行はエスカレートする一方であるが、ここで改めて、佐藤優のイスラエルに関する発言に注意を喚起しておこう。 佐藤は、柏原竜一による自身への批判に対して、以下のように書いている。 「佐藤は「すずめの学校」のようなところでインテリジェンスを勉強したことがないじゃないか、という指摘ですが、私、勉強してますよ、ちゃんと。それとわかるようにあちこちで書いているんですけれどね。残念ながら、それはロシアではないのです。イスラエルなんです。私のやり方は、基本的にはイスラエル流です。それが間違いだとは思っていません。私の本や論文を読んでそんなことすら読み取れない柏原氏の読解力は、ある意味で驚嘆に値します。」(佐藤優「『AERA』、『諸君!』、左右両翼からの佐藤優批判について」『月刊日本』2007年6月号。強調は引用者、以下同じ) また、佐藤は、「言論封殺魔」(佐藤のこと)との戦争に脅える「大林わるのり」(小林よしのりのこと)の相談に答えるという形式で書いた文章において、「大林わるのり」に対して、以下のように忠告している。 「まず、「言論封殺魔」の履歴をきちんと調べることです。CIA(米中央情報局)、KGB(旧ソ連国家保安委員会)、モサド(イスラエル諜報特務庁)などと「言論封殺魔」が関係をもったことがあり、インテリジェンス業務の経験があるならば要注意です。」(「佐藤優のインテリジェンス職業相談 第三回」『SPA!』2008年12月9日号。それにしても、佐藤優を擁護するリベラル・左派は、まさに「言論封殺魔」の名にふさわしい、言論へのこんな脅しすら許容しているわけである) 以前、私が「<佐藤優現象>批判」で、佐藤のイスラエル擁護の主張について触れた一節を、改めて引用しておこう。 「佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている。」 「(61)佐藤はイスラエルを賞賛し、「外務省でも私、東郷さん、そして私たちと志を共にする若い外交官たちは、日本とイスラエルの関係を強化する業務にも真剣に取り組みました。彼ら、彼女らは、「私たちはイスラエルの人々の愛国心から実に多くのものを学ぶ」ということを異口同音に述べていました」(『獄中記』三九七頁)と書いている。イスラエルのレバノン侵略戦争を佐藤が肯定していることは既に触れたが、佐藤は同書で、「中東地域におけるイスラエルの発展・強化は、イスラエルにとってのみでなく、日本にとっても死活的に重要です。なぜなら、私たちは、人間としての基本的価値観を共有しているからです」(同頁)とも述べている。佐藤は、日本をイスラエルのような国家にしたいのだと思われる。」 また、佐藤は、2006年6月に生じた、ハマスのテロ対策を名目としたイスラエルのパレスチナ攻撃に関して、6月30日に日本の外務省が発表した、イスラエルとパレスチナの双方に「最大限の自制」を呼びかける声明に対して、以下のように批判している。長くなるが、重要な箇所なのでご了解いただきたい。 「そもそも「最近のパレスチナ武装勢力による暴力やイスラエル軍による軍事行動により、事態が悪化していることを深く憂慮する」というイスラエルとパレスチナを対等に扱う(注・外務省の声明の)基本姿勢が間違っている。/本件については、パレスチナ自治政府の「国家犯罪」とイスラエルの対応における行き過ぎを同一視すべきではない。北朝鮮による日本人拉致問題の解決を国際社会に訴える必要がある日本としては「いかなる国家による拉致も認めない」という姿勢を明確にすることが国益にかなうと筆者は考える。国際社会においてイスラエルが持つ重みを正確に踏まえた上で、現在、中東で生じている事態を北朝鮮による日本人拉致問題解決に向けてどう使うかについてインテリジェンス(知恵)を活用するのだ。/2006年7月2日未明、イスラエルはパレスチナ自治政府首相府をミサイル攻撃し、建物の一部を破壊した。自治政府のハニヤ首相は「パレスチナ人民の象徴への攻撃だ。イスラエルにこの正気とは思えない政策をやめさせるよう、国際社会とアラブ連盟に介入を求める」(7月3日付『朝日新聞』朝刊)と国際社会の同情を得るべく腐心しているが、国家に準じる国際法の主体と言えるパレスチナ自治政府が「国家」として拉致を行ったことに日本政府は目をふさいではならない。/国家による拉致やテロを認めないという大原則に立って、日本政府は対パレスチナ政策を見直すべきだと思う。(2006・7・6) <検証(注・単行本化に際しての追記)>日本外務省がイランに対して甘いこととメダルの表裏の関係にあるのだが、日本の対イスラエル外交はあまりに冷淡だ。イスラエルは中東地域において、自由、民主主義、市場経済という共通の価値観を共有できる数少ない国家である。自国民が拉致された場合、武力を行使してでも奪還を図るイスラエルの姿勢から日本が学ぶべきことは多い。北朝鮮による日本人拉致問題の解決のためにイスラエルと共闘していくことが重要だ。」(「彼我の拉致問題」『地球を斬る』角川学芸出版、2007年6月、116~117頁。初出はインターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」) 佐藤は、ここで、イスラエル・パレスチナに建て前としては中立を掲げる、それ自体不十分な外務省の声明すら非難し、日本の「国益」の観点からイスラエルを擁護するよう主張して、イスラエルを全面的に擁護する方向に、日本政府の対パレスチナ政策を変えさせようとしている。パレスチナの民衆の被っている苦痛は、日本の「国益」の前でいささかも考慮されていない。佐藤は『国家の自縛』(扶桑社、2005年9月)でも、「日本の対中東政策というのは、私はちゃんとイスラエルの側に腰を入れて行うべきだと思うんです。しかし、その辺を石油利権があるから云々ということで妙にアラブとかイランに寄り過ぎてしまうと、これは日本の戦略外交の可能性を狭めてしまうんですね。それに本当に石油利権をとりたいと考えるならばイスラエルと提携した方が得なんです」(114~115頁)と発言しており、この姿勢は一貫していると言える。 また、佐藤は、「国策捜査」だと主張する自身の逮捕劇に関しても、「鈴木宗男氏や筆者がイスラエルとのインテリジェンス面での提携を強め、正確な情報をつかむことが、鈴木氏の政治力を強めることになるので外務官僚の個別利益にとっては不都合だと考えたのであろう。筆者を巡る事件の最大の後遺症は、日本政府がイスラエルの情報を十分に活用できなくなってしまったことである」としている。ここで佐藤は、自らとイスラエルの「インテリジェンス」との関係を公然と表明している。 佐藤が現在進行形でイスラエルの「友人」たちと交流があるらしいことは、佐藤の読者ならば周知のことだろうし、佐藤はまた、『みるとす』という、イスラエル大使館も関与していると思われる雑誌に連載を持ってもいる。 佐藤は、イスラエルのあからさまな擁護者であり、かつ、自らとモサドとの関係を示唆し、イスラエルでインテリジェンスを学んできたと述べているわけである(佐藤自身が、本当に「インテリジェンス業務の経験がある」かは不明だが)。ここまでイスラエルと骨がらみになっていることを公然と表明している人間は、右派においても、私は見たことがない。 2 さて、本題に入ろう。日本のリベラル・左派の一部の人々、護憲派ジャーナリズムの論調を決定付ける発言力を持っている人々は、こんな人物に嫌悪感を抱くどころか、嬉々として「仲間」として扱い、擁護しているわけである。 私は、「パレスチナ人の置かれている状況を真に憂いているならば、佐藤優と結託するリベラル・左派は、反省して、佐藤を使うのをやめるべきだ」と言っているのではない。そうではなくて、これこそがまさに、佐藤優と結託するリベラル・左派の本質だと考えるべきだと私は思う。 <佐藤優現象>によって、日本のリベラル・左派にとってのパレスチナ問題とは、自分を「良心派」だと他人にも自分にも思わせるためのネタに過ぎなかったことが露呈した、と言える。 「<佐藤優現象>批判」での私のリベラル・左派への批判に対して、リベラル・左派は、、「奇妙な沈黙」、「「<佐藤優現象>批判」スルー現象」と評されるように、ほぼ完全な無視を決め込んでおり、ほとぼりがさめるのをひたすら待っているかのようである。なぜリベラル・左派が佐藤を使うか、佐藤を使うことは、佐藤が主張する排外主義の影響力をまさに強めることにならないのか、といった、恐ろしく単純な疑問についてすら黙っているのだ。 だが、仮に上記の疑問に対して、何らかの説得力のある解答をリベラル・左派が提示できたと仮定しよう。それでも、ひょっとするとより重要かもしれない疑問は残るのである。佐藤優と結託するリベラル・左派の人々は、ここまでイスラエルと骨がらみで、積極的にイスラエルの主張を擁護する佐藤に対して、生理的な嫌悪感を持たないのか、という疑問だ。私としては、本来ならば、「<佐藤優現象>批判」や、「『週刊新潮』の記事について②:「総連系の人間」と思わせようとする作為的な記事」で挙げたような、パレスチナ問題以外のテーマでの佐藤の発言からも、同じように生理的な嫌悪感を持って欲しいのだが・・・。 イスラエルのパレスチナ人抑圧は、あまりにもあからさまであるから、別に社会問題にそれほど関心のない人々でも、ここまでイスラエルを擁護する人間に嫌悪感を持つ人は多いだろう。リベラル・左派が佐藤を擁護することの社会的悪影響という以前に、私が非常に気持ち悪く思うのは、佐藤と結託するリベラル・左派の人々が、イスラエルと骨がらみの佐藤に対して、何ら嫌悪感を持っていないことである。上記の引用文で佐藤自身が述べているように、佐藤はイスラエルとの関係をまさに「それとわかるようにあちこちで書いている」のであって、これらの人々が佐藤とイスラエルの関係の深さ、佐藤のイスラエル擁護の主張を知らないはずはない。私には、これらの人々は、人間的な何かが根本的に壊れているように思われる。メディア上でイスラエルの主張を擁護する人間を見るときに感じる不快さとは、また別種の気持ち悪さである。 イスラエルの主張を擁護し、イスラエルと日本の関係強化を訴える言論活動を展開する佐藤を持ち上げて、<佐藤優現象>を維持させようとするリベラル・左派の人々は、イスラエルのパレスチナ人抑圧に積極的に加担しているようなものだ。いや、「ようなものだ」どころか、「加担している」と言うべきだろう。今回のイスラエルのガザ侵攻に対しても、<佐藤優現象>と結託するリベラル・左派はイスラエル糾弾の論陣を張っているわけであるが(例えば『金曜日』編集部は、今回のイスラエルのガザ攻撃に関して、イスラエルを「現代のナチス」と呼んでいる)、一体どういう神経をしていればそういう厚顔無恥が続けられるのか、謎である。 念のために言っておくが、佐藤と結託するリベラル・左派の人間が、「自分は佐藤さんのイスラエル擁護には賛成しないけれど・・・」といった弁明をするとしても、ここでは何ら意味がない。ここで私が問題にしているのは、そうした結託を可能にしている人間の感性それ自体であるから。 「佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合の内容について②:コメント(3)」など、何度も書いているが、私は、佐藤優を重用するリベラル・左派に反省させるために批判をしているわけでは全くない。このような人間性の壊れている人々に、期待できるものは何もない。もう終わっているのである。『金曜日』にも良い記事は載るというかもしれないが、それを言い出せば、『文藝春秋』や『中央公論』にも良い記事はたまには載るだろうし、自民党も民主党もたまには良いことを言うだろう。程度の差に過ぎない。 リベラル・左派の一部が佐藤を擁護する理由の一つとして、佐藤がいろいろなところで自分たちを持ち上げてくれること、自分たちの主張を応援してくれることがあるだろう。佐藤のリベラル・左派への賛辞という贈与の例は、枚挙に暇がない。山口二郎、香山リカ、雨宮処凛、『金曜日』などを、保守派メディア等さまざまな場所で褒めちぎっている。「論壇の寵児」たる佐藤が宣伝してくれるのだから、佐藤の排外主義的主張を本音では大して問題だと思っていないと思われる彼・彼女らにとってみれば、佐藤は自分たちの救世主のようなものだろう。佐藤からすれば、保守派メディアにとって何ら脅威ではない彼・彼女らを褒めちぎるだけで、左派メディアで書く場を確保できるのだから、安い買い物である。 沖縄のケースも本質的には同じ構図である。「<佐藤優現象>批判」で書いたように、アメリカの有力シンクタンクも、沖縄での米軍基地の拡張・新設にあたって、「台湾海峡という紛争水域周辺の重要な地域に足場を確保するために」、沖縄に海兵隊撤退などの「見返り」を与えることを主張しているのであって、歴史認識に関する沖縄の声に日本政府が配慮することを「見返り」に含めることは、日本の保守政治にとっても、十分に合理的な選択肢である。 要するに、佐藤と結託するリベラル・左派にとってみれば、自分たちの利益や、自分たちに役に立ちそうな人々の利益だけが重要なのであって、例えばイスラエルに抑圧されるパレスチナ人、日本人に擦り寄ってこない在日朝鮮人(ただし、リベラル・左派に擦り寄る在日朝鮮人は、「仲間」に入れてもらえるかもしれない。姜尚中とか)、外国人労働者、第三世界の民衆などの人権は本質的にどうでもいい、ということだろう。もちろん、佐藤の「特にいけないのは、今、右派の沖縄に対する見方が、朝鮮や中国に対する見方と同じになっていることです。これはいけません。沖縄は、わが同胞なのだということからまず出発しなければなりません。」(「吉野、賀名生詣でと鎮魂」『月刊日本』2007年12月号)といった論理(佐藤は『琉球新報』の連載でも、同趣旨の記事を書いている)を批判せず、佐藤を「仲間」として扱っている沖縄の左翼も同じである。 <佐藤優現象>によって、佐藤と結託するリベラル・左派、メディアで言えば『世界』『金曜日』『情況』といった雑誌や、佐高信、山口二郎、斎藤貴男、魚住昭、香山リカ、雨宮処凛、沖縄の左翼(大田昌秀、新川明、仲里効)ら言論人たちによるこれまでの日本政府・日本社会批判といった言論活動は、単なる「利権運動」に過ぎず、国家という枠組みの下での待遇の平等を求めていたものであって、「国益」とは必ずしも合致しない人々(例えば、上記のパレスチナ人、在日朝鮮人、外国人労働者等)に開かれた「普遍性」を持ったものではなかった、ということが示されたと私は思う。それは簡単に国家に取り込まれる、いや、むしろ取り込まれることが前提の運動である。 私たちはある意味で、佐藤に感謝すべきなのかもしれない。佐藤がリベラル・左派内部のさまざまな人間と組んでくれるお陰で、その主張が「利権運動」にすぎない人間があぶりだされるのであるから。 2009年は、金融危機という「非常時」の掛け声の下で、「格差社会の是正」を名目に、「普通の国」化を完成させる「大連立」体制――それこそまさに佐藤が待望しているものだと思われる――が成立する可能性が高いと私は思う(民主党が衆院選で勝っても、そうである)。アジア太平洋戦争下の総力戦体制に、各種の社会運動が簡単に回収されたように、佐藤に結託するリベラル・左派の人々、運動は簡単に「大連立」体制に回収されるだろう。そうした「大連立」に回収されない質の言説を作っていくことが必要だと思う。 (追記)この文章を書き終えた後、天木直人氏の「イスラエルを公然と擁護する佐藤優の正体」(「天木直人のブログ」2009年1月13日付)という記事を読んだ。是非ご一読いただきたい。天木氏が挙げている佐藤の『アサヒ芸能』でのイスラエル擁護の文章は、先ほど立読みしてきたが、上で引用した佐藤のイスラエル擁護論の延長上の、相変わらず醜悪極まりないものだった。佐藤は、今回のイスラエルのガザ侵攻に関しても、イスラエル擁護の論陣を張り始めたようである。 「イスラエルを公然と擁護する佐藤優の正体」 http://www.amakiblog.com/archives/2009/01/13/#001328 佐藤は、今後の自身の論壇での生き残りに不利になることは覚悟の上で、弁護の余地のない虐殺を行っているイスラエルを擁護している、と思われる。むしろ、イスラエルとの関係から、擁護しなければならないのだろう。ここに、天木氏も指摘する、佐藤の「イスラエルとの結びつき」の強さを窺うことができる。
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