小林よしのりと佐藤優の「戦争」について [2008-11-19 00:00 by kollwitz2000]
辺見庸の警告と<佐藤優現象>の2つの側面 [2008-11-09 00:00 by kollwitz2000] 東浩紀の嫌韓流容認論 [2008-11-06 00:00 by kollwitz2000] イベント紹介:「言論状況を考える――韓流と嫌韓流のはざまで」 [2008-11-03 00:00 by kollwitz2000] 字数オーバーでこちらではアップできなかったので、別サイトの「資料庫」にアップしました。
「小林よしのりと佐藤優の「戦争」について」 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-6.html 1.
Kojitaken氏のブログ「きまぐれな日々」で、自衛隊の前航空幕僚長・田母神俊雄による懸賞論文の件で話題になっている、アパグループの元谷外志雄会長の著書に、佐藤優が推薦文を書いていることが取り上げられている。これも佐藤優ファンのリベラル・左派は黙殺を決め込むのかな? http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-778.html#comment_head http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20081106 さて、同じ「きまぐれな日々」で、kojitaken氏が、辺見庸の講演について書いていた。興味深いので、引用させてもらおう。 http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-769.html 「ところで土曜日(25日)、大阪まで辺見庸の講演会を聴きに行ってきた。辺見さんは、病を得て体が不自由な上、風邪を引いているとのことだったが、休憩を挟んで3時間、熱のこもった講演を聴くことができた。自宅に帰り着いた時には午前1時を回っていたが、大枚をはたいて大阪まで行った価値があったと思えた。会場にはNHKのカメラが回っていたし、11月末には毎日新聞社から辺見さんの書き下ろしの新刊が出版されるそうだ。 だから、講演会の内容を長々とブログで紹介したりはしないが、印象に残ったことの一つは、今後これまでの新自由主義に代わって、国家による統制をよしとする言論が支持されるようになり、それに伴って国家社会主義の変種ともいうべき者が、「革新づらをして」現れるだろうという辺見さんの予言だった。 当ブログも10月16日のエントリで世界大恐慌突入(1929年)の2年後、1931年の満州事変を引き合いに出して、「歴史に学べない民族」の汚名だけは着たくないと書いたが、辺見さんの講演でも、まさにその満州事変への言及があり、過去に学ぶしかない、自分たちの手で日本人の自画像を描くべきだと力説されていた。 ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)も、その正式名称が示す通り、出発点は社会主義だった。現在でも、反新自由主義が国家主義と結びつく傾向は一部に見られるし、「右も左もない」という言い方でそれにすり寄る「左」と思われている人たちもいる。これも辺見さんの指摘だが、戦前はナショナリズムの高揚とともに転向の時代がきた。同じ誤りを繰り返してはならない。」 私も伝聞で、この日の辺見の講演が非常に強い印象を与えるものであり、特に「国家社会主義の変種ともいうべき者が、「革新づらをして」現れるだろう」という箇所に異様なほどに力が込められていた、という感想を聞いた。 この辺見の発言を興味深く思うのは、それ自体の内容もさることながら、実は、この講演が行なわれる日付の少し前に、私のブログの読者から、辺見庸の『月刊現代』2008年11月号(10月1日売)での発言が、佐藤優を念頭に置いたものではないか、との指摘をもらっていたからである。 なお、この文章の掲載された前の号である10月号(9月1日売)では、巻頭の辺見の連載記事の次の頁から、以前このブログでも取り上げた、佐藤優の竹島(独島)問題に関する論文が掲載されている。 では、その、『現代』11月号の辺見の発言を少し見てみよう。「潜思録」という辺見の連載シリーズで、毎回巻頭に掲載されており、この回は「洛陽の紙価」と題されている。この中には、 「即製の安っぽい本でもベストセラーになりさえすれば、洛陽の紙価をたかめた、などというのだからもうやっておれない。」 「いまさら洛陽の紙価などかたってもどうなるものでもない。じつにせんない。だが、いっておく。洛陽の紙価をたかめるということばの本義は、金銭の損得にはない。紙価とは、書物の真価であった。表現者、出版する側の誇りがいま問われている。」 といった一節がある。メールをくれた読者は、ここでの「ベストセラー」とは佐藤の書籍を指していると解釈しているようである。確かに、以前書いたように、講談社顧問で、佐藤を持ち上げる鷲尾賢也は、「こういったいわゆる<佐藤優現象>にはさまざまな批判もあるようだ。しかし、すべて読みやすいとはいえない著書が版を重ねるという重みが、どうしても批判を無力にしてしまう」などと言っており、こうした「売れたが勝ち」といった類の発言は、佐藤をめぐる出版関係者からいくらでも聞くことができるから、辺見も聞いているだろうとは推測できる。だが、これだけではなんとも言えないだろう、というのが率直な私の感想だった。 しかし、上記の辺見の講演の話を読んで、この読者の指摘はなかなかいい線を行っているのかもしれない、とも思い始めている。上記の、「今後これまでの新自由主義に代わって、国家による統制をよしとする言論が支持されるようになり、それに伴って国家社会主義の変種ともいうべき者が、「革新づらをして」現れるだろう」という指摘こそ、私が何度も言ってきたように、<佐藤優現象>を通じて、「右も左もない」という掛け声の下、立ち現れつつある政治的な路線だからである。 なお、辺見は『月刊現代』12月号では、以下のように述べているが(「潜思録 新たなる終末」)、これも、上記の講演の内容を敷衍するものだと言えよう。 「[注・19]30年代の日本は暗い終末観を背負いつつ、他方ではヘラヘラ軽薄に笑いながら、戦争に傾斜していった。労働組合とマスコミをはじめ宗教、教育、芸術団体もあげて戦争支持組織と化していったのも前回の大恐慌時代なのである。/30年代に学ぶべき点はあまりにも多いといわなくてはならない。なにより、カタクリズム<ある朝、起きたら世界が終わっていた>式の激変としてあらわれるのではなく、緩慢に、さりげなく、静かにやってきて、まったく意外なことには、すっかり日常化してしまい、人びとが往々気づきさえしない、ということだ。いいかえれば、われわれはすでに新たなカタクリズムのただなかにあるのかもしれない。」 それにしても、仮に辺見が<佐藤優現象>を念頭に置いているならば、辺見ほどの知名度があるならば、率直に明言すればいいと思うのだが。まあ、辺見の場合、当の『月刊現代』をはじめとして、人脈が<佐藤優現象>を推進するマスコミ人達とあまりにも骨絡みになり過ぎているだろうから、仮に佐藤優(現象)批判をしたいとしても、なかなか言えないということなのかもしれない。ただ、辺見の批判は確かに有意義ではあるが、辺見の文章が佐藤優(現象)批判を意図しているかしていないかに関係なく、具体的な対象を明示しない批判というものは、いかに「良心的」であろうとも大して効果を持ちえず、メディアの自己弁明の材料として回収されかねない危険性を持っているという点は、一応指摘しておきたい。 以前触れた山口泉の文章も、『金曜日』を念頭に置いて書かれているように思える。どうやら現代日本の「論壇」においては、1930年代の日本の「論壇」並みの<裏読み>が必要なようである。 「<佐藤優現象>批判」でも書いたが、佐藤や佐藤に呼号する人々は、「反ファシズム」を唱えている。そうした動きがもし政治的に大きな力を持つようになれば、「反ファシズム」の名の下に、佐藤が賞賛するイスラエルのような国家体制を呼び込むことになろう。辺見の警告どおり、1930年代の日本の歴史から、「反ファッショ」を呼号していた社会大衆党が、窮乏化する経済状況の中で、「反資本主義」の「軍部先進分子」と手を組み、国家社会主義にのめり込んでいったことを想起する必要がある。 2. さて、『週刊朝日』2008年11月07日号(10月28日売)の宮崎哲弥と川端幹人の対談(「宮崎哲弥&川端幹人の中吊り倶楽部」)では、佐藤優と小林よしのりの論争に言及しており、宮崎は、佐藤の出版社に圧力をかけるやり方に、川端は、マスコミにおける佐藤優タブーに、それぞれ疑問を呈している。 宮崎らが言及している、「佐藤優のインテリジェンス職業相談 第1回 第2回」(『SPA!』2008年9月23日号(9月16日売)。ちなみに、ここで佐藤は、本文で名前を挙げた鷲尾の本を絶賛している)では、佐藤は、自分が「この出版社[注・小学館]からは既に本を2冊上梓し、実売で10万部を超えてい」ることを述べた上で、小林による自分への「人格的な誹謗中傷」を掲載した『SAPIO』の編集長の責任を問い、「既に刊行した書籍の重版を中止し、他の版元から文庫本を出す」、ひいては、「刊行中の書籍は一切引き揚げ、この会社で行っている雑誌連載や出版計画などもすべて白紙撤回す」る、そして、「今回の内幕について、どこかの雑誌に手記を寄稿するか、新書本を書き下ろす」ことを示唆している。 佐藤の発言は爆笑ものであり、宮崎の疑問も当然ではある。佐藤が、自分の気に入らない記事に関して出版社に圧力をかけるやり方は、以前からこのブログで何度も書いているように、『AERA』 の記者への場合も、私への場合も同じであり、その卑劣さには改めて呆れざるを得ない。 また、出版社への圧力だけではなく、佐藤の『週刊新潮』との関係も改めて強調しておこう。以前書いた記事から改めて引用しておく。 「既に述べたように、現に佐藤は、『週刊新潮』の記者(追記注・荻原信也)に対して、私を攻撃する記事を書くよう教唆しているのであり、佐藤が、『週刊新潮』の私に関する記事に関して、積極的に関与していたと推測する論拠もある。また、前にも書いたが、自身のブログで、佐藤を批判する記事を書き、佐藤批判の内容を含む本を刊行することを述べた明言した原田武夫は、本の刊行直前に、『週刊新潮』に大々的な中傷記事を書かれており、佐藤の怒りを買ったらしい『AERA』の大庭記者も、『週刊新潮』に中傷記事を書かれている。 佐藤の怒りを買ったと思われる書き手について、『週刊新潮』が中傷記事を書くというケースが、3つも続いているのだ。これだけこうしたケースが続けば、私以外の2件も私の件と同じように、佐藤が『週刊新潮』の記者に中傷記事を書くことを教唆した、と考えるのが自然であろう。しかも、佐藤は私の論文について、「私(注・佐藤)が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です」などと言っているにもかかわらず、論文中のどこが「言ってもいないこと」なのかすら示せておらず、一切反論していないのである。」 ところで、今回の佐藤の文章においては、自分の本の売上を誇示して出版社に圧力をかけるというスタイルが、より露骨になっている。 したがって、宮崎の疑問は当然だが、ここで考えたいのは別のことである。佐藤が作り出したいのは、<出版社に圧力を加えることができるほど佐藤の本は売れている>という表象ではないか、ということだ。 というのも、いくつかの人間から聞くところによれば、2008年に出た佐藤の新刊は、これまでに比べて売上部数が顕著に落ちているらしく、佐藤の本が売れている、ということ自体がどうやら神話になりつつあるようだからである。 佐藤が『SAPIO』の編集長に圧力をかけたければ、本来ならば別に『SPA!』に書く必要はなく、裏で直接やればいいのである。公開でやれば、宮崎のような反発が出るのは自明であろう。佐藤が出版社と裏で手を打つことに何ら躊躇しないことは、以前このブログで書いた、『インパクション』編集長と佐藤の手打ちが何よりも雄弁に語っている。 ましてや、「実売で10万部を超えてい」るなどといった嫌味たらしい言い方をしなくてもいいのである。『SAPIO』編集長は、佐藤の自社の本の売上部数を、佐藤よりも正確に知っているはずなのだから。実質的に『SAPIO』編集長宛てに書かれたこの文章において、こんな数字が出てくること自体が奇妙である。わざわざここでこうした数字を挙げているのは、「私はこんなに売れているんですよ!」と読者にアピールしたいということではないのか。 要するに、佐藤は、出版社に圧力をかけることへの反発が出ることと、出版社に圧力をかけることができるほど売れているらしいという観念が再生産されることを天秤にかけて、後者のメリットを選んだ、ということであるように、私には思われる。 私は、佐藤の誇示とは裏腹に、本の売上部数の低下への佐藤の焦りが、『SPA!』の記事の背景にあると思う。「佐藤優は売れている」という表象を不断に作り出さないと、佐藤優バブルははじけてしまうのだから。佐藤の小林への攻撃も、話題づくりという要素があるのではないか。 また、佐藤が、いくつかの大組織の広告塔のような役割を強めてきていること(「1」で触れた、アパグループ会長への推薦文も同じ意味である)は、佐藤の読者にとっては周知のことであろうし、一部の佐藤ファンもこれには困惑しているようであるが、これも、佐藤の売上部数低下への焦り、という観点から考えれば、整合的に説明できると思われる。佐藤は、それらの組織の構成員の共感を勝ち得て売上部数を増やすということだけではなく、自分の本が組織買いされることを狙っているのではないか(もうある程度はなされているかもしれないが)。組織買いが本格的に行われれば、佐藤優バブルは当面安泰だからである。佐藤が、沖縄関連のテーマに力を入れ、沖縄のマスコミでの発言を強めているのも、こうした傾向の変奏と考えることができよう。 出版社は、<佐藤優現象>をひたすら推進しようとするだろう。それは、佐藤の本の売上だけではなく、「右も左もない」という「空気」が強まり、佐藤が提唱するように、従来の「左」の読者が「右」の著者の本を、「右」の読者が「左」の本を読むようになれば、若い、新しい書籍購買層を開拓するまでもなく、書籍の売上のパイが一気に拡大するからである(現実に進行する(している)のは、既存の読者層の離反だと思うが)。 以前から書いているように、出版や新聞関係者には、ごく一部の例外を除き、イデオロギー上の違いは大してない。「右」も「左」も無関係に、ただマスコミに入りたいという動機で就職活動をして、会社に合わせた適当な志望動機を書き、たまたま入社した会社で、それぞれの「社風」に合わせた記事を書いたり、本を出版したりしているだけだ。<佐藤優現象>は、こうしたマスコミ関係者の志向にも合致している。 また、大型書店にとっては、上で指摘した書籍の売上のパイの拡大もさることながら、大量に存在するはずの佐藤の在庫書籍をさばく必要からも、<佐藤優現象>には一日でも長く続いてもらわなければならない。 <佐藤優現象>は、「1」で書いたようなイデオロギー的な側面だけではなく、こうした商業上の側面からも、検討する必要があると思う。 [一部、加筆した。(11月13日)] 少し前に出た東浩紀と大塚英志との対談本である『リアルのゆくえ』(講談社現代新書、2008年8月)を読み、東の発言内容の酷さに驚いた。私は東の文章を大して読んでいなかったのだが、昔からこんななのだろうか。
枚挙に暇がないのだが、私が最も呆れた箇所を挙げておこう。 「東 ぼくが言っているのは、むしろ了解可能性の拡大を大切にしたいということです。たとえば、日本のサヨクが2000年代になぜ急速に影響力を失っていったかというと、リベラルな人たちはリベラルではないということが大衆レベルで分かってしまったからです。リベラルは、みんながリベラルになることを望んでいる。たとえば、みんなが在日に対して優しくしようとリベラルは言う。でも世の中には、在日を差別する人がいっぱいいる。その現実はどうするのか。/ネット右翼の問題も同じです。彼らが言っているのは、左翼は出版メディアを握っている、みなが自分たちのようにリベラルになるべきだと言っている。しかしそれこそが抑圧だということです。そういう意見に対する処方箋はひとつしかない。リベラルでない立場も認めるような「拡張されたリベラル」しか実践的にとりようがない。それが現在の日本で唯一リアルな政治的ポジションだし、それにこれはもともとのリベラリズムのなかにあった議論でもある。」(207頁) 東の主張を要約すれば、在日朝鮮人を差別する人が世の中には大勢おり、そうした人々に、「差別はすべきでない」という認識を押し付けないのが、真の「リベラル」だ、ということになる。いやはや、とんでもない「リベラル」である。東は、「これはもともとのリベラリズムのなかにあった議論でもある」と主張しているが、仮に「リベラリズム」の原理で、「言論の自由」として嫌韓やネット右翼を容認するとしても(もちろんこの場合、個人や組織への誹謗中傷や名誉毀損も「言論の自由」として容認されることになる)、それらを批判することはそれこそ「リベラリズム」の原理から当然肯定されるだろう。ところが、東は、そうした批判すら「抑圧」だと理解しているから、これでは単なる嫌韓やネット右翼の容認論でしかない。 東の主張を読んで、私は、サルトルの『ユダヤ人』(岩波新書、1956年。原書1954年。強調は原文どおり)の冒頭の箇所を思い出した。 「今、誰かひとりの男が、国家や自分の不幸の全部、あるいは一部を、共同体におけるユダヤ分子の存在に帰したとする。あるいは更に、その不幸な状態を改善するには、ユダヤ人達から、かくかくの権利を取り上げるとか、かくかくの経済的、あるいは社会的地位から遠ざけるとか、領土から追放するとか、あるいは、皆殺しにすべきだとか提案したとする。すると人々は、この男が、反ユダヤ的意見の持ち主だというであろう。/この意見という言葉は、いろいろなことを思わせる。たとえば、一家の主婦は、議論が険悪な空気を帯びてくると、この言葉でその場を救う。すべての見解は同じ価値を持つものであることを、この言葉がほのめかすからであり、また好みということの中へ、思想を含めてしまって、それに無害な外見を与えるからである。好き嫌いなら生れつきで、従って、どんな意見を持とうと許される。趣味とか、髪の色とか、意見とかは、論じてみても仕方がないということになる。/かくして、民主主義機構の名において、また、言論の自由の名において、反ユダヤ主義者は、ユダヤ人攻撃の十字軍の必要を、いたる所で説き廻ることを当然の権利と心得る。/ところが同時に、われわれは、大革命以来、一つの物事にむかう場合、分析的精神を働かせるように、すっかり馴らされてしまっている。ある人物、ある性格を見るのに、まるで、単純な要素に分析出来る化合物か寄石細工であるかのように考え、そのうちの一つの石が、残りの他の石と混り合っても、すこしもその本質が損なわれないと思い込む。従って、反ユダヤ的意見にしても、われわれにとっては、他のどんな分子とでも、すこしも変質することなく化合出来る一分子にすぎないと思われてくるのである。一方では、善良な父親か夫であり、勤勉な市民、洗練された知識人、あるいは博愛主義者であって、しかも、同時に反ユダヤ主義者たり得ると考えるのである。釣道楽だったり、恋を楽しんだり、宗教問題にはごく寛大だったり、中央アフリカの原住民の状態については、すぐれた意見に富んでいたりしながら、しかも、同時に、ユダヤ人を憎悪することが出来ると考えるのである。」(1~2頁) 「直ちに特定の個人を対象とし、その権利を剥奪したり、その生存を脅かしたりしかねぬ一主義を、意見などと呼ぶことは、わたしには出来ない。(中略)こうした反ユダヤ主義は、言論の自由の原則によって保証さるべき思想の範疇にははいらないのである。」(4頁) サルトルは、東のような単なるレイシズム容認論だけではなく、上で「仮に」として述べたリベラリズムの限界も衝いている。東は論外としても、嫌韓のレイシズムを、批判することなく一つの立場として容認しようとする傾向が、リベラル・左派の一部でも最近見られるが、こうした傾向こそ積極的に批判されるべきであろう。 ところで、『リアルのゆくえ』での、以下の東の発言にも呆れた(本当に、挙げ出すときりがないのだが)。 「東 世界にはいろんな立場の人がいます。たとえば、南京虐殺があったという人となかったという人がいる。ぼくは両方とも友達でいます。このふたりを会わせて議論させても、話が噛み合わないで終わるのは目に見えている。なぜならばふたりとも伝聞情報で判断しているからです。歴史学者同士なら生産的な会話は可能でしょう。しかしアマチュア同士では意味がない。(中略)ちなみにぼくは南京虐殺はあったと「思い」ますが、それだって伝聞情報でしかない。そういう状況を自覚しているのが、大塚さんにとっては中立的でメタ的な逃げに映るらしいですが、それはぼくからすれば誤解としかいいようがない。 大塚 南京虐殺があると思っているんだったら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーするわけ?知識人としてのあなたは、そのことに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンを持っているんじゃないの? 東 そんな能力はありません。南京虐殺について自分で調査したわけではないですから。 大塚 でも、それを言い出したら何も言えなくなる。柳田國男について発言するのは柳田國男以外できなくなってしまう。歴史学自体がすべて成立しなくなってしまう。資料はすべて伝聞情報だからね。一次資料だって誰かのバイアスがかかっているわけで、南京虐殺論争だって、そのバイアスの部分で虚構と言うのか、あるいはバイアスを取り除いたところであったと言うのか。とにかく、東浩紀っていうのは、結局は人は何も分からないって言ってるようにしか聞こえないよ。 東 ある意味でそのとおりです。 大塚 (前略)つまり君が言っていることっているのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね。 東 ええ。それはそういうふうにぼくはよく言われているので、そういう特徴を持っているんだと思います。 大塚 そうやって居直られても困るんだって。」(209~211頁) 大塚はこの後、居直り続ける東に対して、「君の個性だと居直られた瞬間に、このあと対談する意味もなくなってしまう」(212頁)と呆れるのだが、それにしても、東の主張はほとんど子供が喧嘩するときのそれのように聞こえる。この後も、対談は続く。 「東 たとえば、なぜ歴史の問題すら解釈次第という立場なのかと言われたら、それはぼくがポストモダニストだからです。ぼくにしてみれば、高橋哲哉氏が靖国問題であんなにポジティヴな話をしてしまえることに違和感がある。だからそれは、ある種の知的訓練の中でそういうポジションを取らざるを得なくなってしまったということでもある。 大塚 その話を聞いてしまったら、ポストモダンっていうのは、何もかもから距離を取れて、すごく楽な思想だっていう話になっちゃうよね。 東 楽と言えば楽ですが、楽じゃないと言えば楽じゃない……(苦笑)。 大塚 楽じゃないか。全部に傍観者でいられる当事者で、それこそ俺には関係ないって言えるような思想がポストモダンなわけ?デリダなわけ?(中略)あなたの言うポストモダンがそうだとしたら、ポストモダンって本当にそういう思想なの?もしくは、それはポストモダンっていう思想のせいなの?あるいはポストモダンという思想がもたらした時代のせいなの? 東 ポストモダンという思想のせいではないかもしれませんが……だから、ぼくが言いたいのは、ぼくという人格は個別にあるものではなくて、時代性とか、さまざまなものによってつくられているわけです。 大塚 その時代性っていうのはポストモダンの一つの要因で、戦後民主主義でもいい、君のメンタルな人間性は、いったい何から形成されているの?歴史的な要因っていうものの中に君の論理っていうものがさ……。 東 この議論は続けても仕方ないんじゃないかな。今、大塚さんはぼくの人格を批判しているので、それはやめたほうがよろしいんじゃないかと……。 大塚 人格の批判じゃないよ。論議の問題として、自分の人格の問題だから、ここから先は論議が成り立たないと言ったら……。」(212~214頁) 呆れた「ポストモダニスト」である。2008年にもなって、まだいたのか。ここで興味深いのは、上記の「在日」「南京虐殺」の件といい、ここでの「高橋哲哉氏」の「靖国問題」に関する主張といい、東が「リベラリズム」「ポストモダニズム」の立場からの主張を行う際、歴史認識問題に関連したテーマが、例として挙げられていることである。もちろん、こうした一部の例から結論付けることはできないが、私には、東の「ポストモダニスト」としての立場は、「ある種の知的訓練の中でそういうポジションを取らざるを得なくなっ」たというよりも、日本の歴史認識を批判的に問うアジア諸国の人々や、在日朝鮮人、日本の一部の左派への対抗上、強化された、政治的に保守的な性格を元から持っているもののように思われる。 東は、次のようにも言う。「そもそも、ポストモダニズムというのは、政治的には本質的に現状肯定しかできないロジックのはずです。なぜなら、それはあらゆる理念を脱構築するからです。それなのに、なぜかポストモダニズムがアイデンティティ・ポリティクスとかカルチュラル・スタディーズと結びついて、左翼のラジカルな議論がポストモダニズムによって支えられるようになってしまった。でも、それは本当は無理なんです。/どうしてそんな無理をして政治化しなくてはいけないのか。むしろポストモダニズムの言説の毒というのは、政治性や主体性の議論を無効にするところにあるのではないか。」(292頁) 実際の「ポストモダニズム」がどうであるかは私は興味がない。ここでの東の主張は、私が以前「ちくま・イデオロギー」として書いたものと本質的に同じだと思う。その意味で、大塚による、東の「小さな遊び場で、大人にならなくてもいいから」(これは大塚による要約。303頁)という主張が「団塊世代の思想」だとの指摘(303頁)は興味深い。東は、加藤典洋や竹田青嗣や小浜逸郎らの正当な後継者であるように思われる。 それにしても、上記の一番下のやりとりで、大塚の当然の質問を自分への人格批判だとするくだりは笑ってしまった。どれだけ脆弱なのか。大塚は東のやっていることを「マーケティング」だと批判しているが(228頁)、脆弱さにしても「マーケティング」にしても、確か東は鎌田哲哉から10年くらい前にも言われていたはずである。東がどうこうと言うよりも、東が10年来生き延びれてしまう「論壇」とは一体何なのか。改めて考えさせられる。 以下のイベントを紹介する。内容紹介では、私の論文にも言及されている。<佐藤優現象>その他でいまや麻痺状態に陥ってしまっている、日本の「言論状況」を変える契機になってほしい。
嫌韓流といえば、先日、韓国大使館に呼ばれて、日本視察に来た韓国政府関係者に、ネットを含めた嫌韓流と、それをめぐるメディア上の言説の問題性について説明してきた。問題の深刻さが、きちんと伝わってくれているといいのだが。 嫌韓流も問題であるが、敬意を払うべき例外的な人々はいるとはいえ、嫌韓流に対して大多数のリベラル・左派がまともに対抗しようとせず、黙認または容認してしまっている問題は、今後の「言論状況」を考える上での出発点だと思う。 --------------------------------------------------------------- 言論状況を考える 韓流と嫌韓流のはざまで NHK番組改編問題、立川ビラ配り事件、映画「靖国」問題など、言論の自由に かかわる問題が次々と起きています。私たちは、一つ一つの事件が起きるたびに 言論の自由が危ういのではないか、との思いを抱いてきました。メディアにかか わる人々の姿勢を見ていると、言論の責任がおざなりにされているのではないか との不安もあります。他方、金光翔による<佐藤優現象>批判論文が注目を集め ましたが、論壇では不可解な沈黙が続いています。こうした言論状況を考える連 続企画を準備しました。第1回は嫌韓流現象を批判的に検討します。 板垣竜太さん 同志社大学准教授。朝鮮近現代史研究。「反ひのきみネット」 「メディアの危機を訴える市民ネットワーク」にかかわる。著書『朝鮮近代の歴 史民族誌』(明石書店)など。 米津篤八さん 翻訳家。北朝鮮人道支援ネットワーク共同代表。訳書に『シル ミド』『チャングム』『ファン・ジニ』(以上ハヤカワ文庫)『朱蒙』(朝日新 聞社) 日時:11月 7日(金)開場18時 18:30-20:50 会場:東京しごとセンター5Fセミナー室 千代田区飯田橋3-10-3 03-5211-1571、JR飯田橋駅徒歩10分 参加費(資料代含む):500円 主催:平和力フォーラム 192-0992 八王子市宇津貫町1556 東京造形大学・前田研究室 電話 042-637-8872 http://maeda-news.blogspot.com/2008/10/blog-post.html [追記:一部、修正した(11月6日)]
|